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高屋城脱出
しおりを挟む・天文十二年(1543年) 三月 河内国古市郡 高屋城 森田浄雲
「お頭」
「戻ったか」
左近次郎が高屋城の庭先に姿を現す。
今は荷運び人足の姿か。こやつも変幻自在に姿を変えるものだ。
「六角の陣容はいかがであった?」
「若江城を下した六角軍は太平寺の辺りに陣を構え、右大将(六角定頼)本陣は信貴山城に移っております」
「太平寺に陣するのは誰か?」
「御曹司(六角義賢)と海北にて。蒲生は若江城に陣を置き、久宝寺川の西を警戒しております」
若江城攻めに続き、此度も右大将(六角定頼)の本陣は前に出て来ぬか。
……解せんな。飯盛山攻めでは積極的に陣頭に立っていたというが、若江城攻めから急に前に出て来ぬようになった。
いや、そもそも総大将が自ら前に出て来ること自体が異質ではあったのだが、突然に方針を変えたというのもそれはそれで不審を覚える。
何か特別な事情でもあるのか、それとも元々若江城攻め以降は御曹司に任せる腹積もりであったのか……
「六角陣内の様子はどうか」
「陣中にて下柘植の太郎殿をお見かけしました」
「ほう。よく見とがめられなかったな」
「手前は肉襦袢を着込み、さらに布で頬かむりをしておりました故」
変装が幸いしたな。
太郎殿も中々の目利きだが、左近次郎の術は見破れなかったか。
それにしても……
「藤林党はやはり六角と共にあるか」
「そのようで……。太郎殿も警備の足軽に化けて陣内を巡回しておるご様子でして、服部党の中には絡め捕られた者も居りましてございます」
やむを得ぬか。
元々藤林党は甲賀の伴氏と結びつきが強かった。伴中山城の当代である伴常陸介(伴資平)の弟は伴庄衛門資勝。伴庄衛門と言えば、子の居なかった野々川郷の分家に養子に入り、今や保内衆の頭分にして観音寺楽市会合衆の筆頭ともなった男だ。まさに六角定頼の懐刀と言える。
藤林党が六角になびくのも当然と言えば当然か。
それに加え、当代の長門殿(藤林正保)の御父君は『鈎の陣』にて六角高頼に味方して時の公方様(足利義尚)と戦った。今更幕府に盾突くことなど屁とも思っておるまいて。
「藤林党は我らを警戒しておるか?」
「恐らくは……。捕らえた者が伊賀の服部党であることは既に知られておりましょうし、我ら猪田郷の者が千賀地(服部党)と結びつきが強いことも周知の事実。
今頃は半蔵様(服部保長)やお頭も公方様についたと勘付いておりましょう」
「厄介なことになったな」
一つため息を吐いて天井を見上げる。
今までも伊賀衆同士で敵味方に分かれることはあったが、伊賀衆の利益に反する闘争はお互いに控えて来た。だが、長門殿は六角に与することこそ伊賀の利益になると思っておられるのであろう。
対して半蔵殿は六角を討たねば伊賀衆はいずれ六角に取り込まれると考えておいでだ。このままでは藤林党と服部党の全面対決に発展する。
「左近次郎。信貴山城に潜り込むことは出来るか?」
「……難しゅうございます。手前一人であれば不可能ではありませんが、他の者を手引きできるほど信貴山城の警備は甘くありません。
お味方が信貴山城に攻めかからねば、手前一人が潜り込んだとて何ほどの働きも出来ますまい。磯野某を退けた時のようには参らぬかと……」
「軍勢の手引きは必要ない。右大将殿の食事にこの薬を盛ってくれれば、それで良い」
懐から薬包を取り出して軒先の左近次郎に手渡す。
「毒……でございますな?」
「附子(トリカブト)の粉だ」
「右大将様を暗殺せよ、と」
「やむを得まい。このままでは我らの敗北は必至。右大将殿が亡くなれば、長門殿とて六角から離れるやもしれん」
「我ら猪田衆が六角へ寝返ると言う手もございますが……?」
そのことは考えぬでは無かったが……
「……例え降ったとしても、我らは生きておるまい。我らの働きによって信貴山城は落ち、大和を守備していた磯野丹波(磯野員宗)は討ち死にしたのだ。生き残った磯野の配下が我らを生かしては置かぬだろうよ」
「六角は降る者に寛容だと聞き及びますが」
「右大将殿はそうかもしれぬ。だが、磯野軍の生き残りにとっては我らは仇と映るだろう。家中の総意を無視してまで右大将殿が我らを許すとも思えぬ」
それに、右大将殿の敵はまだまだ多い。いつまでも六角が勝ち続けると決まったわけではないし……な。
甲賀衆のように六角に取り込まれるのは危険だというのは儂も同じ考えだ。
「よろしいのですな?」
「構わん。行け」
「ハッ!」
足音も立てずに左近次郎が走り始める。配下には他にも腕の立つ者は居るが、このような働きには左近次郎ほどの適任は居らぬ。
何とか無事に仕事を果たしてくれ。
敵陣の物見にはだれか別の者を行かせねばならんな。
「誰ぞある」
・天文十二年(1543年) 三月 河内国古市郡 高屋城 朝倉景隆
藤右衛門(前波景定)が落ち着かない様子で周囲を見回す。
無理もない。この城に来てから、長夜叉様の周囲には常に人の目があった。姿を見せることもあれば、いずこかから視線を感じるだけの時もあったが、監視されているというのはどうにも落ち着かないものだ。
長夜叉様は別の意味で落ち着かないご様子だ。
厨の奥の塩物蔵に隠れてする話など尋常な話ではない。そのことを敏感に察しておられるのだろう。
「右兵衛。話とは何だ?余人に聞かせられぬ話か?」
「無論のこと。六角軍が目前に迫り、高屋城の者達も殺気立ってきております。この話を誰かに聞かれれば、その場で長夜叉様を斬りかねません」
儂の言葉に長夜叉様がゴクリと生唾を飲み込む。
産まれながらに苦難の道を歩まされたこのお方に今またこのような苦難を用意するとは、天はなんと残酷なのか。
「この城に逗留する森田浄雲殿はご存知ですかな?」
「……確か、河内守様(遊佐長教)から物見役として遣わされたのではなかったか。伊賀の者で下手な武士よりもはるかに敵陣を探る技に長けているとか」
「その浄雲殿が先日多くの配下を六角陣に送り込んだようです。ここ数日、我らの監視の目が緩んでおります」
「まことか?」
長夜叉様が意外そうな顔をする。やはり気付いてはおられなんだか。
「今この時こそ好機。長夜叉様には即刻高屋城を落ち延び、宗哲殿の守る榎並城へと逃れて頂きたい」
「ここを逃げるのか?しかし、儂は言わば人質としてこの城に居るのだ。その儂が逐電すれば、朝倉家が河内守様に背いたと言われても申し開きが出来ぬであろう」
「元々長夜叉様を人質とされたは我ら家臣の不甲斐なさ故のこと。ですが、宗哲殿は一方の大将として河内守様からも独立した動きを許されております。
今や河内守様とて朝倉家を敵に回すわけには参らぬ事情がござる。長夜叉様が逃れたとて、河内守様は朝倉を叱責することすら憚られましょう」
「しかし……」
未だご不安をお持ちか。
無理もない。長夜叉様が物心つかれた時には既に朝倉家は没落し、三好宗三(三好政長)の庇護を必要とする有様だった。かつて朝倉家が精強を誇っていたことなど実感が湧かぬのであろう。
だが、宗哲殿の活躍で再び朝倉の武は天下の耳目を集めつつある。このような中で河内守様……いや、河内守が朝倉との縁を切ることなど出来ようはずがない。
「河内守様の軍勢は間もなく高屋城に到着されるとの由。そうなれば逃げることすらままなりませぬ。今この時を逃せば、長夜叉様は永遠に囚われの身となりますぞ」
「うむ……」
叶う事ならば強引にでも長夜叉様を落ち延びさせたい。だが、長夜叉様も既に十一歳。儂がこの手で抱きかかえて逃げるにはもはや大きすぎるお年だ。
……後の事もある。酷ではあるが、この決断は長夜叉様ご自身で下して頂かねばならぬ。
『今後も遊佐家の被官として生きるのか否か』
小部屋の中にまで戦支度の声が響いてくる。
誰かの足音が聞こえる度に背筋が冷たくなる。長い沈黙の時が流れる。
藤右衛門がそわそわとし始めたか。だが、即断できぬ主君を決して頼りなしなどと思うなよ。主が速やかに決断できぬのは、我ら家臣に絶対の信頼がないからだ。主に即決をためらわせる我ら家臣こそ不甲斐ないと思わねばならぬ。
「……分かった。右兵衛(朝倉景隆)の言う通り、今すぐにこの城を落ちよう」
「おお! ご決断下さいましたか!」
藤右衛門の顔に喜色が浮かぶ。恐らく儂の顔も同じであろう。
「藤右衛門。今すぐに高屋城を抜け出し、平野川を越えよ」
「ハッ! 直ちに!」
「右兵衛は共に参るのではないのか?」
「某は後始末をして参ります。我らが揃って姿を消せば、すぐにでも追手が掛かりましょう。某は今日の日が暮れるまで長夜叉様を探して城内を走り回りまする」
「儂を探して……?」
「左様。某が探し回っておれば、城内の者はまさかに長夜叉様が逐電しているとは思いますまい。せいぜい騒がしく探し回りまする」
「なるほど。相分かった」
三人で頷き合うと、藤右衛門が用意した素襖に素早く着替え始められる。
この出で立ちならば、まさかに朝倉長夜叉様であるとは気付くまい。お顔を良く見知っている儂ですら一瞬地下人の子と見まがうくらいだ。
「必ず生きて儂の元に参れ。良いな。右兵衛」
「必ずや」
長夜叉様が塩物蔵を抜けて木戸に手をかける所まで見送る。どうかご無事で……。
さて、儂も仕事に取り掛かるとするか。
おっと、ここに長夜叉様の着衣が落ちていれば逐電したことが判明してしまう。まずはこの着衣を我が居室に隠さねば。
厨を出て居室に向かうと、廊下の向こうから浄雲殿が歩いて来る。相変わらず目付きの鋭い男だ。ニコリとも笑ったことが無いのではないかとさえ思ってしまう。
「これは右兵衛殿。……その小袖は?」
う……マズイ。今ここで勘付かれては長夜叉様に追手が掛かりかねん。
「それが、長夜叉様の御召し物がほつれておりましてな。女中に針仕事を頼もうかと思いまして」
「左様か……。間もなく戦となりましょう。お手前方にもそろそろ戦支度をして頂かねばなりませんぞ」
「無論の事。承知しております」
ふう……。
気付かずに行ったか。後ろを振り返ると何やら考え事をしている風に歩いて行く。
そのまま気付かずに行ってくれよ。
それにしても、間もなく戦となるとは……。
六角は思っていたよりも早くに戦を始めるのかもしれんな。河内守が高屋城に入る前にケリをつけるつもりか。
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