2 / 7
凋落 - 借金2000万の男
しおりを挟む
「何?オセロ借金が2000万円もあるとか?」
服部がすっとんきょうな声を上げたのは、鴨居にある安居酒屋で酒を酌み交わしている時だった。鴨居は服部が入居する社宅の最寄駅だ。
服部は東京田町に本社を構えるFA(ファクトリーオートメーション)のメンテナンス会社”東京エンジニアリング”の同期で、かれこれ10年以上の付き合いになる。服部と僕が仲良くなったのは、入社直後に行われる富士研修所での新人研修で、相部屋になったのが切っ掛けだったが、それ以来、社内でも肩肘はらずに本音で話せる数少ない親友で、この夜も東京出張で一緒に安酒を煽っている。
服部の外見は中背のぽっちゃり体型。決してイケメンとは言えないが、柔和で人懐こい顔つきが印象的な、一言でいうと人好きのするタイプで、佐賀弁で愛嬌のある話し方をするので同期の中でも人気者だった。
「そうなんだよ。嫌になるよな。」
「それだけん借金どがんすっつもりだ?」
「どうしようもない。粛々と返していくしかないよ。」
「ばってん、それだけん借金からあってよう明るう言えるな~」
服部は半分呆れたように言うと、食べかけのおでんを口に放り込んだ。お互い酒が進み頬がほんのり赤みを帯びている。
僕は服部にはそういったのだが、強がりでも何でもなく、本当に何とかなると達観していた。2000万円もの借金を返すあてなど全くないのだが・・・
とにかく、僕が東京出張の際には、服部と一緒に呑むことが多かった。でも、それは一般的に同僚との再会で久しぶりに呑み交わそういう単純な動機ではない。
東京エンジニアリング在籍中はとにかく出張が多かった。北は北海道から南は九州と、それこそ文字通り全国を飛び回っていた。もちろん出張の際には出張費が支給される。東京出張の場合は、一泊につき出張費7000円+宿泊費8000円、合わせて15000円が支給されるのだが、ホテルに宿泊せずに服部の部屋に泊めてもらい出張費を浮かせ、その金を呑み代に充てていた。
服部としてもタダで呑み食いできるのでWin-Win(服部にとっては迷惑な時もあったかもしれないが、そんな顔はおくびにも出さず、いつも温かく迎えてくれていた。)だと思うが、こうした遣り繰りしているのは、その頃の僕には自由に呑みに行ける金がなかったからだ。安居酒屋なら15000円もあれば二人で呑んでもお釣りがでる。
ただし、寝る場所は快適とはいえず、社宅に余分な布団はないので、キャンプ用の寝袋に潜り込んで寝る。夏は敷布団代わりに寝袋を敷いてその上に寝る。寝袋の下はコンクリートかと思うような硬い板敷の床なので朝起きると体の節々が痛い。それでも全く不満などなかったし、服部とのこうした呑み会は、嫌な現実を少しだけ忘れさせてくれる数少ない愉しみだった。
ここで僕が何故借金を2000万円も抱えてしまったのかをお話したい。
僕の父は、名古屋で建築工務店”マルトク”を経営していた。マルトクは小規模ながらもバブル景気に支えられ安定して仕事を受注していた。その頃の僕はまだ学生で世間知らずだったが、なんとなく父は毎日のように仕事終わりには、会社の従業員と呑み歩いていたので懐具合は悪く無かったのだろうと思う。
母は毎日飲み歩く父のことに愚痴を溢していたが、僕は将来はなんとなく父の仕事を継ぐのだろうなとボンヤリと考えていた。
しかし、平穏だった日常はある一本の電話で一変した。
「え?いったいどういう事ですか?」
父が困惑した声を上げた。電話の相手はマルトクで戸建て新築した新美さんだった。
「はい。はい。え?そんな事は聞いてないですが・・・そうですか?確認します。」
そう言って父は乱暴に受話器を置いた。
「父さん。どうしたの?」
「あ、いや、どうもよく分からないんだが、新美さんが工事の残金は三田さんに既に渡したといってるんだよ。それで領収書もあるそうだ。」
三田はマルトクの営業部長だった。部長といっても僅か数人の所帯なので部下はいないのだが、対面的に肩書があった方がいいだろうと名刺には営業部長と記載されている。
三田と最初の顔合わせは、父が行きつけにしていた居酒屋”大吉”に突然呼び出された時だった。三田は父が勤めていた東和工務店から独立する時に、父に付いて来てくれるという説明だった。それで僕に会わせたのだという。
初めてあった三田は、中背の痩せ型で頭頂部がやや薄く面長で左目に比べて右目が小さいという特徴的な容姿だった。
そんな三田に何故だろう。特に根拠はないのだが、僕は父に
「三田さんって信用できるの?」
と尋ねていた。
「三田さんとは何年も一緒に東和工務店で働いていて、とても優秀な営業マンなんだ。これで仕事の受注は心配なくなるぞ。」
と、えらく父は上機嫌に答えていたのを覚えている。
しかし、その三田が新美さんの建築費2000万を横領したことが発覚した。後からわかったのだが、三田は阿知波という地元の悪いスジに借金があったらしい。この事件の後、三田は内縁の妻(森川)とその連れ子の男の子と一緒に消息を絶った。
それから会社の経営状態は急落した。建築工務店は大きなお金が動くが、実はそれほど利益率が高くはない。年間数億円規模の弱小工務店にとって2000万円の穴は、とてつもなく大きな痛手となった。
さらに追い討ちのような出来事が立て続けに発生する
1991年~ バブル崩壊
1995年 阪神大震災
今まで好景気に支えられていたマルトクは、この2つの出来事で窮地に追い込まれていく。
愛知県はトヨタ自動車のお膝元である。
そのトヨタ自動車には”トヨタホーム”という住宅関連会社がある。トヨタグループ企業に勤める人の多くの人は、このトヨタホームで家を建てることが多かった。
マルトクの顧客もトヨタグループに勤める人が多かったが、マルトクはお客さんの要望に応えた完全注文住宅を設計するのが売りで、それが評判を呼んで、お客さんからお客さんへと口コミの紹介で業績を拡大していった。しかし景気の悪化とともに、コストの掛かる完全注文住宅から、比較的コスパの良いグループ会社のトヨタホームにお客さんは流れていくようになってしまった。
多額の負債があるにもかかわらず、受注が落ち込んでいく負のスパイラル。
この事件当時、僕は既に東京エンジニアリングに就職していたが、父を助けようと、父に乞われるままに、銀行をはじめサラ金などから借りれるだけ借金を積み重ねていった。そして、気づけば総額2000万円という途方もない額面まで膨れ上がっていった。
服部がすっとんきょうな声を上げたのは、鴨居にある安居酒屋で酒を酌み交わしている時だった。鴨居は服部が入居する社宅の最寄駅だ。
服部は東京田町に本社を構えるFA(ファクトリーオートメーション)のメンテナンス会社”東京エンジニアリング”の同期で、かれこれ10年以上の付き合いになる。服部と僕が仲良くなったのは、入社直後に行われる富士研修所での新人研修で、相部屋になったのが切っ掛けだったが、それ以来、社内でも肩肘はらずに本音で話せる数少ない親友で、この夜も東京出張で一緒に安酒を煽っている。
服部の外見は中背のぽっちゃり体型。決してイケメンとは言えないが、柔和で人懐こい顔つきが印象的な、一言でいうと人好きのするタイプで、佐賀弁で愛嬌のある話し方をするので同期の中でも人気者だった。
「そうなんだよ。嫌になるよな。」
「それだけん借金どがんすっつもりだ?」
「どうしようもない。粛々と返していくしかないよ。」
「ばってん、それだけん借金からあってよう明るう言えるな~」
服部は半分呆れたように言うと、食べかけのおでんを口に放り込んだ。お互い酒が進み頬がほんのり赤みを帯びている。
僕は服部にはそういったのだが、強がりでも何でもなく、本当に何とかなると達観していた。2000万円もの借金を返すあてなど全くないのだが・・・
とにかく、僕が東京出張の際には、服部と一緒に呑むことが多かった。でも、それは一般的に同僚との再会で久しぶりに呑み交わそういう単純な動機ではない。
東京エンジニアリング在籍中はとにかく出張が多かった。北は北海道から南は九州と、それこそ文字通り全国を飛び回っていた。もちろん出張の際には出張費が支給される。東京出張の場合は、一泊につき出張費7000円+宿泊費8000円、合わせて15000円が支給されるのだが、ホテルに宿泊せずに服部の部屋に泊めてもらい出張費を浮かせ、その金を呑み代に充てていた。
服部としてもタダで呑み食いできるのでWin-Win(服部にとっては迷惑な時もあったかもしれないが、そんな顔はおくびにも出さず、いつも温かく迎えてくれていた。)だと思うが、こうした遣り繰りしているのは、その頃の僕には自由に呑みに行ける金がなかったからだ。安居酒屋なら15000円もあれば二人で呑んでもお釣りがでる。
ただし、寝る場所は快適とはいえず、社宅に余分な布団はないので、キャンプ用の寝袋に潜り込んで寝る。夏は敷布団代わりに寝袋を敷いてその上に寝る。寝袋の下はコンクリートかと思うような硬い板敷の床なので朝起きると体の節々が痛い。それでも全く不満などなかったし、服部とのこうした呑み会は、嫌な現実を少しだけ忘れさせてくれる数少ない愉しみだった。
ここで僕が何故借金を2000万円も抱えてしまったのかをお話したい。
僕の父は、名古屋で建築工務店”マルトク”を経営していた。マルトクは小規模ながらもバブル景気に支えられ安定して仕事を受注していた。その頃の僕はまだ学生で世間知らずだったが、なんとなく父は毎日のように仕事終わりには、会社の従業員と呑み歩いていたので懐具合は悪く無かったのだろうと思う。
母は毎日飲み歩く父のことに愚痴を溢していたが、僕は将来はなんとなく父の仕事を継ぐのだろうなとボンヤリと考えていた。
しかし、平穏だった日常はある一本の電話で一変した。
「え?いったいどういう事ですか?」
父が困惑した声を上げた。電話の相手はマルトクで戸建て新築した新美さんだった。
「はい。はい。え?そんな事は聞いてないですが・・・そうですか?確認します。」
そう言って父は乱暴に受話器を置いた。
「父さん。どうしたの?」
「あ、いや、どうもよく分からないんだが、新美さんが工事の残金は三田さんに既に渡したといってるんだよ。それで領収書もあるそうだ。」
三田はマルトクの営業部長だった。部長といっても僅か数人の所帯なので部下はいないのだが、対面的に肩書があった方がいいだろうと名刺には営業部長と記載されている。
三田と最初の顔合わせは、父が行きつけにしていた居酒屋”大吉”に突然呼び出された時だった。三田は父が勤めていた東和工務店から独立する時に、父に付いて来てくれるという説明だった。それで僕に会わせたのだという。
初めてあった三田は、中背の痩せ型で頭頂部がやや薄く面長で左目に比べて右目が小さいという特徴的な容姿だった。
そんな三田に何故だろう。特に根拠はないのだが、僕は父に
「三田さんって信用できるの?」
と尋ねていた。
「三田さんとは何年も一緒に東和工務店で働いていて、とても優秀な営業マンなんだ。これで仕事の受注は心配なくなるぞ。」
と、えらく父は上機嫌に答えていたのを覚えている。
しかし、その三田が新美さんの建築費2000万を横領したことが発覚した。後からわかったのだが、三田は阿知波という地元の悪いスジに借金があったらしい。この事件の後、三田は内縁の妻(森川)とその連れ子の男の子と一緒に消息を絶った。
それから会社の経営状態は急落した。建築工務店は大きなお金が動くが、実はそれほど利益率が高くはない。年間数億円規模の弱小工務店にとって2000万円の穴は、とてつもなく大きな痛手となった。
さらに追い討ちのような出来事が立て続けに発生する
1991年~ バブル崩壊
1995年 阪神大震災
今まで好景気に支えられていたマルトクは、この2つの出来事で窮地に追い込まれていく。
愛知県はトヨタ自動車のお膝元である。
そのトヨタ自動車には”トヨタホーム”という住宅関連会社がある。トヨタグループ企業に勤める人の多くの人は、このトヨタホームで家を建てることが多かった。
マルトクの顧客もトヨタグループに勤める人が多かったが、マルトクはお客さんの要望に応えた完全注文住宅を設計するのが売りで、それが評判を呼んで、お客さんからお客さんへと口コミの紹介で業績を拡大していった。しかし景気の悪化とともに、コストの掛かる完全注文住宅から、比較的コスパの良いグループ会社のトヨタホームにお客さんは流れていくようになってしまった。
多額の負債があるにもかかわらず、受注が落ち込んでいく負のスパイラル。
この事件当時、僕は既に東京エンジニアリングに就職していたが、父を助けようと、父に乞われるままに、銀行をはじめサラ金などから借りれるだけ借金を積み重ねていった。そして、気づけば総額2000万円という途方もない額面まで膨れ上がっていった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
3
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる