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第三部「運命(さだめ)の愛」
第十八話
しおりを挟む霜月に入って以来、江戸の町では流行り病が猛威を振るっていた。
昨年の終わり、初音から父を奪った病であった。今年、身重の我が身は特に気をつけねばならぬ。
御屋敷の中でも、この流行り病に罹る者がちらほらと出てきた。もちろん、直ちに初音の方の部屋に近づくことが禁じられる。
もし御懐妊なされた初音の方に移って、腹の子に障りが出ようものなら御家の一大事ゆえ、御屋敷内の気配はぴーんと張りつめていた。
にもかかわらず、とうとう、あんなに気をつけていたはずなのに、日中は一番初音の方の身近にいる寿姫が罹ってしまった。
「継母上……申し訳ありませぬ……」
戸板に乗せられた寿姫は、熱で荒い息をしながら、養生するための部屋に運ばれて行った。
寿姫は、それから三日三晩、熱にうなされた。一時は、目を閉じた瞼の向こうに、極楽浄土の前に横たう三途の川が見えていた。
しかし、五日目にはすっかり熱も下がった。
なのに、兵部少輔から寿姫が元のように初音の方の部屋に入ってもよいと申し渡されたのは、翌月の師走に入ってからだった。
別に、兵部少輔が寿姫を快く思わないからではない。むしろ、日中は自分が傍らにいられない代わりに、初音が心を開く寿姫に一緒にいてもらいたかった。
初音のおかげで、わだかまりのあった兵部少輔と寿姫が少しずつではあるが、何気ない話をするようになった。
実は、兵部少輔は寿姫のために許婚を探していた。
もちろん、実際に輿入れするのはまだまだ先だが、実の母方の後ろ盾がない寿姫の将来が不安定なものであるからだ。
今度は兵部少輔に異変が出た。
もともと、幼い頃より季節の変わり目には必ず風邪をひき、思いのほか長引く性質であった。
大人になった今は、さすがに季節の変わり目ごとにはひかなくなったが、それでも冬になると必ずしつこい風邪に罹っていた。
今回もまた、時節柄にもいつものそれだと思われた。
ただ、今までとは違うのは、いつも診てくれていた初音の父親である御殿医の竹内 玄丞が、もういないということだ。
新しい御殿医が抜かりなく診てくれている、と側用人が何度云うても……初音は兵部少輔の顔がただただ見たかった。
——鍋二郎さまに、逢いとうござりまする。
初音は近頃もごっと動く腹を、やさしく撫でた。
兵部少輔より会えない代わりに書状が届いた。
本当は、無理をせず横になっておくようにと、御殿医から云われていた。なのに、兵部少輔は墨をするよう云いつけ、口述すると云う側用人を制して、自ずから書をしたためた。
「……そうでなければ、初音は信ぜぬから」
兵部少輔はそう云うたのだそうだ。
初音は逸る気持ちを抑えて、その書状を開いた。
初音殿
此度はかようなことにて貴殿が気煩し候間誠にかたじけなく候
予が病日追ふにつれ快方へ向ひ候二付貴殿案ずる事露もなく候
しからば貴殿が腹の子第一義に考へ候故日中滋養ある物しかと食ひ候ひて
夜余分な事考へ候はずしかと寝ねまほしたく候
貴殿が予の為無事に子産み候義予がこの上なき喜びとなり候
何卒御身自愛し候上者
予の如き病え得候はず願い度く御座候
鍋二郎
〈 初音殿
この度はこのようなことでそなたの気を煩わせてしまい、誠に申し訳ない。
我が病は日に日に快方に向かっているので、そなたが案ずることは全くない。
だから、そなたは腹の子を一番に考えて、日中は栄養のあるものをしっかりと食べ、夜は余計なことを考えずにしっかりと寝てほしい。
そなたが我がために無事に子を産んでくれることが、我がこの上なき喜びとなるのだ。
くれぐれも身体に気をつけて、我が病などには決して罹らぬようにしてほしい。
鍋二郎 〉
たっぷりの墨で、勢いよく大振りに書かれたその文字は、明らかに兵部少輔の手によるものだった。
先代藩主の継室になる前に、手習所の師匠をしていたという兵部少輔の母親によって仕込まれた見事な書だった。
まるで雪に閉ざされた冬のようだった初音の心が、雪が溶けて花々が芽吹き出す春のように甦った。
初音は早速、自分も墨をすって返事をしたためることにした。
はちきれんばかりの満面の笑みで、側仕えの者を呼んだ。
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