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金継ぎの青 下:ブルー編

名も知らぬあなた

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 ———微睡みからさめると、夜の世界だった。
 鼻孔をくすぐるのは馴染んだ番いのにおい。鉄と煤の混じった熱の香り。疑いなく共寝する男の顔を直ぐ横に見つけ、清一は一息ついた。かけられた布団は暖かい。隣の男が体温を分けてくれていたので尚更だった。輪郭のない幸福にしばらくぼうっとしていると、窓の外に小さな気配を感じた。
 ひっそりと身を起こし、寝台を出る。……人に化けたバルドはよく寝ていて、清一が腕から抜け出したことには気づいていない様子だった。起こしてしまいたくなくて、裸足のまま窓に近づく。
 (……誰だろう……。)
 窓の外を見て、ここが2階に位置することがようやく理解できた。眼下には月夜に淡く照らされた庭園が見える。……そこで、なにやら片付けをしているらしい男を見つけた。

 庭園の入り口にごみでも撒かれているのだろうか。あらかた台車に積み終えたところで、男は膝をついてそのまま座り込んでしまった。
 どうしてなのか、全く面識のないその男がひどく心配になって、清一は部屋を飛び出していった。
 ……外は闇が濃い。階段を駆け下りて入り口を出ると、静寂と寒気が身体を刺した。男と目が合う。膝を地面に突いたまま、呆然とこちらを眺めていた。
 「あの」
大丈夫ですか。清一はそう声をかけようとして自分の愚に思い至った。自分は今、身ごもって腹が膨れている状態だ。ふつうの人間にはさぞかし異常に見えるだろうことは、清一のいまいちはっきりしない頭でも判断がついた。
 「そ、その……」
 弁明を、そう思うより前に若者が口を開いた。
 「……氷雨の夜は冷えます。身体を壊してしまいますよ。……身重なら尚更です」
 息が詰まる。同行する夢魔のリリスが、幻視の魔術をかけてくれたらしい。
 (女に見えているのか)
 安心した清一の口から、ようやくつかえていた言葉がでてきた。
 「あなたも、大丈夫ですか……?」
 「…………」
 「それ、堆肥用に回すなら。明日にしたほうがいいと……思います。あの、顔色がよくないので」
 それでも喜一は判然としない顔をしていた。清一の顔を穴が空くほど見つめている。まるで幻を探すように、ないものを求めるように。ずり落ちかけた眼鏡の下から、濡れて光るものが見えたとき、清一はひどく慌てた。
 「な、あのっ……!えっ……えっ」
 「えっ?あ、…………はは、これ……ウン、……。変だな……はは」
 若者は情けなく笑うと、一筋の涙を手の甲で拭って誤魔化そうとした。そしてそれを失敗したらしい。眉根を寄せると苦しげに呼吸を乱し、目元を大きな手で覆い隠しながら零れる雫を力いっぱい抑え込んでいる。人前で泣き出した自分に戸惑っているのか、慌てふためいて耳まで真っ赤だ。苦しそうな吐息まで聞こえて、たまらず清一はもってきた膝掛け用の布を彼の頭から被せた。
 「とりあえず、中に入りましょう。ね」
 「…………っ」
 入り口を抜けてすぐ、食堂へ続く小さな談話室の椅子へと喜一を導く。いくら幻視で誤魔化したとしても正体がばれてしまうのが不安で、清一は若者の袖を引っ張って泣きじゃくる長身を誘導した。上背が清一よりも頭一つ分大きいこの青年は、すみません、すみませんと呼吸の合間に謝っていた。尋常で無い雰囲気に、清一はバルドに助けを求めようと腰を浮かす。あの鷹揚な笑みでなんとかしてくれるのではないかと思ったのである。それを止めたのは、当の若者の手であった。
 「お願いです、すぐ、落ち着きますから……っ!誰も……呼ばないで……」
 そう言われてしまえば席を立つ理由がない。清一は苦しげに呼吸を整える布だるまの背を、せめてとおそるおそる擦った。
 (どうしよう。バルドに叱られる)
 人間はよくないものだと言い聞かせられているのに。清一は今人間と会話をして、あまつさえ背を擦っている。あれほど優しい番いに対して、これは裏切りにも等しい行為ではないか。
 しかし噛み殺したような嗚咽が止まない。どうしても清一はそれを放って部屋に戻ることができなかった。ようやく布の内側からまともな呼吸音が聞こえ始めたのは、それから十分ほどたってからようやくのことである。
 「……す、すみませんでした。お見苦しいところを……。それも旅のお客様に」
 「いや、そんな、お……私も眠れなかったところですから」
 「最近……少し、眠る時間が取れなくて。楽しい旅に水を差してしまいましたよね」
 切り替えが早いのだろう、若者は安定した口調で話せるようになっていた。布を被るのをやめ、テーブルへと降ろす。ランタンの弱々しい光でも、ひどく窶れた顔と深いクマが見て取れる。眼鏡の下は赤い。大きな手がつるを直す仕草で覆い隠した。それが清一には、ひどい傷を取り繕っているかのように思えてしまう。
 ———小さなランタンが、二人の手元を灯りで包んでいた。窓の外では、町の名にふさわしく霰混じりの小雨が降り始める。
 少し考えて、清一はおずおずと切り出した。
 「……私は旅の者だから、この町の人のことは知りません。つまりいないものと同じです」
 「……?はぁ」
 「人の悩みごとも、外の雨音が煩くて。きっと聞こえないでしょう」
 「…………、…………」
 夜は深く、氷雨の匂いが談話室に染みいってきていた。ともすれば雨音よりも小さな声で、青年はありがとうとだけ口にした。続けて誰かほかの名前を呼んだらしいが、清一には聞き取れなかった。雨音が激しくなったので、清一には何も、聞こえない。

 ———兄に石を投げました。
 家を燃やすと脅されて。
 家族を石で打ちました。兄は帰ってこられません。
 俺は町で職を得ました。俺を厭うて皆でていきました。……俺はあれらの身内になれました。
 俺のせいでみんなは離散して。ひとの顔もおぼつかなくなって。母さんはずっと泣いている。なんでも良かった。生きて会えたらなんでも良かったのに……。
 ……最近幻覚を見るんです。まぼろしを。兄と鬼が。兄を攫った、大鬼が———。

 そこまでだった。談話室の入り口が音も無く開き、見知った顔が姿を現す。
 「……何してる」
 明らかに不機嫌な顔を隠さずに、人に化けた主人は談話室に足を踏み入れる。清一は慌てて青年の背から手を放した。はじかれた犬のようにバルドのもとへと向かう。
 「ご、ごめん……。」
 「…………」
 清一が振り返れば、若者が薄く笑っていた。どこかぼんやりと、落胆の色が見えたような気がして、不思議な気持ちになる。
 「夜分にすみませんでした。庭に用事がありましたから……。どうかいい夜を」
 落ち着いた口調であった。談話室を出て、すぐに玄関口が開閉する音が響く。離れには再び、バルドと清一の二人が残された。短い間機能した懺悔室の灯りは消され、清一は無言の内に抱きかかえられて寝室へと戻った。
 「……人間はよくねえって言っただろう」
 「うん……。俺、起きちゃって」
 「いい。身体が冷てえよ。温くしてやるから、横にこい」
 寝台にはまだ大鬼の体温が残っていて、冷えた脚に心地よかった。暖炉はついているのに、ぐるぐると毛布でまかれて抱きかかえられてしまう。ところどころ骨張った妊夫の身体を、今度こそ逃がさないようにと逞しい腕がまわされる。帰ってきた心地がして息をついたとき、ようやく清一は、若者の名前を聞き忘れたことを思い出していた。
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