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締めくくりはキスで

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 街から離れた森の中。私は息を潜めて昼をやり過ごす。

 あの日。

 司祭様にセレミアがミーアだと知られたあの日。

 逃げるように飛び立って、けれど行く当てなんてなくて。
 変化の術を練習したこの森で、誰にも会わないように過ごしていた。

 か弱い人間の女の子がひとりで森で暮らすのは簡単なことではなかったけれど、夜になって悪魔の力を取り戻せば森はそんなに怖い所でもなかった。

 夜のうちに薪や木の実を集め、雨風をしのげそうな洞穴を見つけておいて。
 昼間はそこで静かに過ごす。
 なんにもすることもなくて退屈だったけれど、森の中には野生の獣も居るから仕方ない。

 食べるものは木の実くらいしかなくて。

 昼間の私も、夜の私も、少しずつ弱ってきているのはわかっていた。

 栗色の髪はパサパサになって絡まり合って汚れていたし、体にぴったりだったエプロンドレスの胸もウエストも日に日にぶかぶかになっていった。
 あれから何日経っているのかはわからないけれど。

 水を汲みに来た泉の水面に映る顔は、すっかりやつれて疲れていた。

 こんな顔じゃ司祭様には会えないな。

 そんなことを思ってちょっと吹き出す。

「バカね。……どうせもう、あわせる顔なんかないのに」

 笑ってみたはずなのに、目からはぽろぽろと涙が溢れてこぼれていった。

 どこで歯車は狂ったのだろう。
 そう考えてみると、けれど最初からだったのだとも思う。
 最初に司祭様を騙したのは私。
 バレたら許してもらえるはずないってわかっていた。
 けれど司祭様はニブちんだからバレるはずないって思ってもいて。

「バカね。ほんとにバカ。……ずっと、隠し通せるわけなかったのよ。最初から」

 無理があったんだ。わかっていたはずだ。
 なのに涙は止め処なく溢れてきて止まらなかった。

 ずっと考えないようにしていた。

 昼間の私、夜の私。

 どちらの私も、司祭様に会いたがっている。

 けれどどちらの私ももう会えない。

 きっと誰にも知られず、このままこの森で私はゆっくりと消えていくのだろう。
 悪魔の私だって食事は必要だ。精気がなくては力は衰えていくばかりで。

 でも。

 ひとりきりで寂しく生きるだけなら、そんなことに意味なんてないようにも思えた。

「もう! やめやめ! くよくよ泣いても時間は戻らないんだからっ……!」

 水を汲んで寝床に戻ろう。
 そう思って立ち上がった、私の体に。

 ジャララッ!
 金属の擦れあう音、冷たく軋む鎖が体に巻き付く。

「きゃっ?!」

 知ってる。これは!

「見つけたぜぇ……夢魔!」

―――

「あ、貴方……、し、しつこいわよ! いつまで私のこと……つけねらってっ」
「退魔師が悪魔をおめおめとのさばらせとくわけねえだろうがよ……! ……ハ、しかしなんだ。その姿は。よっぽどその人間の格好が気に入りか? 今度は森番か樵を誑かすつもりかぁ?」

 ギチギチと鎖が私の体に食い込んで自由が奪われる。
 そもそも昼間の、セレミアの体では、退魔師の力なんてなくても男の膂力ひとつで簡単に倒されてしまうだろうけれど。

「ち、ちがうわよ……こ、これは……、この姿も、私なの! ……昼間は、ただの、人間なのっ」

 男は珍妙なものを見聞きした、みたいに眉を寄せて口をひん曲げた。首を傾げてまでいる。

「どういうことだ……? 昼間はただの人間……? 悪魔が変化してるんじゃあないのか」
「朝日が昇ると、この姿になるのよ! 日没になると、悪魔になるの。なんでかなんて聞かないでね、知らないんだから! でもそうなの、気付いた時にはそうだったのよ!」

 言いながら、鎖のいましめを解こうと精一杯もがく。
 でも、もがけばもがくほど鎖はギチギチと食い込んで痛いだけだった。

「……ふん、それが本当かどうかは……これでわかる!」
「っあ、ぁあ!!」

 バチッ!
 鎖を伝って強い電撃のようなものが体を襲った。
 それは一瞬、痺れるような衝撃だったけれど、痛みや火傷は不思議となかった。

「は、はぁ、な、なにする、の、よ」
「……ほう、まさかな。まさか。本当にただの人間なのか。今のを食らっても姿が変わらない。どころかダメージもなさそうだ……」

 男の言葉の意味を考えた。
 退魔師の特別な力。それは悪魔にのみ有効で、ただの人間には効果はない、ということなのだろう。
 つまり、昼間の私は本当にただの人間の娘でしかない、ということ。

「納得したみたいね。なら、離してよ!」
「いいや、ダメだね。……昼間はただの人間でも、日没が来て夜になりゃ悪魔になるんだろ。どういう理屈だかわからんが……、結局は悪魔じゃねえか! なら見過ごすわけないだろう!」
「……なによ、わからずや! これ以上なにするってのよ! 散々酷い目に遭わせてくれたじゃないっ……ほっといたってもう、……もう、せいぜい、数日よ……」
「……。確かに、随分と弱っているようだな。あれから精気を得られてないってことか……。……このまま、自然に任せて消滅するつもりってことかい?」

 相変わらず鎖は締め付けるまま緩みもしないけれど、男の問う声は少しだけ柔らかくなった気がする。
 こく、と浅く頷きを返して、ゆっくりと息を吐きながら男の顔を見据えた。

「誰でもいい訳じゃないの。私。……司祭様だけなの。司祭様と一緒に悪魔退治をして、司祭様の役に立てて、司祭様と……キス、するだけでも……良かったの。……ううん、ただ微笑みかけて、名前を呼んでくれるだけだっていい。それがなくなるなら、生きている意味も理由ももうないの。ゆっくり、ここで、命の果てるのを待つだけよ」

 泣くつもりなんてないのに。
 こんな男に涙は見せたくないのに。
 なぜかぼろぼろと涙は勝手に溢れてきて私の頬を濡らしていく。

 司祭様。司祭様。貴方のことを思うだけで私の心は一杯になるの。胸は苦しくて切ないの。

 記憶の中には、厳めしい顔で眉を寄せて怒る司祭様。困ったように眉を寄せて目を細めて笑う司祭様。堪えるように顔を顰めて、熱に浮かされたように私を呼ぶ司祭様の声。
 次から次に思い出せるのに。

 じゃら、と。
 不意に体を締め付ける鎖が緩んだ。
 急に血が巡るような心地に、思わずふらついた体を、逞しい腕と胸板に支えられる。

「な、なんの、つもり……」
「……。……いや、そうだな。なんのつもりかな。……あんまり、夢魔のくせに純なことを言うもんだから」

 不本意そうに眉を顰めて困った顔。
 けれど司祭様のそれとは違う、女の子を慰め慣れているようなどこか甘い眼差しだった。
 腕の中は温かくて、固い胸を通して聞こえる鼓動の音は不思議と安心感を与えてくれる。
 この男は、憎むべき私の敵。私のささやかな幸せを壊した張本人なのに。

 久しぶりの人のぬくもりが心地良くて。

「……あの司祭の何がいいんだ? 随分と鈍いへっぽこ野郎じゃねえか」
「そうだけど、そうだからほっとけないんだわ……。弱いくせにちょっと偉そうで高慢な物言いが可愛いの」
「悪魔退治のパートナーなら、俺の方が優秀だぜ?」
「……。……、なに、なにが言いたいのよ」

 思わず顔を上げて彼を見返す。

「おまえが、悪いやつじゃあないのはよくわかった。……それどころかいい女だ。なぁ、俺にしないか? 悪魔と組んでの悪魔退治ってのも面白い。堅物の司祭より、俺の方がいい思いもさせてやれると思うぜ」

 自信に満ちた声。
 にやりと笑う顔。
 顔も腕もいい、それをしっかり自覚している男の物言いだった。

 ぎゅ、と強い力で抱きしめられる。

 司祭様の細身の体とは違う、筋肉質な強くて固い体。
 思わず息をのむ。ときめかない、と言えばそれはウソになる。

 でも。

「違う。……貴方じゃ、ないの。……名前だって知らないし、知らないままでいい。貴方とは、……キスもできない」

 ぐい、と押し返す。
 重くて固い体、びくともしない。

「そうかい、……なら、無理矢理奪うしかねえな」

 その言葉にゾクリとした。
 もう一度見上げれば、男は。
 獰猛な、奪うことも傷つけることも慣れている、そういう顔で笑っていた。

「や、やだ、やめて……離して……!」

 人間の女の体がこんなに歯がゆかったのは、もしかしたらこれまでで初めてだった。
 暴れてももがいても、男の力には一切歯が立たずびくともしない。
 押し返そうとついた手を逆に取られてぎりっと強く握られる。

 そのままぐらっと世界が反転するみたいに揺らいで。
 ドッ、と冷たい草地に押し倒されていた。

「……! な、なにするのよ、ケダモノ!! こ、こんなマネっ……悪魔より、たちが悪いんじゃないの!?」
「ただの人間の女にならしやしねぇよ。……だが、今は人間の姿でも、おまえは悪魔だ、そこは変わらんだろう。……精気を取り込めば消滅はしないはずだ、ついでに契約しようじゃねえか。いいか、俺の名はエドゥアルド。……おまえを、新たに使役する男の名さ」
「な、なにが、パートナーよ! 使役ってなによっ……使い魔にでもしようっていうの!? 誰が貴方なんかに……!」

 じたばたともがいて足をばたつかせた。
 強い力に抑え込まれてそれすら簡単ではなくて。
 急所を蹴り上げてやれば逃げられる、と思うのに、覆い被さられて足すら自由に動かせない。

「静かにしろよ、お互い悪い話じゃないんだから。つまらん男のために身も心も魂も捧げようなんて……悪魔らしからんぜ。ま、そういうところが、そそるって話だがな。……なんていった、ミーア?セレミアだったか? ……おとなしくしとけ、痛いのはいやだろう」

 のしかかる男の顔が近づいて、耳元で名前をささやくように呼ばれる。

 ゾワッ! と怖気が走った。
 全身の産毛が逆立つような不愉快さと悍ましさ。

「あ、貴方に、呼ばせるための、名前じゃないわ……!」
「生意気だな! なら……再契約には新しい名前を、くれてやろうか」

 男の唇が、私の唇に重なる。
 更に全身に走り抜ける怖気は強まった。
 思い切り、ガリッ! と噛んで食いちぎるように歯を立てる。
 じわっと甘い血の味が広がって。

「っいって……このッ」

 男の瞳に怒りが踊った。
 けれど、その先の言葉は紡がれなかった。

 ゴッ!!

 と、凄まじく鈍い音と共に、男の体がぐらっと傾いて吹っ飛んだから。
 
 私の体は急に解放されて軽くなる。

「唾棄すべき不埒者だな、貴様……」

 静かな、冷静な、けれど確かに怒りを滲ませた低い声。

 私は自分の耳を疑った。

 ウソ。

 ここに居る訳がない。

 来る訳ない。

「っ、て、な、なんでてめえがここに……」
「貴様に語って聞かせる訳も道理もない。あるのは、……説くべき人の道と神の教えであろうよ」

 さり、と草地を踏みしめ近づいて来る黒尽くめの姿を。

 私はただ、呆然と、見上げていた。

「……無事か、セレミア。……遅くなって、すまない……、すまない、と言って許されようもないが。……立てるか。私の手を、取って、くれるかい……?」

 差し出された白い手。
 骨張って筋の目立つ、細くて長い指。    爪は短く整えられていて、少し深爪気味。
 夜明けの空の色みたいな瞳が、どこか怯えたように自信なさげに私を見つめている。

「……どうして。……どうして、貴方がここにいらっしゃるの、司祭様」

 嬉しくて、困惑して、死ぬ間際に見る幸せな夢か幻かと疑いすらしながら。
 差し出されたその手を取った。
 すぐにぎゅっと握られて。そこから伝わるぬくもりが、夢や幻じゃないことを確かに伝えてくれる。

「君を、……探していた。セレミア。……おまえを、探しに来たんだ、悪魔め。……嗚呼、そういうことだとも、ミーア。セレミア」

 ふらつく体を支えられて立ち上がる。
 司祭様が苦々しげに眉を顰めて、眉間に深い皺を何本も刻み込みながら、困ったように微笑んで私を見ていた。

 それだけで、もう胸が一杯になって。

「チッ、オイオイ! いつまで見せつけてくれるつもりだ!? ……本気かよ、教会に属する司祭が悪魔と契ろうってのか?」

 男が。
 エドゥアルドが不愉快そうに舌打ちしながら二人の世界に割り込んで来る。
 彼から庇うように司祭様が私を背に隠して立った。
 そんな些細な仕草にすら、きゅんとしてしまう。

「報告を、したければ好きにせよ。……それで破門だというなら、それでも良い。……真に守るべきはなんなのか、まことの神の教えに、私は一切背いてはいない。胸を張ってそう言える」

 背筋をピンと伸ばして、静かに告げる司祭様の低いのに良く通る声。
 迷いなんてひとつもない、そう自信に満ちた声。

 さすがのエドゥアルドもたじろいだように半歩下がった。

 司祭様は、多分彼より弱い。ただの腕力でも、戦闘技術でも、経験でもきっと敵わない。
 なのに不思議な迫力があった。

「……そうかよ。……チッ、さすがに興醒めもいいとこだ。いいぜ、この辺り、どうせ大して強い悪魔が居る訳でもねえしな。そろそろ次の狩り場に行くとする」

 軽く両手を挙げて降参のポーズをして見せたエドゥアルドは、司祭様の背に隠れた私にちらっと一瞥を投げてきて。

「ま、でも。その司祭に飽きたら、いつでも歓迎だぜ、セレミア」

 ウィンクをひとつ。
 にやりと不敵な笑みを浮かべると、きびすを返してさっさと森の向こうに去って行く。
 司祭様は、彼を止めなかった。
 もちろん私も、呼び止めもしなかったし答えすらしなかった。

 ただ、ぎゅっと。
 司祭様の黒い服を掴んでいた。

―――

 手が震えていた。
 いまさら恐れがやってきたみたいに、やがて全身が震えだして立っていられなかった。

「セレミア……!」

 ふらりとその場に蹲った私に、司祭様の慌てた声が降る。
 まるで壊れたみたいに涙が溢れてぼろぼろとこぼれていく。
 歯の根がかみ合わないくらいに震えて、カチカチと奥歯が鳴った。

 怖かった。
 会いたかった。
 怖かった。
 会いたかった。

 二つの特に強い感情がぐちゃぐちゃと渦巻いて頭の中でせめぎ合う。

 助けてくれてありがとう、って司祭様にまだ言えてないなと一部冷静な自分が思っている。
 なのにそれはちっとも体に反映されなかった。
 震える体を両手で抱きしめているのが精一杯で。

「……セレミア。……セレミア。もう、大丈夫だ。セレミア。遅くなってすまない。もっと早く君を、探し出して迎えるべきだった。……本当に、すまない」

 司祭様の手が私の背中を撫でる。
 優しく、なだめるように。
 騙していたのは私の方なのに。
 司祭様がいっぱい謝っている。なんだかそれがおかしかった。

 どうしてそんなに優しくしてくれるの?

「私がセレミアだから?」
「なに……?」

 あぁ、大事なところが声になっていなかった。
 もう一度、今度はちゃんと声に出す。

 どうしてそんなに優しくしてくれるの。ねえ、司祭様。

 涙で途切れ途切れの私の声は、あまり上手に言葉を紡げていなかった。
 けれど、司祭様はちゃんと聞き取った。そうしていつも通り眉を顰めた困った顔をする。

「……君が、……君のことが、大切だからだ。セレミア。たとえ君が、悪魔でも。ミーア、君が大切だからだ」

 狼狽えることなく、まっすぐに、司祭様が言葉にする。
 そうして遠慮がちに、そっと、恐る恐るという風に、私の体を抱きしめて。

「大切なんだ。……どちらの君も、私には」

 ふ、と体から力が抜ける。
 冷え切っていた体にぬくもりが流れ込んで来る。
 骨張った腕と薄い胸板に、ほっと安心して。

「それじゃあ、キスして……」

 見上げてねだると、やっぱり司祭様は眉をいっそう顰めて厳めしい顔をした。

「ダメ?」

 もう一度。

 髪はパサパサだし顔は涙でぐちゃぐちゃだし、もしかしたらあいつの血が少し残っているかもしれない。
 酷い顔でおねだりしても、可愛くないかな。
 そもそも今セレミアだし。夢魔の時の私ほど魅力的ではないかもしれない。

 しょんぼりした気分で沈んでいくと。

「……、目を、閉じなさい」
「! ……ふふ、はぁい、司祭様」

 絞り出すように言われて、思わず吹き出してしまった。

 でも。

 素直に目を閉じる。

 そうして触れるそれは。

 優しくて甘くて、魂の底から震えるほどに、幸福で満たしてくれるものだった。
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