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■6.それは0距離にする甘魔法
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そうして翌日。
起床時から程よい緊張感と体中に充満している気合いを感じながら身支度を整えた紗雪は、まず最寄りの眼科へ出向いてコンタクトレンズを購入した。目の中に入れる、という行為そのものに抵抗があって今までずっと眼鏡だったけれど、髪を短くしたついでに思いきって違うことにも挑戦してみようと思って、まずは眼鏡を外してみることにした。
土曜日ということで眼科は混雑していて、視力を測ってもらうまでに一時間ほど待たされたものの、今、紗雪の目の中には無事にレンズが入っていて、眼鏡をかけていたときより驚くほど開けた視界に喜びが湧き上がるのと同時に、少し落ち着かない心持ちだ。
眼鏡なしで外を歩くなんて、一体いつぶりだろう……。
視力が落ちはじめたのは小学校中学年の頃だっただろうか。しばらくは裸眼でも差し支えなく黒板の字が見えたけれど、さすがに高校生になると、そうもいかなくなった。
習慣的にブックライトだけをつけた部屋で夜中まで本を読むことが多かったから、たくさんの物語に触れて世界観やストーリーを楽しみつつ、不毛とも呼べるような青春時代からの逃避をはかることと引き換えに、少しずつ視力を提供していったのかもしれない。
でもそのおかげで、つらいことが多くても本に逃げ込めた。それは紗雪にとって何物にも代えられないくらい重要なことで、だからこそ司書を目指すきっかけにもなった。
そして司書になった今は、きっかけこそ脅迫じみたものだったものの、初めて好きになった人ができて、結果はどうであれこれから気持ちを伝えに行く決心をしている。
住吉さんをはじめとした職場の仲間たちとも打ち解けられて、昨日はその橋渡しをしてくれた、初めて真正面から好意を向けてくれた人に背中を押してもらった。そうして考えると、不毛だった青春時代も捨てたものじゃないような気がしてくるから不思議だ。
昨日の今日で水城には申し訳ないけれど、昼過ぎの電車に揺られながら、紗雪の口元は自分で自分に魔法をかけに行く高揚感で、ふふ、と緩く弧を描く。変わったのは髪型やコンタクトだけじゃない。これから服装ももっと変わる。メイクだって、もっと変わる。
仕事用に着る地味で無難な服や、マナーとしてのメイクのための化粧品以外に外見にお金をかけることなんて、これが初めてだ。婚活パーティーは午後七時からだけれど、こうして午前中からアクティブに動いているのには、パーティー会場に相応しいそれなりの格好で乗り込むためと、自分から真鍋に会いに行くためという二つの目的がある。
今までどおりの地味な格好をしていては、足元を見られるかもしれないし、真鍋を前にしても何も言えないかもしれない。それでは水城の気持ちを踏みにじってしまう。それはきっと水城が一番望まないことで、紗雪だってもちろん、一つも望んでいない。
そういえば、昨日の帰り道、打ち明けついでに、親が勝手に結婚相談所に登録して、明日そのパーティーに行かないかと言われていることを告げると、水城は「あー……」と、それ以降は言葉にならないようで、同情しているような、憐れんでいるような、微妙な顔で笑っていた。
もちろん参加するつもりはないし結婚相談所も退会しようと思っている、と言うと「白坂さんの気持ちが固まってるなら、それがいいね」と、彼はまた微妙な顔で笑う。「俺もそのうち、親に入れられるのかな……」なんて少し笑いを誘ったあとは、そっちの問題も少しずつ解決できるといいね、と励ましてくれて、紗雪は深く頷いた。
そこで紗雪は、いろいろ事が重なってしばらくそれどころではなかったけれど、自分が最も解決しなければいけないことは家族のことだ、とはっとする。
今日、これから直接会場に乗り込むことも、退会しようと思っていることも、まだ母には言っていないし、この話を持ってきた義姉の菜穂にも相談していない。けれど、二人の顔を潰し兼ねないこの強行は、紗雪にはどうしても素直に受け入れられないものだ。
よしんば退会は認めてもらえるとしても、その大元の理由を――胸の底に溜まり続ける澱を吐き出せば、母も菜穂も、父や兄の啓介だって困るだろう。
「……」
一変して紗雪の高揚感はどんよりと沈み込む。車窓から見える空は今日も雲一つない快晴で、真夏の太陽がじりじりと辺りを焦がしているけれど、それがかえって紗雪の不安を煽る。
でも――と、そこで紗雪はぐっと顔を上げた。ここまで周りに物怖じせずに行動的になれたのだから、まだまだ自分は頑張れるはずだと気持ちを引き締める。
無断で相談所を退会すれば、お互いにその理由に触れないわけにはいかなくなる。そのときに、これまでの自分の汚い感情を打ち明けてみようと思う。
菜穂に感謝しているけれど、本当は寂しいと。実家に顔を出すたびに、どう言ったらいいのかわからない気持ちになって、そんな自分が嫌になると。
前までの紗雪なら、きっと何もできなかったし言えなかっただろう。でも、水城に変わったと太鼓判を押してもらった今なら、きっとできないことはない。
*
午後はそれから、何軒も服屋を見て回ったり、百貨店やデパートを回って美容部員からアドバイスを受けたり自分に合うメイクのやり方を教わったりしながら、忙しなく時間が過ぎていった。ほとんど歩き詰めだった足は、夕方にはパンパンにむくんでしまい、日頃からいかに運動らしい運動をしていないかを痛感させられる。
けれど、収穫は本当に大きかった。ショップ店員と、ああでもない、こうでもない、と相談し合いながら服を選ぶのも楽しかったし、自分ではけして手を出さないような色のアイシャドーやチークでも意外と似合うことがわかり、新しい扉を開いた気分だった。
セールストークなのはわかっている。でも、店員に「お似合いですよ」と言われると素直に嬉しかったし、だんだん自信もついてくる。本当は一着買えればいいと思っていた服は二着、三着と増えていき、秋に発売になるという新しいグロスの予約もしてしまった。
時間にはまだ余裕があったので、パーティー会場近くのカフェで一時間ほど足の疲れと喉の渇きを潤すと、紗雪は最寄りの駅のトイレで購入したワンピースに着替えることにした。
自宅アパートのクローゼットを漁っても、そういう場所向けの服なんて一着も持っているはずがなかった。出かけた先で買おうと決めて、あらかじめ簡易裁縫セットの小さなハサミを持ってきたので、値札を取るのにもなんら苦労はない。
財布の中身はだいぶ寂しくなってしまったけれど、心は余りあるほど満ち足りていた。外見を磨くための投資は、同時に自分の中の女も目覚めさせる。ワンピースに袖を通すと自然と気持ちもぐんと上向きになり、さらに装いも新たになった自分の姿を鏡で見ると、これが本当に自分なんだろうかと思うほど、生き生きとした顔をしていて驚いた。
「……よし」
自分で自分にOKのサインを出し、臨戦態勢を整えた紗雪は、その他ショップの袋とともに着てきた服をコインロッカーへ預け、気合いも新たにパーティー会場へ向かった。受付は午後六時半。現時刻は六時ニ十分過ぎ。ゆっくり歩いて行っても、十分に間に合う。
「――ひゃっ⁉」
しかし、受付の社員の一人に近づこうとした矢先、ぐっと右腕を後ろに引っ張られ、よろけて危うく転びそうになったところを、背中からすっぽりと抱き留められた。
「……ま、真鍋……さん?」
何事だろう、いやそれ以前に誰がこんなことを、と思うより前に鼻先にふわりと香ったのは、しばらく感じていなくてもすぐにわかってしまうほど焦がれていた、真鍋の香りそのものだった。
見ると、左腕には真鍋がよく付けている、おそらくは海外の高級ブランドらしき腕時計がスーツやワイシャツから少しだけ覗いている。背中にダイレクトに感じる熱や真鍋の心臓の鼓動は、なぜかびっくりするほど熱くて早い。
「はぁ……。僕に黙ってこんなところで一体何をしようとしているんだ。こんなに大胆に背中を開けて、今すぐここで襲われても文句は言えないな」
ため息とともに耳元で冷たく叱責され、それでも耳や首筋を撫でるように滑っていく息の熱さに、紗雪は一瞬にしてどうしようもなく目の前がクラクラした。
紗雪が今着ているワンピースは、全体に大輪のひまわりが咲いたノースリーブのものだった。正面は普通のワンピースとなんら変わりはないけれど、今、真鍋に指摘されたとおり、背中はざっくりと開いている。
けれどワンピース自体が明るい色なので、ショップ店員の勧めで、黒のレザー地のサッシュベルトと、黒のピンヒール、といった具合に、婚活パーティーに行っても遜色ないコーディネートを選んでもらった。
どうしても背中が心許ないので、一応カーディガンを羽織ってはいるものの、レース地なので背中の空き具合は透けて見える。それを指摘され、次の瞬間には羞恥で顔が火照る。
綺麗な背中ですね、と店員には褒められたけれど、今さらになって大胆すぎる格好をしていることに、紗雪は猛烈な恥ずかしさが込み上げていった。
「髪型こそ違うが、見慣れた後ろ姿に付いて行ってみれば、まさか入っていく先が婚活パーティーの会場だなんて。どうやら君は、本当に僕のことが嫌いみたいだね」
抱き留めていた腕を解き正面から向き合わされると、真鍋は瞳を揺らす紗雪の目を射るように見つめ、ふっとまつ毛を伏せる。その顔がひどく傷ついているように見えるのは、紗雪の目の錯覚だろうか。両肩に置かれた真鍋の手は汗ばんでいて、まだ若干、息も弾んでいる。ということは、紗雪を見つけて慌てて追いかけてきたということだろうか。
でも、どうして真鍋がそこまでする必要があるのだろう。期間限定の身体だけの関係を楽しめればそれでよかったはずなのでは、と紗雪の頭は混乱し、なぜ彼がこの場にいるのかという謎も相まって、金魚のように口がパクパクするだけだ。
「まあ、いい。何を企んでいるのかは知らないけれど、どこの誰ともわからないような男どもに君の姿を見られるくらいなら、僕が攫ってしまえばいい。どうせ僕以外の男じゃ満足できない身体のくせに、無駄なことはしないでもらいたい」
すると真鍋はそう言い、紗雪の腕を取って強引に出口へ向かいはじめた。どこに連れて行かれるのかはわからないけれど、今まで以上に激しく抱かれることは必至だろう。
相当怒っている、と紗雪は肝が冷える思いだった。腕を掴む真鍋の指の力は皮膚に食い込むほど強く、引っ張る強さも少しの抵抗も許さないと言わんばかりに頑なだ。
「……ま、待ってください。私はまだ、ここに用事が――」
それでも、やっとの思いで掴まれている腕とは反対の手で真鍋の手首を掴むと、足を止めた真鍋はギロリと紗雪を睨む。「僕の手を振りほどいて男漁りに行くと?」
「ち、違います!」
「じゃあ、それ以外にどんな用事があるというんだ!」
「……っ」
周りの目もあるし早く誤解を解かなければ、と反射的に声を荒げてしまうと、しかし真鍋の声は紗雪のそれの比ではなかった。会場前の小ロビーに響き渡ったその声に、紗雪ならずともその場にいる人たちがビクリと肩を跳ね上げ、何事かと視線が集まる。
「お客様、どうかなさいましたか?」
「ほかのお客様もいらっしゃいますので……」
直後、場をいさめようと男性スタッフが数人、駆けつけてきた。受付をしていた女性スタッフは真鍋のあまりの剣幕に「ひっ」と小さく悲鳴を上げ、それを一身に浴びている紗雪をおろおろ見守るばかりだ。
紗雪は、この彼女に声をかけようと思っていた。ここへはパーティーに参加しない旨を伝えるために来て、結婚相談所も退会したいと。あとのことはここに連絡してほしい、と住所と名前、電話番号を書いた紙を渡して、そのまま会場をあとにするつもりだったのだ。
けれど、予想だにしていなかった真鍋の登場で、その計画も今は危うい。このまま外に連れ出されてしまえば、パーティーには参加しなくて済むけれど、あとあとの事情説明が大変だし、真鍋には何をされるかわからない。
私は、大勢の人が見ている前で糾弾されに来たわけじゃないのに……。
真鍋と男性スタッフたちが「うるさいな」「ですがお客様」「僕のものを返してもらって何が悪い」と悶着を起こしているのを遠い気分で見つめながら、紗雪の顔には、どうすればこの場を収められるだろうかと焦りの色が色濃く浮かぶ。
起床時から程よい緊張感と体中に充満している気合いを感じながら身支度を整えた紗雪は、まず最寄りの眼科へ出向いてコンタクトレンズを購入した。目の中に入れる、という行為そのものに抵抗があって今までずっと眼鏡だったけれど、髪を短くしたついでに思いきって違うことにも挑戦してみようと思って、まずは眼鏡を外してみることにした。
土曜日ということで眼科は混雑していて、視力を測ってもらうまでに一時間ほど待たされたものの、今、紗雪の目の中には無事にレンズが入っていて、眼鏡をかけていたときより驚くほど開けた視界に喜びが湧き上がるのと同時に、少し落ち着かない心持ちだ。
眼鏡なしで外を歩くなんて、一体いつぶりだろう……。
視力が落ちはじめたのは小学校中学年の頃だっただろうか。しばらくは裸眼でも差し支えなく黒板の字が見えたけれど、さすがに高校生になると、そうもいかなくなった。
習慣的にブックライトだけをつけた部屋で夜中まで本を読むことが多かったから、たくさんの物語に触れて世界観やストーリーを楽しみつつ、不毛とも呼べるような青春時代からの逃避をはかることと引き換えに、少しずつ視力を提供していったのかもしれない。
でもそのおかげで、つらいことが多くても本に逃げ込めた。それは紗雪にとって何物にも代えられないくらい重要なことで、だからこそ司書を目指すきっかけにもなった。
そして司書になった今は、きっかけこそ脅迫じみたものだったものの、初めて好きになった人ができて、結果はどうであれこれから気持ちを伝えに行く決心をしている。
住吉さんをはじめとした職場の仲間たちとも打ち解けられて、昨日はその橋渡しをしてくれた、初めて真正面から好意を向けてくれた人に背中を押してもらった。そうして考えると、不毛だった青春時代も捨てたものじゃないような気がしてくるから不思議だ。
昨日の今日で水城には申し訳ないけれど、昼過ぎの電車に揺られながら、紗雪の口元は自分で自分に魔法をかけに行く高揚感で、ふふ、と緩く弧を描く。変わったのは髪型やコンタクトだけじゃない。これから服装ももっと変わる。メイクだって、もっと変わる。
仕事用に着る地味で無難な服や、マナーとしてのメイクのための化粧品以外に外見にお金をかけることなんて、これが初めてだ。婚活パーティーは午後七時からだけれど、こうして午前中からアクティブに動いているのには、パーティー会場に相応しいそれなりの格好で乗り込むためと、自分から真鍋に会いに行くためという二つの目的がある。
今までどおりの地味な格好をしていては、足元を見られるかもしれないし、真鍋を前にしても何も言えないかもしれない。それでは水城の気持ちを踏みにじってしまう。それはきっと水城が一番望まないことで、紗雪だってもちろん、一つも望んでいない。
そういえば、昨日の帰り道、打ち明けついでに、親が勝手に結婚相談所に登録して、明日そのパーティーに行かないかと言われていることを告げると、水城は「あー……」と、それ以降は言葉にならないようで、同情しているような、憐れんでいるような、微妙な顔で笑っていた。
もちろん参加するつもりはないし結婚相談所も退会しようと思っている、と言うと「白坂さんの気持ちが固まってるなら、それがいいね」と、彼はまた微妙な顔で笑う。「俺もそのうち、親に入れられるのかな……」なんて少し笑いを誘ったあとは、そっちの問題も少しずつ解決できるといいね、と励ましてくれて、紗雪は深く頷いた。
そこで紗雪は、いろいろ事が重なってしばらくそれどころではなかったけれど、自分が最も解決しなければいけないことは家族のことだ、とはっとする。
今日、これから直接会場に乗り込むことも、退会しようと思っていることも、まだ母には言っていないし、この話を持ってきた義姉の菜穂にも相談していない。けれど、二人の顔を潰し兼ねないこの強行は、紗雪にはどうしても素直に受け入れられないものだ。
よしんば退会は認めてもらえるとしても、その大元の理由を――胸の底に溜まり続ける澱を吐き出せば、母も菜穂も、父や兄の啓介だって困るだろう。
「……」
一変して紗雪の高揚感はどんよりと沈み込む。車窓から見える空は今日も雲一つない快晴で、真夏の太陽がじりじりと辺りを焦がしているけれど、それがかえって紗雪の不安を煽る。
でも――と、そこで紗雪はぐっと顔を上げた。ここまで周りに物怖じせずに行動的になれたのだから、まだまだ自分は頑張れるはずだと気持ちを引き締める。
無断で相談所を退会すれば、お互いにその理由に触れないわけにはいかなくなる。そのときに、これまでの自分の汚い感情を打ち明けてみようと思う。
菜穂に感謝しているけれど、本当は寂しいと。実家に顔を出すたびに、どう言ったらいいのかわからない気持ちになって、そんな自分が嫌になると。
前までの紗雪なら、きっと何もできなかったし言えなかっただろう。でも、水城に変わったと太鼓判を押してもらった今なら、きっとできないことはない。
*
午後はそれから、何軒も服屋を見て回ったり、百貨店やデパートを回って美容部員からアドバイスを受けたり自分に合うメイクのやり方を教わったりしながら、忙しなく時間が過ぎていった。ほとんど歩き詰めだった足は、夕方にはパンパンにむくんでしまい、日頃からいかに運動らしい運動をしていないかを痛感させられる。
けれど、収穫は本当に大きかった。ショップ店員と、ああでもない、こうでもない、と相談し合いながら服を選ぶのも楽しかったし、自分ではけして手を出さないような色のアイシャドーやチークでも意外と似合うことがわかり、新しい扉を開いた気分だった。
セールストークなのはわかっている。でも、店員に「お似合いですよ」と言われると素直に嬉しかったし、だんだん自信もついてくる。本当は一着買えればいいと思っていた服は二着、三着と増えていき、秋に発売になるという新しいグロスの予約もしてしまった。
時間にはまだ余裕があったので、パーティー会場近くのカフェで一時間ほど足の疲れと喉の渇きを潤すと、紗雪は最寄りの駅のトイレで購入したワンピースに着替えることにした。
自宅アパートのクローゼットを漁っても、そういう場所向けの服なんて一着も持っているはずがなかった。出かけた先で買おうと決めて、あらかじめ簡易裁縫セットの小さなハサミを持ってきたので、値札を取るのにもなんら苦労はない。
財布の中身はだいぶ寂しくなってしまったけれど、心は余りあるほど満ち足りていた。外見を磨くための投資は、同時に自分の中の女も目覚めさせる。ワンピースに袖を通すと自然と気持ちもぐんと上向きになり、さらに装いも新たになった自分の姿を鏡で見ると、これが本当に自分なんだろうかと思うほど、生き生きとした顔をしていて驚いた。
「……よし」
自分で自分にOKのサインを出し、臨戦態勢を整えた紗雪は、その他ショップの袋とともに着てきた服をコインロッカーへ預け、気合いも新たにパーティー会場へ向かった。受付は午後六時半。現時刻は六時ニ十分過ぎ。ゆっくり歩いて行っても、十分に間に合う。
「――ひゃっ⁉」
しかし、受付の社員の一人に近づこうとした矢先、ぐっと右腕を後ろに引っ張られ、よろけて危うく転びそうになったところを、背中からすっぽりと抱き留められた。
「……ま、真鍋……さん?」
何事だろう、いやそれ以前に誰がこんなことを、と思うより前に鼻先にふわりと香ったのは、しばらく感じていなくてもすぐにわかってしまうほど焦がれていた、真鍋の香りそのものだった。
見ると、左腕には真鍋がよく付けている、おそらくは海外の高級ブランドらしき腕時計がスーツやワイシャツから少しだけ覗いている。背中にダイレクトに感じる熱や真鍋の心臓の鼓動は、なぜかびっくりするほど熱くて早い。
「はぁ……。僕に黙ってこんなところで一体何をしようとしているんだ。こんなに大胆に背中を開けて、今すぐここで襲われても文句は言えないな」
ため息とともに耳元で冷たく叱責され、それでも耳や首筋を撫でるように滑っていく息の熱さに、紗雪は一瞬にしてどうしようもなく目の前がクラクラした。
紗雪が今着ているワンピースは、全体に大輪のひまわりが咲いたノースリーブのものだった。正面は普通のワンピースとなんら変わりはないけれど、今、真鍋に指摘されたとおり、背中はざっくりと開いている。
けれどワンピース自体が明るい色なので、ショップ店員の勧めで、黒のレザー地のサッシュベルトと、黒のピンヒール、といった具合に、婚活パーティーに行っても遜色ないコーディネートを選んでもらった。
どうしても背中が心許ないので、一応カーディガンを羽織ってはいるものの、レース地なので背中の空き具合は透けて見える。それを指摘され、次の瞬間には羞恥で顔が火照る。
綺麗な背中ですね、と店員には褒められたけれど、今さらになって大胆すぎる格好をしていることに、紗雪は猛烈な恥ずかしさが込み上げていった。
「髪型こそ違うが、見慣れた後ろ姿に付いて行ってみれば、まさか入っていく先が婚活パーティーの会場だなんて。どうやら君は、本当に僕のことが嫌いみたいだね」
抱き留めていた腕を解き正面から向き合わされると、真鍋は瞳を揺らす紗雪の目を射るように見つめ、ふっとまつ毛を伏せる。その顔がひどく傷ついているように見えるのは、紗雪の目の錯覚だろうか。両肩に置かれた真鍋の手は汗ばんでいて、まだ若干、息も弾んでいる。ということは、紗雪を見つけて慌てて追いかけてきたということだろうか。
でも、どうして真鍋がそこまでする必要があるのだろう。期間限定の身体だけの関係を楽しめればそれでよかったはずなのでは、と紗雪の頭は混乱し、なぜ彼がこの場にいるのかという謎も相まって、金魚のように口がパクパクするだけだ。
「まあ、いい。何を企んでいるのかは知らないけれど、どこの誰ともわからないような男どもに君の姿を見られるくらいなら、僕が攫ってしまえばいい。どうせ僕以外の男じゃ満足できない身体のくせに、無駄なことはしないでもらいたい」
すると真鍋はそう言い、紗雪の腕を取って強引に出口へ向かいはじめた。どこに連れて行かれるのかはわからないけれど、今まで以上に激しく抱かれることは必至だろう。
相当怒っている、と紗雪は肝が冷える思いだった。腕を掴む真鍋の指の力は皮膚に食い込むほど強く、引っ張る強さも少しの抵抗も許さないと言わんばかりに頑なだ。
「……ま、待ってください。私はまだ、ここに用事が――」
それでも、やっとの思いで掴まれている腕とは反対の手で真鍋の手首を掴むと、足を止めた真鍋はギロリと紗雪を睨む。「僕の手を振りほどいて男漁りに行くと?」
「ち、違います!」
「じゃあ、それ以外にどんな用事があるというんだ!」
「……っ」
周りの目もあるし早く誤解を解かなければ、と反射的に声を荒げてしまうと、しかし真鍋の声は紗雪のそれの比ではなかった。会場前の小ロビーに響き渡ったその声に、紗雪ならずともその場にいる人たちがビクリと肩を跳ね上げ、何事かと視線が集まる。
「お客様、どうかなさいましたか?」
「ほかのお客様もいらっしゃいますので……」
直後、場をいさめようと男性スタッフが数人、駆けつけてきた。受付をしていた女性スタッフは真鍋のあまりの剣幕に「ひっ」と小さく悲鳴を上げ、それを一身に浴びている紗雪をおろおろ見守るばかりだ。
紗雪は、この彼女に声をかけようと思っていた。ここへはパーティーに参加しない旨を伝えるために来て、結婚相談所も退会したいと。あとのことはここに連絡してほしい、と住所と名前、電話番号を書いた紙を渡して、そのまま会場をあとにするつもりだったのだ。
けれど、予想だにしていなかった真鍋の登場で、その計画も今は危うい。このまま外に連れ出されてしまえば、パーティーには参加しなくて済むけれど、あとあとの事情説明が大変だし、真鍋には何をされるかわからない。
私は、大勢の人が見ている前で糾弾されに来たわけじゃないのに……。
真鍋と男性スタッフたちが「うるさいな」「ですがお客様」「僕のものを返してもらって何が悪い」と悶着を起こしているのを遠い気分で見つめながら、紗雪の顔には、どうすればこの場を収められるだろうかと焦りの色が色濃く浮かぶ。
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