十年先まで待ってて

リツカ

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過去話・後日談・番外編など

十年先 7

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 ◇◇◇



「ここで母さんが滅多刺しにされて殺されたんだよね」

 はじめて誠が佐伯の家を訪れた日、夜彦はダイニングの床のとある一箇所を指差しながら、さらりとそう言った。
 なんの変哲もないフローリングである。けれど、夜彦の言葉を聞いたあとでは、そんな風には思えなかった。

「俺が五歳の頃さぁ、知らないオメガの女が急に家を訪ねてきて、母さんのこと運命の番だって言い出したわけ。たぶん本当は違ったんだろうけど。母さんもすぐ追い返せばいいのに、お人好しだから家にあげちゃってさぁ」

 夜彦はくつくつと笑った。だが、目だけは笑っていない。冷めた目が、じっとダイニングの床のあたりを見下ろしている。

「母さんはサポートするって言ったんだよ。いまの家族が大事だから番にはなれないけど、住むところや働くところを一緒に探すって。少しなら自分の貯金からお金も援助するって。……馬鹿だよな。オメガは国に保護されてるから働かなくても生活できるって知ってるのに、嘘ついて悲劇のヒロインぶってるような相手にまで優しくしようとしてさ……」

 その声には、呆れよりも敬愛のような深い情があった。
 こんな男でも親に愛され、そして親を愛していたのだと、誠はひそかに驚きさえ覚えていた。

「……でも、クソオメガはそんなの望んでなかったんだろうな。家族を捨てて、自分だけを愛して養い続けてほしかったわけ。メンヘラストーカーオメガそのものの思考だよな」

 そこから先の話など、誠は聞きたくもなかった。
 そのあと何が起こったかなんて、夜彦の最初の一言がすべてなのはわかりきっている。
 だが、夜彦の話を遮れる言葉を、誠は持ってはいなかった。

「俺は五歳だから難しいこととかわかんなくて、隣のリビングで電車のおもちゃかなんかで遊んでたんだっけかなぁ……。そしたら、突然叫び声が聞こえて──見たら、クソオメガが母さんに馬乗りになって、ナイフで母さんの背中を刺してたんだよね。何度も、何度も」

 夜彦はダイニングの椅子に座り、煙草に火をつけた。どこか気怠げな笑みを浮かべながら、虚な目で宙を見ている。

「そのとき、うつ伏せに倒れた母さんが俺のほうを見て手を伸ばしたのね。逃げろって言いたかったのか、特に意味はなかったのかわかんなかったけど。俺は怖いとか以上に、母さんを助けなきゃと思ってそのクソオメガに飛びかかったら、俺も腹のあたりを切りつけられて……んで、二階から百合子さんが来て、百合子さんも刺されて、警察が来るまでずっと母さんはナイフで刺されてた」

 誠は愕然とその場に立ち尽くしていた。
 信じられないが、おそらく真実なのだろう。夜彦のオメガ嫌いの原因が、母親を殺された所為だという噂は確かにあった。信じているものなど、誰もいなかったが。

 夜彦はふぅーと深く煙を吐き出す。
 その様子はいつもと変わらないようにも見えたが、早口で捲し立てるような喋り方は夜彦らしくなかった。

「俺と百合子さんは運良く生きてて……でも、そのあとがさらに最悪なの。オメガが犯罪行為しても報道されないって噂知ってる?」

 誠はおずおずと頷いた。
 ネット上でまことしやかに囁かれる都市伝説である。だが、オメガを過剰に優遇する昨今の風潮も相まって、最近ではそれが事実なのではないかと主張する声も増えてきていた。

 夜彦は目を細めて笑う。皮肉っぽく、どこか自嘲的な笑みだった。

「あれって本当なんだよ。オメガへの差別を助長するからとか言って、報道規制されてんの。だから、母さんが殺されたのもネットとかでちょっと話題になっただけで、表面上は何もなかったことにされたんだよね。それどころか、ネットではなぜかクソオメガに同情して、アルファの母さんのこと叩く奴もいてさ」
「そんな、なんで……」

 誠が思わずもらした声に、夜彦も首を傾げた。

「なんでだったんだろうなぁ……俺にもよくわかんねぇわ。『金持ちなんだから番にしてあげたらよかったのに』とか『殺したオメガもある意味被害者だ』とか言われて、勝手に悲劇にされて……意味わかんなくね? ただの殺人事件じゃん。人殺しじゃん。なのに、なんで加害者がオメガってだけで加害者もかわいそうだってなんの?」

 誠は答えられなかった。そもそも、夜彦も誠の答えなど求めてはいないのだろう。

「しかもさ、オメガは社会的弱者だから、人殺してもめちゃくちゃ減刑されるんだよ。心神喪失者や未成年と同じで、大した罪に問えないんだって。オメガはかわいそうだから、アルファを殺しても仕方ないんだって。んで、本当にたった二年で刑務所から出てきてやがんの。すげぇだろ? 身勝手な理由で故意に三人も死傷しといて、たった二年だぞ。ありえねぇだろ」

 そのあと、夜彦は声を上げてケラケラと笑った。
 いつも通りの不気味な笑い声だが、誠には夜彦が泣いているようにも見えた。

「それからさぁ、オメガもオメガを擁護する社会も気持ち悪くて仕方ねぇの。親父はあのオメガがクソなだけでオメガ全員が悪いわけじゃない、罪を償った人間は許さなきゃって言うけど、俺はそんなの無理なわけ。あのクソオメガが死んだだけじゃ納得できねぇの。あいつ以外の常に被害者ぶってるオメガも、オメガ擁護して良い人気分になってるバカも、全員死んでほしいのね。母さんと同じくらい苦しんで、地獄に落ちてほしいんだよ。俺も一緒でいいからさ」

 この男が壊れたのは、一体いつなのだろう。

 母親が目の前で殺されたときか、自身がナイフで刺されたときか、母親が死体蹴りされたときか、母親を殺したオメガがたった二年で釈放されたときか、もしくはそのすべてが積み重なって少しずつ壊れていったのか──

 なんにせよ、誠にとって佐伯夜彦は出会ったときから狂人だった。悪魔だった。
 死ぬことすら恐れていない。この男はもう地獄を知っているから。ずっとそこにとどまって生きているふりをしているだけで、とっくの昔に死んでいるのだ。

 かわいそうで、おそろしい。

 数多くいる信者たちのように、夜彦を愛せたらきっと楽なのだろう。
 けれど、そんな日は到底訪れそうにない。
 夜彦の話を聞いて彼に同情しながらも、誠は夜彦が気持ち悪くて仕方なかった。
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