その距離は、恋に遠くて

碧月あめり

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Four

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 昼休みが始まると同時に教室を飛び出して、わたしが向かったのは化学準備室だった。

 ドアを雑にノックして横に引こうとしたが、開かない。いつも開けっ放しになっていることが多い化学準備室に、珍しく鍵がかかっていた。

 化学準備室のドアに背中を預けて立つと、手に提げていた紙袋に視線を落とす。開いた袋の口からは、誕生日の夜に那央くんに貸りた女性用の黒のサンダルが覗き見えている。サンダルは那央くんの彼女のものだ。

 那央くんは「生徒に貸したぐらいで気にしない」と言っていたけど、できれば早めに返しておきたい。

 しばらく待ってみたけれど、那央くんは昼休みが始まって十分が経過しても戻って来なかった。

 もしかして、今日は休みなのかな。それか、午前中だけ授業して帰っちゃったとか。那央くんは非常勤の講師だし、その可能性もありうる。

 せっかく、お礼も一緒に持って来たのにな。

 紙袋の中には、ここに来る前に学食の側の自動販売機で買ってきた缶コーヒーが入っている。

 今日は気温が上がって暑いから、冷たい飲み物を差し入れたら喜んでもらえるかと思ったけど……。ムダになりそうな予感だ。

 約束もなくやって来たのは自分なのに、タイミングの悪さに落ち込んだ。

 化学準備室のドアに後頭部をコツンとぶつけて、窓の向こうの空を眺める。学校の上空は晴れているが、遠くのほうに薄らと黒雲がかかっていた。そういえば、今朝家を出る前に見た天気予報で、夜にかけて雨が降ると言っていたような気がする。

 ぼんやり外を見ていると、スカートのポケットの中でスマホが鳴った。取り出してみると、唯葉から『お昼どうするのー?』というメッセージが届いていた。

 お昼、どうしようかな。今日はお弁当も持ってきていない。

「あれ、岩瀬?」

 スマホを手に考えていると、横から声をかけられる。すっかり気を抜いていたところに那央くんの声が聞こえてきて、スマホを落としそうになった。

「いたんだ、那央くん」
「いたら悪いか?」

 黒のスラックスのポケットから鍵を取り出した那央くんが、わたしを横目に見下ろしてくる。

「悪くない。待ってたんだよ、那央くんのこと。授業長引いたの?」
「いや、もうすぐ中間テストあるだろ。それで、授業後に質問があるからって生徒に捕まってた」

 教科書とチョークの箱を小脇に挟みなおしながら、那央くんが化学準備室の鍵を開ける。

「女子ばっかりだったでしょ」

 化学準備室の中に入っていく那央くんの背中に訊ねると、彼が机に教科書を置きながら振り向いた。

「そう言えば、女子が多かったかもな。あのクラス、理系に進みたいやつが多いのかな」

 那央くんが大真面目に言うから、笑ってしまった。

「那央くん、それ天然?」
「何が?」
「理系に進みたい子が多いわけじゃなくて、質問を口実に那央くんにちょっとでも近付きたいって思ってる女子が多いからだよ」

 指摘すると、那央くんが困った顔で口を噤んだ。

「那央くん、モテるくせに案外鈍いんだね」
「高校の教師って想像以上に生徒に懐かれるんだなーとは思ってたけど……質問があるって話しかけてくる生徒が恋愛対象として自分を見てるなんて普通考えないだろ」
「那央くんは高校生なんて子どもだって思ってるだろうけど、那央くんのことを真面目に好きな子だっていると思うよ」

 わたしが、健吾くんのことを好きなみたいに。

 さすがにそこまでは口にしなかったけれど、那央くんにも何か思うところがあったのかもしれない。それ以上、反論はしてこなかった。

「それで? 岩瀬は何でおれのこと待ってたの?」
「そうだった。これ、返したくて」

 サンダルの入った紙袋を手渡すと、那央くんが「あぁ」と頷いた。

「そういえば、貸したままだったな」
「わたしの靴、助手席のシートに置いたままだったでしょ」
「そうなんだ。気付かなかった」
「気付いてよ。そのまま彼女のこと車に乗せたら、修羅場になるよ」
「いや、ならないよ」

 那央くんが紙袋を覗き込みながら、吹き出す。

 笑ってはっきりと言い切れる那央くんと彼女のあいだには、どれほど強い絆があるのだろう。少し羨ましかった。

「これは?」

 紙袋を覗いていた那央くんが、わたしがこっそりと入れておいた缶コーヒーに気付く。

「海に連れてってくれたお礼。急に押しかけたのに、ありがとう」
「どういたしまして。そういうことなら、ありがたくいただくわ」

 那央くんが口端を引き上げながら、取り出した缶コーヒーのフタを開ける。

「温くなってないといいけど」

 缶に口を付ける那央くんの横顔に向かってボソッとつぶやくと、彼が横目にわたしを見てきた。

「いや、充分冷たいよ。ところで、あのあと桜田先輩にはちゃんと怒られた?」
「怒られてないよ。謝られたけど。健吾くんは、わたしと家族になりたいっていうくせに、わたしが何をしても怒らない。昔からずっと優しいけど、本気なのはいつもわたしだけ」

 ハハッと笑うと、那央くんがわたしの頭に手を置いて、上から雑に押してきた。

「え、何? 痛いんだけど」
「泣くのかと思って」

 無理やり下を向かされたことに文句を言うと、那央くんがボソリとつぶやいた。

「何言ってんの? 泣くわけないじゃん」
「そう」

 上目遣いに見ると、那央くんがわたしの頭をグシャリと撫でて笑う。その笑顔に、少しだけドキリとした。
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