深海の底で落とした涙

浅山いちる

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 沈んでいた。私は水溜まりの中を。
 泥濘(ぬかるみ)の中を。

 どんどん抜け出せなくなるように。
 一人で······どこまでも。



 私が彼を好きになったのは高校一年のこと。

 きっかけは、サッカーをしている姿がカッコいいなと思ったから。体育の時間のことだった。見た目は爽やかな、けどやんちゃな感じを思わせる少し染めたであろう髪で、モテそうな顔だった。でも、それから少し気になって見ていく内に皆に愛されている人だと知って、いつの間にか好きになっていた。先輩に可愛がられ、一年経つ頃には後輩にも慕われ、それらの時に見せる笑顔が、サッカーの試合の時とは違うもので、そこにもまた惹かれた。そんな笑顔を私にも向けてくれたら、と思った。

 それから、女友達と好きな人を話し合う――いわゆる恋バナになり、彼が好きだということを打ち明けた。そしてそうしたことで、結論から言うと······私は彼と付き合えた。

 ――彼の彼女として。

 それらは皆、彼と同じ中学だったその女友達が便宜を図ってくれたからだった。三人での同じ帰り道を用意してもらい、そのうちに三人でカラオケに行って、その次には近所のショッピングモールにダブルデートを用意してくれた。まだ付き合う前だったが、その女友達の本物の彼氏が来て、仕方なく――という状況を彼女は作り上げた。

 そのダブルデートは――つまり彼と私のこちら側は当然形だけのものだったが、それから彼は私のことを異性として意識してくれた。おかげで、その二週間後にLINEで告白された。返事はもちろんイエスだった。



 だが、問題はそれからだった。

 数ヶ月経ったのち、私達は一通り高校生カップルとして、ややスリルを味わうような忘れられないであろう体験を終えた。幸せな気持ちだった。

 だけど、それから私の彼への嫉妬は増してしまった。それに対して、彼は素っ気なくなった。

 それからいつしか、私と彼との間を取り持ってくれた女友達にも、嫉妬するようになった。自分でもよく分からない嫉妬を覚えた。どうしてこんな感情を抱いているのだろう、と。別に以前と変わらないはずなのに、それでも彼に話し掛けて欲しくなかったし、その女友達に話し掛けても欲しくなかった。私だけを見て、私だけのことを考えて――と思うようになった。

 一日連絡がないだけで不安になった。
 一日相手をしてもらえないだけで寂しくなった。

 LINEのたった数文字でもいいのに、どうして、と思った。寝る前のたった三分でも出来ることなのに、どうして、とも。だって、私がそうなる度送ったのは「今何してるのー?」など、そんな、考えもせずに返せることばかりだったから。

 そして、そんな寂しさを抱えているある日のことだった。

 体育のサッカー(試合は流石に男女別だが)で見学をしている私の左隣に、同じクラスの一人の男子が座った。色白の血色の良くない細身で黒髪の彼は「少し体調が悪いから見学しに」とのことだった。寂しさで仮病の私とは大違いだった。

 そんな彼が言った。

「最近、何かあった?」

 その肌の色のように、生きた感じのしない、水の底のように冷めた声だった。だけど、私には遠く懐かしい温かい言葉でもあった。

 だから、話すつもりはなかったが、私は愚痴を漏らすように話していた。

「彼が素っ気ないから、私の友達と話してるから、嫉妬してる。クラスの皆にも、見えない誰かにも」
「ふーん。嫉妬ねぇ······」

 こちらを見ぬ彼は、変わらぬ調子で言った。試合をする十数人のほうを見る彼は、それをしばらく見つめてから、静かに口を開いた。

「それだけ彼を好きなんだね」
「······どうして?」

 ここで初めて、隣の彼はこちらに目だけを側めてから、

「だってそうだろ? 四六時中考えてなきゃそんなのはしない。こんな授業中でも楽しいことなんて溢れてるのに、哀しいことなんて溢れてるのに、それでも彼のことを考えてる。――ほら見ろ、顔面でボール食らったのにゴール入れてる奴がいる。周りだって皆笑ってる。なのにどうして、君はくすりとも笑ってないんだい?」

 表情は薄いが、彼も少しだけ口角が笑っていた。
 しかし、すぐに元に戻った。

「罪があるとしたらあちらさ。君の気持ちを何も考えちゃいない。あの笑ってる中には当然、君の彼氏もいるんだろう?」

 認めたくないが、そちらを見ると私の彼はその顔を押さえている男子の背中を叩いて笑っていた。

 私は、目を伏せた。

「別に、嫉妬が悪いことだとは僕は思わないよ。だって、さっきも言ったよう、君はそれだけ彼のことで精一杯なんだ。好きを越えて、愛情に近いものを抱いてると言ってもいいんじゃないかな」
「愛情······?」
「しかし、それも一方的なものかもしれないね。彼は君のほうをちっとも見ちゃいない。白黒のボールの方がよっぽど大事に見える」

 この人は何を言っているんだろう、と思った。
 なんてことを言うんだろう、と思った。

「君は、そんな彼にどうされたいんだい? またかつてのように慰めてもらいたいのかい? 別に彼が今でも前のようにカッコ良く見えるならこれ以上何も言わないさ。僕は消えるだけだ。――で、どうなんだい?」
「······私は――」

 こんな口先の言葉に唆されていいの?
 よく知りもしない人の言葉に惑わされていいの? 

 すると彼は言った。

「もう一言だけ、君を傷付けるように付け加えるなら、男ってのは君が思ってる以上に人の風上には置けない生き物だよ。一線を越えてしまって飽きが来てしまったのなら尚更だ。犬や猿と同じ、そんな作りで出来ている」

 その言葉に、私は堪えていた涙が浮かんでしまいそうだった。
 色褪せた赤いジャージのシワが、より強く歪んだ。

 それでも······私は何も言い返せなかった。

 怒りよりも先に、悔しさや惨めさで一杯になってしまったから。

「······ごめんね。そんなにキツく言うつもりはなかった」

 彼は、そっと立ち上がった。

「少し休んだから、そろそろ僕も動ける。じゃあね」

 試合に混じるのだろうと思った。
 私を放って、そうしてくれと思った。

 そんなことをわざわざ言うだけに来たなんて最低な人だと思った。

 ······けれど。

「まって······」

 誰も私を見てくれなかった。
 一番側にいると思ってた人さえ見てくれていなかった。

 私は彼のなにを好きになったんだっけ。
 私は今どうして欲しいんだっけ。

 して欲しいことは山ほどある。
 山ほどあるけど······。

 けど今は······私は······。

「頭······撫でて······」

 頭を膝に埋め嗚咽を漏らし、ジャージを濡らした。
 誰の存在も、側にいる気がしなかった。

 すると、

 左側に温もりを感じた。
 その一部が、右肩から背中に掛けても。

 私は、より泣いて、顔を上げられなくなった。

「みんな······見てるかもしれないよ······」
「大丈夫。皆笑ってる」
「彼も見てるかもしれないよ······」
「今さら遅いよ、見てたって」

 私は――沈んでいく。

 泥沼のほうへと。
 深海の底へと。

 もう二度と、戻れなくなるように。けれど――、

「おねがい······。また······側にいて······」
「僕は嫉妬深いよ?」
「いい······それでも······」
「それに、僕も偽りかもしれない」
「それでも、いい······嫉妬で一杯なら······」
「······そう。わかった」

 もう、沈むのは一人じゃない気がした。
 それは、頭に感じる温もりに――そう思えたから。
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