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第四十話 長屋の笑い声
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この日の夕は天気も良く、心地の良い風が吹いていた。少し薄暗くなってきたあたり、只で噂の芝居を一目見ようと表通りには人が溢れかえっていた。
舞台は裏長屋。向かい合った棟割長屋の六部屋とその通りを使ったもので、中央にてんとうが立ってかんとだきを配っている。先程からずっと三味線を持ったお福が稲荷横で軽くて陽気な調べを奏でており、それは人々の心を躍らせ、各々の酒を進ませているようだ。
ちゃんつくちゃんつく、ちゃんつくちゃんつく。
長次は父の正太郎を井戸端の最前列に座らせてやり、長屋の連中もまたすっかり痩せてしまったその彼を気にしてやっていた。てんとうがかんとだきを持ってやってくると、長次はそれを受け取って正太郎に見せてやる。
「父上、これが堺のかんとだきです」
「このかんとだきは特別やで、おっちゃん向けに作ったやつやから、汁っけ多いし、ほぐれるくらい柔らかくしてある。ゆっくり食べてな」
「おお、いいにおいだ、これがかんとだきか……」
「食べれそう?」
正太郎は静かに頷き、器を口につける。周囲の人々は怖々その様子を見ていたが、正太郎が汁を飲み込んで微笑むとほっとしたように笑い始めた。
「おいしいなあ」
「てんとうちゃん、あたしもちょうだい!」
「はいはいー、ようけあるから慌てんと平気やでー」
時の鐘が鳴り終わった後、お福は調べを変えて口上を始める。いよいよ始まるらしい。周囲の視線が中央の路地に向く。
「ここはご存じ、本所長屋。市井の人々はそりゃあもう、どがつく貧乏。この冬越えられないかもしれないと、一家が身を寄せ合って泣いておりました」
「念のため言うとくけど、お芝居の中の噺やで」
てんとうが改めて言うと、小さく笑い声が聞こえる。
「そんな時、市中に弁天鼠小僧なる盗賊が現れる!」
べべべんべん!
「んんん! なんとしけた長屋!」
ほっかむりを鼻で止めた黒い装束の吉祥が、千両箱を肩に抱えて裏長屋の屋根から姿を現し、周囲からどよめきと拍手が沸き起こる。その次の瞬間、棟割長屋の一部屋の木戸がスパンと音を立てて開き、女物の着物を着た天道がはみ出すほどの紅を唇に塗って登場。大根と包丁片手にがにまたで大股歩きをする女姿に、周囲がどっと笑い声を上げた。
「誰だい! 人の家の上でしけたとか言ってる奴は!」
反対側の戸が静かに開き、同心風な出で立ちをした仏頂面の寿三郎も姿を現すと、その嫌々やらされている様に周囲が指をさして笑い出す。
「なんや寿三郎の旦那、そんなおとろしい顔して歩いてたら、アンタが捕まえられるで」
「なんで俺の役が入ってんだよ……」
「そら、一座の者やし?」
「手伝うとは言ったが、役になるとは言ってないだろう!」
屋根の上にいる吉祥がそれを見て笑う。
「なにやら言い争っているな? 今のうちに盗んだ金を市中にばらまいてくれよう!」
べべん、べん、ちりちりちりちり、とんつくとんつくとんつくとんつく。
「ほら、ほらほら! アンタ捕まえる役やで!」
「なっ……!?」
観客は喜んで手を叩き、狼狽える寿三郎をけしかける。
「寿三郎さんー! がんばってえー!」
「逃げられるぞー! 早く捕まえろー!」
「くそっ……! お前ら……!!」
いい気なものだが、正太郎がそれを見て笑っているので無碍にもできず。致し方なく寿三郎が屋根に上がろうとすると、吉祥はその横を滑るように飛び降りて向かいの長屋に入り込んだ。
「あっ! 待て!」
それを追いかけて行くと、何故か斜め向かいの部屋から吉祥が顔を出す。それを見た市中の人々は大笑い。
「すごい! いつの間に!」
「寿三郎さんー! 後ろー!」
子供も大喜びで声を上げる。吉祥が持っていた千両箱から黄色の紙でくるんだ餅を小判に見立てて周囲に投げれば、きゃあきゃあと女衆がそれに手を伸ばす。慌てた寿三郎が振り返ると、それを邪魔する天道が行く手を拒んだ。
「おいこら!」
吉祥はその天道の背を借りて軽々と屋根の上に飛び上がり、おおっと周囲から歓声が沸き起こる。
「あれ軽業っていうやつ!?」
「きゃあ、吉祥さんかっこいいー!!」
その声に応えるように黄色い餅をばらまき、長屋の向こうへ下りた後、また別の戸から姿を見せた。寿三郎もその素早さに感心するほどで、さすが本職は魅せる部分が分かっていらっしゃる。
終始盛大な拍手と笑いが長屋に響いていたが、次第に陽も暮れてきた。夕日が屋根の向こうに隠れようかというあたりで、吉祥が空になった千両箱を逆さに置いて屋根の上からそれを眺める。
ててん、とん、てんとん、てんとん……。
「たくましきかな、市井の人々。これで明日の陽も、また、再び登ろう」
暗くなっていく空は、吉祥の黒装束を闇へと隠していく。まるでその場の全ての幕が下りた錯覚に、見ていた人々はため息を漏らした。
ちゃんかちゃんかちゃんかちゃんか。
あの曲だ。寿三郎が怯える、やたらと耳につく、あの歌が。
「天道笑えばー、朝日が昇るー、沈む笑顔は朝日で昇る、あ元気あ元気あ元気元気元気元気、笑えば元気ー、天道一座は輝きまっせー! 毎度おおきに! また明日ー!」
いつもの芝居の長さに比べれば遙かに短いものであったが、笑いと拍手は変わらない。人々は大いに喜び、手を叩く。
つい最近、芝居を『まるで夢のような』と言っていた子供がいたが、それを見ていた老若男女が同じ気持ちを抱いたであろう。
舞台は裏長屋。向かい合った棟割長屋の六部屋とその通りを使ったもので、中央にてんとうが立ってかんとだきを配っている。先程からずっと三味線を持ったお福が稲荷横で軽くて陽気な調べを奏でており、それは人々の心を躍らせ、各々の酒を進ませているようだ。
ちゃんつくちゃんつく、ちゃんつくちゃんつく。
長次は父の正太郎を井戸端の最前列に座らせてやり、長屋の連中もまたすっかり痩せてしまったその彼を気にしてやっていた。てんとうがかんとだきを持ってやってくると、長次はそれを受け取って正太郎に見せてやる。
「父上、これが堺のかんとだきです」
「このかんとだきは特別やで、おっちゃん向けに作ったやつやから、汁っけ多いし、ほぐれるくらい柔らかくしてある。ゆっくり食べてな」
「おお、いいにおいだ、これがかんとだきか……」
「食べれそう?」
正太郎は静かに頷き、器を口につける。周囲の人々は怖々その様子を見ていたが、正太郎が汁を飲み込んで微笑むとほっとしたように笑い始めた。
「おいしいなあ」
「てんとうちゃん、あたしもちょうだい!」
「はいはいー、ようけあるから慌てんと平気やでー」
時の鐘が鳴り終わった後、お福は調べを変えて口上を始める。いよいよ始まるらしい。周囲の視線が中央の路地に向く。
「ここはご存じ、本所長屋。市井の人々はそりゃあもう、どがつく貧乏。この冬越えられないかもしれないと、一家が身を寄せ合って泣いておりました」
「念のため言うとくけど、お芝居の中の噺やで」
てんとうが改めて言うと、小さく笑い声が聞こえる。
「そんな時、市中に弁天鼠小僧なる盗賊が現れる!」
べべべんべん!
「んんん! なんとしけた長屋!」
ほっかむりを鼻で止めた黒い装束の吉祥が、千両箱を肩に抱えて裏長屋の屋根から姿を現し、周囲からどよめきと拍手が沸き起こる。その次の瞬間、棟割長屋の一部屋の木戸がスパンと音を立てて開き、女物の着物を着た天道がはみ出すほどの紅を唇に塗って登場。大根と包丁片手にがにまたで大股歩きをする女姿に、周囲がどっと笑い声を上げた。
「誰だい! 人の家の上でしけたとか言ってる奴は!」
反対側の戸が静かに開き、同心風な出で立ちをした仏頂面の寿三郎も姿を現すと、その嫌々やらされている様に周囲が指をさして笑い出す。
「なんや寿三郎の旦那、そんなおとろしい顔して歩いてたら、アンタが捕まえられるで」
「なんで俺の役が入ってんだよ……」
「そら、一座の者やし?」
「手伝うとは言ったが、役になるとは言ってないだろう!」
屋根の上にいる吉祥がそれを見て笑う。
「なにやら言い争っているな? 今のうちに盗んだ金を市中にばらまいてくれよう!」
べべん、べん、ちりちりちりちり、とんつくとんつくとんつくとんつく。
「ほら、ほらほら! アンタ捕まえる役やで!」
「なっ……!?」
観客は喜んで手を叩き、狼狽える寿三郎をけしかける。
「寿三郎さんー! がんばってえー!」
「逃げられるぞー! 早く捕まえろー!」
「くそっ……! お前ら……!!」
いい気なものだが、正太郎がそれを見て笑っているので無碍にもできず。致し方なく寿三郎が屋根に上がろうとすると、吉祥はその横を滑るように飛び降りて向かいの長屋に入り込んだ。
「あっ! 待て!」
それを追いかけて行くと、何故か斜め向かいの部屋から吉祥が顔を出す。それを見た市中の人々は大笑い。
「すごい! いつの間に!」
「寿三郎さんー! 後ろー!」
子供も大喜びで声を上げる。吉祥が持っていた千両箱から黄色の紙でくるんだ餅を小判に見立てて周囲に投げれば、きゃあきゃあと女衆がそれに手を伸ばす。慌てた寿三郎が振り返ると、それを邪魔する天道が行く手を拒んだ。
「おいこら!」
吉祥はその天道の背を借りて軽々と屋根の上に飛び上がり、おおっと周囲から歓声が沸き起こる。
「あれ軽業っていうやつ!?」
「きゃあ、吉祥さんかっこいいー!!」
その声に応えるように黄色い餅をばらまき、長屋の向こうへ下りた後、また別の戸から姿を見せた。寿三郎もその素早さに感心するほどで、さすが本職は魅せる部分が分かっていらっしゃる。
終始盛大な拍手と笑いが長屋に響いていたが、次第に陽も暮れてきた。夕日が屋根の向こうに隠れようかというあたりで、吉祥が空になった千両箱を逆さに置いて屋根の上からそれを眺める。
ててん、とん、てんとん、てんとん……。
「たくましきかな、市井の人々。これで明日の陽も、また、再び登ろう」
暗くなっていく空は、吉祥の黒装束を闇へと隠していく。まるでその場の全ての幕が下りた錯覚に、見ていた人々はため息を漏らした。
ちゃんかちゃんかちゃんかちゃんか。
あの曲だ。寿三郎が怯える、やたらと耳につく、あの歌が。
「天道笑えばー、朝日が昇るー、沈む笑顔は朝日で昇る、あ元気あ元気あ元気元気元気元気、笑えば元気ー、天道一座は輝きまっせー! 毎度おおきに! また明日ー!」
いつもの芝居の長さに比べれば遙かに短いものであったが、笑いと拍手は変わらない。人々は大いに喜び、手を叩く。
つい最近、芝居を『まるで夢のような』と言っていた子供がいたが、それを見ていた老若男女が同じ気持ちを抱いたであろう。
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