【完結間近】砂漠の覇王と折れた銀剣

Rio

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第二十三話「再会」

 布が揺れた。

 入口の光が遮られた。大きな影。革と乳香の匂い。

 カエルが天幕に入ってきた。皿を持って。いつもの手順で。いつもの無言で。

 アリアンの顔を見た。

 ——止まった。

 足が止まった。腕が止まった。呼吸が止まった。皿を持つ両手が空中で固まった。

 黒い瞳がアリアンの顔に釘づけになった。涙の跡。濡れた睫毛。赤い目。頬を伝い続ける涙。
 そして、唇が作っている形。声にならない形。何度も繋いだ、あの名前の形。

 カエルの目の底で金が灯った。ゆっくりではなかった。一瞬で。虹彩の全域に。庭園の夜と同じ色。七年間、一度も消えなかった色。

 皿が手の中で鳴った。指が震えたのだ。あの太い指が。七年間部族を率いてきた手が、剣を振るい、砂鱗竜を駆り、会議を一言で終わらせてきた手が、皿一枚を持っていられない。

 カエルの足が止まった。

 皿を置いた。指先だけで、毛皮の端に、ゆっくりと。

 アリアンの傍に座った。静かに。

 あの少年の顔。

 顎の線が変わった。首が太くなった。肩が倍になった。頬の肉が増え、骨格が広がり、体が二回りも大きくなった。七年間で、少年は覇王になっていた。

 目だけが同じだった。

 黒い瞳の底で金色が燃えている。あの独房で松明の灯りを映していた目。あの庭園で月明かりに染まっていた目。同じ目。同じ火。七年間、何一つ消えていなかった。

「…………」

 アリアンの口が動いた。唇が形を作った。声帯が震えた。

「——カエル」

 今度は、音になった。

 掠れていた。壊れていた。七年間使わなかった名前は、錆びた刃のように喉を削って出てきた。

 カエルの体が揺れた。

 皿が落ちた。手から滑ったのではない。指が開いたのだ。皿を持つことよりも大きなものが、体の中を通り抜けた。棗が毛皮の上に転がった。

 金色の目が燃えた。庭園の夜の金とは違う。あれは温かかった。これは激しかった。七年間の全てが虹彩の中で爆ぜているような。

「……もう一度」

 掠れた声。カエルの。聞いたことのない声だった。覇王の声でも族長の声でもない。喉の一番深い場所から、絞り出すような。

「もう一度——呼んでくれ」

 アリアンの目から涙が落ちた。止められなかった。止める必要がなかった。

「カエル」

 二度目。今度は少しだけ、声になっていた。

 カエルの手が動いた。アリアンの顔の両側に来た。頬を包んだ。掌が広く、アリアンの顔の半分を覆うほどだった。親指が涙の跡を辿った。拭うのではなかった。触れている。涙が通った場所を、確かめるように。

 手が熱かった。あの頃と同じだった。枷の下の手首より、掌はもっと熱い。七年間で厚くなった掌が。剣を握り、砂鱗竜の手綱を引き、部族を導いてきた掌が、今、アリアンの涙を受けている。

「——アリアン」

 名前を呼ばれた。あの声で。あの独房の最後の日に聞いた声で。七年前と同じ声で、名前を。

 ——この男は。

 砂の上に倒れていた自分を拾った。天幕に運んだ。毒の処置をした。毎朝食事を運んだ。棗を一つずつ選んだ。一番いい布で服を仕立てた。毎晩、天幕の前の砂に膝をついた。
 名前も呼べない相手のために、七年間。
 あの独房で嘘を聞いた日。拳を握って何も言わなかった。嘘だと知っていた。知っていて、待った。砂漠で。一人で。靴紐で編み方を練習しながら。

 この手が。この掌が。七年間、自分のために動いていた。自分が壁の向こうで全てを殺している間、この手だけが、自分を生かし続けていた。

 アリアンの手が動いた。

 カエルの頬に触れた。そのまま、引いた。引き寄せた。力が入っていた。自分でも驚くほどの。

 唇がぶつかった。

 触れたのではなかった。ぶつかった。角度が悪かった。鼻先が当たった。唇の端がずれた。あの庭園の夜と同じだ。七年経っても、うまくできない。

 構わなかった。

 角度を変えた。カエルの唇を探した。ずれたまま、ぶつかったまま、押し当てた。強く。七年分の全部を乗せて。優しくする余裕がなかった。体の中で何かが爆ぜていた。

 カエルの体が、一瞬、固まった。

 一秒。

 ——応えた。

 カエルの手がアリアンの後頭部を掴んだ。引き寄せた。力が強かった。覇王の手だった。頭を押さえつけるのではなく——離さないために。逃がさないために。七年間待っていた手が。

 角度が合った。あの庭園の夜に二人で探し当てた場所に、体が覚えていた。七年間忘れていなかった。唇が嵌まった瞬間、二人の息が同時に止まった。

 深かった。あの庭園の夜とは比べものにならなかった。あの夜は子供だった。何も知らなかった。今は、大人の体が、大人の力で、大人の熱で。

 アリアンの手がカエルの首にかかった。銀色の髪に指が入った。あの時できなかったことが、今、できている。指が銀糸の間を掻き上げるように滑った。カエルの喉から、声ではなく、腹の底から漏れた唸りに近い音が落ちた。

 歯が当たった。唇を噛みそうになった。乱暴だった。不器用だった。二人とも七年間誰にも触れていない。体が覚えているのに、頭が追いつかない。手が震える。息が足りない。

 息を吸った。唇を離さないまま。鼻から。カエルの匂いが肺に入った。革と乳香と、焚き火の煙と、その奥にある、この男の匂い。七年前の独房の匂いとは違う。砂漠の匂いになっていた。

 カエルの手がアリアンの腰に回った。引き寄せた。体が密着した。胸が当たった。布越しに、カエルの心臓の音が伝わってきた。速かった。覇王の心臓が。あの落ち着いた男の心臓が、壊れそうな速さで打っている。

 涙が止まらなかった。キスをしながら。唇の上に涙の塩気が混じっている。自分のか。カエルの頬にも、一筋。

 金色の目の縁から、雫が落ちていた。音もなく。カエル自身が気づいていないように。頬を伝っている。一滴。もう一滴。それだけだった。

 七年間、誰の前でも流さなかった雫が。この唇の上でだけ、落ちた。

 唇が離れた。僅かに。

 額が触れた。カエルの額がアリアンの額に。

 二人の呼吸が交差している。荒い。速い。涙と息と、銀色の髪の匂いが混じっている。

「……七年」

 カエルの声。額を合わせたまま。

「——長かった」

 それだけだった。七年間の全てを、その二語に入れた。

 全部。庭園。月。唇。嘘。鞭。冬の門。

「…………嘘を、ついた」

 アリアンの声が割れた。喉が詰まった。言葉が出てこない。出てこないのに、口が止まらない。

「あの日——カエルに。嘘を。あれは——」

「知ってる」

 カエルの声が、アリアンの言葉を切った。静かに。

「知ってた。最初から」

 アリアンの目が見開かれた。

「口は『誤り』と言った。目が別のことを言ってた。二年間、あんたの体を見てきた。嘘をつく時の顔くらい、分かる」

 あんた。

「……知ってたのに」

「知ってたから、待てた」

 声が低くなった。

「嘘の向こうに本当があった。あんたの目がそう言ってた。なら——待てばいいだけだった」

 カエルの手がアリアンの顎に触れた。持ち上げた。顔が上を向いた。金色の目が真上にある。

 二度目のキスは、カエルが来た。

 深かった。一度目より。唇だけではなかった。カエルの手がアリアンの後頭部にあり、もう片方の手が腰にあった。引き寄せられている。カエルの体の方に。毛皮の上から。胸が触れた。布越しに。カエルの胸板の厚さが、アリアンの胸に押し当てられている。

 熱い。布を通して伝わる体温が。あの独房で肩が触れていた時とは違う。あの時は接点一つだった。今は、全部。胸が。腹が。太腿が。体の正面全部が、布越しにカエルの体に触れている。

 カエルの唇が離れた。一瞬だけ。呼吸を取ろうとして。取れなかった。唇がまた来た。角度を変えて。今度は少し傾いて。アリアンの下唇を、挟んだ。

 息が止まった。腹の底から熱が走った。あの庭園の夜に感じた熱。あれよりもっと深い場所から。

 カエルの唇がアリアンの唇から離れ、顎を辿った。顎の線に沿って。唇が肌の上を滑っている。

 首筋に触れた。

 体が跳ねた。アリアンの体が。自分の意思ではなかった。首筋に唇が触れた瞬間、背骨に電流のようなものが走って、体が勝手に反応した。

 カエルの唇が止まった。首筋の上で。動かない。離れない。息がかかっている。熱い息が。皮膚の上で。

「…………」

 声にならない声がアリアンの喉から漏れた。

 カエルの手が、アリアンの腰から、背中に回った。引き寄せた。もっと近くに。もう近づく場所がないほど近いのに、まだ引いている。

 アリアンの手がカエルの肩にあった。いつ置いたのか分からない。広い。あの頃の倍はある肩。指が上衣の布を掴んでいる。握っている。離せない。

 カエルの唇が首筋から、鎖骨に向かって降りた。上衣の合わせ目の端。布と肌の境界線。そこで、止まった。

 止まった。

 布の向こうには行かなかった。唇が境界線の上にある。呼吸が荒い。カエルの呼吸が。アリアンの鎖骨の上で。

 待っている。

 アリアンの手がカエルの肩の上で震えていた。押し返すべきなのか。引き寄せるべきなのか。体は引き寄せたがっている。頭は、頭も引き寄せたがっている。

 カエルの額が、アリアンの鎖骨の上に落ちた。唇ではなく。額を預けた。肌の上に。

 大きな体が、小さくなっていた。アリアンの胸の前で。頭を下げて。額を預けて。銀色の髪がアリアンの胸の上に散らばっている。

 カエルの手がアリアンの背中にある。布越しに。指が背中の上を滑った。支えるように。抱えるように。

 ——止まった。

 指が。背中の左側で。何かに触れた。布の下に。盛り上がった線。一本。その下にもう一本。さらにもう一本。

 三本。

 カエルの手が震えた。

 知っていた。あの日。執行房で。血と汗で目が見えない中で、声だけは聞こえた。「やめろ」と叫んだ声。「残りは僕が受ける」と言った声。鞭の音が三回。自分の背中ではない場所で鳴った三回。
 知っていた。ずっと。七年間。

 でも——触れたのは、初めてだった。

 額がアリアンの鎖骨から離れた。顔を上げた。金色の目がアリアンを見た。

「……見せてくれ」

 カエルの手が、アリアンの肩の布にかかった。上衣の合わせ目。さっきの唇が止まった境界線。その布を、ゆっくりと、下にずらした。

 背中が現れた。

 天幕の灯りの中に、三本の白い線が浮かんでいた。左の肩甲骨から腰にかけて。戦場のどの刃よりも不格好な傷。帝国最強の剣士の背中にあるには不釣り合いな、鞭の跡。

 カエルの息が止まった。

 知っていたのに、見ると違った。白い肌の上で、七年分の時間を越えて、まだ盛り上がっている。まだ消えていない。

 カエルの唇が——傷の上に触れた。

 一本目。肩甲骨の下。唇が白い線の上に当たった瞬間、アリアンの体が跳ねた。傷には痛みはない。七年前に治っている。だが唇が触れた場所から、何かが広がっていく。胸の奥まで染みていくもの。

 二本目。その下。唇がゆっくりと移動した。傷の始まりから終わりまで。あの日、鞭が走った道を、唇が逆に歩いている。痛みが通った場所を、温もりで上書きするように。

 三本目。腰。一番深かった傷。カエルの唇が、そこに触れた時、長かった。他の二つより。

 三本の全てに——触れた。

 カエルの額が、アリアンの背中に触れた。三本の傷の真ん中に。

「——ずっと、残ってたのか」

 アリアンは首を横に振った。痛みはない。

 でも消えなかった。消えてほしくなかった。この三本は、あの日の唯一の正しさだった。嘘をついた口とは別の場所で、体が出した答え。

 振り返った。

 カエルの顔が近くにあった。金色の目が濡れていた。

「……見せて」

 カエルの体が固まった。一瞬。

 アリアンの手がカエルの肩にかかった。上衣の縁を引き下げた。カエルは動かなかった。任せていた。

 背中が現れた。

 広い。褐色の肌の上を筋肉の輪郭が走っている。誓紋が首筋から肩甲骨にかけて青黒く這っている。

 その下に——九本の白い線があった。

 アリアンの指が、震えながら、一本目に触れた。治っている。治っているけれど消えていない。この傷が刻まれた時、この少年は声を上げなかった。九回。一度も。

 唇を当てた。一本目に。

 カエルの背中が揺れた。呼吸が止まった。

 二本目。三本目。四本目。ゆっくりと。一本ずつ。アリアンの唇が線を辿っていく。

 カエルの拳が膝の上で白くなっていた。声は出さなかった。

 九本全てに——触れた。

 アリアンの額がカエルの背中に触れた。九本の傷の真ん中に。

「……ごめん」

 カエルの手が後ろに回った。アリアンの頭に。大きな手が黒い髪の上に置かれた。

「謝るな」

 低い声だった。

「この傷は——俺のものだ。誰のせいでもない」

 カエルの手がアリアンの髪を梳いた。あの独房で、アリアンがカエルの髪にそうしたように。今度はカエルが。

 二人の背中に、同じ日の傷がある。三本と九本。合わせて十二。あの日、帝国が二人の間に打ち込んだ十二本の線を、今、互いの唇が辿った。



 どれくらい経ったのか分からない。

 二人の呼吸が落ち着いていた。荒かった息が。深くなって。揃って。

 カエルの腕の中にアリアンの体がある。横たわっていた。毛皮の上に。いつの間にか。カエルの胸にアリアンの背中が触れている。カエルの腕がアリアンの体を包んでいる。後ろから。大きな体が、小さな体を囲うように。

 天幕の布が風に揺れている。朝の光が布を透かして、砂の上に淡い金色を落としていた。

 静かだった。

 帝国の壁はない。法はない。独房の鎖はない。石壁も。鍵も。嘘をつかなければならない理由も。ここには、何もない。砂と、風と、布と、棗と、この腕の温度だけ。

 アリアンは振り返った。カエルの腕の中で。体を捻って。顔が近くなった。

 カエルの目は、黒に戻っていた。金色は消えていた。穏やかな黒。深い。静かに深い。あの庭園の夜に、月明かりを見上げていた時と同じ深さ。

 唇が触れた。

 三度目。

 柔らかかった。最初のキスの乱暴さはなかった。二度目の熱もなかった。ただ、触れた。唇が唇に。

 庭園の夜の不器用なキスでもなかった。再会の激しいキスでもなかった。七年間の全てを越えた後の、何も背負っていないキス。

 初めてだった。

 何の恐怖もなく。何の禁止もなく。何の嘘もなく。ただ——好きだから触れる。それだけのキスは、二人の間で初めてだった。

 唇が離れた。ゆっくりと。

 カエルの目がアリアンを見ていた。黒い瞳。穏やかに。

 天幕の外で、砂漠の風が吹いていた。遠くで砂鱗竜の声が聞こえた。集落が動き始めている。

 カエルの腕がアリアンの体を包んだまま、動かなかった。

 もう少しだけ。このまま。

 世界の方が——待てばいい。
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