調べ、かき鳴らせ

笹目いく子

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おやとりことり(二)

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 それから数日、正吉からの消息はぱたりと絶えた。あれだけ憎悪をむき出しにしてきた男のことだから、何か仕掛けてくるのではと身構えて過ごしていた。不気味な沈黙が心に針のように刺さっていて、ふとした拍子にちくりと不吉な痛みを思い起こさせる。刺客を待ち受けるよりもよほど気が重く感じられ、青馬の無邪気な顔を見る度に心が波立った。 
 あれは青馬の実の父なのだ。その当然の真実が、持て余すように重かった。

「妄執の雲晴れやらぬ朧夜の、恋に迷いし我が心……」 

 などと青馬が庭で歌っているのが耳に届くと、頬が緩むのと同時に胸が絞られるような思いが込み上げた。 
 『越後獅子』に平行して『鷺娘』を浚いはじめたところだった。『鷺娘』は技巧は元より、表現の奥深さにおいても弾き手の腕を要求する曲である。
 久弥が模範演奏で見せる「」の深淵と静謐を、青馬は鋭敏に感じ取り、自らも表現しようと夢中になっていた。音と音の間の緊張感に満ちたを聞くという能力は、音そのものを聞くのと同じくらい重要だった。むしろという刹那の虚無の中にこそ、三絃の音の美は凝集されると言っていい。虚無ゆえに、次に奏でる音の生命ある響きはいっそう輝きを放つ。口を開ける深淵と躍動する音の連続が、乾いて、研ぎ澄まされた、それでいて甘美極まりない音曲を作り出すのだ。 
 青馬の撥捌きは、時に張り詰めた音を斬って捨てるようなを生み出して見せる。こういう奈落を穿うがつような音を出せる子供を、久弥は他に知らなかった。青馬のそれは天性のもので、久弥をしばしば瞠目させた。過酷な境遇で育ったせいか、天稟によるものか、青馬は虚無に耳を澄まし、深淵に向かって跳躍するような大胆さがあった。
 教えたいことが限りなくある。三味線弾きが見ている世界へ、青馬を連れて行ってやりたかった。己が見ているのと同じ光景を見せてやりたい。その先へと背を押してやりたい。青馬にはそれができる筈だ。
……けれど、そう思う度、焦燥がちりちりと背筋を焦がすように感じた。


 正吉から二通目の文が届いたのは、最初の邂逅から七日後の夜のことだった。広げてみると一通目とは打って変わって、あれはおっしゃる通り我が子である、と告白してあった。
 若気の至りで主を裏切り、いたいけな子をいたぶるような非道な真似をしたことを、心から悔いている。店のことは、もはやどうなろうと関係ない。ただ、己の子に詫びて、許されるのであれば慈しんで育てたい。どうかもう一度だけ、話をさせていただきたい。その上で子には会わせぬとお考えなら、潔く身を引く、と結んであった。
 待ち合わせの場所は、御竹蔵の馬場の掘割とある。たったの七日でここまで心変わりをするものだろうか。久弥は男の本心を探るように、幾度も文を読み返しながら考えた。だが、話をしないことには埒があかぬ。これで身を引くというのならそれでいい。もしも万が一、心底まっとうな親心を取り戻したのなら、青馬に話をしてどうしたいか今一度考えさせよう。
 所詮、人の親になったことなどないのだ。親子のことは彼ら自身にしかわからないのかも知れない、というかすかな迷いがあった。どんなに久弥が慈しんだとしても、実の親には到底及ばないのではないかという気もしていた。

「青馬、ちょっと人に会いに出てくる。なに、二町ほど先の場所で、ひと言ふた言話すだけだ。ひとっ走りしてすぐに行って帰ってくるよ」

 まだ床に入らずに三味線を浚っていた青馬は、見る間にしょんぼりと萎れた表情になったが、こっくりと頷いた。
 提灯を片手に、刀を差して家を出ると、久弥は大股に目的地へ急いだ。

 御竹蔵の南側にある馬場を掘割越しに見ながら、武家屋敷の長い塀に沿ってゆっくりと歩く。初夏の湿り気を帯びた空気に、どこかの屋敷の梔子くちなしの香りが甘く匂っている。煌々と明るい月が天頂近くに輝き、通りを海の底のように青く照らしている。しんと静まり返った通りに正吉の姿を探していた久弥は、鋭く踵を返すと左手で刀を引き上げた。
 通りの先にわだかまった闇から沸いて出るように、人影が三つばらばらと駆けてくる。久弥は武家屋敷の壁を背負って立つと、前に立ち塞がった三人をさっと見回した。
 どの男も単を尻端折りにし、顔には頬かむりをして、匕首でも呑んでいるのか懐手にしている。先日、相生町で襲撃してきたような侍ではない。久弥はわずかにほっとしながらも怪しんだ。やくざ者の類に見えるが、物盗りか。それにしては、今にも飛びかかって金目の物を奪おうという雰囲気でもなく、妙に落ち着いた素振りに見えた。

「何か用か」

 提灯を掲げて低く問うと、男たちがかすかに笑った。

「いや、旦那にゃ用はねぇんだがよ。ここでちっとの間、俺らと遊んでいてくれりゃいいのさ」

 何だと、と訝しんだのを察してか、笑いが高くなる。

「ここでしばらく時間を潰したら帰してやるよ。ま、多少痛い目を見てもらえって言われてるがな。悪く思うなよ」

 久弥は眉間に力が入るのを感じながら、男たちを睨みつけた。
 不意に、何が起こっているのかを覚った。

「……正吉の指図か」 

 ここに久弥を足止めし、正吉が松坂町の家に青馬を取り返しに向かう手筈か。
 こんな風に力ずくでくるとは思わなかった、己の馬鹿正直さを一瞬呪った。いかにも短気そうな、あの男の考えそうなことだ。荒っぽいが、だらだらと遣り取りを続け、いずれはお上の前で争うよりは、よほど手っ取り早いのは確かだ。
 久弥が戻ったのかと半纏を着て玄関に駆けてきた青馬が、青ざめて立ち竦む姿が脳裏を過った。
 閃くような怒りが胸に走るのを抑えつけ、提灯を地面に置いた。じわりと腰を落とし、左手で刀の鍔元を握ると、右足を摺るように前に進める。刺客であれば斬って捨てるところだ。そうでなければ、破落戸とはいえ抜くわけにはいかなかった。

「おい、やめときなよ。刀なんぞ使えるのかい浪人の旦那」
「てめぇの足を斬らねえように気をつけなよ」

 懐から取り出した手に、ぞろりと冷たい光を反射する匕首を握り、黒々とした影がへらへらと嘲笑った。
 久弥を押し包むように囲む三人の内、右手にいる男がもっとも手前に身を乗り出している。男は挑発する様に匕首を右に左に持ち替えては、飛びかかりたくてうずうずしているかのように威嚇してきた。それを横目で見て、久弥はいきなり滑るように斜め右に出た。
 鞘ごと引き抜いた刀を順手に握り勢いよく正面に突き出すと、右にいた男の水月に柄当てを浴びせる。鈍い打撃音と共に男が体を折ったかと思うと、物も言わずに崩れ落ちた。
 一足飛びに前に出て、真ん中に突っ立っている男の前に蹲ったかと思うと、次の瞬間には伸び上がり様柄頭を上に向け、顎を打ち抜いている。顎の砕ける音と共に男の体が宙に浮き、砕けた歯を撒き散らしながら倒れる頃には、久弥はぽかんとしている左手の男に駆け寄ってつま先を飛ばし、匕首を弾き飛ばしていた。

「あちっ」 

 手首を押さえて体を折ろうとする男の鳩尾に、水平に突き出した柄頭を打ち込んだ。
 男が突き飛ばされたように一間も飛び、ごろごろと道に転がる。
 それを見届けることもせず、久弥は飛ぶように走り出していた。生暖かい皐月の宵を切り裂き、瞬く間に二町を駆け抜け松坂町を南に下る。
 木斛もっこくの垣根の向こうに、ぼんやりとした明かりが漏れる玄関土間が見える。
 戸口が半ば開いているのを見て、冷たい炎が胸の底を炙るような感覚を覚えた。戸を開け放つなり上がり框に飛び上がり、廊下を走る。気配は台所にあった。
 板敷に踏み込んだ途端、居間から差す黄色がかった行灯の灯りの中、すぐ目の前の柱にしがみついている青馬と、それを引き剥がそうと躍起になっている正吉の姿が目に飛び込んだ。

「この餓鬼が!」

 歯をむき出し、激怒に顔を赤黒く染めながら青馬の髪を鷲掴みにしている。力任せに青馬の小さな背を足蹴にする度、青馬は柱に叩きつけられてくぐもった悲鳴を上げた。目の前が赤く染まる。久弥は男に肉薄すると、えっ、と振り向いた男の襟首を掴むなり、激しい怒りと共に叩きつけるように土間へ投げた。
 一直線に宙を飛び、竈に頭と背中を嫌というほど打ち付けた正吉が、ぎゃっ、と悲鳴を上げる。がらがらと鍋や茶碗が土間に落ち、けたたましい音を立てた。

「失せろ」

 板敷の端に立ち、泣き喚いている男を見下ろしながら、久弥は氷のような声音で唸った。

「金輪際この子にかかわるな。次に姿を見せたら斬る。それとも今すぐ……」
 
 左手に握った刀の鯉口を切る。
 髷を乱し、口の中を切ったのか、唇を赤く染めた男が茫然と久弥を見上げる。頬に幾筋も赤いみみず腫れが見えるのは、青馬が爪を立てたのだろうか。
 正吉の目が、触れれば切れるような殺気を放つ久弥の双眸と、肌が青白くなるほどの力で鞘を握る左手に注がれる。

「……わ、わか、わかった。わかった。た、助けてくれ」

 顔色を失ってふるえ出しながら、正吉は血の混じった涎を滴らせ、上擦った声で懇願した。出口を求めるように土間を見回し、勝手口ににじり寄る。肋骨にひびでも入ったのか、背中に手を回して呻き声を上げながら、男はよろよろと庭へまろび出て行った。
 足を引きずりながら去って行く乱れた足音に耳を澄ませると、久弥はようやく気を緩めた。土間に降りて勝手口を閉める。土足のまま家の中に上がったので、履物を脱いで板敷に上がり直した。
 しんと静まり返った板敷は、突風が荒れ狂ったかのような有様だった。居間の唐紙は外れかけ、囲炉裏端の茶道具も煙草盆もひっくり返り、茶葉が床にまき散らされ、座布団は灰にまみれている。板敷の入り口近くには久弥の半纏も落ちていた。台所へ逃げようとする青馬に正吉が追いすがり、揉み合う内に脱げたのだろう。
 青馬は、まだ柱にしがみついてがくがくとふるえていた。

「……遅くなってすまなかった。痛かっただろう」

 久弥は刀を置いて青馬の前に膝をつくと、努めて落ち着いた声を出した。
 蒼白な顔にびっしょりと汗をかいた青馬は、亡霊にでも会ったかのような恐怖の色を焦点の合わぬ両目に浮かべていた。着物の襟は歪み、掴まれた髪は乱れ、顔に幾筋も張り付いている。殴られたのか左の頬が赤く染まり、唇の端に血が滲んでいる。ふと下を見ると、青馬のふるえる足の下に水溜まりが出来ていた。
 喉が塞がるような痛みの塊が込み上げる。馬鹿め、と自分を殴りつけたいような後悔に襲われた。妙な自信のなさに迷って、うかうかとあんな文面に乗せられるから、青馬をこんな目に遭わせたのだ。逃げ惑いながら、どれほど久弥を呼んでいただろうか。どれほど、助けを求めていただろうか。思うだけで怒りと悲しみが胸に衝き上げた。
 柱に爪を立てるようにして、まるで洪水に流されまいとするようにしがみついている子供に、久弥はそろそろと両手を差し伸べた。

「もう怖くないぞ。そら、おいで」

 低く囁くと、ぼやけていた目の焦点がようやく合った。
 久弥の顔と両手を交互に見ながら、青馬はやがて血の滲んだ唇を動かし、掠れた声で言った。

「……粗相をしました。相すみません」

 刺されるような胸の痛みを堪え、ふむ、と久弥は目元を緩めて見せた。

「まぁ、そういうこともある。小便なんぞ拭けばいいさ」

 ひょいと脇の下に手を入れて抱き上げると、青馬はすんなり柱から手を離した。膝に乗せて袂で包み、背をとんとんとやわらかく叩く。おこりのようにふるえる体を硬直させ、呼吸をするのも忘れたように、青馬は無言でされるがままになっていた。
 青馬の全身が水でも浴びたかのように汗みずくになっているのを感じ、胸がふるえた。
 恐怖に襲われながら、死に物狂いで抗ったのだ。

「……一人で、よくやった。偉かった」

 食い縛った歯の隙間から押し出すように言った瞬間、青馬は喉が壊れるのではないかという大声を上げて泣き出した。
 後から後から溢れる涙を拭おうともせず、火がついたように泣く子を、久弥は力を込めて抱き締めた。細い両手が、久弥の襟首を引き千切るような力で掴む。青馬が顔を押し付ける襟元が、たちまち生温かく濡れた。
 体に響く青馬の泣き声をじっと聞きながら、いつしか久弥は呟くように唄っていた。

「……打つや……太鼓の音も澄み渡り……」

 身を絞るような泣き声にかき消されるのも構わず、耳元でぽつりぽつりと唄った。
 青馬の激しいしゃくり上げに合わせて、声が乱れた。
 
……角兵衛角兵衛と招かれて
 居ながら見する石橋の、浮世を渡る風雅者 
 うたふも舞ふも囃すのも、一人旅寝の草枕……
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