青春ヒロイズム

月ヶ瀬 杏

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6.知らない過去

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 職員室で担任に日誌を渡すと、食堂のそばの自動販売機に向かう。テスト前で部活も休みだからか、食堂の周りもその裏の中庭も人気がなくて静かだった。

 ジュースの自動販売機にお金を入れて、受け付けたみんなのリクエストを思い出す。

 村田さんがイチゴミルクで、岸本さんがミルクティー。それから……。

 石塚くんと槙野くんのリクエストを思い起こしながら自動販売機の前でウロウロと指を彷徨わせていると、突然後ろから伸びてきた手がカフェオレのボタンを押した。

 ジュースがガチャンと落ちてくる音と同時に振り向くと、後ろに星野くんがいて。一瞬息が止まりそうになる。

「竜馬がカフェオレで、憲が無糖コーヒー」

 星野くんがそう言って、私の後ろからコーヒーのボタンを押す。

「あ、そ、そうか。星野くんは?」

 顔のすぐ横に伸ばされた星野くんの腕と、いつになく近い彼との距離に、心臓がどうかなりそうなほどドキドキした。

 なんとか絞り出すように声を出すと、星野くんが私を見下ろして首を傾げる。


「俺もカフェオレ。深谷は?」

「じゃぁ、レモンティーにしとこうかな」

「かな、って何? ん、レモンティー」

 取り出し口に落ちてきた全員分のジュースを拾いあげた星野くんが、私の分だけを先に手渡す。

 そうして全員分のジュースを抱えて自動販売機の近くにあるベンチに座ると、自分用のカフェオレにストローを挿して飲み始めた。


「教室に戻らないの?」

 遠慮がちに訊ねると、星野くんがカフェオレのストローから口を離して私を見上げてくる。


「喉乾いたから今飲む。深谷も飲めば?」

「あ、うん……」

 星野くんの雰囲気に流されるように、私もレモンティーにストローを挿した。


「座れば?」

 立ったまま飲もうとしていたら、星野くんにベンチを勧められた。


「あ、うん……」

 無表情でカフェオレを飲む星野くんから一人分の距離を空けて、そっとベンチに腰掛ける。並んでベンチに座ったはいいものの、星野くんはずっと無言でカフェオレを飲んでいた。

 妙な雰囲気の沈黙が流れ、星野くんに話しかけていいのかどうかわからない。黙ってレモンティーをちびちびと飲んでいたら、星野くんが唐突に口を開いた。

「体育祭のとき、俺が智ちゃんのこと無自覚で好きなんじゃないかとか言ってきたじゃん? あれ、やっぱり違うと思う」

「え?」

「だって、智ちゃんと憲が一緒にいるのを見て微笑ましいとは思うことはあっても、それ以上の何かを感じたことはないもん。もし俺が無自覚で智ちゃんが好きなら、微笑ましいなんて感情は湧いてこないと思うんだよね」

 体育祭以来、星野くんとは挨拶くらいしか交わしていない。

 応援席で、つい変なことを訊いてしまったけど、星野くんには笑って流されたし。私の戯言なんて覚えていないと思っていたから、彼がこんなタイミングであのときの話を持ち出してきたことに驚いた。


「俺と智ちゃんちって家が近くて、親同士も俺らが幼稚園入る前から割と仲良かったんだよね。だから、俺が智ちゃんに対して特別な感情を持っているように見えるなら、それは妹を気にかけてる感じに近いのかも」

「そう、なんだ……」

 中庭のベンチで星野くんとふたりきり。どうして星野くんは、急に改まってこんなことを話し出したんだろう。

 反応に困って飲みかけのレモンティーの紙パックの角を落ち着きなく指でなぞっていると、星野くんがカフェオレのストローを咥えたまま私を見て首を傾げた。


「深谷は、小学生のときの智ちゃんに『トンカ』ってあだ名がついてたの知ってる?」

 それまでの話となんの関係があるのかわからないけど。脈絡なくそう訊ねてきた星野くんに、戸惑いながら小さく頷く。

 小学生のときに村田さんのことを揶揄って「トンカ」と呼んでいたのは、主に男子たちだ。

 その名残りなのか、石塚くんや槙野くんは今も、村田さんのことを「トンカ」と呼んでいる。
 

「実はさ、最初に智ちゃんのことをからかって『トンカ』って呼び出したのは、憲なんだ。あいつ、小学生の頃は男子のリーダー格だったし、それを聞いたクラスの他の男子が面白がって、『トンカ』ってあだ名が広まってったんだよね」


 小学生時代、村田さんが「トンカ」というあだ名で呼ばれ始めたのは、彼女の体型に対するからかいだということは私もなんとなく知っていた。だけど、きっかけが槙野くんだったことは知らなかった。

 嫌なあだ名をつけてきた男の子と付き合ってるなんて、村田さんと槙野くんの間にどんなことがあったんだろう。

 さっきみんなで教室で勉強していたときも、ふたりはすごく仲が良さそうだった。

 ふたりのことを考えていると、それに気付いたのか、星野くんが笑った。

「今、嫌なあだ名付けてきた男とどうして付き合ってんだって思ってるだろ?」

「うん、まぁ……」

「中学のとき、ふたりのあいだでいろいろあったっぽいよ。智ちゃん、急に痩せて可愛くなったし」

 星野くんが、何か思い出すみたいにニヤリと笑う。その言葉に、私は少し複雑な気持ちになった。

 星野くんは村田さんに対して恋愛感情はないと言うけれど、恋愛感情のない相手のことを「可愛くなった」なんて褒めるだろうか。

 中学時代は女子校で、男の子と触れる機会の少なかった私には、その感覚がよくわからない。


「憲との馴れ初めについては、深谷が直接智ちゃんに聞いてみなよ。普通に教えてくれると思うし」

「機会があれば。で、村田さんの昔のあだ名の話はどうなったの?」

 星野くんは相変わらずニヤニヤしているけれど、私は村田さんと槙野くんの馴れ初めにはそこまで興味がない。彼女たちと、プライベートで深く関わるつもりもない。

 話題を元に戻すと、星野くんが「あー、そうだ」と手のひらで膝を打った。


「智ちゃんも、最初は『トンカ』ってあだ名が嫌だったみたいなんだよね。人前では揶揄われてることなんて気にしてないみたいに笑ってるくせに、学校の帰り道でひとりになるとこっそり泣いたりしてたし。だから俺だけは、ずっと智ちゃんって呼び続けてるんだけど……」

 星野くんが優しい顔でそう言ったとき、胸の痛みと息苦しさを感じた。

 星野くんがいくら村田さんへの恋愛感情を否定したとしても、彼女のことを話すときの優しい表情や口調が、彼女への好意を肯定しているようにしか思えない。そのことにまるで気付いていない星野くんに、すごくモヤモヤしてしまう。

 始業式の日に教室で再会したときから、星野くんが村田さんのことを「智ちゃん」と呼ぶことに、何か特別な意味があるような気がしていたけど。思ったとおり、特別な意味があったのだ。

 レモンティーの角をなぞる指先に、無意識に力がこもる。

 私、どうしてこんな話を星野くんから聞かされ続けてるんだろう。

 複雑な想いできゅっと唇に力を入れてうつむくと、星野くんが上履きの先で足元の短い草を軽く蹴った。


「智ちゃん、今は小学生のときについたあだ名のことなんて全然気にしてないみたいなんだけどさ。そもそも、智ちゃんがあだ名のこと気にならなくなったのって、深谷が声をかけてくれたからなんだって」

「へ?」

 このまま村田さんの話をしばらく聞かされ続けるのかと思っていたから、いきなり自分の名前が登場したことに驚いた。

 不意打ちを食らって、思わず間の抜けた声が出る。

 声だけじゃなく、ぽかんと口を開けた私の顔も充分に間抜けだったんだろう。

 星野くんが、表情を崩してくしゃっと笑った。

 ここまで、話題の中心は完全に村田さんだったはずなのに。気を抜いているときに、そんなふうに笑いかけてくるのはズルい。

 いろいろ恥ずかしくて、間抜けに開けた口に慌てて両手をあてる。それを見た星野くんがクスクス笑うから、両手で口を押さえたまま、赤くなって目線を下げた。

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