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第二十三話「再会」
布が揺れた。
入口の光が遮られた。大きな影。革と乳香の匂い。
カエルが天幕に入ってきた。皿を持って。いつもの手順で。いつもの無言で。
アリアンの顔を見た。
——止まった。
足が止まった。腕が止まった。呼吸が止まった。皿を持つ両手が空中で固まった。
黒い瞳がアリアンの顔に釘づけになった。涙の跡。濡れた睫毛。赤い目。頬を伝い続ける涙。
そして、唇が作っている形。声にならない形。何度も繋いだ、あの名前の形。
カエルの目の底で金が灯った。ゆっくりではなかった。一瞬で。虹彩の全域に。庭園の夜と同じ色。七年間、一度も消えなかった色。
皿が手の中で鳴った。指が震えたのだ。あの太い指が。七年間部族を率いてきた手が、剣を振るい、砂鱗竜を駆り、会議を一言で終わらせてきた手が、皿一枚を持っていられない。
カエルの足が止まった。
皿を置いた。指先だけで、毛皮の端に、ゆっくりと。
アリアンの傍に座った。静かに。
あの少年の顔。
顎の線が変わった。首が太くなった。肩が倍になった。頬の肉が増え、骨格が広がり、体が二回りも大きくなった。七年間で、少年は覇王になっていた。
目だけが同じだった。
黒い瞳の底で金色が燃えている。あの独房で松明の灯りを映していた目。あの庭園で月明かりに染まっていた目。同じ目。同じ火。七年間、何一つ消えていなかった。
「…………」
アリアンの口が動いた。唇が形を作った。声帯が震えた。
「——カエル」
今度は、音になった。
掠れていた。壊れていた。七年間使わなかった名前は、錆びた刃のように喉を削って出てきた。
カエルの体が揺れた。
皿が落ちた。手から滑ったのではない。指が開いたのだ。皿を持つことよりも大きなものが、体の中を通り抜けた。棗が毛皮の上に転がった。
金色の目が燃えた。庭園の夜の金とは違う。あれは温かかった。これは激しかった。七年間の全てが虹彩の中で爆ぜているような。
「……もう一度」
掠れた声。カエルの。聞いたことのない声だった。覇王の声でも族長の声でもない。喉の一番深い場所から、絞り出すような。
「もう一度——呼んでくれ」
アリアンの目から涙が落ちた。止められなかった。止める必要がなかった。
「カエル」
二度目。今度は少しだけ、声になっていた。
カエルの手が動いた。アリアンの顔の両側に来た。頬を包んだ。掌が広く、アリアンの顔の半分を覆うほどだった。親指が涙の跡を辿った。拭うのではなかった。触れている。涙が通った場所を、確かめるように。
手が熱かった。あの頃と同じだった。枷の下の手首より、掌はもっと熱い。七年間で厚くなった掌が。剣を握り、砂鱗竜の手綱を引き、部族を導いてきた掌が、今、アリアンの涙を受けている。
「——アリアン」
名前を呼ばれた。あの声で。あの独房の最後の日に聞いた声で。七年前と同じ声で、名前を。
——この男は。
砂の上に倒れていた自分を拾った。天幕に運んだ。毒の処置をした。毎朝食事を運んだ。棗を一つずつ選んだ。一番いい布で服を仕立てた。毎晩、天幕の前の砂に膝をついた。
名前も呼べない相手のために、七年間。
あの独房で嘘を聞いた日。拳を握って何も言わなかった。嘘だと知っていた。知っていて、待った。砂漠で。一人で。靴紐で編み方を練習しながら。
この手が。この掌が。七年間、自分のために動いていた。自分が壁の向こうで全てを殺している間、この手だけが、自分を生かし続けていた。
アリアンの手が動いた。
カエルの頬に触れた。そのまま、引いた。引き寄せた。力が入っていた。自分でも驚くほどの。
唇がぶつかった。
触れたのではなかった。ぶつかった。角度が悪かった。鼻先が当たった。唇の端がずれた。あの庭園の夜と同じだ。七年経っても、うまくできない。
構わなかった。
角度を変えた。カエルの唇を探した。ずれたまま、ぶつかったまま、押し当てた。強く。七年分の全部を乗せて。優しくする余裕がなかった。体の中で何かが爆ぜていた。
カエルの体が、一瞬、固まった。
一秒。
——応えた。
カエルの手がアリアンの後頭部を掴んだ。引き寄せた。力が強かった。覇王の手だった。頭を押さえつけるのではなく——離さないために。逃がさないために。七年間待っていた手が。
角度が合った。あの庭園の夜に二人で探し当てた場所に、体が覚えていた。七年間忘れていなかった。唇が嵌まった瞬間、二人の息が同時に止まった。
深かった。あの庭園の夜とは比べものにならなかった。あの夜は子供だった。何も知らなかった。今は、大人の体が、大人の力で、大人の熱で。
アリアンの手がカエルの首にかかった。銀色の髪に指が入った。あの時できなかったことが、今、できている。指が銀糸の間を掻き上げるように滑った。カエルの喉から、声ではなく、腹の底から漏れた唸りに近い音が落ちた。
歯が当たった。唇を噛みそうになった。乱暴だった。不器用だった。二人とも七年間誰にも触れていない。体が覚えているのに、頭が追いつかない。手が震える。息が足りない。
息を吸った。唇を離さないまま。鼻から。カエルの匂いが肺に入った。革と乳香と、焚き火の煙と、その奥にある、この男の匂い。七年前の独房の匂いとは違う。砂漠の匂いになっていた。
カエルの手がアリアンの腰に回った。引き寄せた。体が密着した。胸が当たった。布越しに、カエルの心臓の音が伝わってきた。速かった。覇王の心臓が。あの落ち着いた男の心臓が、壊れそうな速さで打っている。
涙が止まらなかった。キスをしながら。唇の上に涙の塩気が混じっている。自分のか。カエルの頬にも、一筋。
金色の目の縁から、雫が落ちていた。音もなく。カエル自身が気づいていないように。頬を伝っている。一滴。もう一滴。それだけだった。
七年間、誰の前でも流さなかった雫が。この唇の上でだけ、落ちた。
唇が離れた。僅かに。
額が触れた。カエルの額がアリアンの額に。
二人の呼吸が交差している。荒い。速い。涙と息と、銀色の髪の匂いが混じっている。
「……七年」
カエルの声。額を合わせたまま。
「——長かった」
それだけだった。七年間の全てを、その二語に入れた。
全部。庭園。月。唇。嘘。鞭。冬の門。
「…………嘘を、ついた」
アリアンの声が割れた。喉が詰まった。言葉が出てこない。出てこないのに、口が止まらない。
「あの日——カエルに。嘘を。あれは——」
「知ってる」
カエルの声が、アリアンの言葉を切った。静かに。
「知ってた。最初から」
アリアンの目が見開かれた。
「口は『誤り』と言った。目が別のことを言ってた。二年間、あんたの体を見てきた。嘘をつく時の顔くらい、分かる」
あんた。
「……知ってたのに」
「知ってたから、待てた」
声が低くなった。
「嘘の向こうに本当があった。あんたの目がそう言ってた。なら——待てばいいだけだった」
カエルの手がアリアンの顎に触れた。持ち上げた。顔が上を向いた。金色の目が真上にある。
二度目のキスは、カエルが来た。
深かった。一度目より。唇だけではなかった。カエルの手がアリアンの後頭部にあり、もう片方の手が腰にあった。引き寄せられている。カエルの体の方に。毛皮の上から。胸が触れた。布越しに。カエルの胸板の厚さが、アリアンの胸に押し当てられている。
熱い。布を通して伝わる体温が。あの独房で肩が触れていた時とは違う。あの時は接点一つだった。今は、全部。胸が。腹が。太腿が。体の正面全部が、布越しにカエルの体に触れている。
カエルの唇が離れた。一瞬だけ。呼吸を取ろうとして。取れなかった。唇がまた来た。角度を変えて。今度は少し傾いて。アリアンの下唇を、挟んだ。
息が止まった。腹の底から熱が走った。あの庭園の夜に感じた熱。あれよりもっと深い場所から。
カエルの唇がアリアンの唇から離れ、顎を辿った。顎の線に沿って。唇が肌の上を滑っている。
首筋に触れた。
体が跳ねた。アリアンの体が。自分の意思ではなかった。首筋に唇が触れた瞬間、背骨に電流のようなものが走って、体が勝手に反応した。
カエルの唇が止まった。首筋の上で。動かない。離れない。息がかかっている。熱い息が。皮膚の上で。
「…………」
声にならない声がアリアンの喉から漏れた。
カエルの手が、アリアンの腰から、背中に回った。引き寄せた。もっと近くに。もう近づく場所がないほど近いのに、まだ引いている。
アリアンの手がカエルの肩にあった。いつ置いたのか分からない。広い。あの頃の倍はある肩。指が上衣の布を掴んでいる。握っている。離せない。
カエルの唇が首筋から、鎖骨に向かって降りた。上衣の合わせ目の端。布と肌の境界線。そこで、止まった。
止まった。
布の向こうには行かなかった。唇が境界線の上にある。呼吸が荒い。カエルの呼吸が。アリアンの鎖骨の上で。
待っている。
アリアンの手がカエルの肩の上で震えていた。押し返すべきなのか。引き寄せるべきなのか。体は引き寄せたがっている。頭は、頭も引き寄せたがっている。
カエルの額が、アリアンの鎖骨の上に落ちた。唇ではなく。額を預けた。肌の上に。
大きな体が、小さくなっていた。アリアンの胸の前で。頭を下げて。額を預けて。銀色の髪がアリアンの胸の上に散らばっている。
カエルの手がアリアンの背中にある。布越しに。指が背中の上を滑った。支えるように。抱えるように。
——止まった。
指が。背中の左側で。何かに触れた。布の下に。盛り上がった線。一本。その下にもう一本。さらにもう一本。
三本。
カエルの手が震えた。
知っていた。あの日。執行房で。血と汗で目が見えない中で、声だけは聞こえた。「やめろ」と叫んだ声。「残りは僕が受ける」と言った声。鞭の音が三回。自分の背中ではない場所で鳴った三回。
知っていた。ずっと。七年間。
でも——触れたのは、初めてだった。
額がアリアンの鎖骨から離れた。顔を上げた。金色の目がアリアンを見た。
「……見せてくれ」
カエルの手が、アリアンの肩の布にかかった。上衣の合わせ目。さっきの唇が止まった境界線。その布を、ゆっくりと、下にずらした。
背中が現れた。
天幕の灯りの中に、三本の白い線が浮かんでいた。左の肩甲骨から腰にかけて。戦場のどの刃よりも不格好な傷。帝国最強の剣士の背中にあるには不釣り合いな、鞭の跡。
カエルの息が止まった。
知っていたのに、見ると違った。白い肌の上で、七年分の時間を越えて、まだ盛り上がっている。まだ消えていない。
カエルの唇が——傷の上に触れた。
一本目。肩甲骨の下。唇が白い線の上に当たった瞬間、アリアンの体が跳ねた。傷には痛みはない。七年前に治っている。だが唇が触れた場所から、何かが広がっていく。胸の奥まで染みていくもの。
二本目。その下。唇がゆっくりと移動した。傷の始まりから終わりまで。あの日、鞭が走った道を、唇が逆に歩いている。痛みが通った場所を、温もりで上書きするように。
三本目。腰。一番深かった傷。カエルの唇が、そこに触れた時、長かった。他の二つより。
三本の全てに——触れた。
カエルの額が、アリアンの背中に触れた。三本の傷の真ん中に。
「——ずっと、残ってたのか」
アリアンは首を横に振った。痛みはない。
でも消えなかった。消えてほしくなかった。この三本は、あの日の唯一の正しさだった。嘘をついた口とは別の場所で、体が出した答え。
振り返った。
カエルの顔が近くにあった。金色の目が濡れていた。
「……見せて」
カエルの体が固まった。一瞬。
アリアンの手がカエルの肩にかかった。上衣の縁を引き下げた。カエルは動かなかった。任せていた。
背中が現れた。
広い。褐色の肌の上を筋肉の輪郭が走っている。誓紋が首筋から肩甲骨にかけて青黒く這っている。
その下に——九本の白い線があった。
アリアンの指が、震えながら、一本目に触れた。治っている。治っているけれど消えていない。この傷が刻まれた時、この少年は声を上げなかった。九回。一度も。
唇を当てた。一本目に。
カエルの背中が揺れた。呼吸が止まった。
二本目。三本目。四本目。ゆっくりと。一本ずつ。アリアンの唇が線を辿っていく。
カエルの拳が膝の上で白くなっていた。声は出さなかった。
九本全てに——触れた。
アリアンの額がカエルの背中に触れた。九本の傷の真ん中に。
「……ごめん」
カエルの手が後ろに回った。アリアンの頭に。大きな手が黒い髪の上に置かれた。
「謝るな」
低い声だった。
「この傷は——俺のものだ。誰のせいでもない」
カエルの手がアリアンの髪を梳いた。あの独房で、アリアンがカエルの髪にそうしたように。今度はカエルが。
二人の背中に、同じ日の傷がある。三本と九本。合わせて十二。あの日、帝国が二人の間に打ち込んだ十二本の線を、今、互いの唇が辿った。
*
どれくらい経ったのか分からない。
二人の呼吸が落ち着いていた。荒かった息が。深くなって。揃って。
カエルの腕の中にアリアンの体がある。横たわっていた。毛皮の上に。いつの間にか。カエルの胸にアリアンの背中が触れている。カエルの腕がアリアンの体を包んでいる。後ろから。大きな体が、小さな体を囲うように。
天幕の布が風に揺れている。朝の光が布を透かして、砂の上に淡い金色を落としていた。
静かだった。
帝国の壁はない。法はない。独房の鎖はない。石壁も。鍵も。嘘をつかなければならない理由も。ここには、何もない。砂と、風と、布と、棗と、この腕の温度だけ。
アリアンは振り返った。カエルの腕の中で。体を捻って。顔が近くなった。
カエルの目は、黒に戻っていた。金色は消えていた。穏やかな黒。深い。静かに深い。あの庭園の夜に、月明かりを見上げていた時と同じ深さ。
唇が触れた。
三度目。
柔らかかった。最初のキスの乱暴さはなかった。二度目の熱もなかった。ただ、触れた。唇が唇に。
庭園の夜の不器用なキスでもなかった。再会の激しいキスでもなかった。七年間の全てを越えた後の、何も背負っていないキス。
初めてだった。
何の恐怖もなく。何の禁止もなく。何の嘘もなく。ただ——好きだから触れる。それだけのキスは、二人の間で初めてだった。
唇が離れた。ゆっくりと。
カエルの目がアリアンを見ていた。黒い瞳。穏やかに。
天幕の外で、砂漠の風が吹いていた。遠くで砂鱗竜の声が聞こえた。集落が動き始めている。
カエルの腕がアリアンの体を包んだまま、動かなかった。
もう少しだけ。このまま。
世界の方が——待てばいい。
入口の光が遮られた。大きな影。革と乳香の匂い。
カエルが天幕に入ってきた。皿を持って。いつもの手順で。いつもの無言で。
アリアンの顔を見た。
——止まった。
足が止まった。腕が止まった。呼吸が止まった。皿を持つ両手が空中で固まった。
黒い瞳がアリアンの顔に釘づけになった。涙の跡。濡れた睫毛。赤い目。頬を伝い続ける涙。
そして、唇が作っている形。声にならない形。何度も繋いだ、あの名前の形。
カエルの目の底で金が灯った。ゆっくりではなかった。一瞬で。虹彩の全域に。庭園の夜と同じ色。七年間、一度も消えなかった色。
皿が手の中で鳴った。指が震えたのだ。あの太い指が。七年間部族を率いてきた手が、剣を振るい、砂鱗竜を駆り、会議を一言で終わらせてきた手が、皿一枚を持っていられない。
カエルの足が止まった。
皿を置いた。指先だけで、毛皮の端に、ゆっくりと。
アリアンの傍に座った。静かに。
あの少年の顔。
顎の線が変わった。首が太くなった。肩が倍になった。頬の肉が増え、骨格が広がり、体が二回りも大きくなった。七年間で、少年は覇王になっていた。
目だけが同じだった。
黒い瞳の底で金色が燃えている。あの独房で松明の灯りを映していた目。あの庭園で月明かりに染まっていた目。同じ目。同じ火。七年間、何一つ消えていなかった。
「…………」
アリアンの口が動いた。唇が形を作った。声帯が震えた。
「——カエル」
今度は、音になった。
掠れていた。壊れていた。七年間使わなかった名前は、錆びた刃のように喉を削って出てきた。
カエルの体が揺れた。
皿が落ちた。手から滑ったのではない。指が開いたのだ。皿を持つことよりも大きなものが、体の中を通り抜けた。棗が毛皮の上に転がった。
金色の目が燃えた。庭園の夜の金とは違う。あれは温かかった。これは激しかった。七年間の全てが虹彩の中で爆ぜているような。
「……もう一度」
掠れた声。カエルの。聞いたことのない声だった。覇王の声でも族長の声でもない。喉の一番深い場所から、絞り出すような。
「もう一度——呼んでくれ」
アリアンの目から涙が落ちた。止められなかった。止める必要がなかった。
「カエル」
二度目。今度は少しだけ、声になっていた。
カエルの手が動いた。アリアンの顔の両側に来た。頬を包んだ。掌が広く、アリアンの顔の半分を覆うほどだった。親指が涙の跡を辿った。拭うのではなかった。触れている。涙が通った場所を、確かめるように。
手が熱かった。あの頃と同じだった。枷の下の手首より、掌はもっと熱い。七年間で厚くなった掌が。剣を握り、砂鱗竜の手綱を引き、部族を導いてきた掌が、今、アリアンの涙を受けている。
「——アリアン」
名前を呼ばれた。あの声で。あの独房の最後の日に聞いた声で。七年前と同じ声で、名前を。
——この男は。
砂の上に倒れていた自分を拾った。天幕に運んだ。毒の処置をした。毎朝食事を運んだ。棗を一つずつ選んだ。一番いい布で服を仕立てた。毎晩、天幕の前の砂に膝をついた。
名前も呼べない相手のために、七年間。
あの独房で嘘を聞いた日。拳を握って何も言わなかった。嘘だと知っていた。知っていて、待った。砂漠で。一人で。靴紐で編み方を練習しながら。
この手が。この掌が。七年間、自分のために動いていた。自分が壁の向こうで全てを殺している間、この手だけが、自分を生かし続けていた。
アリアンの手が動いた。
カエルの頬に触れた。そのまま、引いた。引き寄せた。力が入っていた。自分でも驚くほどの。
唇がぶつかった。
触れたのではなかった。ぶつかった。角度が悪かった。鼻先が当たった。唇の端がずれた。あの庭園の夜と同じだ。七年経っても、うまくできない。
構わなかった。
角度を変えた。カエルの唇を探した。ずれたまま、ぶつかったまま、押し当てた。強く。七年分の全部を乗せて。優しくする余裕がなかった。体の中で何かが爆ぜていた。
カエルの体が、一瞬、固まった。
一秒。
——応えた。
カエルの手がアリアンの後頭部を掴んだ。引き寄せた。力が強かった。覇王の手だった。頭を押さえつけるのではなく——離さないために。逃がさないために。七年間待っていた手が。
角度が合った。あの庭園の夜に二人で探し当てた場所に、体が覚えていた。七年間忘れていなかった。唇が嵌まった瞬間、二人の息が同時に止まった。
深かった。あの庭園の夜とは比べものにならなかった。あの夜は子供だった。何も知らなかった。今は、大人の体が、大人の力で、大人の熱で。
アリアンの手がカエルの首にかかった。銀色の髪に指が入った。あの時できなかったことが、今、できている。指が銀糸の間を掻き上げるように滑った。カエルの喉から、声ではなく、腹の底から漏れた唸りに近い音が落ちた。
歯が当たった。唇を噛みそうになった。乱暴だった。不器用だった。二人とも七年間誰にも触れていない。体が覚えているのに、頭が追いつかない。手が震える。息が足りない。
息を吸った。唇を離さないまま。鼻から。カエルの匂いが肺に入った。革と乳香と、焚き火の煙と、その奥にある、この男の匂い。七年前の独房の匂いとは違う。砂漠の匂いになっていた。
カエルの手がアリアンの腰に回った。引き寄せた。体が密着した。胸が当たった。布越しに、カエルの心臓の音が伝わってきた。速かった。覇王の心臓が。あの落ち着いた男の心臓が、壊れそうな速さで打っている。
涙が止まらなかった。キスをしながら。唇の上に涙の塩気が混じっている。自分のか。カエルの頬にも、一筋。
金色の目の縁から、雫が落ちていた。音もなく。カエル自身が気づいていないように。頬を伝っている。一滴。もう一滴。それだけだった。
七年間、誰の前でも流さなかった雫が。この唇の上でだけ、落ちた。
唇が離れた。僅かに。
額が触れた。カエルの額がアリアンの額に。
二人の呼吸が交差している。荒い。速い。涙と息と、銀色の髪の匂いが混じっている。
「……七年」
カエルの声。額を合わせたまま。
「——長かった」
それだけだった。七年間の全てを、その二語に入れた。
全部。庭園。月。唇。嘘。鞭。冬の門。
「…………嘘を、ついた」
アリアンの声が割れた。喉が詰まった。言葉が出てこない。出てこないのに、口が止まらない。
「あの日——カエルに。嘘を。あれは——」
「知ってる」
カエルの声が、アリアンの言葉を切った。静かに。
「知ってた。最初から」
アリアンの目が見開かれた。
「口は『誤り』と言った。目が別のことを言ってた。二年間、あんたの体を見てきた。嘘をつく時の顔くらい、分かる」
あんた。
「……知ってたのに」
「知ってたから、待てた」
声が低くなった。
「嘘の向こうに本当があった。あんたの目がそう言ってた。なら——待てばいいだけだった」
カエルの手がアリアンの顎に触れた。持ち上げた。顔が上を向いた。金色の目が真上にある。
二度目のキスは、カエルが来た。
深かった。一度目より。唇だけではなかった。カエルの手がアリアンの後頭部にあり、もう片方の手が腰にあった。引き寄せられている。カエルの体の方に。毛皮の上から。胸が触れた。布越しに。カエルの胸板の厚さが、アリアンの胸に押し当てられている。
熱い。布を通して伝わる体温が。あの独房で肩が触れていた時とは違う。あの時は接点一つだった。今は、全部。胸が。腹が。太腿が。体の正面全部が、布越しにカエルの体に触れている。
カエルの唇が離れた。一瞬だけ。呼吸を取ろうとして。取れなかった。唇がまた来た。角度を変えて。今度は少し傾いて。アリアンの下唇を、挟んだ。
息が止まった。腹の底から熱が走った。あの庭園の夜に感じた熱。あれよりもっと深い場所から。
カエルの唇がアリアンの唇から離れ、顎を辿った。顎の線に沿って。唇が肌の上を滑っている。
首筋に触れた。
体が跳ねた。アリアンの体が。自分の意思ではなかった。首筋に唇が触れた瞬間、背骨に電流のようなものが走って、体が勝手に反応した。
カエルの唇が止まった。首筋の上で。動かない。離れない。息がかかっている。熱い息が。皮膚の上で。
「…………」
声にならない声がアリアンの喉から漏れた。
カエルの手が、アリアンの腰から、背中に回った。引き寄せた。もっと近くに。もう近づく場所がないほど近いのに、まだ引いている。
アリアンの手がカエルの肩にあった。いつ置いたのか分からない。広い。あの頃の倍はある肩。指が上衣の布を掴んでいる。握っている。離せない。
カエルの唇が首筋から、鎖骨に向かって降りた。上衣の合わせ目の端。布と肌の境界線。そこで、止まった。
止まった。
布の向こうには行かなかった。唇が境界線の上にある。呼吸が荒い。カエルの呼吸が。アリアンの鎖骨の上で。
待っている。
アリアンの手がカエルの肩の上で震えていた。押し返すべきなのか。引き寄せるべきなのか。体は引き寄せたがっている。頭は、頭も引き寄せたがっている。
カエルの額が、アリアンの鎖骨の上に落ちた。唇ではなく。額を預けた。肌の上に。
大きな体が、小さくなっていた。アリアンの胸の前で。頭を下げて。額を預けて。銀色の髪がアリアンの胸の上に散らばっている。
カエルの手がアリアンの背中にある。布越しに。指が背中の上を滑った。支えるように。抱えるように。
——止まった。
指が。背中の左側で。何かに触れた。布の下に。盛り上がった線。一本。その下にもう一本。さらにもう一本。
三本。
カエルの手が震えた。
知っていた。あの日。執行房で。血と汗で目が見えない中で、声だけは聞こえた。「やめろ」と叫んだ声。「残りは僕が受ける」と言った声。鞭の音が三回。自分の背中ではない場所で鳴った三回。
知っていた。ずっと。七年間。
でも——触れたのは、初めてだった。
額がアリアンの鎖骨から離れた。顔を上げた。金色の目がアリアンを見た。
「……見せてくれ」
カエルの手が、アリアンの肩の布にかかった。上衣の合わせ目。さっきの唇が止まった境界線。その布を、ゆっくりと、下にずらした。
背中が現れた。
天幕の灯りの中に、三本の白い線が浮かんでいた。左の肩甲骨から腰にかけて。戦場のどの刃よりも不格好な傷。帝国最強の剣士の背中にあるには不釣り合いな、鞭の跡。
カエルの息が止まった。
知っていたのに、見ると違った。白い肌の上で、七年分の時間を越えて、まだ盛り上がっている。まだ消えていない。
カエルの唇が——傷の上に触れた。
一本目。肩甲骨の下。唇が白い線の上に当たった瞬間、アリアンの体が跳ねた。傷には痛みはない。七年前に治っている。だが唇が触れた場所から、何かが広がっていく。胸の奥まで染みていくもの。
二本目。その下。唇がゆっくりと移動した。傷の始まりから終わりまで。あの日、鞭が走った道を、唇が逆に歩いている。痛みが通った場所を、温もりで上書きするように。
三本目。腰。一番深かった傷。カエルの唇が、そこに触れた時、長かった。他の二つより。
三本の全てに——触れた。
カエルの額が、アリアンの背中に触れた。三本の傷の真ん中に。
「——ずっと、残ってたのか」
アリアンは首を横に振った。痛みはない。
でも消えなかった。消えてほしくなかった。この三本は、あの日の唯一の正しさだった。嘘をついた口とは別の場所で、体が出した答え。
振り返った。
カエルの顔が近くにあった。金色の目が濡れていた。
「……見せて」
カエルの体が固まった。一瞬。
アリアンの手がカエルの肩にかかった。上衣の縁を引き下げた。カエルは動かなかった。任せていた。
背中が現れた。
広い。褐色の肌の上を筋肉の輪郭が走っている。誓紋が首筋から肩甲骨にかけて青黒く這っている。
その下に——九本の白い線があった。
アリアンの指が、震えながら、一本目に触れた。治っている。治っているけれど消えていない。この傷が刻まれた時、この少年は声を上げなかった。九回。一度も。
唇を当てた。一本目に。
カエルの背中が揺れた。呼吸が止まった。
二本目。三本目。四本目。ゆっくりと。一本ずつ。アリアンの唇が線を辿っていく。
カエルの拳が膝の上で白くなっていた。声は出さなかった。
九本全てに——触れた。
アリアンの額がカエルの背中に触れた。九本の傷の真ん中に。
「……ごめん」
カエルの手が後ろに回った。アリアンの頭に。大きな手が黒い髪の上に置かれた。
「謝るな」
低い声だった。
「この傷は——俺のものだ。誰のせいでもない」
カエルの手がアリアンの髪を梳いた。あの独房で、アリアンがカエルの髪にそうしたように。今度はカエルが。
二人の背中に、同じ日の傷がある。三本と九本。合わせて十二。あの日、帝国が二人の間に打ち込んだ十二本の線を、今、互いの唇が辿った。
*
どれくらい経ったのか分からない。
二人の呼吸が落ち着いていた。荒かった息が。深くなって。揃って。
カエルの腕の中にアリアンの体がある。横たわっていた。毛皮の上に。いつの間にか。カエルの胸にアリアンの背中が触れている。カエルの腕がアリアンの体を包んでいる。後ろから。大きな体が、小さな体を囲うように。
天幕の布が風に揺れている。朝の光が布を透かして、砂の上に淡い金色を落としていた。
静かだった。
帝国の壁はない。法はない。独房の鎖はない。石壁も。鍵も。嘘をつかなければならない理由も。ここには、何もない。砂と、風と、布と、棗と、この腕の温度だけ。
アリアンは振り返った。カエルの腕の中で。体を捻って。顔が近くなった。
カエルの目は、黒に戻っていた。金色は消えていた。穏やかな黒。深い。静かに深い。あの庭園の夜に、月明かりを見上げていた時と同じ深さ。
唇が触れた。
三度目。
柔らかかった。最初のキスの乱暴さはなかった。二度目の熱もなかった。ただ、触れた。唇が唇に。
庭園の夜の不器用なキスでもなかった。再会の激しいキスでもなかった。七年間の全てを越えた後の、何も背負っていないキス。
初めてだった。
何の恐怖もなく。何の禁止もなく。何の嘘もなく。ただ——好きだから触れる。それだけのキスは、二人の間で初めてだった。
唇が離れた。ゆっくりと。
カエルの目がアリアンを見ていた。黒い瞳。穏やかに。
天幕の外で、砂漠の風が吹いていた。遠くで砂鱗竜の声が聞こえた。集落が動き始めている。
カエルの腕がアリアンの体を包んだまま、動かなかった。
もう少しだけ。このまま。
世界の方が——待てばいい。
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この世界は誰もが髪に目に色を持っている。これは至極当たり前のこと。
しかし、目にも髪にも色を持たない「ラウス」という呼ばれる存在がうまれることがあると言われている。
その見た目の良さから観賞用としてとらわれていた青年がいた。
逃げた先で騎士と出会い、今まで愛を知らなかった少年が自分の生きる意味を騎士との生活で見出していく物語
以前書きかけていた物語を改めて最後まで書こうと思います。
よろしくお願いします。
週に1,2話は投稿したいと思います。
可愛いは有罪
零壱
BL
───「可愛い」とは理性を狂わせる「罪」である。
美貌・頭脳・魔法に剣の腕前まで完璧な公爵子息リオハルト・ユーグリウスには、ただ一つ、致命的な欠点があった。
それは─── “かわいげ”がないこと。
鉄面皮、超合金と揶揄されるほど動かぬ表情筋。
圧倒的合理主義からくる感情の伝わらない言動。
完璧すぎて、人間味が壊滅的だった。
父侯爵にも匙を投げられたリオハルトは、己を変えようと一念発起。
学園の中庭で“可愛いとは何か?”を観察し続けること、一カ月。
数多の生徒の中でただ一人、リオハルトが“可愛い”と刮目したのは───騎士科の平民、ジーク。
弟子入りを申し出たその日から、ジークの前でだけリオハルトの完璧な理性が音を立てて崩れていく。
理性で“かわいげ”を解明しようとしては惨敗するポンコツ貴族(受)と、不屈の忍耐でそれを受け止める平民(攻)。
クスッと笑えて、気づけば胸を撃ち抜かれている。
理性崩壊系・文学ラブコメ、堂々開幕。
※他サイトにもタイトル話、二話目、三話目のみ再掲。
※二年前の作品です。改稿しようとして断念しました。
2度目の恋 ~忘れられない1度目の恋~
青ムギ
BL
「俺は、生涯お前しか愛さない。」
その言葉を言われたのが社会人2年目の春。
あの時は、確かに俺達には愛が存在していた。
だが、今はー
「仕事が忙しいから先に寝ててくれ。」
「今忙しいんだ。お前に構ってられない。」
冷たく突き放すような言葉ばかりを言って家を空ける日が多くなる。
貴方の視界に、俺は映らないー。
2人の記念日もずっと1人で祝っている。
あの人を想う一方通行の「愛」は苦しく、俺の心を蝕んでいく。
そんなある日、体の不調で病院を受診した際医者から余命宣告を受ける。
あの人の電話はいつも着信拒否。診断結果を伝えようにも伝えられない。
ーもういっそ秘密にしたまま、過ごそうかな。ー
※主人公が悲しい目にあいます。素敵な人に出会わせたいです。
表紙のイラストは、Picrew様の[君の世界メーカー]マサキ様からお借りしました。
届かない手を握って
伊原 織
BL
「好きな人には、好きな人がいる」
高校生の凪(なぎ)は、幼馴染の湊人(みなと)に片想いをしている。しかし湊人には可愛くてお似合いな彼女がいる。
この気持ちを隠さなければいけないと思う凪は湊人と距離を置こうとするが、友達も彼女も大事にしたい湊人からなかなか離れることができないでいた。
そんなある日、凪は、女好きで有名な律希(りつき)に湊人への気持ち知られてしまう。黙っていてもらう代わりに律希から提案されたのは、律希と付き合うことだった───
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
世間に秘された名門男子校・平坂学園体育科
空手の名選手であった高尾雄一は、新任教師として赴任する
高潔な人格と鋼のように鍛えられた肉体
それは、学園にとって最高の生贄の候補に他ならなかった
至高の筋肉を持つ、精神を削られ意志をなくした青年を太古の神に捧げるため、“水”、“風”、“土”の信奉者達が暗躍する
意志をなくし筋肉の操り人形と化した“デク”
消える教師
山奥の男子校で繰り広げられるダークファンタジー