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16 京助の気持ち
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この回は京助の視点です。
**********
――――夏生は俺にとって可愛い奴だった。
年の割には全然すれてないし、真っすぐで、人懐っこくて。
時々、どうやったらこんなに素直に育つんだ? と思ったほどだった。
でもその素直さは俺にとって心地よく、眩しいほどで。だからこそ、こんなにも年が離れているのに俺は夏生に惹かれていった。
けれど夏生の素直さを目の当たりにする度、自分の狡さを思い知らされた。
夏生に嘘を吐いて、本当のことを明かさない自分に……。
◇◇
――――実を言うと、夏生の事は出会う前から知っていた。
春の穏やかな日、たまたま家を出た時に年若い少年を見かけた。
それが夏生だった。夏生は父親と共に引っ越してきて、業者と一緒になって段ボールを運んで手伝っていた。
まだ幼さを顔立ち、屈託のない表情、パーカーの裾から伸びる少年特有の細い腕。
中学生、いや高校生ぐらいだろうか? とその時は思った程度だった。
けれどそれから数ヶ月後、思わぬところで再会することになる。
それは夏も始まり、暑い日々が続く夕方。人が滅多に来ない非常階段で。
俺は喫煙家じゃないが、小説を書き終えたら一本だけ吸うという事をずっとしている。それは俺にとってまじないみたいなものだった。
初めて賞を取り、作家デビューすることになった小説を書き上げた時に、小説の資料で買った煙草を一本吸った。それからずっとだ。
だから、その日も小説を書き上げて、俺は一本の煙草を出かけに吸おうと人が滅多に来ない非常階段へ向かった。あそこなら誰の迷惑にもならないだろうと。
けれど、ドアを開ければそこにいたのはひとりしくしく泣いている男子高校生。
まさか、こんなところに人がいて、泣いているなんて思っていなかった俺は心底驚いて、口に咥えていた煙草を落としそうになった。
そして、突然現れた俺を見て夏生は気まずそうにした。まあ、泣き顔を他人に見られて平気な奴はあまりいないだろう。だから俺はそのままその場を立ち去ろうとした。けれど湿った熱気と強い日差しの中、泣いているご近所の少年を放っておくことはできなかった。
それは心配して、とかじゃなく、熱中症で倒れられたら面倒だと思ったからだ。
なので俺は一度家に戻ってスポーツドリンクを手にして夏生に渡し、後は煙草を一服して、早々に立ち去るつもりだった。けれど、夏生は俺の言葉通り悩み相談をしてきて。
まあ内容が内容だったので、誰にも話せなかったのだろう。そして少年らしい悩みに大人として答えを提示すれば、すぐに元気になった。あまりの現金さに、内心微笑ましく思ったほどだ。若者らしくて。
けれど、俺と夏生の関りはそれで終わりだと思った。俺達はもう関わることはないと。
しかし、すぐに再会をすることになった。
それから一週間後の事。
あの非常階段での出来事の後、俺は短編の小説依頼があった事をすっかり忘れていたことを思い出し、毎日徹夜をして朝方ようやく書き終わり、俺はクーラーの効いた部屋で屍のように眠っていた。
しかし夕方頃。チャイムが鳴り、その音で目が覚めた俺は眠気眼を擦って玄関に向った。ネットで買った資料が届いたかと思って。
けれど、そこにいたのは夏生で。わざわざ手紙を渡しに来てくれたのだった。
……律儀な子だな。しかし、こんな小汚い格好の姿で出るんじゃなかったな。
髪はぼさぼさ、髭は生え放題、服はよれよれで、みっともないったらない。その上、ここ数日何も食べてなくて頭も体も働かない。
けれど、俺はなんとか体勢を保ちつつ夏生と会話を済ませ、ドアを閉める事に成功した。しかしエネルギーが枯渇した体はいう事を聞かず、俺は廊下に倒れた。
……あー、俺も年だな。これぐらいで倒れるなんて。……とりあえず、何か栄養を取らないと。
そう思うが買い出しに行っていない冷蔵庫の中は空だったことをすぐに思い出す。なので、出前でも取るか? と考えるが、その矢先。閉めたはずのドアが開いた。
項垂れていた頭を持ち上げて見上げれば、明るい光と共に飛び込んできたのは夏生で。
夏生は俺の事を心配し、肩を貸してリビングまで連れて行ってくれた。しかも、少し眠っている間に食事まで作ってくれて。
俺はちょっと驚いてしまったぐらいだ。打算のない、ただただ純粋な善意に。
けれど次の日にお礼として家に呼んだ時、何の警戒もなく部屋に入るから心配になった。
……こんなに無防備で大丈夫か? ほいほいと人の部屋に入って、男だから襲われないってことはないんだぞ。
そう思ったが夏生はなぜか俺の事を信頼していた。俺は信頼されるような人間でもないんだが。
そして、部屋の中で話をしていけば夏生の育ちの良さが端々に見えて、素直な子だという事はすぐにわかった。
……今時の子はどの子もこんな感じなんだろうか? こんな若い子と話すこともないからな。
俺は夏生を見ながら、瑞々しい果実を前にしているような気分だった。
でも、そんな夏生が夢を教えてくれて、俺はちょっとした下心を持った。
……料理も掃除も普段からしていて、およそ邪気というものがない。夏生との会話も好ましい、なにより今時の若い子の感性がどうなのか、小説の為にも知りたい。
俺はそう思って夏生に提案した。
『うちでバイトしないか?』と。
勿論、人の助けが必要だったのも本音だ。けれど、大半は下心からだった。
しかし、そんな俺の気持ちも知らずに夏生は二つ返事で『やります』と答えた。提案したのは俺だが、その返事の早さに驚いたものだった。
そうして、夏生はそれから毎週日曜日に俺の家に手伝いにくるようになった。
ただ、ここで驚いたのは掃除のやり方や調味料の場所、使っていいものや触って欲しくないものを教えれば、夏生は一回で覚えた事だ。そして会話を何度かしていく内に、夏生の家族が医師である事、通っている高校が県立の進学校だという事がわかった。
……なるほど。子供っぽさはあるが、会話に詰まらないのはそういう理由か。
話を聞いた後、俺はそう納得したほどだ。でもそれゆえか、夏生はいい子過ぎた。
家事を引き受け、帰ってこない父親を待つ日々。その事になにも文句を言わなかった。寂しさを抱えていることも、決して表には出さず。
その健気さといじらしさを前に何もしないでいられるだろうか?
夏生と親しくなるにつれて、俺はこの子の為にできることはしてあげようと思っていった。この好ましい若者に。
けれど、夏生が大人になるほどにその保護愛は次第に醜い恋情へと変わっていく。
素直な性格、爽やかな顔立ち、自分を慕ってくれる瞳、そして屈託のない眩しい笑顔。そんなものを向けられたら、誰だってその人を好きになってしまうだろう。
俺だって普通の人間だ。心揺らがないわけがなかった。
だから夏生が来る日曜日がいつの間にか楽しみになり、合鍵まで渡すほどになっていった。
けれど夏生はまだ十代。俺の子供だっておかしくない歳だ。実際、夏生の友達には叔父と名乗った。
だから俺から好きだという事は決して伝えられなかった。告白なんて到底無理。おこがましいにもほどがある。自分が逆の立場であったら、こんな年の離れた男に告白されても身の毛がよだつだけだ。
ならば、と。俺はせめて夏生が大人になるまでは見守ることにしようと思った。
健全な体に宿る、健全な魂。この美しい果実が誰かの手に渡るまで。
そして、それは早くに訪れるだろうと思っていた。夏生ほどの子ならすぐに彼女でもできるだろう、仲のいい友達と遊ぶことが忙しくなって、バイトに来ることも少なくなるだろう、そう思っていた。
なのに夏生は真面目に週に一度、我が家へやって来た。
そして時が経つにつれて、目の前に生る美しい果実が美味しそうに熟していく。それを見て、喉が唸らない人間がいるだろうか?
だから何度、夏生に手を出そうと思ったことか。何度、頭の中で夏生を犯し、淫靡な事をしたか知れない。そんな事を目の前の男が考えているとも知らずに夏生は無邪気に笑って。
俺は大人だ、夏生を簡単に騙してしまうことができる。そして夏生はきっと素直に従うだろう。俺がいいように扱おうとも。
でも、こんなにも真っ直ぐに自分を慕う子に、そんな酷い真似はできなかった。なにより夏生が大人になった時、軽蔑されたくなかった。
夏生がもっと大人になって、色んな事を経験して周りが見えた頃、自分がされた事は一体なんだったのか? それがわかる時に……。
だからこそ、最後まで俺はいい大人でありたかった。それが嘘でも。
本当の俺が、年中家に引きこもって空想に耽り、運よくそれでお金を得ているだけの大したことのない男だとしても。
けれど、熟れていく果実を前に喉の渇きは増すばかりで。
だからこそ俺は夏生が二十歳の誕生日を迎えたら目の前から消えようと、夏生が十九歳になった時に決めた。
それが限界だったからだ。そうしないと夏生に手を出さない自信はもうなかった。夏生があまりに俺に対する好意を隠さないから。
だが、夏生の前から突然消えるなんて、酷い事をしようとしていると。夏生がきっと泣くであろう事も俺はわかっていた。でも、わかってて俺はその方法を選んだ。
なぜなら、きっとただ引っ越すと言っても、夏生は会いに来るだろう。『もう会えない』と告げても、『どうして!?』と詰め寄ったはずだ。そして、どうしたって俺との別れに夏生はきっと泣く。
ならば、すっぱりと俺との縁を切った方がいいと思った。
俺が消えれば、夏生は俺と会っていた時間を他の誰かに使い。その内にその実を預けられる人に出会うだろうと。
自分じゃない優しい誰かに。
だからこそ、甘い蜜をちらつかせる夏生に最後に言えたのはあの言葉だけだった。
『夏生……許せ』
今まで貴重な休みに付き合わせていた事。夏生の前では格好つけて嘘の姿を見せていた事。夏生にこれから酷い仕打ちをする事。
そして、夏生の想いを臆病者の俺は受け止められない事を。
夏生の想いを受け止めて、君の未来を台無しにするかもしれないこと、君にあっさりと捨てられるかもしれない恐怖に怯える愚かな俺を許して欲しかった。
許されるわけがないと知りながらも、身を引く事だけが俺が示せれる愛だった。
そして俺は計画通り、夏生が帰省している間に姿を眩ませた。
それからは自分には悲しむ資格などないとわかっていても、憂鬱な毎日を過ごした。それでも人は生きていかなければならない。息を吸って、食事をとって。でも以前のような楽しさはどこにも見当たらなかった。
何をしても夏生の事が頭にちらついて。
……やっぱり、泣かせただろうか? 今も泣いているんだろうか? いや、もう俺の事なんか忘れているだろう。
心の中で何度もその会話を繰り返した。
だが、やっぱり気になって。イチョウが色づく頃、俺は変質者のように隠れながらマンションから出る夏生を見に行った。
そうすれば、しょんぼりと覇気なく歩く夏生の姿を見付けた。見れた喜びと曇った表情に罪悪感。自分の行いの末路だとわかっていても、どうにかできないだろうかと思わずにはいられなかった。
でも会いに行くことも、理由を告げる事もできない。
今ここで会いに行けば、自分のしたことが全て泡になる。今度こそ、俺は夏生を騙し、その手にかけるだろう。
だから必死に考えに考え抜いて、俺ができる事をした。それは恋愛小説を書く事。架空の人物を作り、夏生との話を織り交ぜて物語を綴った。全てが自己満足だとわかりながら。
そして冬にその本は出版された。
『君に贈る告白』と題名をそのままに。
その後、夏生が読んだかどうかはわからない。
それでも無情にも時は経っていき、俺はぼんやりと生きながら毎日をこなした。
何の味気もない日々。夏生が来る前、どうやって生活していたかもわからない。
ただただ物語を書き、寝て、食べて、また書いてを繰り返して老けていく。鏡に映る自分を見る度に、夏生と別れて正解だったと、何度も思った。
こんな自分に付き合わせることがなくて、よかったと。
けれど結局どんなに季節が経とうとも、俺は夏生を忘れられないままでいた。胸に刺さった棘はいつまでも痛みを主張した。
だが、そんな日々にも慣れてきた三年後の夏。俺の元に一通の手紙(ファンレター)が届く。
『吉沢・夏生』
送り主には一度足りととして忘れた事のない名が書かれていた――――。
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――――夏生は俺にとって可愛い奴だった。
年の割には全然すれてないし、真っすぐで、人懐っこくて。
時々、どうやったらこんなに素直に育つんだ? と思ったほどだった。
でもその素直さは俺にとって心地よく、眩しいほどで。だからこそ、こんなにも年が離れているのに俺は夏生に惹かれていった。
けれど夏生の素直さを目の当たりにする度、自分の狡さを思い知らされた。
夏生に嘘を吐いて、本当のことを明かさない自分に……。
◇◇
――――実を言うと、夏生の事は出会う前から知っていた。
春の穏やかな日、たまたま家を出た時に年若い少年を見かけた。
それが夏生だった。夏生は父親と共に引っ越してきて、業者と一緒になって段ボールを運んで手伝っていた。
まだ幼さを顔立ち、屈託のない表情、パーカーの裾から伸びる少年特有の細い腕。
中学生、いや高校生ぐらいだろうか? とその時は思った程度だった。
けれどそれから数ヶ月後、思わぬところで再会することになる。
それは夏も始まり、暑い日々が続く夕方。人が滅多に来ない非常階段で。
俺は喫煙家じゃないが、小説を書き終えたら一本だけ吸うという事をずっとしている。それは俺にとってまじないみたいなものだった。
初めて賞を取り、作家デビューすることになった小説を書き上げた時に、小説の資料で買った煙草を一本吸った。それからずっとだ。
だから、その日も小説を書き上げて、俺は一本の煙草を出かけに吸おうと人が滅多に来ない非常階段へ向かった。あそこなら誰の迷惑にもならないだろうと。
けれど、ドアを開ければそこにいたのはひとりしくしく泣いている男子高校生。
まさか、こんなところに人がいて、泣いているなんて思っていなかった俺は心底驚いて、口に咥えていた煙草を落としそうになった。
そして、突然現れた俺を見て夏生は気まずそうにした。まあ、泣き顔を他人に見られて平気な奴はあまりいないだろう。だから俺はそのままその場を立ち去ろうとした。けれど湿った熱気と強い日差しの中、泣いているご近所の少年を放っておくことはできなかった。
それは心配して、とかじゃなく、熱中症で倒れられたら面倒だと思ったからだ。
なので俺は一度家に戻ってスポーツドリンクを手にして夏生に渡し、後は煙草を一服して、早々に立ち去るつもりだった。けれど、夏生は俺の言葉通り悩み相談をしてきて。
まあ内容が内容だったので、誰にも話せなかったのだろう。そして少年らしい悩みに大人として答えを提示すれば、すぐに元気になった。あまりの現金さに、内心微笑ましく思ったほどだ。若者らしくて。
けれど、俺と夏生の関りはそれで終わりだと思った。俺達はもう関わることはないと。
しかし、すぐに再会をすることになった。
それから一週間後の事。
あの非常階段での出来事の後、俺は短編の小説依頼があった事をすっかり忘れていたことを思い出し、毎日徹夜をして朝方ようやく書き終わり、俺はクーラーの効いた部屋で屍のように眠っていた。
しかし夕方頃。チャイムが鳴り、その音で目が覚めた俺は眠気眼を擦って玄関に向った。ネットで買った資料が届いたかと思って。
けれど、そこにいたのは夏生で。わざわざ手紙を渡しに来てくれたのだった。
……律儀な子だな。しかし、こんな小汚い格好の姿で出るんじゃなかったな。
髪はぼさぼさ、髭は生え放題、服はよれよれで、みっともないったらない。その上、ここ数日何も食べてなくて頭も体も働かない。
けれど、俺はなんとか体勢を保ちつつ夏生と会話を済ませ、ドアを閉める事に成功した。しかしエネルギーが枯渇した体はいう事を聞かず、俺は廊下に倒れた。
……あー、俺も年だな。これぐらいで倒れるなんて。……とりあえず、何か栄養を取らないと。
そう思うが買い出しに行っていない冷蔵庫の中は空だったことをすぐに思い出す。なので、出前でも取るか? と考えるが、その矢先。閉めたはずのドアが開いた。
項垂れていた頭を持ち上げて見上げれば、明るい光と共に飛び込んできたのは夏生で。
夏生は俺の事を心配し、肩を貸してリビングまで連れて行ってくれた。しかも、少し眠っている間に食事まで作ってくれて。
俺はちょっと驚いてしまったぐらいだ。打算のない、ただただ純粋な善意に。
けれど次の日にお礼として家に呼んだ時、何の警戒もなく部屋に入るから心配になった。
……こんなに無防備で大丈夫か? ほいほいと人の部屋に入って、男だから襲われないってことはないんだぞ。
そう思ったが夏生はなぜか俺の事を信頼していた。俺は信頼されるような人間でもないんだが。
そして、部屋の中で話をしていけば夏生の育ちの良さが端々に見えて、素直な子だという事はすぐにわかった。
……今時の子はどの子もこんな感じなんだろうか? こんな若い子と話すこともないからな。
俺は夏生を見ながら、瑞々しい果実を前にしているような気分だった。
でも、そんな夏生が夢を教えてくれて、俺はちょっとした下心を持った。
……料理も掃除も普段からしていて、およそ邪気というものがない。夏生との会話も好ましい、なにより今時の若い子の感性がどうなのか、小説の為にも知りたい。
俺はそう思って夏生に提案した。
『うちでバイトしないか?』と。
勿論、人の助けが必要だったのも本音だ。けれど、大半は下心からだった。
しかし、そんな俺の気持ちも知らずに夏生は二つ返事で『やります』と答えた。提案したのは俺だが、その返事の早さに驚いたものだった。
そうして、夏生はそれから毎週日曜日に俺の家に手伝いにくるようになった。
ただ、ここで驚いたのは掃除のやり方や調味料の場所、使っていいものや触って欲しくないものを教えれば、夏生は一回で覚えた事だ。そして会話を何度かしていく内に、夏生の家族が医師である事、通っている高校が県立の進学校だという事がわかった。
……なるほど。子供っぽさはあるが、会話に詰まらないのはそういう理由か。
話を聞いた後、俺はそう納得したほどだ。でもそれゆえか、夏生はいい子過ぎた。
家事を引き受け、帰ってこない父親を待つ日々。その事になにも文句を言わなかった。寂しさを抱えていることも、決して表には出さず。
その健気さといじらしさを前に何もしないでいられるだろうか?
夏生と親しくなるにつれて、俺はこの子の為にできることはしてあげようと思っていった。この好ましい若者に。
けれど、夏生が大人になるほどにその保護愛は次第に醜い恋情へと変わっていく。
素直な性格、爽やかな顔立ち、自分を慕ってくれる瞳、そして屈託のない眩しい笑顔。そんなものを向けられたら、誰だってその人を好きになってしまうだろう。
俺だって普通の人間だ。心揺らがないわけがなかった。
だから夏生が来る日曜日がいつの間にか楽しみになり、合鍵まで渡すほどになっていった。
けれど夏生はまだ十代。俺の子供だっておかしくない歳だ。実際、夏生の友達には叔父と名乗った。
だから俺から好きだという事は決して伝えられなかった。告白なんて到底無理。おこがましいにもほどがある。自分が逆の立場であったら、こんな年の離れた男に告白されても身の毛がよだつだけだ。
ならば、と。俺はせめて夏生が大人になるまでは見守ることにしようと思った。
健全な体に宿る、健全な魂。この美しい果実が誰かの手に渡るまで。
そして、それは早くに訪れるだろうと思っていた。夏生ほどの子ならすぐに彼女でもできるだろう、仲のいい友達と遊ぶことが忙しくなって、バイトに来ることも少なくなるだろう、そう思っていた。
なのに夏生は真面目に週に一度、我が家へやって来た。
そして時が経つにつれて、目の前に生る美しい果実が美味しそうに熟していく。それを見て、喉が唸らない人間がいるだろうか?
だから何度、夏生に手を出そうと思ったことか。何度、頭の中で夏生を犯し、淫靡な事をしたか知れない。そんな事を目の前の男が考えているとも知らずに夏生は無邪気に笑って。
俺は大人だ、夏生を簡単に騙してしまうことができる。そして夏生はきっと素直に従うだろう。俺がいいように扱おうとも。
でも、こんなにも真っ直ぐに自分を慕う子に、そんな酷い真似はできなかった。なにより夏生が大人になった時、軽蔑されたくなかった。
夏生がもっと大人になって、色んな事を経験して周りが見えた頃、自分がされた事は一体なんだったのか? それがわかる時に……。
だからこそ、最後まで俺はいい大人でありたかった。それが嘘でも。
本当の俺が、年中家に引きこもって空想に耽り、運よくそれでお金を得ているだけの大したことのない男だとしても。
けれど、熟れていく果実を前に喉の渇きは増すばかりで。
だからこそ俺は夏生が二十歳の誕生日を迎えたら目の前から消えようと、夏生が十九歳になった時に決めた。
それが限界だったからだ。そうしないと夏生に手を出さない自信はもうなかった。夏生があまりに俺に対する好意を隠さないから。
だが、夏生の前から突然消えるなんて、酷い事をしようとしていると。夏生がきっと泣くであろう事も俺はわかっていた。でも、わかってて俺はその方法を選んだ。
なぜなら、きっとただ引っ越すと言っても、夏生は会いに来るだろう。『もう会えない』と告げても、『どうして!?』と詰め寄ったはずだ。そして、どうしたって俺との別れに夏生はきっと泣く。
ならば、すっぱりと俺との縁を切った方がいいと思った。
俺が消えれば、夏生は俺と会っていた時間を他の誰かに使い。その内にその実を預けられる人に出会うだろうと。
自分じゃない優しい誰かに。
だからこそ、甘い蜜をちらつかせる夏生に最後に言えたのはあの言葉だけだった。
『夏生……許せ』
今まで貴重な休みに付き合わせていた事。夏生の前では格好つけて嘘の姿を見せていた事。夏生にこれから酷い仕打ちをする事。
そして、夏生の想いを臆病者の俺は受け止められない事を。
夏生の想いを受け止めて、君の未来を台無しにするかもしれないこと、君にあっさりと捨てられるかもしれない恐怖に怯える愚かな俺を許して欲しかった。
許されるわけがないと知りながらも、身を引く事だけが俺が示せれる愛だった。
そして俺は計画通り、夏生が帰省している間に姿を眩ませた。
それからは自分には悲しむ資格などないとわかっていても、憂鬱な毎日を過ごした。それでも人は生きていかなければならない。息を吸って、食事をとって。でも以前のような楽しさはどこにも見当たらなかった。
何をしても夏生の事が頭にちらついて。
……やっぱり、泣かせただろうか? 今も泣いているんだろうか? いや、もう俺の事なんか忘れているだろう。
心の中で何度もその会話を繰り返した。
だが、やっぱり気になって。イチョウが色づく頃、俺は変質者のように隠れながらマンションから出る夏生を見に行った。
そうすれば、しょんぼりと覇気なく歩く夏生の姿を見付けた。見れた喜びと曇った表情に罪悪感。自分の行いの末路だとわかっていても、どうにかできないだろうかと思わずにはいられなかった。
でも会いに行くことも、理由を告げる事もできない。
今ここで会いに行けば、自分のしたことが全て泡になる。今度こそ、俺は夏生を騙し、その手にかけるだろう。
だから必死に考えに考え抜いて、俺ができる事をした。それは恋愛小説を書く事。架空の人物を作り、夏生との話を織り交ぜて物語を綴った。全てが自己満足だとわかりながら。
そして冬にその本は出版された。
『君に贈る告白』と題名をそのままに。
その後、夏生が読んだかどうかはわからない。
それでも無情にも時は経っていき、俺はぼんやりと生きながら毎日をこなした。
何の味気もない日々。夏生が来る前、どうやって生活していたかもわからない。
ただただ物語を書き、寝て、食べて、また書いてを繰り返して老けていく。鏡に映る自分を見る度に、夏生と別れて正解だったと、何度も思った。
こんな自分に付き合わせることがなくて、よかったと。
けれど結局どんなに季節が経とうとも、俺は夏生を忘れられないままでいた。胸に刺さった棘はいつまでも痛みを主張した。
だが、そんな日々にも慣れてきた三年後の夏。俺の元に一通の手紙(ファンレター)が届く。
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