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2巻 夏と花火とつながる思い

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 応募締め切りは数日後だ。

「ところであなたもこの辺りに住んでいるの?」

 訊ねられて、瑠璃が「近くで働いています」と答えると、女性はキラキラと目を輝かせて言った。

「せっかくだから、あなたも出品してみない?」

 瞬間。龍玄と一緒にもののけ達の巻物を描いた時のことが、瑠璃の胸に鮮明に思い出される。あの楽しくて満たされるような感覚が蘇り、瑠璃は頬が熱くなるのを感じた。
 言葉に詰まっていると、あなたも絵を描くんでしょうと確信したように微笑まれてドキッとした。

「なんでわかったんですか……?」
「……あらやだ、図星? 絵を褒めるのに、構図の取り方なんて言う人はあまりいないもの」

 女性は目をぱちくりさせてから楽しそうに笑った。彼女の笑顔が眩しくて、瑠璃は目を瞬かせる。

「そのチラシあげるから、目を通してみてよ。仲間が増えたら嬉しいわ」

 渡された詳細の紙を握りしめながら、瑠璃はいつの間にか頷いていた。瑠璃の姿に、女性はさらに笑みを深めて鞄の中を漁る。

「ここの風景が好きすぎて、絵を描く時は大抵この辺りにいるの。見かけたらまた声をかけてね」

 そう言って鞄から引っ張り出された名刺を差し出してきた。彼女の職場であろう介護施設の名称と一緒に刻まれた名前を、瑠璃は読み上げる。

「こんどう……あかねさん?」
あかねでいいわ。あなたは?」

 瑠璃は名刺を持っていなかったので、口頭で名前を告げた。「るり」という音を聞いて、女性――茜はふわりと微笑んだ。

「私達二人とも色の名前ね。じゃあ瑠璃ちゃん、また会いましょう」
「ありがとうございます」

 茜の言葉にお辞儀をしてから立ち上がり、瑠璃はいまだ浮見堂の中で景色を眺めていた龍玄の元に足早に戻った。おかえりと言わんばかりの、龍玄の優しい笑みが瑠璃を出迎えてくれる。

「あの人と話をしてきたのか?」
「はい、それで……」

 瑠璃はもらったばかりのチラシを見せる。すると、もののけ達の弾んだ声が聞こえてきた。

『ええやん! ワシも瑠璃ちゃんの作品見てみたいなあ』
『瑠璃が絵を描くのなんて卒業以来やない? 参加したらええわ』

 緑青とフクにそれぞれ言われて、瑠璃は恐る恐る龍玄を見る。龍玄もまた、二匹と同じようにあっさりと頷いた。

「いいじゃないか。出してみたら」
「……私が出品してもいいんですかね。うまく描けるか、自信がありません」

 こわごわと訊いてみる。真っ白な画面と向き合ったのは、卒業制作の時が最後だ。毎日朝から晩まで、手が痛くなるほど描いていた学生時代以来、自分だけで描く作品には、長い間取り組んでいない。

『そんな気負わんでもええやん』
『せやせや。まずは一歩、踏み出してみるのも大事やで』

 迷っている瑠璃とは反対に、もののけ達は乗り気のようだ。賑やかな声をありがたく思いつつも、どこか心がざわめく。龍玄の返事をじっと待っていると、彼はため息を吐いてから呟いた。

「瑠璃が出品してはダメだと、募集要項に書いてないだろう?」

 言われて、瑠璃はこくりと頷く。絵はもちろん大好きだ。それに、せっかく誘ってくれたのをむげに断るのも気が引ける。

「……そうですよね。前向きに考えてみます」

 けれども、瑠璃はとある理由でその場で参加を決めることができなかった。


   *


 それから数日後、瑠璃は母と妹の桃子と喫茶店に集まった。今日は、みんなでランチのあと、夜まで実家で過ごす予定だ。

「そんなわけなんだけど……私の絵が展覧会に出るの、どう思う?」

 茜にもらった市美展のチラシを二人の前に差し出す。
 すると桃子はオムライスを頬張りながら、「へえ」とくりっとした目をぱちぱちさせた。母は募集要項を詳しくチェックしている。その沈黙を埋めるように瑠璃は口を開く。

「この間、散歩をしていたら声をかけてもらったの。一緒にどうですかって」
「いいじゃん! お姉ちゃんが絵を描くの久しぶりだね」
「出品するのを迷っているんだけど……」

 瑠璃が言葉を濁すと、桃子が明るく言って首を振った。

「なんで!? お姉ちゃん絵上手うまいじゃん! っていうか今日が締め切りとかギリギリすぎ!」

 チラシの募集要項を読み終えたらしい母も、ほとんど同時に顔を上げる。

「出してみたらいいじゃない。展示されたら観に行くわ。桃子も一緒に行くでしょう?」

 母が誘うと桃子は「もちろん」と頷く。

「父さんも来るかな?」
「当り前じゃない。言わないだけで、瑠璃が活躍するのを楽しみにしているんだから」

 不愛想な父がうーんと唸りつつ、自分の描いた作品を観ている姿を想像して一瞬心が温まる。
 ただ同時に、自分の作品がほかの作品と比べられる場に出るのだ、という事実に改めて思い至り、瑠璃は複雑な顔になった。

「心配なの。有名な画家先生の助手なのに、賞にも引っかからないような作品を出すわけにもいかないんじゃないかって」
「……それ、職場の先生に言われたの?」

 一瞬で表情を真顔に変えた桃子に聞かれて、瑠璃は慌てて首を横に振る。

「ううん。私が勝手にそう思っているだけ」
「作品制作には挑戦したいけど、うまくいかなかったらどうしようって、怖くなるのはわかるけど。お姉ちゃん、気にしすぎだよ」

 桃子は杞憂だと言ってくれるけれど、賞を逃したことで龍玄の箔が落ちて、解雇になったらどうしようと、瑠璃は一足跳びに不安が膨らんでいた。
 せっかく手にした心地良い居場所を、自分のせいで去るようなことは避けたい。そんな思いと絵に対する自信のなさが出品に歯止めをかけている。
 だから瑠璃は今、二人に参加を止めてほしかったのかもしれない……
 そのことに気づいてしまって身を固くしていると、桃子に腕を強めに小突かれた。

「先生に嫌われたくないだけじゃん。だってお姉ちゃんは先生のこと大好きだもんね?」
「とても慕っているの。それに迷っている理由はそうじゃなくて」

 突然の言葉に思わず反論すると、桃子がふふっと笑う。

「前は尊敬とか憧れって言ってたけど、すごーく慕っている感じになったの?」
「え、ええと、そ、それは――……」

 桃子の含み笑いに、いつの間にか空気が軽くなっている。

「っていうか、心配なら本人に言いなって。どんな結果でも追い出さないでください、ってね」

 終わりの見えない会話をしている姉妹を見ていた母が、そこでやっと口を開いた。

「瑠璃。自分が納得できる形になるように取り組んでみるといいと思うわ。全力で向き合っている姿が伝われば、龍玄先生はわかってくれるんじゃない?」
「そーそー。あたしはお姉ちゃんのこと、いろんな意味で応援しているからね!」

 桃子に今度は背中を強く叩かれて、瑠璃はゴホゴホむせた。
 だからこの気持ちはそういうのじゃないと言い返そうとしたが、桃子にこれ以上ツッコまれるのも大変なので、瑠璃は黙って頷くにとどめる。
 瑠璃に代わって、桃子はあっという間にウェブから参加申し込みをしてしまった。もうこれで、後に引くことはできない。

「――そうよね。せっかく誘ってもらったし……」

 ランチを終えたあと瑠璃は実家に立ち寄り、置きっぱなしの絵の道具を持ち帰ることにした。


 実家の自室で、瑠璃は懐かしい道具類を手に取って、一つ一つ大きな段ボール箱に詰め込んでいく。

「わあ! これ、入学当初にセットで購入した岩絵の具だ。見て見て……」

 そこまで言ってから、そういえば今は高遠家ではなかったことを思い出す。
 ついつい癖でもののけに話しかけてしまったが、フクも桔梗もいないので完全に独り言だ。
 しーんと静まった部屋を見渡して、瑠璃はちょっと困ったように息を吐く。
 どうやら、誰もいない空間に話しかけることに抵抗を感じなくなっているようだ。

「慣れって怖いわ。いつもずっと、おしゃべりしているから」

 それからは口を閉じて黙々と作業を進め、箱詰めを終えると、それを抱えて部屋の外へ出た。

「一人で持っていけるの?」

 箱の大きさに母親は目を丸くしていたが、瑠璃は頷いた。

「軽いから平気」
「じゃあ、これも一緒に持っていきなさい」

 風呂敷包みを渡されて、なんだろうと覗き込む。すると中にはお気に入りの浴衣の布地が見えた。視線を上げると、母がふふっと笑う。

菖蒲しょうぶ柄よ。展覧会、頑張りなさい」

 あやめ柄をあえてと言ったのは、「勝負」と掛けた、彼女なりの瑠璃への鼓舞だろう。母の応援に胸がいっぱいになった。

「ありがとう!」

 箪笥たんすにまだたくさん浴衣がしまってあるのよと言われたが、ひとまずこれだけで十分だ。

「必要なら取りにくるのでもいいし、送ってあげるからいつでも連絡しなさいね」

 たとえ家にいなかったとしても、こうして気持ちを向けてくれている家族の温かみを感じた。
 今日は夜まで実家に滞在する予定だ。龍玄の夕飯は作り置きしてきて温めるだけなので、きっと心配ないだろう。
 瑠璃はそう思いつつ、中身の詰まった段ボール箱と浴衣の風呂敷包みを玄関にそっと置いた。

「――瑠璃は市美展に出品してみることにしたんですって」
「へえ」

 仕事から帰宅した父を出迎えながら、母が嬉しそうに伝える。どんな反応をされるのかドギマギしていると、父のしわの入った目じりがやわらかく緩んで瑠璃を見つめる。

「たくさん楽しみなさい」
「ありがとう、父さん」

 まだ不安がないわけではない。けれど、父の心のこもった言葉はなにより嬉しかった。
 瑠璃は大きく頷くと、荷物の多さを心配する母に手を振って、龍玄の家に戻った。

「戻りました」
『おかえり。えらい懐かしいもん持って帰ってきたなぁ』

 玄関に入るなりフクの声が出迎えてくれた。誰もいないように見える場所から声が聞こえてきて安心するなんて、ずいぶん自分も変わったものだ。

「ただいま、フク。絵のお道具のこと、あなたも覚えていたのね。……しばらくしまっていたから使えるか心配だけど」
『覚えとるで。なんならプロ先生も近くにおるし、わからないことは聞けばええやん』

 そんな会話を交わしつつ、靴を脱いで段ボールを抱え上げたところで、箱をひょいっと持ち上げられる。驚いていると、いつの間にか玄関に来ていた龍玄が荷物を抱えてくれていた。
 半日ぶりに見た姿に、瑠璃が顔をほころばせる。

「先生、戻りました」
「おかえり。これは君の部屋に運ぶか?」

 作業の途中だったのに、わざわざ出迎えに来てくれたのだろう。彼の優しさに瑠璃は胸がいっぱいになった。

「ありがとうございます。でも重いでしょうから」

 そう言いながら瑠璃が手を伸ばすと、これくらいは持てるぞと龍玄は眉をひそめた。瑠璃の部屋に向かってスタスタ歩き始めた着流しの後ろ姿を慌てて追いかける。

「出すことにしたのか?」
「ええ。母にも妹にも、背中を押してもらいまして」

 父の反応は薄かったものの、それは興味がないということではなかった。帰り際の最後の最後になって、展示を楽しみにしているとこぼしていたので、応援してくれているのだと思う。
 家族の様子を伝えると、龍玄はほんのちょっと嬉しそうに口の端を持ち上げた。

「なら、君の部屋じゃ作品を描くのは大変だろう。和室か離れを使うか?」
「小さい画面にしようと思います。なので、自室で大丈夫です」

 わかったと龍玄は頷いて、瑠璃の部屋に爪先を向ける。

「それに別室だと、普段のお仕事をするのに支障が出てしまいそうですから」
「集中すると周りが見えなくなる……君も立派な芸術家だな」
「違います! 先生に呼ばれても気づかないんじゃ困るからです」

 龍玄は寝食さえ忘れてしまう集中力を持つが、瑠璃はお腹が空けば手を止めるくらいの常識人だ。
 龍玄と同じ芸術家とは、天地がひっくり返っても言えない。
 ふと不安が込み上げてきて、瑠璃は立ち止まると、龍玄の背中に向かって口を開いた。

「……先生。私は先生の助手ですから、賞くらい取れないとまずいですよね?」
「はあ?」

 まるで意味がわからないといわんばかりの表情で龍玄が足を止めて、瑠璃を振り返る。

「ですから、受賞するほど優秀じゃないと、雇い止めになるかと」
「……受賞することが当たり前だなんて、俺は思ったことがない。自分に対しても、人に対しても」

 龍玄の声のトーンが一瞬落ちたが、次に口を開いた時には元に戻っていた。

「君がどんな結果になっても、俺に迷惑はかからない。気兼ねなく好きに描いてくれ」

 強い視線が瑠璃を射貫いぬく。そこに込められているのは素直な感情だ。
 龍玄なら必ず受け止めてくれるとわかっていた。
 桃子の言う通り、憧れの人にがっかりされたくないという気持ちはもちろんある。でもそれ以前に、また人に失望されるのが怖かった。
 そんな自分の臆病な心に、瑠璃が下を向こうとした時だ。

「――俺がそんなことで、君に落胆したり愛想を尽かしたりするとでも思っているのか?」

 怒ったように言い放った龍玄に、一歩詰め寄られて瑠璃は息を呑んだ。

「あんまり俺を見くびらないでくれ」
「す、すみません」
「謝る話じゃないさ」

 肩をすくませてから、龍玄は前を向き歩みを進める。瑠璃の部屋の前に段ボールを置くと、龍玄は再度、少々怒ったような顔で瑠璃を見下ろした。

「自分を過小評価しすぎだ。自分で自分の価値を落とすなよ」

 ずしんと重たい言葉に瑠璃の胸が一瞬詰まった。それを察したのか、龍玄は瑠璃の肩にとんと手を置く。見上げると、今度はからかうように覗き込まれた。

「君が俺の『弟子』だったなら話は別だ。賞を逃そうもんなら、ただじゃ済まさない」

 あまりにも至近距離だったため、心臓が一気に跳ねる。口調とは反対に眼差しは真剣そのもの。瑠璃の思考が一瞬追い付かなくなった。

「冗談だよ。あくまで君は助手なんだから、そう気負うことはない」

 肩をトントン叩かれて、瑠璃はやっと落ち着きを取り戻した。

「俺は君に、楽しく描いてほしいだけだ」

 優しい微笑みとともに見つめられて頬が熱くなる。それを隠すように頷くと頭を撫でられた。その手の温かさに心臓がぎゅっとなる。

「ありがとうございます」

 ようやく顔を上げると、龍玄はきびすを返して去っていってしまった。

「……楽しく描いていい、か……」
『龍玄がええって言うてんのやから、ええに決まってる』

 龍玄の言葉を繰り返して呟くと、桔梗の声が頭上から聞こえてきた。同時に、肩からは別の声がする。

『せや。そんなんで追い出すような男と違うで、先生は』

 フクと桔梗のフォローに、くすくすと笑いが漏れてしまう。

『まーあ、気難しい奴やけど、龍玄はそこまで悪い人間とちゃうしな。顔は怖いけど』
「……そうね」

 フクと桔梗の励ましを受けながら自室に入り、瑠璃は荷物を開ける。中に入っているのは大学時代に使っていた筆や絵の具の数々だ。

『へえ。それが瑠璃の道具か?』

 瑠璃は返事をしながら、一番よく使っていた筆を目の高さまで持ち上げる。

「できるかな……私にまた楽しく絵が描けるかな?」

 筆を握ると、龍玄と一緒に絵を描いた時の楽しさを思い出した。彼の下絵に濃淡をつけ、もののけ達の世界を描いたあの瞬間、瑠璃はたしかに誰の評価を気にすることもなく絵を描いていた。

『できるできないやなくて、やるかやらないかやで。瑠璃は世界に一人なんやから、瑠璃の存在も、生み出すものも世界に一つだけの価値や』
『やりたいこと思う存分やったらええで。なんか必要やったら手伝うさかい、私にも声かけてな』

 フクと桔梗の声がやわらかく沁みてくる。
 久しぶりに、自由な絵を描きたいと思う気持ちが胸の奥から湧き上がってくる。

「みんなありがとう。やってみる」

 描きたい題材はまだ決まらないが、ゆっくり考えていけばいい。
 懐かしい道具たちを見つめながら、不安とワクワクで瑠璃の胸はざわついていた。


 実家に立ち寄った翌日。
 使っていなかった道具をチェックするために、瑠璃は自室で作業をしていた。
 段ボールから絵の具や筆を取り出すたびに、懐かしさが込み上げてくる。人が近づいてきたのに気がつかないほど、思わず熱中してしまっていた。

「おーい、瑠璃」

 名前を呼ばれてハッとする。部屋の入り口を見ると、開け放たれた戸口に龍玄が寄りかかって立っていた。瑠璃と目が合うと、龍玄は悪戯いたずらっぽく笑って、握りしめたこぶしでコンコンと戸を叩く。

「何度かノックしたんだが、聞こえていないようで……集中していたところにすまないな」
「こちらこそすみません! 見ていたら楽しくなっちゃって、つい」

 入ってもいいか訊ねられて、瑠璃はどうぞどうぞと家主を招く。
 ラグマットの上で胡座あぐらをかくと、龍玄は並べられた絵筆を覗き込んだ。

「丁寧に使っていたようだな」

 長くしまっておいたわりには、道具類はすべてきれいなままだった。使ったあとに毎回念入りに手入れをしていたのが功を奏したようだ。

「まだまだ現役でいけそうです。――あ、そういえばなにか御用でしたか?」

 龍玄の言葉に頷きつつ、慌てて瑠璃は顔を上げる。時計を見ると昼食にはまだ早いが、お腹が空いたのかもしれない。慌てて立ち上がろうとすると、龍玄は首を横に振ってから腕組みをした。

「君が道具をチェックすると言っていたので思い出したことがあってな」

 龍玄は迷惑顔で息を吐いた。

「この間、俺の筆が折られただろう?」
「ええ。たしか、ひげのあるウサギ風もののけとおっしゃっていましたよね」

 先日、筆をもののけに折られたと龍玄が大騒ぎしていたことを瑠璃は思い出す。家中のもののけ達が、筆を折った犯人を素早くかくまっていたはずだ。

「あの悪戯いたずらウサギもののけの奴、またやらかしたんだよ」

 ムッとした顔で龍玄が作務衣さむえのポケットから取り出したのは、細い線を描くために使う面相筆めんそうふでだ。
 差し出されたそれを見ると、すり減った筆先の一部の毛が軸から抜けてしまっている。

「引っ張られちゃったんですか?」
「こっそりかじっていやがった。あいつ、ただじゃおかないぞ」

 龍玄の口調は怒っているものの、表情はかなり困っている様子だ。

「あのもののけは、道具をやたらと壊すんだ」
「ちなみに、どのような見た目をしているのでしょうか?」

 興味本位で瑠璃が紙とペンを渡すと、龍玄は口をへの字に曲げながら犯人もののけの姿を描き始めた。

「できたぞ」

 渡された紙上には、まるで板垣退助いたがきたいすけのようなひげを口周りに生やしたウサギが描かれている。
 瑠璃の目には可愛らしく映るのだが、悔しそうな龍玄を前にして、素直に「可愛い」とは言えなかった。

「……悪戯いたずらをするような子には思えないですね」
「騙されるなよ。この見た目で、やることはえげつない」

 龍玄は瑠璃に向かって、かじられた筆を再度見せつける。
 瑠璃はたまらず緩んでしまった口元を引きしめたが、龍玄にばっちり見られてしまっていた。

「すみません……先生の表情がなんとも言えなかったので」

 龍玄はもののけには甘いのだが、だからこそ彼らの行いをむやみやたらと怒れずに苦い思いをしているようだ。瑠璃が必死にこらえていると、伸びてきた龍玄の指に頬をつままれてしまった。

「こら、瑠璃。笑ってると君も道具を壊されるぞ」
「あ! そういえばこのもののけの仕業かわかりませんが、キッチンでもよく物が倒れていますよ」
「まさか、こいつは家中で悪さをしてやがるのか」

 けしからんな、とぼやく龍玄の眉根が寄る。

「それにしても物が倒れるぐらいだけなら問題ありませんが、壊されるとなると……」

 住んでいる人間にちょっかいを出す程度ならいいのだが、実害が出てきてしまうとさすがに困ってしまう。龍玄はこっくりと頷いて、話が長くなったが、と言って瑠璃に視線を向けた。

「それで、君に通訳をしてもらえれば」
「ですね! 私、この子と話をしてみます!」

 瑠璃はぽんと手を打った。


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