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42 ディートハルト先生という人

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 明くる朝、目が覚めた私はベッドの上で痛む頭に悩まされながら唸る事となった。

 体中の関節がギシギシと痛むし、頭はボーっとする。咳も止まらないうえに寒くていられない。おかしい…今は夏なのにと、ウンウン唸りながら毛布を巻き付ける。

「カール…熱が38度もあるよ。顔色も悪いし…他に具合の悪いところは無い?」
「うう…頭は痛いし…喉も痛いし…全身がギシギシ痛いよぅ…」

 起きぬけから、ベッドの上でガタガタと震えている私を心配したルイスが、医務室からディートハルト先生を呼んで来てくれたので、この場で診察を受けると“ただの夏風邪だろう”と診断された。

「大体、いくら夏とはいえ噴水に落ちて全身ずぶ濡れになれば風邪ぐらいひくだろう。あそこの水は地下水だからかなり冷たいしな。それに、お前は随分と寝不足みたいだから。安静にして、今日は部屋で休んでいろよ」

 私の眼の下に出来たクマを人差し指でなぞると、ディートハルト先生は頭に濡れタオルを乗せてくれた。あー…冷たくて気持ちいい…。

 しかし、本日は終業式のみで、【王立学術院】はこのまま夏季休暇へと突入してしまう。午後からは、生徒はほぼ全員が自宅へと帰宅してしまうので、寄宿舎はもぬけの殻になるのだ。

「こんな高熱を出している状態で、馬車で移動なんか出来る訳が無いだろう。吐くぞ?
無理をして病状が悪化すれば、いくら夏風邪と言っても他の病を併発する恐れだってあるし。…終業式が終わったら、ルイスだけ先に帰して、病状が落ち着くまで学術院で看病してやるから。良いな?」

 ディートハルト先生のお言葉に甘えて頷くと「ヨシ…」と頭をガシガシ撫でられた。

「さすがに、男子寮に傍仕えのメイドを連れ込むわけにはいかないからな。仕方ない、お前は医務室で療養だな。ルイスは帰宅したら、自宅から手の空くメイドを一人こちらに寄越してくれ」

 その言葉に頷くと、ルイスは「カール、私は終業式に行って来るから、あまり無理はしないでね」と、心配そうに髪を撫でてから部屋を出て行った。

「カール、汗をかいて気持ち悪いとは思うがこのまま医務室に運ぶぞ。あそこなら鍵もかかるから、メイドが到着したら新しい夜着に着替えて、その胸に巻いた布も取れよ。今は少しでも内臓の圧迫感を減らして、呼吸を楽にした方がよく眠れるからな」

 ディートハルト先生は全身に毛布を巻き付けると、私を軽々と抱きかかえて歩き出した。
 熱でぼーっとしているから、余計に体を包む温かさと優しい揺れが眠気を誘う。

「もう全員終業式に行って、人目も無いから気にするな。このまま寝ても良いぞ…?」

 先生の囁く声が子守歌のように私の瞼を重くする。昨日から色々思い出して弱っていたせいか、何も考えたくなくて『うん…』とだけ答えると、そのまま私の意識は途切れたのだった。



 次に目が覚めると、真っ白い天井と、天井からレールで吊り下がるゆらゆらと揺れているカーテンが目に映った。

「カール目が覚めたのか…。具合はどうだ?」

 声を掛けられ、ふとベッド脇を見ると、すぐ間近でディートハルト先生が顔を覗き込んでくる。コップの水を差しだされ、口をつけると、ひどく喉が渇いていたことに気が付いて一息に呷った。

「は…い。朝よりは楽になりました。…もう夕方ですか?」

 窓から差し込む西日から、多分夕方だろうと推察したものの、人気の無い校舎は物音ひとつしない。ルイスも今頃はもう邸宅に辿り着いた頃だろうか…。
 熱があるせいか、未だに思考が纏まらず朦朧としていると、私の額にディートハルト先生がそっと手を当てた。

「ああ…まだ結構熱があるみたいだな。解熱剤を服用するためにも、少しは腹の中に入れた方が良いから…お前、食欲はあるのか?」

 先生の人よりも少しだけ低い体温が心地よくて、ウットリしながらその手に額を摺り寄せると「猫みたいだな」と低い声でクスクス笑う声が耳に響いた。
 正直、あまりお腹は空いていなかったけれど、彼の好意を無にしたくなくて頷く。

 先生はいつも腰まである黒髪を後ろで纏めて、長い前髪と野暮ったい黒縁眼鏡で顔を半分隠している。そんな彼の瞳が黒曜石のように美しいことや、整った顔立ちが多くの女性を魅了することを、どれだけの人が知っているのだろうか。

『地味な容姿の方が、油断して人は口を開きやすい』というのが彼の持論だけれど、今の彼は鬱陶しい前髪も後ろに纏め、顔を晒していた。

 “…以前、隣国で諜報員として潜入していた時に、同時に何人もの女性から惚れられて、任務失敗する程の問題を起こしたことがあったから。俺に惚れそうな女性の前では顔を隠すことにしているんだ。”
 そう彼から聞かされたのは、二人きりの…一体、何回目の王妃殿下への報告会だったのか定かではない。だから私は“へえ、そうですか”と頷いて、彼に聞いたのだ。

“素顔のままでいられる相手はいないのか”と…。

「俺は諜報員を仕事にしているし、自分の素顔を知られることは正体がバレる危険も高まるからな。わざわざトラブルの種を蒔くような事はしたくない」

 彼はそう言うと「俺の顔に興味あるのか?俺は、お子様は対象外だぞ」と笑うから、私も一緒に笑っておいた。彼とは教師と生徒、王妃殿下の諜報員として働くぐらいしか接点が無いのだから、これ以上彼の側に踏み込むつもりは無かったからだ。
 その日からフッと気づくと、彼が少しずつ私の前で眼鏡を外したり、髪をカトーガンで纏めたりして素顔を晒すことが増えて来るようになった。

「ディートハルト先生はいつも本を読んでいるから、鬱陶しい前髪が無い方が、目が疲れない気がします。…その大きな伊達眼鏡もすごく邪魔そうだし」

 彼の素顔を見た私の、何の感情も含まない感想は、どうやら彼のお気に召したらしい。

「お前みたいに色恋沙汰と本気で縁の薄そうな女もいるんだな。ハハ…本当に面白い奴」

 楽しそうに頭を撫でる先生と私の関係には、何の色も感情も付いていない。だからこそ私自身も随分と心地いいと感じるのだろう。

(多分、彼にとっての私は生徒であり、王妃殿下の為に働く仲間であり、世話の掛かる子供の括りなんだろうなぁ…)

 備え付けの簡易調理場で手際よくパン粥を作っている、先生の大きな背中をボンヤリと見ていると、漂う甘い香りにお腹の虫が“グーッ”と騒ぎだした。

「熱いから火傷するなよ。無理なら残しても構わないから少しは食べろ」

 差し出されたパン粥を受け取り、フーフーと冷ましながら口に運ぶと、蕩けるようなパンとミルクの優しい味に、じんわりと体が温まるのを感じる。

(美味しい⁈…先生って料理まで上手なんだ。本当に何でも熟せるのね…)

 結局私がペロリと完食するまで、ディートハルト先生は一言も発することなく傍に居てくれた。
 解熱剤を飲んでベッドに横になると、彼の先ほどから逡巡していた唇が、漸く決心した様に開く。

「お前、両親から虐待――ああ、言葉は悪いが…精神的に虐げられてるような事は無いか?俺で良ければ話を聞かせてもらうが…」

(両親からの虐待…?一体何の話なのかしら…)

 意味が分からず唖然とする私に、彼は黒曜石の瞳を揺らしながら痛ましそうな顔をして視線を向けてきた。

「お前が熱で魘されている間中、寝言で何度も『お母様ごめんなさい…ルイ―セが悪いの…許して』と涙を零していたんだ。見過ごせないくらい酷い状態だったから、何だか気になって、ずっと様子を見ていたんだが…」

 目が覚めた時に、ディートハルト先生がベッド脇に居たことを思い出して顔が熱くなる。

「えっと…その…ご迷惑を…お掛けしました…。病気のせいか悪夢を見ていたもので…」

 言葉に詰まって口の中でゴニョゴニョと言い訳していると「どんな夢を見ていたんだ?」と退路を塞がれてしまった。
 “面白い話では無いですよ”と前置きしてから、夢の話――過去の記憶を先生に話していると、言葉にしたことで随分と気持ちが楽になるのを感じる。
 私は――ずっと誰かに話を聞いてもらいたかったのだと、心の片隅で漸く気が付いた。

「…親から拒絶されるのに平気な子供がいるわけ無いだろう。それすら理解していないとすればお前の両親は馬鹿だとしか思えないな」

 吐き捨ている様に言い切ってくれる、ディートハルト先生の優しさが、また一つ私の心の弱った部分を埋めてくれる気がする…。

「でも…母の対応は間違っていないと…今なら分かります」

 王妃殿下の主催するお茶会の場で、高位貴族相手に諍いを起こすことは出来ない。
 どれ程理不尽であっても、家格が下の者が損をするのが社交界の掟だからだ。
 さらにその場で騒ぎ立てることで、園遊会の主催者である王妃殿下も矜持を傷つけられる可能性まである。
 だからこそ、お母様も俯いて罵倒に耐えたのだ。…そこに私を守ろうという心のゆとりが無かったのも仕方ないと――思う。

「お前のことだから母親の立場や気持ちを優先して考えてしまうのも判る。だが、子供が親に縋るのは当たり前のコトだ。自分が傷ついているからといって子供すら守れないようでは親として失格だと思うぞ」

 ――ワタシハ、イラナイコドモ…そう思って苦しんでいた幼い自分を思い出すと、ポロリと涙が零れた。幼かった私は、ただお母様に抱きしめて『愛している』と言って欲しかっただけなのだ…。

「これ以上、お前が傷つく必要は無いだろう。第一、両親から愛されないから、誰にも必要とされないなんて事はない。周りの評価で、お前の価値が変わるなんてことは有りえないんだからな」

 私に言い聞かせるように何度も繰り返す囁きと、頭を撫でる優しい大きな手の心地よさに、薬が効いて来たのかどんどん瞼が下がってしまう。

 ――ああ…まだ、もう少し先生と話がしたいのに…。

「ゆっくり休んで、嫌なことは忘れちまえよ。嫌な夢を見たら、俺が夢の中まで助けに行ってやるから大丈夫だ。安心して休め」

 ぼんやりと聞こえるこの声を最後に、私の意識は夢の中へと引きずり込まれていった。

 だから彼がポツリとこぼした『あーあ…未だに苦しんでいるとはな。茨の牢獄に捉われたお姫さんを救ってやれるのは一体、誰なのかなぁ…』と言う呟きは私の耳に届くことは無く、微睡みの彼方へ消え去ったのであった。
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