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第一部「運命(さだめ)の夜」
第三話
しおりを挟むそれほど酒は呑めぬのに、今宵は違った。
普段は無口なはずの小夜里であるのに、酒が進むにつれて、いつしか、普段はだれにも悟らせない心の襞を語っていた。
町家の子どもを相手にする手習所を開いた矢先に父が逝き、跡を引き継ぐと決めたがいいが、その後すぐに小夜里は窮地に陥った。
町家には、女の師匠に教えを乞いたいと思うような、男の子どもがいなかったからだ。父がいた頃に来ていた男の子たちはみな、男の師匠の手習所へ移った。
かと云って、江戸ならともかく、こんな諸国の藩では、おなごに読み書きを学ばせようと思う親もほとんどいなかった。
そんなものを習うくらいなら、三味線や裁縫など、いざとなったら身を立てられる習い事の方がよっぽど為になると考えられていた。
そして、武家の女の凛とした佇まいは、町家では厭でも目につく。面と向かってはなにも云わなかったが、大人たち——特に女房連中——にとっては、お高くとまったように見える小夜里のその様が、見目麗しい顔立ちとともに、鼻につくようだった。
しかし、年若い女の子たちの見る目は違った。
離縁したのち、男と変わらぬ仕事をして身を立てている小夜里の姿は、いつしか町家の娘たちに、
「こがぁな生き方もあるんじゃのう」
と思わせるようになっていた。
あるとき、一人の女の子が教えを乞いに来た。
町では大店として知られていた、酒屋の娘のおりんだった。
末娘だが、上はすべて兄ばかりなので、たった一人の娘として、幼い頃からたいそう可愛いがって育てられていた。
家では琴を習わせようとしているが、自分は兄たちのように読み書きを身につけたいので、どうか教えてほしいとおりんは云った。
小夜里自身も、おなごでありながら、父から兄と同じように和書ばかりでなく漢書までも教え込まれたので、おりんの気持ちはよくわかった。
だが、武家の子女として道理に合わぬことは許されぬ環境で育ってきた小夜里は、おりんに対して父親の許しを得てくるように告げた。
後日、おりんは「ようやっと許しをもらえた」とうれしそうにやってきて、それから毎日通うようになった。おりんの熱心に励む姿は、小夜里に初めて手習所の師匠としての甲斐をもたらした。
ところが、ある日、おりんの父親が手習所に怒鳴り込んできた。
おりんは父親の許しを得てはいなかった。父親には「琴のお稽古に行く」と嘘をついて、ここに通っていたのだ。
それを聞いた小夜里は、
「……わたくしは、そなたに、父上の許しを得るようにと申したはず」
静かにおりんに告げた。
「師匠に偽りを申す者に、なして教えられようぞ。お帰りなされ」
おりんは畳に額をつけて、ひれ伏した。
「許してつかぁさい……なしても……なしても……うち……お師匠さまに教えてもらいたかったけぇ」
おりんはそう云って泣きじゃくった。
家ではだれの云うことも聞かず我侭放題の娘が……この女師匠には、文字どおり頭が上がらぬ様を見て、父親は度肝を抜かれた。
おなごに読み書きなど不要のものである、という考えは露ほども疑ってなかったが、娘にはこの女師匠が必要だと痛み入った。
とうとう、父親も頭を下げた。
「……お師匠、娘のこがぁな姿に免じて、どうか、ここへ通わせてつかぁさい」
小夜里は正式におりんの師匠となった。
「此の御酒もその者から頂いたものゆえ」
小夜里はそう云って、ふっくらと微笑んだ。その頬は花が咲いたように、仄かに色づいていた。
民部も、切れ長の鋭い目を細めて頬を緩めた。手にした猪口をじっと見つめ、そして一口、くっと呑んだ。
それから、喉を通っていく地酒をじっくりと味わった。
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