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第三部
7,カーサイト公爵家の新作ポーション
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ケビンはカーサイト公爵家がこの6月に売りに出したポーションを持ってきた。大きさや量はドジャース商会やアリ商会で販売されているものと差はない。
アリ商会にも並んでおり、すぐに入手して持ってきたということはそれなりの生産量や在庫があると見える。
「これがポーションです」
「ふむ、これは何のポーションなんだ?」
せめて初級ポーションだといいがと思いたいが、期待は常に裏切られる。
「中級ポーションです」
「中級か……。それでは試飲することにしよう」
この6月にアリ商会から広く宣伝をされて、中級ポーションが売りに出された。
ケビンがいち早く入手できたのは、宣伝される前にいくつかの商会にあらかじめ伝えておいた事情があったらしい。「大きな目玉商品になる」と豪語していたという。こうしてケビンをはじめとしていくつかの商会や他国の商人に先行販売された。
アリ商会が自信をもって言ってきたのだ、ケビンがこれはただ事ではないと感じたのは無理もない。実際、新作ポーションは流通を変える。
「この味は……飲めるな」
「はい。これまでのものとはできが違います」
新作ポーションはあの地獄でも冥界の毒薬ではない。そこまで美味しいとは言わないが、文句を言わずに飲めるポーションである。命の危機に際しても躊躇せずに飲める。
次に気になるのは、その効果である。
「効果は、そうですね、販売員の話ではうちの出しているポーションよりも圧倒的に上のようです。上級に近いんじゃないでしょうか」
上級といえば、ほとんどの傷を治すことができるものである。程度によるが、場合によっては瀕死状態をも回復させる。それに近い効果の中級ポーション。これが事実だとするととんでもない商品である。
一方で気になることもある。
「そうか。じゃあなぜ初級ポーションを売りに出さなかったのだろうか?」
「それについてはわかりませんが、これまでのように中級の在庫切れってことが少ないので、少しこっちにも影響があるかもしれません」
「中級を薄めたら初級並のポーションになるとは思うが……。調整が難しいのか?」
それからすぐに解析をして、レシピも取り寄せた。同時に、実際にこの新作ポーションの効果を試したことのある人間たちの情報も広く集めた。
まず、レシピであるが、以前の中級ポーションとは原材料が全く異なっている。すべてが開示されるわけではないのでどこまでの材料なのかはわからないが、すぐに入手できるものは多い方だ。
ただ、大量に作ることは今は難しいかもしれない。他にも材料があるのだろう。場合によってはこれも在庫切れになりそうなところはある。そのためだろうか、誰にでも購入できる価格設定にはしていないのだという。
販売員の話や評判によれば、その効果は従来の中級ポーションよりも効果はあるようだ。他国からも発注が多い。
ただ、ドジャース商会のように一日に数千本分の出荷というわけにはいかず、せいぜい300本分なのだという。これも時間とともに増えていくことが考えられるが限界はあるだろう。
材料以外にも水の魔法の使い手の調整にも時間がかかると思う。ドジャース商会のポーションの場合だと水魔法の調整は容易な方だが、一般的に中級、上級になるにつれて複雑な水魔法を使用することが知られている。限界があると感じたのはこの理由が一番である。
今回のポーションではシーサス自身が水魔法を使っている、そういう気がする。したがって、シーサス以外にはまだそこまで達しておらず、これが生産量の限界といったところか。
「良い値段なので、顧客は限られると思います。実際、購入制限もあるようです。それでも今しばらくは人気商品になると思いますね」
価格の比較をすると、ドジャース商会のポーションの数十倍の値段が中級ポーションで、さらにその中級ポーションの数百倍の値段が上級ポーションである。
ただし、上級ポーションはまだアリ商会の方でも在庫切れが続いている状態である。
いろいろと考えられるが、自然と棲み分けができ、そこそこの怪我ならドジャース商会のポーション、それ以上の場合はアリ商会の新作中級ポーション、または在庫がある場合は上級ポーションということになるのではないかと予測している。
しかし、上級ポーションはまだわからない。もしかしたら上級ポーションも開発もしているかもしれない。あのシーサスはどこまで開発を進めているのだろうか。
少なくとも魔物討伐などを日常的に行っている人間の場合は、最低でも中級ポーションを1本は持っておくということになるのだろう。何人かが金を出し合って1本用意しておく、こういうこともある。
ある程度の客がアリ商会の方へ行くことはわかるが、大きくシェアを奪われるという心配はない、というケビンの話である。私もそうだと思う。
ただ、ショックは大きい。
ポーションについては甘く見ていた。まさかあの時のシーサスの言葉が、しかもこんなに早く実現するとは思いも寄らなかった。あの時すでにレシピを入手していたというのだろうか。いや、あの時はまだそうではなかったはずだ。
ザマスと顔を合わせたらまた嫌みでも言われるかもしれないというのも気が重い。
あの家が新しいポーションのレシピを改変したか、新しく入手したということになる。後者の可能性の方が高い気がする。しかし、レシピだけを入手できてもすぐに再現できるとは限らない。
そもそもなんでこの世界のポーションは毒薬ポーションだったのかも疑問だが、こういうのが起こるべくして起きたということか。やはりシーサスも天才的な貴公子であるのだ。
物語の中で人は成長する、これは妻だったか、川上さんだったか、娘だったか、誰が言ったか忘れたが、いつかこんなことを言っていた。それはわかる。
じゃあ、この世界でも貴公子たちが成長をしていく、その可能性はあるのか……そうか! その可能性はあるな。
(ポーションが毒薬ポーションだったのは、シーサスが改良するための布石ということか!? その改良ポーションでさらにカーサイト公爵家の影響力が増していく、そういう可能性は考えられるか?)
言葉にしてみると不透明だった事実が妙に現実に思えていく。
父の死を乗り越え、仲間の死を乗り越え、生活の中で辛酸を嘗めて主人公が精神的に成長していく物語のように、意図的にまずく設定されていたポーションを乗り越えていく。これがシーサスの物語で起きるイベントだ。
ここにはおそらくヒロインも一枚噛んでいるのだと思う。
そして、ヒロインとの間に芽生えた恋が発展していく、というのはさすがに単純過ぎるか。
ともあれ、これは第一段階で、もしやこの後にもシーサスがカーサイト公爵家を発展させていくような発明をする、この可能性はある。上級ポーションやマナポーションや他のポーションだって改良することがあるかもしれない。
それとともにアリ商会も勢いを増していくことが考えられる。
ポーションだけではない。あのヒロインが地球から持ってきた知識を金に換えることはこれから先も続いていくはずである。
これはうかうかしていられない。
シーサスと同様に他の貴公子たちも何らかの壁や障害が待ち構えていて、それをヒロインとともに乗り越えていく。そう考える方がいいのかもしれない。
アリーシャがヒロインの家で食べたのは、おそらくどら焼きである。パンとパンとの間に黒くて甘いつぶつぶのものがあったと言っていたから、たぶんそうだ。和のスイーツを開発していたと見える。
アリ商会のポーション販売から間もなくして、和風のスイーツが出てきた。カレーほどの反響はなかったにせよ、日持ちはしないが珍しい菓子ということで一時賑わっていた。
さらにこの時期のアリ商会から自転車が発売され、加えて女性用の生理用品も出てきた。ちょうど夏場に入り込んでいたのでスポーツ用品も新たに出された。
ポーションショックのようなもので、アリ商会はこの勢いを途切れさせずに攻めてきた、ケビンはそう分析していた。本来ならば時期をずらしていたのだろうが、そっちの方がインパクトはある。だとしたら、少なくともいくつかの商品はとっくの昔に開発されていた可能性が高い。新作ポーションはいったいいつから開発がなされていたのだろうか。
それはそうと、生理用品については、これには私も配慮がなかったと思う。
他の人間が公爵である私に「生理用品があれば楽なんですけど」とは言いづらかっただろう。私もチラッと頭をかすめたが、及び腰になってしまっていつの間にか失念していたのだと思う。しかし、出産の一件についてはいろいろと考えていたのにこのことに気づけなかったのは、失念というレベルではなく、やはりそもそも私の頭の中になかったのだと思う。
性に関わる情報は、この世界でもあからさまに言われるものでもない。ただ、日本の学校の性教育でも学ぶことがあるし、女性にとっては切実な問題である。
アリーシャが女性の身体のことを学んだのは、従者のメリーからだった。その日はメリーから報告があった。ただ、そのときでさえもメリーは私には直接言いづらそうにしており、男性に初潮などのことを報告することにためらいがあるようだった。それはそうだろうと思う。本来であればバカラの妻が時期が来たら教えていたのかもしれない。
生理用品はあれば本当に助かるものだと今にして思う。ヒロインが日本にいた頃のことを思い出して、生理用品がないことに不便さを覚えて開発したと考えるべきなのだろう。また後手に回ってしまったのだった。
他にもファッション界ではあの「漢字」が一種の珍しいデザインということで評判になっていた。アリ商会はファッション業界にもかなり手を入れている。
「躰」とか「武」とか、そういう漢字が服や小物類に刻まれてあって、なんとも奇妙な感覚になったが、じわじわとブームになっていった。菓子のデコレーションにまでも入りこんできた。ここにはたまに平仮名も交じっていた。「御利益があります」とまでは言わなかったが、縁起物の一つとして付加価値を付けて販売をしている。
外国人が漢字の入ったTシャツを着ている、そんな光景が日本でもあったなと思い出す。
こういう文化波及は音楽にも言えて、前に王都を散策している時に聞いたクリスマスソング以外にも地球で生まれたいくつかの名曲が王都に流れるようになった。
仕事中に王宮の楽隊が練習している音が聞こえてくることがあったが、その中にも私の知っている曲があったし、CMソングのような短いものもあった。
私世代の懐メロもあり、子どもの頃を思い出す。
家ではあまり聴けないし、イヤホンというものが苦手だったので、休日に運転する車の中でよく聴いていたものだ。
ある時、「あ、この曲懐かしいよね」と娘が言ってきて、私が驚いたこともある。当惑している私に妻が「若い子たちにも懐メロは意外と浸透している」と言ったので、名曲というのは世代を越えていくものなのだなと思ったものだ。
中毒性の高いメロディーやリズムというのはあるようで、気づけば鼻歌で歌ってしまう。あんパンで有名なアニメの主題歌などが王都内で歌われていたのは少々おかしい気持ちになったものだ。
そんな曲もアリ商会から始まっていったのだろう。
また、調理器具の販売もあった。
ドジャース商会ではピューラー、いわゆる皮むき器などは作っていたが、調整のできるスライサーや紐を引っ張ると野菜のみじん切りができる道具をアリ商会は出してきた。
これには料理長のオーランは「プロならばこんな道具は必要ありません」と言っていたが、こういう調理過程を大幅に短縮する道具は実際には売れていた。みながみなプロの料理人ではない。忙しさや手間をカットするものは喜ばれて受け入れられたと思う。謳い文句は「子どもでも簡単に調理ができる」というものだった。
しかもアリ商会の品質はあのバハラ商会と違って確かなものばかりである。品質を比べてもドジャース商会が雇っている職人に決して負けないレベルである。
面白かったのは雇っている職人たちにこうした商品を見せると職人魂に火がついたのか、飽きるまで観察して、仕組みや原理を深く理解し、「これよりも良いものを作るぞ」と張り切っていたことだった。
ところで、みじん切りはそれまであまり馴染みのある切り方ではなかった。
ハンバーグに入れるタマネギなどの場合はそうではなかったが、みじん切りでできる料理は手間のわりに効果は少ないと受け取られていた。
今でも不思議に思えるが、この国の料理の味付けは悲惨なものであり、同時に調理法も貧相なものであった。味ではなく包丁を使って魅せるための料理は存在していたが、極一部の貴族たちのパーティーで見られる程度である。とはいっても、中華料理のように野菜で鳳凰を作るような精巧な料理はまだない。いつか、そういうものもこの世界で見られることだろう。
ドライカレーのようにアリ商会はみじん切りでできるレシピなども一緒に情報提供をしていた。売れ筋商品とそうではない商品とを抱き合わせて売る商法などもアリ商会ではよくあった。考えたものだと思う。
店頭で派手なデモンストレーションを行うというのがアリ商会の特徴である。
スライサーやみじん切りの道具、スポーツ用品なども店内や時には屋外でパフォーマンスをしていた。
「おおっ! これはすごい」
「欲しい、でもお高いんでしょう?」
「ずばり、イチキュッパーです」
まるで通販番組のような光景である。サクラや賑やかしもいたんだろう。この世界でも198や298というのが謳い文句として効果的なことにも驚かされた。そして、そこからさらに値切る客のタフさにも目を見張るものがある。
サッカーボールを売りに出した時にはリフティングを何十回もする子がいた。何度も練習をしたのだろう。バスケットボールでも何回も連続で、しかも遠くの距離から3ポイントシュートを決める子もいた。それが王都民の一種の憧れになり、魅力になり、流行になった。
風の魔法を使える人間が魔法を使ってボールをゴールに決めていた。
アリ商会が王都内の空き地に広場を作って、家庭では買えないゴールや器具などを用意して、王都民に開放することもあった。前にベルハルトやノルンを見かけた広場などがそうだ。
人目を引く宣伝である。リバーシや将棋だと動きがないので、スポーツの宣伝とは全く違う。
こういう売り方をするというのは、やはりケビンの言ったように侮れない、それがアリ商会なのだった。そして、これはヒロインの戦略なのだろうとも思った。
新作ポーションを売りに出してから一月が経とうとしているが、アリ商会に足を運ぶ度に商品が充実していくのがわかる。
ヒロインのアイディア以外にも数多くのものがあるので、噂と違わずアリ商会は手広い商売というのは確かにそうなんだろう。なかなかアリ商会に行くことはかなわないが、少し時間ができた場合にはクリスとハートを伴って来ることがある。
アリ商会には本店と多くの支店があるが、少し距離のある本店に行くことにしてみた。ノルンと出会ったのは支店だったが、実際には本店にいることが多いようだという話を聞いていた。久しぶりにノルンと会話をしたかったが、今日はいないようである。
まあ、仕方ないかと帰ろうとしたら、店員に呼び止められた。
「バカラ様でございますか?」
周りの客には聞こえないように小さな声で私の名前を呼ぶ女性がいた。
「ああ、そうだが、あなたは……ノルンの母君かな?」
ノルンと同じ緑色の髪の毛をしている女性がいる。
ケビンから教えられた情報によれば40歳前後だという話だが、若く見える。ただ、苦労を重ねているからか、目元の方は健康的ではないなと思ったが、口には出さなかった。
「はい。私のような者まで知っていらっしゃるなんて光栄でございます」
そりゃ緑色の髪の毛でノルンと顔立ちが似て綺麗なもんだから、簡単に予測はつく。そうか、この者がアリ商会のトップか。やり手の経営者のはずである。
「イリーナ殿でしたな。手腕はドジャース商会のケビンからうかがっていますよ」
「手腕だなんて、私などまだまだでございますよ」
謙遜の中に自負が見える。これは悪いことではない。
謙遜ばかりをする人間がいつまでも物腰柔らかなことが良いことばかりだとは思わない。年齢や地位に従って、見る者に「この人は」と思わせる核のようなものを感じさせることが経営者には必要だろうと思う。親しみを抱かせると同時に畏怖を思い起こさせること、これが信頼を左右するのだ。
ただ、この女性は意図的にやっているのか、無自覚なのかはわからない。わからないということがこの者の力の一端であろう。
店内で話すのも支障がありそうだったので、別室に案内をしてくれた。クリスとハートは外に待たせている。
「それで、私をわざわざこの部屋に案内したということは何か事情でもあるのですかな?」
ある意味ではライバル商会なのだから、牽制をしてもいいはずだが、不思議とそういう気配はない。普通にお茶でも飲みましょうという感じである。茶葉はドジャース商会のものよりも良いものを使っているようだ。
「バカラ様には御礼を一言申し上げたくて……」
「御礼……? 私は何もしていないはずだが」
イリーナの言う御礼には2つあった。一つはバハラ商会の件と、もう一つはノルンの件である。
「バハラ商会には、かつてアリ商会が細々とやっていた時、もう15年になるでしょうか、かなり経営に支障のあるようなことをされていたんです」
アリ商会がここ数年で伸びてきたことは知っており、15年前というと、まだ小さな商会だったと記憶している。
「主人が、そのなんと言いますか……」
言いよどむイリーナに、気を利かせて言葉を補った。あまり言葉にはしたくないことであるのは間違いない。
「バハラ商会から圧力をかけられていたということでしたな」
「はい、そうでございます」
この情報はケビンから聞いたことだった。
バハラ商会が小さな商会を脅して、酷い場合には商売が成り立たなくなるほどの悪質な妨害行為があったという。
だが、当時はまだゲスの父親のダイゲス・バーミヤンが宰相だったし、バーミヤン公爵家とバハラ商会の結びつきも強かったので、もみ消したことも数多くある。
アリ商会以外の商会に目を向けると、バハラ商会への憎しみは数年ではなく、数十年レベルのものである。ドジャース商会を立ち上げた時にもバハラ商会を倒すためならと再起した人間も少なくなかった。
「確か、ご主人は……」
「ええ、その時の心労がもとで亡くなりました」
そういう話だった。確かまだ30歳くらいだったように思う。それなりにカリスマのある男だったようだが、それほどまでにストレスを感じていたということなのだろう。
その経営者も元は貴族でもなんでもない一市民に過ぎなかったのだから、圧力といっても並大抵のものではなかったはずだ。
ケビンはこの男のことを見知っていたようである。というより、事情を詳しく聞くとかなり昵懇であったという。
「あいつもバカなやつです。王都以外に行けばあんな死に方なんてしなかったのに」
いつだったか、ケビンがふと漏らしたことがあった。あまり商売敵のことは話さないのだが、この時ばかりはケビンはかつての友人をしのぶような表情だった。もしかしたら、私と出会う前のケビンはアリ商会の存続のために暗躍していたのかもしれない。
アリ商会の転機は、カーサイト公爵家のポーションを扱うようになってからだった。考えてみればバハラ商会がポーションを売りに出してもよかったはずだが、ザマス・カーサイトはそうはしなかった。当時はザマスの父親が当主だったからなんともいえないのだが、すでにバーミヤン公爵家がバハラ商会と結びついていたことは明白だったので、距離をおくためにアリ商会と結びついたのかもしれない。
ゲームの視点に立つと、バハラ商会はヒロインの開発物によって無くなるか縮小する運命なのだろうから、そんな商会と結びつきの強い貴公子たちの家があるのは不自然という事情もあったのだろう。バーミヤン公爵家とバハラ商会はつぶれる、それがゲームの流れだったのだと思う。
「その後はあなたが引き継いだという話は聞いたことあります。それが今のアリ商会なのだから、あなたもご主人に違わず才のある方だ。そして粘り強く商売をなさった方だと私は評価しています」
偽りのない気持ちである。商会の責任者には女性は少ない。だいたいケビンのような男性の舞台であり、おそらく女性であるというだけで苦労はあったはずである。地球のことを例に出さずとも、その苦労は私が想像しているものよりもはるかに酷なものだろうと思う。
王宮にも女官は極端に少ない。宰相になった今は、男女の雇用機会にも配慮はするようにしているが、時間がかかりそうだ。
「バハラ商会があのような形になったことについては、バカラ様のお力があったからこそだろうと考えております」
「ははっ、あれはバハラ商会の自滅のようなものだろう。積年の恨みがあのような結末を迎えることになったのでしょう。私などおらずとも、遅かれ早かれあのような外道の商会は潰れる運命にあった、そう私は思っている。だから、私への御礼というのもお門違いだ」
「ふふ、お噂通りのお方ですね。ですが、そのきっかけとなったのもバハラ商会の商品への適切な批評や評価があったからです」
あの粗雑な化粧品を売りに出した肌荒れトラブルの時は私も頭にきてかなり強烈な言葉を使っていかにバハラ商会の商品が危ないかを述べたものだった。
だから、あれがあったからさらに批判が強まったというのは事実である。が、やはり因果応報なのだと思うし、私はそう信じたい。
「ところで、ノルンの件とは?」
気になるのはこちらの方である。
「そうですね。あの子は主人が亡くなってからはバハラ商会をいかに潰すかに躍起になっていたのです。しかし、もうあの商会がなくなり、なんと言いますか、商売の目的を失っていたところがありました。ですが、数か月前にバカラ様があの子におっしゃっていただいたことに何か感じ入るところがあったようで、ふふふ、それからはアリ商会は世界を目指すと豪語しているんですよ」
あのサッカーの時に話したことである。王都だけで満足しているノルンに発破をかけた件である。
こぢんまりと商売をするのもいい。まあ王都だけでも十分であるが、世界を目指すというのならそれでいいと思う。
人間は有限の存在だ。だから、次代に託すことは重要であるけれども、今の代で、つまり自分が生きている間にどこまでたどりつけるのか、そういう生き方を私はしたい。田中哲朗の時には弱気になっていたが、バカラになってからは特にそう思うようになった。
「彼はまだ20歳くらいだろう。まあ、若いうちは大胆な方がいい。それに、私としてもこのままドジャース商会一強だとつまらないもんでな」
これも正直な気持ちだし、最近のケビンが活き活きとしているように見えるのは間違いではない。新作ポーションを持ってきた時のケビンは、どこか嬉しそうな表情を浮かべていた。
このイリーナも相当なやり手であるとケビンは言っていた。私からの挑発にも一瞬ぎらりとするものが顔を過ぎった。
商人というのはいったいどこを目指すものなのか、私にはまだはっきりと掴めていないものなのだが、単に利をむさぼるだけではないことはわかる。
「まあ、私の前でそんなことをおっしゃるなんて。『誰も争うために商売をしているのではない』でしたかしら」
私の著書を一節を引用した。この親子は本当によく調べているものだ。
「大事なのは何のために商売をするのか、ですな。これからも良き仲間として刺激しあっていきたいものだ」
アリ商会が何を目指すのか。それはドジャース商会と同じ道になるだろうか。ケビンもイリーナも、そしてノルンの成長も私の楽しみにしておきたいと思う。
ただ、一つだけ懸念していることがある。
あのバハラ商会は確かに解体したのだが、商会のトップが行方をくらましていることである。私は一度だけ目にしたことがあったのだが、まあ人生というのが顔に出るというか、あまり仲良くしたいとは思えない人間だ。
その男が今いったいどこにいるのか、ずっと調査をしているが依然として尻尾が掴めない状態である。王都内にまだいるのか、別の領にいるのか、それとも他国にいるのか。
バーミヤン公爵家、あるいは第一馬鹿王子、はたまた他国とのつながりはあるように思う。
関係者によると、どうもこの男がドジャース商会の商品に似せて化粧品などを売っていたようである。牢にぶち込みたいが、それもできない。周到に逃げ道を用意していたのである。取り逃がしたことは悔やまれて仕方ない。
それにしてもノルンはシーサスと同様に、ゲームの中でヒロインと協力しておそらくバハラ商会を相手取ることがイベントの一つだったのだろうと思う。
それが乗っ取ることか潰したのかかはわからないが、果たしてそれで彼は満足できたのだろうか。それともまだ先のことを考えていたのだろうか。
私がここ数年でやってきたことは、貴公子たちのハードルを高くしてしまっているような気がする。
シーサスにせよノルンにせよ、私がポーションを作らなかったりドジャース商会を作らなかったりしたら、もっと楽に人生を歩んでいたのかもしれない。
多少の罪悪感はあるが、まあ、別の夢ができるのも人間の性だ。そういう障害すらも越えていけるのが彼ら貴公子たちの可能性なのだと信じたい。
邸に着いた時、私と距離をとって護衛をしていたシノンが近づいてきた。
「イリーナ様はバカラ様の訪問をご存じだったようです」
「ふむ、やはりそうか」
シノンの話では、私が王都を移動している時に監視をしている人間がいたのだという。それがアリ商会の人間だったようだ。こちらに危害を加える意図はなかったようなので、泳がせていたのだという。
偶然を装って、私に話しかけたというわけだ。なかなかしたたかな経営者である。
アリ商会にも並んでおり、すぐに入手して持ってきたということはそれなりの生産量や在庫があると見える。
「これがポーションです」
「ふむ、これは何のポーションなんだ?」
せめて初級ポーションだといいがと思いたいが、期待は常に裏切られる。
「中級ポーションです」
「中級か……。それでは試飲することにしよう」
この6月にアリ商会から広く宣伝をされて、中級ポーションが売りに出された。
ケビンがいち早く入手できたのは、宣伝される前にいくつかの商会にあらかじめ伝えておいた事情があったらしい。「大きな目玉商品になる」と豪語していたという。こうしてケビンをはじめとしていくつかの商会や他国の商人に先行販売された。
アリ商会が自信をもって言ってきたのだ、ケビンがこれはただ事ではないと感じたのは無理もない。実際、新作ポーションは流通を変える。
「この味は……飲めるな」
「はい。これまでのものとはできが違います」
新作ポーションはあの地獄でも冥界の毒薬ではない。そこまで美味しいとは言わないが、文句を言わずに飲めるポーションである。命の危機に際しても躊躇せずに飲める。
次に気になるのは、その効果である。
「効果は、そうですね、販売員の話ではうちの出しているポーションよりも圧倒的に上のようです。上級に近いんじゃないでしょうか」
上級といえば、ほとんどの傷を治すことができるものである。程度によるが、場合によっては瀕死状態をも回復させる。それに近い効果の中級ポーション。これが事実だとするととんでもない商品である。
一方で気になることもある。
「そうか。じゃあなぜ初級ポーションを売りに出さなかったのだろうか?」
「それについてはわかりませんが、これまでのように中級の在庫切れってことが少ないので、少しこっちにも影響があるかもしれません」
「中級を薄めたら初級並のポーションになるとは思うが……。調整が難しいのか?」
それからすぐに解析をして、レシピも取り寄せた。同時に、実際にこの新作ポーションの効果を試したことのある人間たちの情報も広く集めた。
まず、レシピであるが、以前の中級ポーションとは原材料が全く異なっている。すべてが開示されるわけではないのでどこまでの材料なのかはわからないが、すぐに入手できるものは多い方だ。
ただ、大量に作ることは今は難しいかもしれない。他にも材料があるのだろう。場合によってはこれも在庫切れになりそうなところはある。そのためだろうか、誰にでも購入できる価格設定にはしていないのだという。
販売員の話や評判によれば、その効果は従来の中級ポーションよりも効果はあるようだ。他国からも発注が多い。
ただ、ドジャース商会のように一日に数千本分の出荷というわけにはいかず、せいぜい300本分なのだという。これも時間とともに増えていくことが考えられるが限界はあるだろう。
材料以外にも水の魔法の使い手の調整にも時間がかかると思う。ドジャース商会のポーションの場合だと水魔法の調整は容易な方だが、一般的に中級、上級になるにつれて複雑な水魔法を使用することが知られている。限界があると感じたのはこの理由が一番である。
今回のポーションではシーサス自身が水魔法を使っている、そういう気がする。したがって、シーサス以外にはまだそこまで達しておらず、これが生産量の限界といったところか。
「良い値段なので、顧客は限られると思います。実際、購入制限もあるようです。それでも今しばらくは人気商品になると思いますね」
価格の比較をすると、ドジャース商会のポーションの数十倍の値段が中級ポーションで、さらにその中級ポーションの数百倍の値段が上級ポーションである。
ただし、上級ポーションはまだアリ商会の方でも在庫切れが続いている状態である。
いろいろと考えられるが、自然と棲み分けができ、そこそこの怪我ならドジャース商会のポーション、それ以上の場合はアリ商会の新作中級ポーション、または在庫がある場合は上級ポーションということになるのではないかと予測している。
しかし、上級ポーションはまだわからない。もしかしたら上級ポーションも開発もしているかもしれない。あのシーサスはどこまで開発を進めているのだろうか。
少なくとも魔物討伐などを日常的に行っている人間の場合は、最低でも中級ポーションを1本は持っておくということになるのだろう。何人かが金を出し合って1本用意しておく、こういうこともある。
ある程度の客がアリ商会の方へ行くことはわかるが、大きくシェアを奪われるという心配はない、というケビンの話である。私もそうだと思う。
ただ、ショックは大きい。
ポーションについては甘く見ていた。まさかあの時のシーサスの言葉が、しかもこんなに早く実現するとは思いも寄らなかった。あの時すでにレシピを入手していたというのだろうか。いや、あの時はまだそうではなかったはずだ。
ザマスと顔を合わせたらまた嫌みでも言われるかもしれないというのも気が重い。
あの家が新しいポーションのレシピを改変したか、新しく入手したということになる。後者の可能性の方が高い気がする。しかし、レシピだけを入手できてもすぐに再現できるとは限らない。
そもそもなんでこの世界のポーションは毒薬ポーションだったのかも疑問だが、こういうのが起こるべくして起きたということか。やはりシーサスも天才的な貴公子であるのだ。
物語の中で人は成長する、これは妻だったか、川上さんだったか、娘だったか、誰が言ったか忘れたが、いつかこんなことを言っていた。それはわかる。
じゃあ、この世界でも貴公子たちが成長をしていく、その可能性はあるのか……そうか! その可能性はあるな。
(ポーションが毒薬ポーションだったのは、シーサスが改良するための布石ということか!? その改良ポーションでさらにカーサイト公爵家の影響力が増していく、そういう可能性は考えられるか?)
言葉にしてみると不透明だった事実が妙に現実に思えていく。
父の死を乗り越え、仲間の死を乗り越え、生活の中で辛酸を嘗めて主人公が精神的に成長していく物語のように、意図的にまずく設定されていたポーションを乗り越えていく。これがシーサスの物語で起きるイベントだ。
ここにはおそらくヒロインも一枚噛んでいるのだと思う。
そして、ヒロインとの間に芽生えた恋が発展していく、というのはさすがに単純過ぎるか。
ともあれ、これは第一段階で、もしやこの後にもシーサスがカーサイト公爵家を発展させていくような発明をする、この可能性はある。上級ポーションやマナポーションや他のポーションだって改良することがあるかもしれない。
それとともにアリ商会も勢いを増していくことが考えられる。
ポーションだけではない。あのヒロインが地球から持ってきた知識を金に換えることはこれから先も続いていくはずである。
これはうかうかしていられない。
シーサスと同様に他の貴公子たちも何らかの壁や障害が待ち構えていて、それをヒロインとともに乗り越えていく。そう考える方がいいのかもしれない。
アリーシャがヒロインの家で食べたのは、おそらくどら焼きである。パンとパンとの間に黒くて甘いつぶつぶのものがあったと言っていたから、たぶんそうだ。和のスイーツを開発していたと見える。
アリ商会のポーション販売から間もなくして、和風のスイーツが出てきた。カレーほどの反響はなかったにせよ、日持ちはしないが珍しい菓子ということで一時賑わっていた。
さらにこの時期のアリ商会から自転車が発売され、加えて女性用の生理用品も出てきた。ちょうど夏場に入り込んでいたのでスポーツ用品も新たに出された。
ポーションショックのようなもので、アリ商会はこの勢いを途切れさせずに攻めてきた、ケビンはそう分析していた。本来ならば時期をずらしていたのだろうが、そっちの方がインパクトはある。だとしたら、少なくともいくつかの商品はとっくの昔に開発されていた可能性が高い。新作ポーションはいったいいつから開発がなされていたのだろうか。
それはそうと、生理用品については、これには私も配慮がなかったと思う。
他の人間が公爵である私に「生理用品があれば楽なんですけど」とは言いづらかっただろう。私もチラッと頭をかすめたが、及び腰になってしまっていつの間にか失念していたのだと思う。しかし、出産の一件についてはいろいろと考えていたのにこのことに気づけなかったのは、失念というレベルではなく、やはりそもそも私の頭の中になかったのだと思う。
性に関わる情報は、この世界でもあからさまに言われるものでもない。ただ、日本の学校の性教育でも学ぶことがあるし、女性にとっては切実な問題である。
アリーシャが女性の身体のことを学んだのは、従者のメリーからだった。その日はメリーから報告があった。ただ、そのときでさえもメリーは私には直接言いづらそうにしており、男性に初潮などのことを報告することにためらいがあるようだった。それはそうだろうと思う。本来であればバカラの妻が時期が来たら教えていたのかもしれない。
生理用品はあれば本当に助かるものだと今にして思う。ヒロインが日本にいた頃のことを思い出して、生理用品がないことに不便さを覚えて開発したと考えるべきなのだろう。また後手に回ってしまったのだった。
他にもファッション界ではあの「漢字」が一種の珍しいデザインということで評判になっていた。アリ商会はファッション業界にもかなり手を入れている。
「躰」とか「武」とか、そういう漢字が服や小物類に刻まれてあって、なんとも奇妙な感覚になったが、じわじわとブームになっていった。菓子のデコレーションにまでも入りこんできた。ここにはたまに平仮名も交じっていた。「御利益があります」とまでは言わなかったが、縁起物の一つとして付加価値を付けて販売をしている。
外国人が漢字の入ったTシャツを着ている、そんな光景が日本でもあったなと思い出す。
こういう文化波及は音楽にも言えて、前に王都を散策している時に聞いたクリスマスソング以外にも地球で生まれたいくつかの名曲が王都に流れるようになった。
仕事中に王宮の楽隊が練習している音が聞こえてくることがあったが、その中にも私の知っている曲があったし、CMソングのような短いものもあった。
私世代の懐メロもあり、子どもの頃を思い出す。
家ではあまり聴けないし、イヤホンというものが苦手だったので、休日に運転する車の中でよく聴いていたものだ。
ある時、「あ、この曲懐かしいよね」と娘が言ってきて、私が驚いたこともある。当惑している私に妻が「若い子たちにも懐メロは意外と浸透している」と言ったので、名曲というのは世代を越えていくものなのだなと思ったものだ。
中毒性の高いメロディーやリズムというのはあるようで、気づけば鼻歌で歌ってしまう。あんパンで有名なアニメの主題歌などが王都内で歌われていたのは少々おかしい気持ちになったものだ。
そんな曲もアリ商会から始まっていったのだろう。
また、調理器具の販売もあった。
ドジャース商会ではピューラー、いわゆる皮むき器などは作っていたが、調整のできるスライサーや紐を引っ張ると野菜のみじん切りができる道具をアリ商会は出してきた。
これには料理長のオーランは「プロならばこんな道具は必要ありません」と言っていたが、こういう調理過程を大幅に短縮する道具は実際には売れていた。みながみなプロの料理人ではない。忙しさや手間をカットするものは喜ばれて受け入れられたと思う。謳い文句は「子どもでも簡単に調理ができる」というものだった。
しかもアリ商会の品質はあのバハラ商会と違って確かなものばかりである。品質を比べてもドジャース商会が雇っている職人に決して負けないレベルである。
面白かったのは雇っている職人たちにこうした商品を見せると職人魂に火がついたのか、飽きるまで観察して、仕組みや原理を深く理解し、「これよりも良いものを作るぞ」と張り切っていたことだった。
ところで、みじん切りはそれまであまり馴染みのある切り方ではなかった。
ハンバーグに入れるタマネギなどの場合はそうではなかったが、みじん切りでできる料理は手間のわりに効果は少ないと受け取られていた。
今でも不思議に思えるが、この国の料理の味付けは悲惨なものであり、同時に調理法も貧相なものであった。味ではなく包丁を使って魅せるための料理は存在していたが、極一部の貴族たちのパーティーで見られる程度である。とはいっても、中華料理のように野菜で鳳凰を作るような精巧な料理はまだない。いつか、そういうものもこの世界で見られることだろう。
ドライカレーのようにアリ商会はみじん切りでできるレシピなども一緒に情報提供をしていた。売れ筋商品とそうではない商品とを抱き合わせて売る商法などもアリ商会ではよくあった。考えたものだと思う。
店頭で派手なデモンストレーションを行うというのがアリ商会の特徴である。
スライサーやみじん切りの道具、スポーツ用品なども店内や時には屋外でパフォーマンスをしていた。
「おおっ! これはすごい」
「欲しい、でもお高いんでしょう?」
「ずばり、イチキュッパーです」
まるで通販番組のような光景である。サクラや賑やかしもいたんだろう。この世界でも198や298というのが謳い文句として効果的なことにも驚かされた。そして、そこからさらに値切る客のタフさにも目を見張るものがある。
サッカーボールを売りに出した時にはリフティングを何十回もする子がいた。何度も練習をしたのだろう。バスケットボールでも何回も連続で、しかも遠くの距離から3ポイントシュートを決める子もいた。それが王都民の一種の憧れになり、魅力になり、流行になった。
風の魔法を使える人間が魔法を使ってボールをゴールに決めていた。
アリ商会が王都内の空き地に広場を作って、家庭では買えないゴールや器具などを用意して、王都民に開放することもあった。前にベルハルトやノルンを見かけた広場などがそうだ。
人目を引く宣伝である。リバーシや将棋だと動きがないので、スポーツの宣伝とは全く違う。
こういう売り方をするというのは、やはりケビンの言ったように侮れない、それがアリ商会なのだった。そして、これはヒロインの戦略なのだろうとも思った。
新作ポーションを売りに出してから一月が経とうとしているが、アリ商会に足を運ぶ度に商品が充実していくのがわかる。
ヒロインのアイディア以外にも数多くのものがあるので、噂と違わずアリ商会は手広い商売というのは確かにそうなんだろう。なかなかアリ商会に行くことはかなわないが、少し時間ができた場合にはクリスとハートを伴って来ることがある。
アリ商会には本店と多くの支店があるが、少し距離のある本店に行くことにしてみた。ノルンと出会ったのは支店だったが、実際には本店にいることが多いようだという話を聞いていた。久しぶりにノルンと会話をしたかったが、今日はいないようである。
まあ、仕方ないかと帰ろうとしたら、店員に呼び止められた。
「バカラ様でございますか?」
周りの客には聞こえないように小さな声で私の名前を呼ぶ女性がいた。
「ああ、そうだが、あなたは……ノルンの母君かな?」
ノルンと同じ緑色の髪の毛をしている女性がいる。
ケビンから教えられた情報によれば40歳前後だという話だが、若く見える。ただ、苦労を重ねているからか、目元の方は健康的ではないなと思ったが、口には出さなかった。
「はい。私のような者まで知っていらっしゃるなんて光栄でございます」
そりゃ緑色の髪の毛でノルンと顔立ちが似て綺麗なもんだから、簡単に予測はつく。そうか、この者がアリ商会のトップか。やり手の経営者のはずである。
「イリーナ殿でしたな。手腕はドジャース商会のケビンからうかがっていますよ」
「手腕だなんて、私などまだまだでございますよ」
謙遜の中に自負が見える。これは悪いことではない。
謙遜ばかりをする人間がいつまでも物腰柔らかなことが良いことばかりだとは思わない。年齢や地位に従って、見る者に「この人は」と思わせる核のようなものを感じさせることが経営者には必要だろうと思う。親しみを抱かせると同時に畏怖を思い起こさせること、これが信頼を左右するのだ。
ただ、この女性は意図的にやっているのか、無自覚なのかはわからない。わからないということがこの者の力の一端であろう。
店内で話すのも支障がありそうだったので、別室に案内をしてくれた。クリスとハートは外に待たせている。
「それで、私をわざわざこの部屋に案内したということは何か事情でもあるのですかな?」
ある意味ではライバル商会なのだから、牽制をしてもいいはずだが、不思議とそういう気配はない。普通にお茶でも飲みましょうという感じである。茶葉はドジャース商会のものよりも良いものを使っているようだ。
「バカラ様には御礼を一言申し上げたくて……」
「御礼……? 私は何もしていないはずだが」
イリーナの言う御礼には2つあった。一つはバハラ商会の件と、もう一つはノルンの件である。
「バハラ商会には、かつてアリ商会が細々とやっていた時、もう15年になるでしょうか、かなり経営に支障のあるようなことをされていたんです」
アリ商会がここ数年で伸びてきたことは知っており、15年前というと、まだ小さな商会だったと記憶している。
「主人が、そのなんと言いますか……」
言いよどむイリーナに、気を利かせて言葉を補った。あまり言葉にはしたくないことであるのは間違いない。
「バハラ商会から圧力をかけられていたということでしたな」
「はい、そうでございます」
この情報はケビンから聞いたことだった。
バハラ商会が小さな商会を脅して、酷い場合には商売が成り立たなくなるほどの悪質な妨害行為があったという。
だが、当時はまだゲスの父親のダイゲス・バーミヤンが宰相だったし、バーミヤン公爵家とバハラ商会の結びつきも強かったので、もみ消したことも数多くある。
アリ商会以外の商会に目を向けると、バハラ商会への憎しみは数年ではなく、数十年レベルのものである。ドジャース商会を立ち上げた時にもバハラ商会を倒すためならと再起した人間も少なくなかった。
「確か、ご主人は……」
「ええ、その時の心労がもとで亡くなりました」
そういう話だった。確かまだ30歳くらいだったように思う。それなりにカリスマのある男だったようだが、それほどまでにストレスを感じていたということなのだろう。
その経営者も元は貴族でもなんでもない一市民に過ぎなかったのだから、圧力といっても並大抵のものではなかったはずだ。
ケビンはこの男のことを見知っていたようである。というより、事情を詳しく聞くとかなり昵懇であったという。
「あいつもバカなやつです。王都以外に行けばあんな死に方なんてしなかったのに」
いつだったか、ケビンがふと漏らしたことがあった。あまり商売敵のことは話さないのだが、この時ばかりはケビンはかつての友人をしのぶような表情だった。もしかしたら、私と出会う前のケビンはアリ商会の存続のために暗躍していたのかもしれない。
アリ商会の転機は、カーサイト公爵家のポーションを扱うようになってからだった。考えてみればバハラ商会がポーションを売りに出してもよかったはずだが、ザマス・カーサイトはそうはしなかった。当時はザマスの父親が当主だったからなんともいえないのだが、すでにバーミヤン公爵家がバハラ商会と結びついていたことは明白だったので、距離をおくためにアリ商会と結びついたのかもしれない。
ゲームの視点に立つと、バハラ商会はヒロインの開発物によって無くなるか縮小する運命なのだろうから、そんな商会と結びつきの強い貴公子たちの家があるのは不自然という事情もあったのだろう。バーミヤン公爵家とバハラ商会はつぶれる、それがゲームの流れだったのだと思う。
「その後はあなたが引き継いだという話は聞いたことあります。それが今のアリ商会なのだから、あなたもご主人に違わず才のある方だ。そして粘り強く商売をなさった方だと私は評価しています」
偽りのない気持ちである。商会の責任者には女性は少ない。だいたいケビンのような男性の舞台であり、おそらく女性であるというだけで苦労はあったはずである。地球のことを例に出さずとも、その苦労は私が想像しているものよりもはるかに酷なものだろうと思う。
王宮にも女官は極端に少ない。宰相になった今は、男女の雇用機会にも配慮はするようにしているが、時間がかかりそうだ。
「バハラ商会があのような形になったことについては、バカラ様のお力があったからこそだろうと考えております」
「ははっ、あれはバハラ商会の自滅のようなものだろう。積年の恨みがあのような結末を迎えることになったのでしょう。私などおらずとも、遅かれ早かれあのような外道の商会は潰れる運命にあった、そう私は思っている。だから、私への御礼というのもお門違いだ」
「ふふ、お噂通りのお方ですね。ですが、そのきっかけとなったのもバハラ商会の商品への適切な批評や評価があったからです」
あの粗雑な化粧品を売りに出した肌荒れトラブルの時は私も頭にきてかなり強烈な言葉を使っていかにバハラ商会の商品が危ないかを述べたものだった。
だから、あれがあったからさらに批判が強まったというのは事実である。が、やはり因果応報なのだと思うし、私はそう信じたい。
「ところで、ノルンの件とは?」
気になるのはこちらの方である。
「そうですね。あの子は主人が亡くなってからはバハラ商会をいかに潰すかに躍起になっていたのです。しかし、もうあの商会がなくなり、なんと言いますか、商売の目的を失っていたところがありました。ですが、数か月前にバカラ様があの子におっしゃっていただいたことに何か感じ入るところがあったようで、ふふふ、それからはアリ商会は世界を目指すと豪語しているんですよ」
あのサッカーの時に話したことである。王都だけで満足しているノルンに発破をかけた件である。
こぢんまりと商売をするのもいい。まあ王都だけでも十分であるが、世界を目指すというのならそれでいいと思う。
人間は有限の存在だ。だから、次代に託すことは重要であるけれども、今の代で、つまり自分が生きている間にどこまでたどりつけるのか、そういう生き方を私はしたい。田中哲朗の時には弱気になっていたが、バカラになってからは特にそう思うようになった。
「彼はまだ20歳くらいだろう。まあ、若いうちは大胆な方がいい。それに、私としてもこのままドジャース商会一強だとつまらないもんでな」
これも正直な気持ちだし、最近のケビンが活き活きとしているように見えるのは間違いではない。新作ポーションを持ってきた時のケビンは、どこか嬉しそうな表情を浮かべていた。
このイリーナも相当なやり手であるとケビンは言っていた。私からの挑発にも一瞬ぎらりとするものが顔を過ぎった。
商人というのはいったいどこを目指すものなのか、私にはまだはっきりと掴めていないものなのだが、単に利をむさぼるだけではないことはわかる。
「まあ、私の前でそんなことをおっしゃるなんて。『誰も争うために商売をしているのではない』でしたかしら」
私の著書を一節を引用した。この親子は本当によく調べているものだ。
「大事なのは何のために商売をするのか、ですな。これからも良き仲間として刺激しあっていきたいものだ」
アリ商会が何を目指すのか。それはドジャース商会と同じ道になるだろうか。ケビンもイリーナも、そしてノルンの成長も私の楽しみにしておきたいと思う。
ただ、一つだけ懸念していることがある。
あのバハラ商会は確かに解体したのだが、商会のトップが行方をくらましていることである。私は一度だけ目にしたことがあったのだが、まあ人生というのが顔に出るというか、あまり仲良くしたいとは思えない人間だ。
その男が今いったいどこにいるのか、ずっと調査をしているが依然として尻尾が掴めない状態である。王都内にまだいるのか、別の領にいるのか、それとも他国にいるのか。
バーミヤン公爵家、あるいは第一馬鹿王子、はたまた他国とのつながりはあるように思う。
関係者によると、どうもこの男がドジャース商会の商品に似せて化粧品などを売っていたようである。牢にぶち込みたいが、それもできない。周到に逃げ道を用意していたのである。取り逃がしたことは悔やまれて仕方ない。
それにしてもノルンはシーサスと同様に、ゲームの中でヒロインと協力しておそらくバハラ商会を相手取ることがイベントの一つだったのだろうと思う。
それが乗っ取ることか潰したのかかはわからないが、果たしてそれで彼は満足できたのだろうか。それともまだ先のことを考えていたのだろうか。
私がここ数年でやってきたことは、貴公子たちのハードルを高くしてしまっているような気がする。
シーサスにせよノルンにせよ、私がポーションを作らなかったりドジャース商会を作らなかったりしたら、もっと楽に人生を歩んでいたのかもしれない。
多少の罪悪感はあるが、まあ、別の夢ができるのも人間の性だ。そういう障害すらも越えていけるのが彼ら貴公子たちの可能性なのだと信じたい。
邸に着いた時、私と距離をとって護衛をしていたシノンが近づいてきた。
「イリーナ様はバカラ様の訪問をご存じだったようです」
「ふむ、やはりそうか」
シノンの話では、私が王都を移動している時に監視をしている人間がいたのだという。それがアリ商会の人間だったようだ。こちらに危害を加える意図はなかったようなので、泳がせていたのだという。
偶然を装って、私に話しかけたというわけだ。なかなかしたたかな経営者である。
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