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第八章 自己との対峙
18話
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わずかに感じる痛みに目を覚ます。と、リビングからオルゴールの曲が聞こえてくる。
私の好きなCD……。
けれど、人の気配は感じられない。
ゆっくりと身体を起こし、部屋を横切るように少しずつ歩く。ドアまで来てリビングダイニングを見渡したけれど、誰もいなかった。
二階からかすかにタイピングの音が聞こえてくる。その音に胸を撫で下ろす自分がいた。
きっと唯兄は二階で仕事をしているのだ。それがわかっただけでもほっとする。
もう一度リビングに視線を戻すと、お母さんのバッグがソファに置いてあった。
ということは、お母さんも家にはいるのだろう。だとしたら、仕事部屋の三階かな。
そこまで考えてベッドに戻ることにした。
静さんは帰ったのかもしれない。でも、家にひとりではない――
鎖骨から肩に走る痛みを堪えつつ、右手で肩を思い切り掴む。呻き声を漏らすくらいには痛かった。けれども、まだこの季節は終わらない。
ベッドの脇で蹲っていると、パタパタと音を立てて唯兄が二階から下りてきた。
「痛み?」
コクリ、と頷く。
「頓服薬持ってくる。ちょっと待ってて」
この部屋にも薬はあるけれど、薬箱はリビングに置いてあるからそこから持ってくるのだろう。
薬の場所はお母さんから聞いたのかな。
唯兄を待っていると、唯兄が戻ってくるときにはお母さんも一緒に入ってきた。お母さんは心配というよりは怪訝な顔をしていた。
「胸じゃなくて、肩……?」
言われてはっとする。今、自分が押さえているのは胸ではなく肩だったのだ。
唯兄に薬を飲むように促され、その場をごまかすように薬を飲んだ。
ダランと落としていた左手をお母さんが優しく握ってくれたけれど、その手は少し震えているように思えた。でも、お母さんは笑顔を作ってまったく関係のない話をしてくれる。
「静から唯くんのことは聞いたわ。彼が電話で話していたもうひとりのお兄ちゃんね?」
コクリと小さく頷くと、お母さんは心配そうな顔をして唯兄を見た。
「唯くん、仕事に戻っても大丈夫よ」
どこか気遣っているところを見ると、もしかしたらお姉さんのことも聞いたのかもしれない。
「いえ……何もできないけど側にいたいんです。どうでもいい話ならずっとしていられるし、セリにはできなかったことを全部したくて……」
最後は搾り出すような声だった。
「でも、決してセリとリィを混同しているわけじゃないので……」
そう言った唯兄の頭に陽が当たっていて、柔らかい質感の髪の毛がキラキラ光って見えた。
痛みはひどく、呼吸も乱れがち。だけど、痛みのほかに意識が逸らせるのはいいことで――痛みだけに意識を集中させてしまうよりも建設的だった。
時間はこれ以上ないくらいゆっくりと過ぎていく。けれど、一段階目の薬が効く気配は感じない。
「お母さん、次の――」
その言葉だけで何を言いたいのかを察してくれ、すぐに次の薬を用意すると唯兄が口を挟んだ。
「リィ、二段階目を飛ばして三段階目の薬にしたほうがいい。一番目と二番目の薬を立て続けに飲むとひどく胃を荒らすって湊さんが言ってた」
そう言って、三段階目の薬を手に乗せられる。
「それでもだめなときは睡眠薬追加って指示されてるよ」
と、唯兄が静かに教えてくれた。
私もお母さんもびっくりしていたけれど、それで楽になれるのならなんでも良かった。
薬を飲むと意識が朦朧とし始める。
薬が効いている……。
痛みが引いていくというよりは、自分の意識が薄れていく感覚のほうが強かった。
自分では眠っているのか起きているのかすらわからない中、ふわりふわりと思いが取り巻く。
唯兄はここにいたら仕事ができないんじゃないかな、とか。お母さんは今からがすごく忙しくて秋には大詰めに入るんじゃなかったかな、とか。
痛みが起きてもサイドテーブルにお水と薬さえあれば自分で飲むことは可能だし、誰がいてもいなくても、痛みが引くでもなくなるわけでもない。ならば、人がこの家にいる必要はないんじゃないかな、とか。
不健康といわれるかもしれないけれど、ご飯なんて食べられる気がしないからゼリー飲料があればカロリーだけは摂れそうだし……。
人の手を煩わせるのは嫌だな……。何よりも、重荷になるのが嫌――
蒼兄は重荷じゃないって言ってくれるけど、私がそう感じてしまうのはどうやらやめられないみたい。
私はどうしたらいいのかな……。
四月から急に周りに人がたくさんいるようになって、人の気持ちが行き交う中で未だに自分がどこにいたらいいのかがわからない。
桃華さんたちと一緒にいるときや、司先輩と一緒にいるときは楽なのに、ほかの人が入ってくると、途端にバランスが取れない人みたいになってしまう。それでも、支えてくれる手があったからその中でも立っていることができた。
けれど、その支えがなくなったら……? 私はいったいどうなってしまうのだろう。
色々と考えなくてはいけないことがあるけれど、全部放棄してしまいたい気持ちもある。
私、今、そんなに余裕はないの――
それから三日経ってもお母さんは家にいた。今日は土曜日だと、携帯のディスプレイが教えてくれる。もう、自分で日付けを負うのが難しくなっていた。今日が何日で何曜日なのか、何かを見ないとわからない。
発作が起きては体力を消耗し、疲れすぎた身体は食べ物を欲しない。まだ受け付けない、というところまではいかないからいいようなものの、消費しているエネルギーと摂取しているカロリーの均衡が保たれていないことなど自分でもわかっていた。
お母さんと蒼兄、唯兄が入れ替わり立ち代りで私の様子を見にくる。きっと、私が寝ている間もそれは変わらないのだろう。そんなことを感じつつの午前中だった。
お昼を回るか回らないか、そんな時間にインターホンが鳴った。インターホンが鳴るということはお父さんではない。
お母さんが階段を下りてきて玄関へ向かう。
お客様? でも、今年は通常の仕事は受けないと言っていた。
横になって久遠さんの写真を見つつ、意識は玄関の方へ向かう。
「ま、上がって?」
軽やかなお母さんの声に続き、
「お邪魔します~……」
と、若い女の人の声がした。
語尾が疲労を物語っている。仕事関係者? 仕事先からここまで来たのだろうか。
「りっちゃん、何飲むー?」
キッチンからであろうお母さんの声に、
「あっまーいミルクティー希望ですっ!」
「了解!」
甘い飲み物を所望するあたり、やはり「りっちゃん」と呼ばれた人はお疲れなのだろう。
「どうだった?」
「どうしても選びきれなくて十種オーダーかけてきちゃいました」
「ふーん、元は取れそうなの?」
「そうですねぇ……ガーデンパレスで使わなくても絶対にほかでは買えない生地なので、問題ないと思います」
「りっちゃんがそう言うのだからどれも問題はないでしょうね。私の代打、お疲れ様」
代打……?
「ラトヴィアはどうだった? すごくいいところだったでしょう?」
「すてきなところでしたー! でも、できれば仕事じゃなくて休暇で行きたいです」
ラトヴィアってどこだろう……。
確か出張で北欧へ行くことがあると言っていたからそのあたりかもしれない。
「生地のサンプルがこちらです。それから、頼まれていたものも持ってきましたよ」
「あっ、そっちが本命っ!」
ガサゴソとビニール袋からものを取り出すような音がすると、
「やっぱりかわいいっ! 翠葉っ」
と、急にお母さんに呼ばれた。
次の瞬間にはお母さんが白っぽい生地を持って部屋に入ってきた。
私の好きなCD……。
けれど、人の気配は感じられない。
ゆっくりと身体を起こし、部屋を横切るように少しずつ歩く。ドアまで来てリビングダイニングを見渡したけれど、誰もいなかった。
二階からかすかにタイピングの音が聞こえてくる。その音に胸を撫で下ろす自分がいた。
きっと唯兄は二階で仕事をしているのだ。それがわかっただけでもほっとする。
もう一度リビングに視線を戻すと、お母さんのバッグがソファに置いてあった。
ということは、お母さんも家にはいるのだろう。だとしたら、仕事部屋の三階かな。
そこまで考えてベッドに戻ることにした。
静さんは帰ったのかもしれない。でも、家にひとりではない――
鎖骨から肩に走る痛みを堪えつつ、右手で肩を思い切り掴む。呻き声を漏らすくらいには痛かった。けれども、まだこの季節は終わらない。
ベッドの脇で蹲っていると、パタパタと音を立てて唯兄が二階から下りてきた。
「痛み?」
コクリ、と頷く。
「頓服薬持ってくる。ちょっと待ってて」
この部屋にも薬はあるけれど、薬箱はリビングに置いてあるからそこから持ってくるのだろう。
薬の場所はお母さんから聞いたのかな。
唯兄を待っていると、唯兄が戻ってくるときにはお母さんも一緒に入ってきた。お母さんは心配というよりは怪訝な顔をしていた。
「胸じゃなくて、肩……?」
言われてはっとする。今、自分が押さえているのは胸ではなく肩だったのだ。
唯兄に薬を飲むように促され、その場をごまかすように薬を飲んだ。
ダランと落としていた左手をお母さんが優しく握ってくれたけれど、その手は少し震えているように思えた。でも、お母さんは笑顔を作ってまったく関係のない話をしてくれる。
「静から唯くんのことは聞いたわ。彼が電話で話していたもうひとりのお兄ちゃんね?」
コクリと小さく頷くと、お母さんは心配そうな顔をして唯兄を見た。
「唯くん、仕事に戻っても大丈夫よ」
どこか気遣っているところを見ると、もしかしたらお姉さんのことも聞いたのかもしれない。
「いえ……何もできないけど側にいたいんです。どうでもいい話ならずっとしていられるし、セリにはできなかったことを全部したくて……」
最後は搾り出すような声だった。
「でも、決してセリとリィを混同しているわけじゃないので……」
そう言った唯兄の頭に陽が当たっていて、柔らかい質感の髪の毛がキラキラ光って見えた。
痛みはひどく、呼吸も乱れがち。だけど、痛みのほかに意識が逸らせるのはいいことで――痛みだけに意識を集中させてしまうよりも建設的だった。
時間はこれ以上ないくらいゆっくりと過ぎていく。けれど、一段階目の薬が効く気配は感じない。
「お母さん、次の――」
その言葉だけで何を言いたいのかを察してくれ、すぐに次の薬を用意すると唯兄が口を挟んだ。
「リィ、二段階目を飛ばして三段階目の薬にしたほうがいい。一番目と二番目の薬を立て続けに飲むとひどく胃を荒らすって湊さんが言ってた」
そう言って、三段階目の薬を手に乗せられる。
「それでもだめなときは睡眠薬追加って指示されてるよ」
と、唯兄が静かに教えてくれた。
私もお母さんもびっくりしていたけれど、それで楽になれるのならなんでも良かった。
薬を飲むと意識が朦朧とし始める。
薬が効いている……。
痛みが引いていくというよりは、自分の意識が薄れていく感覚のほうが強かった。
自分では眠っているのか起きているのかすらわからない中、ふわりふわりと思いが取り巻く。
唯兄はここにいたら仕事ができないんじゃないかな、とか。お母さんは今からがすごく忙しくて秋には大詰めに入るんじゃなかったかな、とか。
痛みが起きてもサイドテーブルにお水と薬さえあれば自分で飲むことは可能だし、誰がいてもいなくても、痛みが引くでもなくなるわけでもない。ならば、人がこの家にいる必要はないんじゃないかな、とか。
不健康といわれるかもしれないけれど、ご飯なんて食べられる気がしないからゼリー飲料があればカロリーだけは摂れそうだし……。
人の手を煩わせるのは嫌だな……。何よりも、重荷になるのが嫌――
蒼兄は重荷じゃないって言ってくれるけど、私がそう感じてしまうのはどうやらやめられないみたい。
私はどうしたらいいのかな……。
四月から急に周りに人がたくさんいるようになって、人の気持ちが行き交う中で未だに自分がどこにいたらいいのかがわからない。
桃華さんたちと一緒にいるときや、司先輩と一緒にいるときは楽なのに、ほかの人が入ってくると、途端にバランスが取れない人みたいになってしまう。それでも、支えてくれる手があったからその中でも立っていることができた。
けれど、その支えがなくなったら……? 私はいったいどうなってしまうのだろう。
色々と考えなくてはいけないことがあるけれど、全部放棄してしまいたい気持ちもある。
私、今、そんなに余裕はないの――
それから三日経ってもお母さんは家にいた。今日は土曜日だと、携帯のディスプレイが教えてくれる。もう、自分で日付けを負うのが難しくなっていた。今日が何日で何曜日なのか、何かを見ないとわからない。
発作が起きては体力を消耗し、疲れすぎた身体は食べ物を欲しない。まだ受け付けない、というところまではいかないからいいようなものの、消費しているエネルギーと摂取しているカロリーの均衡が保たれていないことなど自分でもわかっていた。
お母さんと蒼兄、唯兄が入れ替わり立ち代りで私の様子を見にくる。きっと、私が寝ている間もそれは変わらないのだろう。そんなことを感じつつの午前中だった。
お昼を回るか回らないか、そんな時間にインターホンが鳴った。インターホンが鳴るということはお父さんではない。
お母さんが階段を下りてきて玄関へ向かう。
お客様? でも、今年は通常の仕事は受けないと言っていた。
横になって久遠さんの写真を見つつ、意識は玄関の方へ向かう。
「ま、上がって?」
軽やかなお母さんの声に続き、
「お邪魔します~……」
と、若い女の人の声がした。
語尾が疲労を物語っている。仕事関係者? 仕事先からここまで来たのだろうか。
「りっちゃん、何飲むー?」
キッチンからであろうお母さんの声に、
「あっまーいミルクティー希望ですっ!」
「了解!」
甘い飲み物を所望するあたり、やはり「りっちゃん」と呼ばれた人はお疲れなのだろう。
「どうだった?」
「どうしても選びきれなくて十種オーダーかけてきちゃいました」
「ふーん、元は取れそうなの?」
「そうですねぇ……ガーデンパレスで使わなくても絶対にほかでは買えない生地なので、問題ないと思います」
「りっちゃんがそう言うのだからどれも問題はないでしょうね。私の代打、お疲れ様」
代打……?
「ラトヴィアはどうだった? すごくいいところだったでしょう?」
「すてきなところでしたー! でも、できれば仕事じゃなくて休暇で行きたいです」
ラトヴィアってどこだろう……。
確か出張で北欧へ行くことがあると言っていたからそのあたりかもしれない。
「生地のサンプルがこちらです。それから、頼まれていたものも持ってきましたよ」
「あっ、そっちが本命っ!」
ガサゴソとビニール袋からものを取り出すような音がすると、
「やっぱりかわいいっ! 翠葉っ」
と、急にお母さんに呼ばれた。
次の瞬間にはお母さんが白っぽい生地を持って部屋に入ってきた。
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