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金継ぎの青 下:ブルー編
氷雨に紛れて
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人と魔族の戦が終わった。
両陣営共に甚大な被害を出したにも関わらず、時は過ぎて生き物が大地を流動する。誰も彼もどんな目にあったとて、頭を上げて明日を目指さねばならない。
バルド邸でブルーの療養が続く一方、人間界では一刻も早い生活の立て直しが推し進められていた。人々は目まぐるしく走り回り、崩れかけの家屋が次々再建されていく。その日食べるパンにも困っていた住人は建設現場へ詰めかけ、日雇いながらも皆がまっとうな仕事を得ることができた。大通りの設備が整ってくると各地からの交易トラックが訪れるようになる。活気づいた大通りに人々は集い、物不足は少しずつ解消されていった。民衆の頬にようやくほの赤い命の色が取り戻される。
———人間界に数ある街のほんの一角、小さな港町のある日のことだ。
「喜一、そろそろ休みなさい。体が駄目になってしまう」
粗末な造りの木戸を軋ませ、枯れ木のような手にランプを携えた老女が姿を現す。
接ぎの目立つ修道服に身を包んだ彼女が部屋に入ると、書庫と見紛うばかりに積み上げられた本の山が道を塞いでいる。小柄なシスターは溜め息をひとつ、本を丁寧に脇へ積み直して部屋の奥へと進んだ。散乱する書類に埋もれた机。そこに突っ伏して眠る癖毛の若者が灯りに照らし出される。音も立てず近づいたシスターに背を揺すられ、痩せた上体が跳ね起きた。
「ぐぁ、え?えっ!?母さん今何時!?」
「丁度祈りの時間です、息子よ」
「祈りって……夕飯後じゃないか!!どうして起こしてくれなかったのさ!」
シスターに向き直る若者は痩せぎすの大男だ。猫背に寝ぼけ眼、おまけに眼鏡はズレてあとがついているものの、喜一はれっきとした役場の人間である。よれた仕事着のシャツを直し、勢い良く頭を掻く。
「くっそぉ!何で寝ちまうかな!?ごめん、一旦職場に戻る!」
「これ。窓から出るんじゃありません。行儀の悪い」
「襟掴むなって!締まる締まる!」
窓から庭に脱走し損なった喜一は、窓辺に腰掛けた。歩み寄って手招きするシスターに顔をよせる。老女は皺だらけの小さな手で、息子の眼鏡を直してやった。
「……今日はもう休みなさい。寝ないと人は死にます」
「母さん、何度も言うようだけどさ……」
「寝なさい。」
優しい養母は、そう言い切ると喜一の手を引いて部屋に引っ張り込んだ。きびきびとした動きで窓が閉じられる。有無を言わさぬ威圧を感じて、喜一は頭を抱えた。こうなった母はかなり手強い。終戦間もない今、途方も無い量の仕事が喜一含む役場の職員を待ち構えているというのに。
港の集落は名を氷雨町と言う。魔界と人間界の堺である界境から歩いて半日ほどの危険地域に位置する、とても小さな町だ。
終戦後、氷雨は他の地域と同じく魔王軍幹部の支配下に落ちた。名目上どう言いつくろっても結局これは敗北である。魔王が提示した平和的停戦の申し出が本当だったなんて今でも夢の中にいるとしか思えない。
オーガが教会の扉を叩いたあの日、どれほど心臓が縮み上がったかわからない。角を生やした筋骨逞しい魔物が麦の束を抱えて訪ねてくるなんて……一体誰が考えられようか。すぐに略奪が始まる。誰もがそう思った。殺されることを危惧して逃げ出そうとした者は少なくない。
しかし予想に反して、オーガ達が氷雨町に来てしたことと言えば、粥の炊き出しに民家の補修、海からやってくる盗賊の排除である。住民に手出しをしたという報告は一件も上がってこない。安心したところをどうにかしようという腹かもわからなかったが、とにかく町人たちは終戦を越えて食い繋ぐことができた。
ほとんど機能していなかった市街は活気を取り戻し、住民達も職にありつけるようになった。住人達は我が身可愛さに不正を繰り返した役人や警察よりも、今ではむしろオーガ衆に心を開いている様子だ。木っ端役人として役場の受付でオーガ族の応対をする日常にも、不本意ながら慣れてきたこの頃だ。
(……母さん、また痩せたな)
老朽化した木板を踏み抜かないよう静かに歩く喜一は、母である老女のくたびれた背を見つめる。シスター雪乃は喜一の義理の母だ。孤児院で子どもたちの保護、育成をし続け今年で七十になる。非常に小柄な彼女だが、老人らしからぬぴんと張った背筋に鋭い眼光が厳格な性格を伺わせていた。足取りはゆっくりと、しかし弱々しくは無く。
ふとしけった夜の匂いがシスターから香ってきた。またヒーロー協会へ嘆願の手紙を出してきたのだろう。
……栄養失調になりかけていた教会の孤児達は、やせ細ってはいたものの全員生き延びることができた。ここを出て行って帰らないただ一人を除いては。
———停戦の条件として人身御供にされた兄を、この母は未だに諦め切れていない。
ランプの弱い光に照らされて、彼女の華奢な影が伸びる。窓の外には雨が降っていた。
壁を伝い窓の木枠前に差し掛かったときだ———喜一は思わず飛び上がった。硝子戸越しに異様な金の瞳が浮かび上がったのだ。
「だ、———誰だ!!」
いち早く母を背に隠した喜一が叫ぶ。
風のうねりに似た低い笑い声の後、窓を押し開いて怪物じみて太い腕が現れた。夜風の湿った匂いに混じって、火薬臭さが鼻をつく。
喜一はランプを突きだして賊の正体を見た。外巻きの角に陽色の髭がぼうと浮かび上がる。よくよく風刺画で見た悪名高い大鬼が、窓の外に立ってこちらを見ている。
「誰だたぁご挨拶だな。……お前がキイチか?その婆さんに話があるんだ、ちょいと中にいれてくれや。入り口を教えてくれ……あの小せえ玄関以外でな!」
両陣営共に甚大な被害を出したにも関わらず、時は過ぎて生き物が大地を流動する。誰も彼もどんな目にあったとて、頭を上げて明日を目指さねばならない。
バルド邸でブルーの療養が続く一方、人間界では一刻も早い生活の立て直しが推し進められていた。人々は目まぐるしく走り回り、崩れかけの家屋が次々再建されていく。その日食べるパンにも困っていた住人は建設現場へ詰めかけ、日雇いながらも皆がまっとうな仕事を得ることができた。大通りの設備が整ってくると各地からの交易トラックが訪れるようになる。活気づいた大通りに人々は集い、物不足は少しずつ解消されていった。民衆の頬にようやくほの赤い命の色が取り戻される。
———人間界に数ある街のほんの一角、小さな港町のある日のことだ。
「喜一、そろそろ休みなさい。体が駄目になってしまう」
粗末な造りの木戸を軋ませ、枯れ木のような手にランプを携えた老女が姿を現す。
接ぎの目立つ修道服に身を包んだ彼女が部屋に入ると、書庫と見紛うばかりに積み上げられた本の山が道を塞いでいる。小柄なシスターは溜め息をひとつ、本を丁寧に脇へ積み直して部屋の奥へと進んだ。散乱する書類に埋もれた机。そこに突っ伏して眠る癖毛の若者が灯りに照らし出される。音も立てず近づいたシスターに背を揺すられ、痩せた上体が跳ね起きた。
「ぐぁ、え?えっ!?母さん今何時!?」
「丁度祈りの時間です、息子よ」
「祈りって……夕飯後じゃないか!!どうして起こしてくれなかったのさ!」
シスターに向き直る若者は痩せぎすの大男だ。猫背に寝ぼけ眼、おまけに眼鏡はズレてあとがついているものの、喜一はれっきとした役場の人間である。よれた仕事着のシャツを直し、勢い良く頭を掻く。
「くっそぉ!何で寝ちまうかな!?ごめん、一旦職場に戻る!」
「これ。窓から出るんじゃありません。行儀の悪い」
「襟掴むなって!締まる締まる!」
窓から庭に脱走し損なった喜一は、窓辺に腰掛けた。歩み寄って手招きするシスターに顔をよせる。老女は皺だらけの小さな手で、息子の眼鏡を直してやった。
「……今日はもう休みなさい。寝ないと人は死にます」
「母さん、何度も言うようだけどさ……」
「寝なさい。」
優しい養母は、そう言い切ると喜一の手を引いて部屋に引っ張り込んだ。きびきびとした動きで窓が閉じられる。有無を言わさぬ威圧を感じて、喜一は頭を抱えた。こうなった母はかなり手強い。終戦間もない今、途方も無い量の仕事が喜一含む役場の職員を待ち構えているというのに。
港の集落は名を氷雨町と言う。魔界と人間界の堺である界境から歩いて半日ほどの危険地域に位置する、とても小さな町だ。
終戦後、氷雨は他の地域と同じく魔王軍幹部の支配下に落ちた。名目上どう言いつくろっても結局これは敗北である。魔王が提示した平和的停戦の申し出が本当だったなんて今でも夢の中にいるとしか思えない。
オーガが教会の扉を叩いたあの日、どれほど心臓が縮み上がったかわからない。角を生やした筋骨逞しい魔物が麦の束を抱えて訪ねてくるなんて……一体誰が考えられようか。すぐに略奪が始まる。誰もがそう思った。殺されることを危惧して逃げ出そうとした者は少なくない。
しかし予想に反して、オーガ達が氷雨町に来てしたことと言えば、粥の炊き出しに民家の補修、海からやってくる盗賊の排除である。住民に手出しをしたという報告は一件も上がってこない。安心したところをどうにかしようという腹かもわからなかったが、とにかく町人たちは終戦を越えて食い繋ぐことができた。
ほとんど機能していなかった市街は活気を取り戻し、住民達も職にありつけるようになった。住人達は我が身可愛さに不正を繰り返した役人や警察よりも、今ではむしろオーガ衆に心を開いている様子だ。木っ端役人として役場の受付でオーガ族の応対をする日常にも、不本意ながら慣れてきたこの頃だ。
(……母さん、また痩せたな)
老朽化した木板を踏み抜かないよう静かに歩く喜一は、母である老女のくたびれた背を見つめる。シスター雪乃は喜一の義理の母だ。孤児院で子どもたちの保護、育成をし続け今年で七十になる。非常に小柄な彼女だが、老人らしからぬぴんと張った背筋に鋭い眼光が厳格な性格を伺わせていた。足取りはゆっくりと、しかし弱々しくは無く。
ふとしけった夜の匂いがシスターから香ってきた。またヒーロー協会へ嘆願の手紙を出してきたのだろう。
……栄養失調になりかけていた教会の孤児達は、やせ細ってはいたものの全員生き延びることができた。ここを出て行って帰らないただ一人を除いては。
———停戦の条件として人身御供にされた兄を、この母は未だに諦め切れていない。
ランプの弱い光に照らされて、彼女の華奢な影が伸びる。窓の外には雨が降っていた。
壁を伝い窓の木枠前に差し掛かったときだ———喜一は思わず飛び上がった。硝子戸越しに異様な金の瞳が浮かび上がったのだ。
「だ、———誰だ!!」
いち早く母を背に隠した喜一が叫ぶ。
風のうねりに似た低い笑い声の後、窓を押し開いて怪物じみて太い腕が現れた。夜風の湿った匂いに混じって、火薬臭さが鼻をつく。
喜一はランプを突きだして賊の正体を見た。外巻きの角に陽色の髭がぼうと浮かび上がる。よくよく風刺画で見た悪名高い大鬼が、窓の外に立ってこちらを見ている。
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