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群青出奔:ブルー編

仮面のあなた

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 「———暫くこの店で働かせて頂くことになりました。クロです、よろしくお願いします」
 新顔の黒服はそう名乗った。開店前のミーティング、シャンデリアの煌びやかなラウンジに整列したサキュバス達は皆訝しげである。ねえママ、と小柄な嬢の一人が手を上げる。
 「なんでこの、……クロちゃん?さんはお面被ってんのぉ」
 高級娼館リスノワはサキュバス嬢専門の店だ。魔界のセールスランキング首位をひた走る、一見さんお断りの紹介制風俗店。警備スタッフは過去にも何度か雇われたけれど、顔を隠した黒服なんて初めてである。オーナーのリリスは何故か機嫌良くパイプを燻らせていた。際だった美貌が己の眷属に向けられる。
 「この子はね、お客じゃないお客様専門のスタッフなの。身元がワレちゃ危ないでしょ♡」
 「そうなの?クロちゃん、用心棒なんだ」
 黒服のクロ。単純な名前は勿論偽名だろう。木製の仮面に顔は隠されているものの、制服の上からでもわかる体格の良さにサキュバス仲間は浮き足立っている。用心棒にしては珍しく人型だ。獣人でも鬼人系でもない。無駄の無い筋肉質な男魔族で、それにしては威圧的な雰囲気ではなかった。タイの締め方も熟れていて品が良い。華奢な女サキュバス達に囲まれて少し緊張しているのか、距離を詰めてきた嬢に返す会釈さえ必要以上に丁寧だ。
 腰に差した剣の鞘が、シャンデリアの光を受けて、時折濡れたように光る。
 「ママやばくない?超機嫌良いじゃん」
 列の端で様子を伺っていると、同僚のカナンが耳打ちしてきた。シャンパン色の瞳は好奇に染まっている。確かに珍しい。オーナーのリリスは元々少女のような態度を崩さない人だが、頬を紅潮させるほどはしゃいでいる姿はこの百年で初めて見た。
 アリアは少し冷めた顔で頷く。リリスは良い雇い主で契約相手だ。しかし善人ではないし、好みであればどんな問題児でも店に連れてくる。リスノワで起こる騒動の元凶はだいたいがリリスなのだ。
 「つーか用心棒にしてはあいつ細くね……。ちゃんと剥がしできるの」
 サキュバスが相手にする魔族は多岐にわたる。男魔女などヒト型魔族にはじまり、オーク、オーガなど大型魔族、獣人系は勿論海に棲む水妖まで客の裾野は広い。用心棒の仕事とは嬢を守ることに他ならず、歴の浅いサキュバスに絡まれておどおどしているこの男に務まるようには思えなかった。

 淫魔にとってセックスは食事だ。そこに情を求める者は少なくないが、アリアにとっては日々の糧以上でもそれ以下でもなかった。野良のサキュバスに魔界は厳しい。サキュバスは攻撃手段が搾精のみ、戦いが得意な種族ではないからだ。暴力で以て支配を受ければ逃げられず、弄ばれた挙げ句に待つのは死だ。魔力量だって大したものではないから使える魔法も殆どない。おおかたの魔族は、下級魔族の中でも特に痛めつけやすく愉しく遊べる部類の生き物として私たちを見る。
 だからこうして勘違いする客も、当たり前に現れるのだ。
 シルクのシーツに沈んだアリアの白い指が獣人の手を押さえた。
 「今日さ、クスリ飲んできてるでしょ……?駄目じゃん、出禁になっちゃう」
 ワーウルフの若い魔族だった。馬乗りになられてベッドへ押さえつけられ、彼女は笑顔を取り繕う。ドレインの効率がいやに悪いと感じていたが、案の定である。足首に煌めくアンクレットのクリスタルは殆ど透明なままだ。魔胞の対流が異常に弱い。いつもなら溜めた精気で濃い紅色に染まっている頃なのに。
 「いやいや、ただ精力剤飲んできただって。精液酔いしちゃったんじゃねえ?俺魔力強めだからさ」
 シーツに細い手首が縫いとめられる。こう言う口上も定番だ。アリアはぼんやり、見たくないものから目を背けた。……アンティーク家具の揃えられた清潔なプレイルームが好きだ。上品な猫足のローテーブルに、滅多に使う客はいないがお茶のセットも。大事な眷属が使う部屋だからね、と初勤務の日にリリスは微笑んで手解きをしてくれた。だから思い出を濁されるようで、こういうことをされると困ってしまう。薄桃のロングヘアを鷲掴みにして男は悦に入っている。完全に何をしでかすかわからない目だ。
 (最近こういうの、増えたな……。)
 誰が製造しているのか、淫魔のドレインを阻害する飲み薬が市場に出回っているらしい。薬を飲んだ客からは精気をうまく吸うことができず、淫魔側が体力負けでダウンしてしまうのだ。食事にありつけないばかりかこの状態は酷い苦痛を伴うため、淫魔業界では予てから問題となっていた。
 薬を使う客は散々好き勝手なプレイをして二度と店には現れない。一見の客を受け付けないこの店でも、時折こうしておいたの過ぎる者が涌く。
 「ねぇ。また出直してきて?」
 「どうして。続けようぜ」
 「店、出禁になるよ。契約書にサインしたでしょ、ペナルティで罰金ひどいから……」
 なるべく客のプライドを傷つけないように身体を離そうと試みるが、結局徒労に終わった。ワーウルフが力尽くで押さえ付けにくる。ああこれもう駄目だな、そう悟るとアリアは身体の力を抜いた。狼の毛並みを撫で、惜しんで、彼女は指先を伸ばす。人差し指がアンクレットの冷たい輝石に触れる。小枝のような右足首で白く瞬きが散った。

 「お呼びですか」
 煙の如く無音のうちに、ベッド脇へと男が現れる。
 突然生えて出たような黒服の登場にワーウルフは声も出ない。ベッドに押し倒されるアリアと襲い掛かる客、状況を一瞬で判断すると用心棒が動いた。
 「失礼しますっ」
 失礼のしを発音するより早く、隙を突いてぱかんと一撃。クリスタルの灰皿で客を昏倒させるまでに数秒を要した。全裸の獣がベッド脇に転倒する。今まで剥がしの経験がない訳ではなかったけれど、取っ組み合いなしで昏倒させられた客は初めてだ。あまりに呆気なくて笑いすらこみ上げてきた。なんだ、あんなに腕っ節を自慢していたくせに、それも嘘だったのかな。
 アリアはひとしきり笑うと新人用心棒に話しかけた。
 「……腰に差したそれは飾りなの?」
 「いえ。切れ味が良すぎるので、今回は使いませんでした」
 「やっちゃって良かったのに、こんな奴」
 クロは間を置いて、アリアに上着を寄越した。
 「……本当に。馬鹿な男だ」
 あまり気遣わしそうに言うので、膝を抱えてアリアが笑い出した。サキュバス相手に何をそんなに真面目になっているのだろう、変な奴。泣き笑いする彼女の華奢な背中に礼をすると、クロはベッドからワーウルフを引き摺り下ろした。手際よく四肢を縛り上げる姿は業者のそれだ。内線でクロが何事か報告すると、すぐにリリスがプレイルームまで現れた。あらあらまあまあどうしたの、手首が赤いわよ痛かったわねと母親のようにアリアを抱えて面倒をみる。
 「ママ、ママ、聞いて……」
 「うん」
 「最初はとても優しかったの」
 「そうね……」
 「ちょっといいなって、思っていたの」
 「そうなのね……。よしよし」
 抱きしめられると彼女に拾われて眷属になったときと同じ、柔らかな香水の匂いが鼻を擽る。そろそろ店を引退しようかと、この人ならいいかなと思っていた相手だった。
 いつの間にかクロは部屋からいなくなっていた。客の姿も見えない。そのまま引き摺っていったようだ。アリアは鼻を啜り上げて、肩にかけられた上着を引っ張り直した。黒のジャケットからは、同じ淫魔の匂いがした。
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