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創造するって事は
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そしてまた映像はかわる。
風にのって穴の底に身を投げだして、無防備に扉の鍵が降ってくるのを楽しそうに待っているオルフェウスの魂の姿だ。肉体をもたない、光だけの存在だ。
オルフェウスが、オルフェウスになる前のただの魂の姿だ。
美しい青い光を放った魂は自由に遊ぶ。
詩の扉を出たり入ったり飛び交い、小説の扉に寄り添って、雨が降るのを待つかの様に、実に楽しげに待っている。やがてポツポツと、蜂蜜でできたようなねっとりとした雨が降ってくる。雨は小説の扉に降り注ぎ、扉の鍵穴にも降り注ぎ、ゆっくりと鍵穴を押し広げて、やがて扉は開いた。
「オルフェウス!!」
ミシェルがその名を叫ぶと、姿をもたなかった光の状態の魂は、肉体をもつオルフェウスの姿に突然変わり、穴の奥で起こったことなど忘れてしまったかの様に、頼りない材料を積み始めて上の扉を目指し始めた。
(肉体を持って、名前を持つから、その理に縛られてしまっているのね・・)
人は肉体を持つ限り、肉体の理に縛られる。どんな聖人でも犯罪者でも、腹は減るし、夜は眠る。そして、名前があるから、名前に付随する理に人は縛られる。
オルフェウス。一族の当主。頼れる兄。優しい友人。真面目な学者。よき隣人。正しい社会人。優秀な研究者。
その代名詞を全て取り払ったその先に、本来のこの男の魂があるのだ。
だがこの代名詞を持つオルフェウスという役割を全うしてきた事こそが、オルフェウスの誇りで、そして鎧だ。
ミシェルの意識は光の粒からゆっくりと離れてゆく。映像はもう見えなくなった。
「そろそろカロン様のお目見えですね、もうすぐしたらあの先から飛び込みましょう」
柔和な寂しそうな笑顔を浮かべて、目の前のオルフェウスは焚き火の処理にかかった。
(オルフェウス・・)
ミシェルは泣きそうになる。
眼下の冬の海は黒の多い深い群青色をしていた。
「この海の底に行く事くらいしか、私は他に残された道はなさそうですね」
乾いた笑いで暗い冗談をオルフェウスは言った。
暗い海の底になら、扉はあるだろう。肉体も、名前も、その命も手放したその話をしている事位、ミシェルにはわかった。ミシェルも同じ思いを閉じ込めて、短くない月日を生きてきたのだ。
そんな時、ミシェルの鼻先を珍しい冬の蝶がヒラヒラと通り過ぎた。
こんな時だというのに、美しいものが好きなミシェルは一瞬心を奪われてしまう。
この蝶はとても綺麗な蝶で、夜の月の光を浴びると鱗粉がキラキラとして、まるで星の粉を浴びた様なので「星の子」と呼ばれている。
(あ、星の子だ。でも今は朝だから「白樺のあくび」か」
この蝶はとても綺麗なのだが、綺麗なのは夜の時間だけで、昼の間はノロノロと中途半ばに白い体を低飛行させているので、なんとも締まりがない生き物なのだ。
白樺の森を棲家にしているので、昼の間は白樺と白樺の間をノロノロ低空飛行させているあたりでついた名前だ。
同じ生き物なのに、二つの名前の印象は全く違う。
一つは夜の幻の様な美しい蝶。もう一つは鈍臭くてぼやけた蝶。どちらも同じ蝶。
「あ!そうか!」
ミシェルはすくっと立ち上がった。
「ミシェルさん?」
あらかた火の始末を終えていたオルフェウスは、びっくりしてミシェルを見た。
目の前のミシェルは先ほどまでの、寒さに震えて苦渋に満ちた顔ではない。
道でお金でも拾ったかのごとくニヤニヤして、自信溢れ胸まで張って、言った。
「オルフェウスはオルフェウスでいいのよ。小説を書くときは、ペンネームで書けばいいのよ!肉体も、役割も、何もない新しい人格を持つ名前よ!」
風にのって穴の底に身を投げだして、無防備に扉の鍵が降ってくるのを楽しそうに待っているオルフェウスの魂の姿だ。肉体をもたない、光だけの存在だ。
オルフェウスが、オルフェウスになる前のただの魂の姿だ。
美しい青い光を放った魂は自由に遊ぶ。
詩の扉を出たり入ったり飛び交い、小説の扉に寄り添って、雨が降るのを待つかの様に、実に楽しげに待っている。やがてポツポツと、蜂蜜でできたようなねっとりとした雨が降ってくる。雨は小説の扉に降り注ぎ、扉の鍵穴にも降り注ぎ、ゆっくりと鍵穴を押し広げて、やがて扉は開いた。
「オルフェウス!!」
ミシェルがその名を叫ぶと、姿をもたなかった光の状態の魂は、肉体をもつオルフェウスの姿に突然変わり、穴の奥で起こったことなど忘れてしまったかの様に、頼りない材料を積み始めて上の扉を目指し始めた。
(肉体を持って、名前を持つから、その理に縛られてしまっているのね・・)
人は肉体を持つ限り、肉体の理に縛られる。どんな聖人でも犯罪者でも、腹は減るし、夜は眠る。そして、名前があるから、名前に付随する理に人は縛られる。
オルフェウス。一族の当主。頼れる兄。優しい友人。真面目な学者。よき隣人。正しい社会人。優秀な研究者。
その代名詞を全て取り払ったその先に、本来のこの男の魂があるのだ。
だがこの代名詞を持つオルフェウスという役割を全うしてきた事こそが、オルフェウスの誇りで、そして鎧だ。
ミシェルの意識は光の粒からゆっくりと離れてゆく。映像はもう見えなくなった。
「そろそろカロン様のお目見えですね、もうすぐしたらあの先から飛び込みましょう」
柔和な寂しそうな笑顔を浮かべて、目の前のオルフェウスは焚き火の処理にかかった。
(オルフェウス・・)
ミシェルは泣きそうになる。
眼下の冬の海は黒の多い深い群青色をしていた。
「この海の底に行く事くらいしか、私は他に残された道はなさそうですね」
乾いた笑いで暗い冗談をオルフェウスは言った。
暗い海の底になら、扉はあるだろう。肉体も、名前も、その命も手放したその話をしている事位、ミシェルにはわかった。ミシェルも同じ思いを閉じ込めて、短くない月日を生きてきたのだ。
そんな時、ミシェルの鼻先を珍しい冬の蝶がヒラヒラと通り過ぎた。
こんな時だというのに、美しいものが好きなミシェルは一瞬心を奪われてしまう。
この蝶はとても綺麗な蝶で、夜の月の光を浴びると鱗粉がキラキラとして、まるで星の粉を浴びた様なので「星の子」と呼ばれている。
(あ、星の子だ。でも今は朝だから「白樺のあくび」か」
この蝶はとても綺麗なのだが、綺麗なのは夜の時間だけで、昼の間はノロノロと中途半ばに白い体を低飛行させているので、なんとも締まりがない生き物なのだ。
白樺の森を棲家にしているので、昼の間は白樺と白樺の間をノロノロ低空飛行させているあたりでついた名前だ。
同じ生き物なのに、二つの名前の印象は全く違う。
一つは夜の幻の様な美しい蝶。もう一つは鈍臭くてぼやけた蝶。どちらも同じ蝶。
「あ!そうか!」
ミシェルはすくっと立ち上がった。
「ミシェルさん?」
あらかた火の始末を終えていたオルフェウスは、びっくりしてミシェルを見た。
目の前のミシェルは先ほどまでの、寒さに震えて苦渋に満ちた顔ではない。
道でお金でも拾ったかのごとくニヤニヤして、自信溢れ胸まで張って、言った。
「オルフェウスはオルフェウスでいいのよ。小説を書くときは、ペンネームで書けばいいのよ!肉体も、役割も、何もない新しい人格を持つ名前よ!」
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