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しおりを挟む・大永八年(1528年) 六月 近江国蒲生郡 観音寺城 蒲生定秀
直ぐに出陣できるよう日野に戻らずに観音寺城の控えの間で休んでいるが、外は相変わらずの雨模様だ。
陰鬱な空が続いて嫌になる。行軍の時は上がっててくれると有難いのだがな。
「蒲生様!ここに居られましたか!」
控えの間に小姓が慌てた様子で駆け込んで来る。一体何事だ?
「早く!亀の間へ!進藤様がお呼びです」
「新助殿(進藤貞治)が?御屋形様ではなく、か?」
「はい!とにかくすぐに向かってください!」
一体何事だろう?新助殿は御屋形様と打ち合わせの最中のはずだが……
廊下を進み、亀の間の前で膝を着く。
「お呼びで……」
”はーなーせー!!!”
これは……御屋形様の声?一体中で何を……
「御免!」
襖を開けて中に入る。
こ……これは……どういう状況だ?
御屋形様が床の間の柱にしがみつき、その御屋形様の腰に新助殿が抱き着いている……?
「離せ新助!俺は野戦などには行かんぞ!」
「そういう訳には行きますまい!北近江の者は御屋形様の来着を今や遅しと待っておるのです!
いいから大人しゅうなされよ!」
「行かぬと言ったら行かぬ!どうしてもと言うなら新助に全軍を預けるからお前行っとけ!」
「何をたわけたことを!ええい、ともかくお座りなされ!」
「あの……」
「おお!藤十郎!いい所に来た!早く御屋形様を柱から引っぺがせ!」
「やめろ藤十郎!貴様ぁ!俺の命に逆らう気か!」
「いい加減にしなされ!」
俺は、どうすればいいんだ……
「あらあら、お二人共仲のおよろしいことで」
突然後ろから軽やかな声がする。振り返ると御裏方様が姫様と共に立っておられた。
「ですが御屋形様。あまり新助殿を困らせてはいけませんよ」
「いけませんよー」
三人で呆然と見送ると、そのままコロコロと笑いながら奥へ行かれた。
御裏方様は今の状況を分かっておられたのだろうか?なんとも間の良いことだったが……
御屋形様がバツが悪そうに頭を掻きながら柱から手を放して上座に戻る。相変わらず御裏方様と姫様には弱いな。
「ともかく、鎌刃城までは行かねばなりませんぞ。北近江の国人衆を見捨てれば、今後御屋形様が北近江を統治することは出来ませぬ」
「しかし、野戦で戦えば朝倉には……」
ふぅ。どうやらお二人共戦の打ち合わせに戻られたようだな。
……一応、御裏方様に御礼を申し上げておこうか。
・大永八年(1528年) 六月 近江国蒲生郡 観音寺城 奥の間 蒲生定秀
「失礼いたします」
「どうぞ」
一礼して御裏方様にお目通りをする。相変わらずニコニコと朗らかに笑っておられる。
今回の戦がどういうものか今一つお分かりでないのかもしれんな。
「先ほどはありがとうございました。御裏方様のおかげで騒ぎが収まりました」
「いいえ、大したことはしておりません。それより、今回の戦は余程に厳しい戦になるようですね」
気付いておられたのか。
それでいてこのように朗らかに笑っておられるとは……
「御屋形様があのように取り乱すなど今までに無かったことです。今回の戦はさほどに容易ならざる戦なのでしょう。
本心では、私も御屋形様の出陣をお留めしたいと思っています」
「それは……」
「それが出来ない相談だというのも分かっています。新助殿や藤十郎殿がそれほどまでに御屋形様の出陣を要請するからには、きっと御屋形様が参らねばならぬのでしょうね」
御裏方様の笑顔が少し寂し気になる。全て勘付いておられるのか。
女人の勘というものは恐ろしいものだ。
「女人はこういう時、殿方の無事の帰りを待つことしか出来ません。
……武家の女として口にすべきことではないのかもしれませんが、例え負けても御屋形様が無事に帰って来て下さればそれで私は充分でございます。
……いけませんね。武運をお祈りするのが武家の女の習いでありますのに」
御屋形様のお気持ちもわかるな。このお方には、悲しむ顔をさせたくないと思わせる力がある。
なんとも不思議なお方だ。
「藤十郎殿もですよ」
「某も?」
突然御裏方様が真っすぐに目を見据えて来る。何故か視線を外せない。まるで吸い込まれたみたいに……
「聞き及んでおりますよ。上洛から戻れば、馬淵殿の姫君と祝言を挙げる予定であったのでしょう?」
「はっ。ですが、この戦が終わってからとなり申した」
「それならば、藤十郎殿も必ず生きて戻らねばなりません。帰りを待つ女子が居る殿方は、決して死んではなりません。よろしいですね」
「ハッ!この一命に代えましても」
「ふふふ。ですから、一命に代えてはなりませんと申しているのですよ」
「はっ。これは、つい……癖のようなもので……」
「うふふふ」
釣られてこちらも笑ってしまう。戦の前に、なんとも男の気持ちを奮い立たせてくれるお方だ。
……必ず生きて帰る、か。
このお方の為にも、御屋形様は必ずお守りせねばならん。例えこの一命に代えても……
・大永八年(1528年) 七月 近江国坂田郡 鎌刃城 六角定頼
「皆、よく耐えてくれた。二カ月も待たせて済まなかったな」
鎌刃城の広間で北近江の国人衆が頭を下げる。顔には疲れの色があるが、俺の到着を知ると涙ぐむ者まで居たそうだ。
やっぱり進藤の言う通りなのか。それにしても、北近江がここまで六角に従ってくれるとは思いも寄らなかった。
「これしきのこと、此度の御来援で全ては報われました。
戦はこれからでございますが、越前の威を借りて我が物顔に振る舞う浅井備前(浅井亮政)に我らもほとほと愛想が尽き果てております。
以後は北近江衆は観音寺城を御屋形として、終生忠節を尽くす所存。我らに御屋形様のお下知をお願い申す」
北近江国人衆を代表して多賀貞隆が涙ぐみながら頭を下げる。
赤尾や雨森、海北なんかも居る。
彼らの領地は南近江よりも越前に近いというのに、それでもこちらに参じてくれたのは有難い。
「その方らの忠誠、有難く受け取ろう。まずは近江の地を我が物顔に振る舞う朝倉宗滴を打ち破らねばならん。その方らの力を今こそ貸してくれ」
「ハッ!」
よし。これならちょっとは戦えるかもしれん。
北近江国人衆を下がらせた後、改めて多賀貞隆を呼んで軍議を開く。
多賀は古くから近江に盤踞する一族で、一時は京極家の家臣でありながら京の所司代(侍所別当)を務めたこともある一族だ。
北近江の国人衆の中では浅井・浅見と並んでその家格は頭一つ抜けている。もっとも、五十年ほど前に多賀氏内での内紛を起こしてその武威は落ちているが、それでも今の北近江国人衆を代表する者の一人だ。
「では、新助。始めてくれ」
「ハッ!では、三雲殿の甲賀衆からもたらされた物見の状況からご説明いたします」
進藤貞治が一礼して絵図面を前に説明を始める。
今回は野戦をせざるを得ない。籠城して戦うには鎌刃城は防御施設が貧弱すぎる。朝倉相手にここで籠城をしても十日も持たないだろう。
朝倉は顔戸に本陣を置き、箕浦一帯から宇賀野にかけて広めに布陣している。
朝倉景紀を始めとした主力と言える敦賀衆は箕浦に『魚鱗の陣』を展開しながら、浅井を後詰として後方の宇賀野に配置している。一見すると中央突破の構えに見える。だが、そんな単純な陣立てじゃないはずだ。
魚鱗は持久戦にも力を発揮する陣形だ。だが、朝倉は北近江が本拠地じゃない。つまり、持久戦を取る意味がない。
ここで戦うなら、一撃必殺の策を用意しているはずだ。だが、その策が何なのかが見えない。
正直不気味だ。考えてみれば、俺が小細工無しで戦うのは今回が初めてになる。
「以上が物見から得た敵の陣立てになります。
それに対する我が軍の布陣ですが……」
それに対し、こちらは蒲生を岩脇に配置し、その後ろの岩脇山に平井加賀守を配して前線を維持する。それと同時に、琵琶湖沿いの朝妻方面から池田高雄率いる一軍を進出させて宇賀野の浅井を先に討つ。
浅井を潰したら、余勢を駆って朝倉陣を裏から突く予定だ。
北近江勢は地の利を活かして醒ケ井方面から迂回して箕浦の側面を突く。いわゆる『鶴翼の陣』になる。
この作戦のキモは蒲生を先頭とする正面部隊。つまり『鶴の首』にあたる部分が側面包囲を完成させるまで耐えきることにある。
鶴の翼さえ閉じれば、鱗の群れは成す術なく三方から攻撃を受けることになって瓦解する。
……理屈の上ではな。
朝倉宗滴ならその事は充分承知の上で正面への圧力を強化するはずだ。翼が閉じる前に首を砕かれれば鶴が食われる。
俺の本陣は太尾山に置く。太尾山からなら戦場全体が見渡せるから、不測の事態にもある程度対処はできると思う。朝倉がどういう狙いを持っているかはわからんが、ともかくこちらの出来ることは限られている。
正面に防御力の高い部隊を配置して盾役を作り、盾の後ろから矢を射かけて敵の突撃の威力を殺す。
そうすれば翼が閉じるまでの時間を稼げるはずだ。
蒲生勢は攻めれば突破力があり、守れば粘り強く戦う兵が多いから先陣にはもってこいだ。
実際、史実の六角の戦には常に蒲生の先陣があった。今回も蒲生には活躍してもらおう。
「以上がこちらの陣立てとなります」
進藤が一礼して説明を終わる。さて、締めにかかるか。
「俺の本陣は太尾山に置く。状況を見ながら各陣へ後詰を出す。
先陣は蒲生、正面後詰は後藤・進藤・青地・三井を充てる。平井・永原は蒲生の左右第二部隊の位置から矢で敵の第二陣を打ち崩せ。敵前線に交代する暇を与えてやるな」
「ハッ!」
「朝妻方面からの左翼部隊は池田に任せる。左翼の部隊は高野瀬・下笠・目賀田・三上で掛かれ」
「ハハッ!」
「醒ケ井方面からの後方邀撃は大原に任せる。三雲・永田・それと北近江の国人衆で当たってもらう」
「ハッ!」
「開戦は明日卯の刻(朝六時)。夜明けと共に矢合わせと行軍を開始する。敵は朝倉・浅井合わせて一万。こちらは総勢二万の軍勢になる。敵が朝倉宗滴とはいえ、戦えないことはないはずだ。皆の奮戦に期待する」
「オウ!」
声を揃えて気合を入れた後、銘々が前に置かれた杯を取り上げる。
「いざ!」
「「いざ!」」
一斉に杯を掲げて九回酒をあおる。栗もアワビも昆布も無い簡易版だが、出陣の儀式だ。
ようし、やるか。
俺もようやく肚が決まった。こうなればやるしかない。
外を見ると、ようやく曇り空が明るくなってきている。
明日は晴れるだろうか。
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