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金継ぎの青 下:ブルー編

帰れない家

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 潮の匂い。……鴎の鳴き声が遠くに聞こえる。
 青井清一が夢から覚めると、いつもと違う顔が視界を占拠していた。
 仁王の形相に潰れた左目は、柄の悪い男の顔を尚更恐ろしく飾り立てている。
 「……!?だ、だれ……!?」
 「起きたか。っと悪い、俺だ俺。わかるか」
 ベッドで丸くなったまま目を白黒させる清一を前に、炭鉱服の大男が頭をかく。見知らぬ人間に後じさる清一の手を取り、何をするかと思えば潰れた左目から義眼をくり抜いた。生っぽい嫌な音がにぢにぢとしたので、いよいよ青年の警戒も酷くなる。
 「ヒッ!?うわあ何して……っ!!……え?ええ……っ?」
 「ほらなあ、俺様だ。バルド様だぞ」
 義眼が大男の手に収まると同時、その巨躯は倍以上に膨れあがった。増えた筋肉量が波を打ち、むくつけき炭鉱夫は見る間に赤ら顔の大鬼へ変貌を遂げる。あんぐり口を開いた青年は、肩の力を抜いて筋肉の盛り上がる腕を確かめた。清一の夫だ。……寝起きの呆けた頭でもそれだけはわかる。
 「だ、誰かと思ったから……。何で人間の格好してるんだ?」
 「ちと事情があってな、化けてるだけだよ……たかが人間が怖いか?お前ほどの男が」
 「……?俺……俺、は……」
 バルドの言葉をよく理解できない青年は口ごもった。どういう意味だろうか。
 清一は「男淫魔」だ。「人間に虐められて」、この男に保護され、そして娶られた。この事実以外の記憶が殆ど頭から抜け落ちている。何もかも覚えていない清一は、その何もかもがぼんやりと畏怖の対象である。そうだ、ずっと、曖昧に世界が恐ろしかった。何故そう感じるようになったかは思い出せず、青年は思考のもやを払うように頭を振ったが効果はない。
 ふと視界に影がかかる。まめやたこが覆うオーガの掌が、清一の頭を撫で揺さぶった。
 「いいかァ、お前は俺様をのしたことのある唯一の男なんだ。覚えてねえだろ?」
 「……わかんない……」
 「なら何度でも聞け。わからねえことは全部教えてやる。お前は俺様の伴侶なんだからな!!」
 「うわっ……ふ、あは、ハハハ!くすぐってえ!」
 清一を抱えこんで鬼が笑う。首筋を甘噛みされて、あたる髭の感触がこそばゆい。
 じゃれ合う2人を支える寝台が限界の軋みを上げた。人間の暮らしを想定して作られた木造家屋に、オーガ族の巨漢は重量オーバーだ。
 「あークソ。狭いったらねえ」
 低くぼやき、バルドが義眼を填め直した。
 ごきゃごきゅ、骨格が萎縮して関節のはめ直される音が露骨に響き渡り、青井の目の前で大鬼はもう一度人間へと化ける。無精髭に鬼の輪郭をなぞった恐ろしい顔。ごりごりと鍛え上げた体格は窮屈そうにヒトの規格に収まっていった。ぼんやりその様子を見ていた青年は、おそるおそるその手に指を重ねる。
 「……潰れたまめまで一緒だ」
 目の前に腰掛ける男は間違いなくオーガ族のバルドだった。毛深い手を引いて、その甲に唇を落とす。義眼が変身の鍵なのか、バルドはあ゛あう゛うと暫く座りの悪い目玉の代わりをいじくり回している。
 ……いつもよりも距離が近い。大柄とはいえ人間の体格になったバルドは、かがまずとも清一と口付けられる位置に顔がある。穴が空くほど人相の悪い顔を見つめれば、鼻先にかじりつく真似で脅かされた。緩んだ番いの頬を撫でて悪戯っぽく問いかけられる。
 「人間の俺様は嫌いか?」
 「ふは、なんでそんな……なんて言うか渋くて、かっこいいよ」
 「そうだろうそうだろう!泣く子も黙るバルド様だからな。……なあ、起きたんならちょっと付き合えよ」

 抱えられて、いささかばかり手狭な階段を登る。建てられて大層年月を経た施設なのだろう。漆喰塗りの壁にはところどころひび割れが入り、鉄骨の螺旋階段には端々に蜘蛛の巣が張っている。やがて踊り場に出た。鍵を外し、木戸を押しやると———薄暗さに慣れた視界に、いっぱいの陽光が溢れる。
 「———ほら、どうだ。……悪くない景色じゃねえか?」
 「…………っ」
 そこは簡素な鐘撞き場であった。小高い丘の上に位置する建物から、見下ろす町の様子が———水平線に広がる海原まで一望できる。カモメが二羽、連れ立って海岸線の向こうへと昇っていく様子がよく見えた。これだけ美しい風景に誰もいない。それだけが不思議であったが、青年はそれどころではなかった。空と海の境目に魅入られて息を詰まらせる。町なみには覚えがあった。半ば朽ちて動かない風車の群れ、粉挽き小屋の煉瓦の赤。畑に芽吹く僅かな若葉色に抱く途方もない安心感を、確かに自分は知っている。
 「……は、……っ」
 手摺りに乗り出して食い入るように景色に臨む。陽射しが暖かい。春がやってきていた。不思議な気分であった。……ずっと、ずっとここに帰ってきたかった気がする。
 「良いとこだな」
 バルドが庇に手をついて呟いた。
 「祭りの時分にゃもっと風情が出るだろうな。あっちこっち灯りで飾ってよ、浮かれた奴らを肴にすりゃあ———いつまでだって眺めてられる」
 バルドは急かすような真似はしなかった。青年が……清一の心が戻ってくるまで、傍らで陽だまりの温度を愉しんだ。清一は言葉もなく、呆然と風景を見つめている。目元が赤い。八年ぶりの帰郷だ、無理もない———陽射しを反射する瞳の青は、何にも代え難く美しかった。
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