調べ、かき鳴らせ

笹目いく子

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おやとりことり(一)

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 端午の節句を控え、本所の町のそこかしこに、のぼりや武者人形、吹流しや長刀をずらりと店先に並べた人形店が目につくようになった。幟には武者絵が描かれたものの他に、藍袍くるちょうに刀を携え、カッと目を剥いた恐ろしげな男を描いたものもあるが、これは「鍾馗しょうき」という魔除けと疫病除けのありがたい神なのだ。
 往来を柏餅売りやちまき売りが、柏と笹の葉のほんのりとした香りを後に残しながら忙しく行き来し、菖蒲売りが瑞々しい菖蒲の葉を桶にあふれんばかりに立てて歩く姿は、人々の五感に初夏の訪れを告げてまわる。
 紫檀の三味線を手にして以来、さらに稽古に没頭している青馬は、正吉への恐れもあって外出することを躊躇うようになっていたが、「武者人形と鯉のぼりを買いにいこう」と告げると仰天して、それから金魚のように頬を赤らめて喜んだ。
 午後の稽古の後、相生町の人形店へ出かけると、店の前には幟や武者人形がずらりと並べられ、巨大な黒い真鯉が屋根の上の高さを悠然と泳いで客を招き、店の前も内も人でごったがえしていた。
 久弥の袂の後ろに隠れるようにして、幟の鍾馗をこわごわ見ている青馬を促し、武者人形を選ばせてやった。少年はしきりに遠慮したが、やがて今にも倒れそうに顔をぽっぽと赤らめながら必死に人形を見比べ、

「……あのう、これは、やさしそうですね」

 と涼しげな顔つきの義経の人形を指して言った。武者がやさしげというのも妙な話だ、と久弥は肩を揺らして笑った。
 ひと抱えもある鯉のぼりも選び、風呂敷に包んでもらうと、人形は後で届けてもらうよう手配して店を出た。

「青馬だ!青馬!」

 不意に、人ごみの間から童の声が聞こえてきた。
 見れば、橋倉と五つになる息子の善助が手を振っている。

「お師匠に青馬、偶然だね」と橋倉が浅黒い顔を綻ばせて近づいてきた。  

「青馬、青馬も鯉のぼり買った?これ、鯉のぼりなんだぜ」

 善助が得意気に抱えている風呂敷包を示して見せる。

「……うん」

 青馬は上気した顔で頷くと、大事そうに腕に抱えた包を、ほら、と掲げてにこりとした。

「こいつらが引っ張り出して遊んだら、去年のが破れちまったもんでさ。乱暴でしようがねぇ」

 鯉のぼりは紙でできているから、どうしても破れやすいし、雨に濡れたらすぐ駄目になってしまう。
 しかし文句を言うわりに、橋倉はまんざらでもなく楽しそうな顔をしていた。
 茶でも飲んでいこうと誘われて、近くの水茶屋へ向かって歩き出した。

「……この間、辰次の親分がうちに来たよ」

 子供らが足取り軽く前を行くのを眺めながら、橋倉が小声で言った。

「ご迷惑をおかけして、申し訳ありません。根掘り葉掘り聞かれたでしょう」

 眉を下げて恐縮すると、医者はからからと笑った。

「どうってこたねぇよ。青馬がどんだけひでぇ目に遭ってたか話してやったら、生きてやがったらそいつら残らず縄にかけてやるとこだ、許せねぇって息巻いてたよ。案外情に厚い人なんだよな。手代が探してるらしいって話はしといたが、奴が父親だってことは話がややこしくなるから伏せといたよ。俺のシマをうろつくようならただじゃおかねぇってさ。怖い怖い」
「ありがとうございます」

 安堵して礼を言う久弥に、いいってことよ、と橋倉は片手をひらひらさせて応じた。
 甘酒の幟がはためく水茶屋が雑踏の向こうに見えてきた。大した人の出で、時折人波に阻まれ足が止まる。
 善助が青馬の袂を取って、

「あそこ。ほら、青馬、迷子になっちゃだめだよ」

 と言いながら勇んで向かうのを目で追っていた久弥は、目の前に近づいてきた天秤棒に菖蒲刀しょうぶがたなを入れた箱を下げた棒手振りを見てまた足を緩めた。菖蒲刀は色とりどりの彩色を施した玩具の小太刀で、子供らが打ち合って遊ぶものだ。華やかな菖蒲刀は目を楽しませる。ほのぼのとした気分で棒手振りを眺めていると、人いきれの中、横顔にふっと冷たい風が触れたように感じた。
 無意識に体が動き、脇から音もなく突き出されてきた腕を右手で掴み、ぴたりと押さえている。脾腹に狙いを定めた刃の気配を感じる。匕首か。右手首を掴まれ、頬被りをした町人風の男がはっと息を飲むのを感じた。そのまま相手の勢いを利用して懐に引き寄せると、ごくわずかな動作で手首を返すなり、容赦なく力を加えた。
 ぼきっ、という骨の折れる鈍い音が喧騒の中に低く響き、寄り添うように体を接近させた男がかすかに呻いた。
 渾身の力で腕をふりほどき、男が素早く雑踏に消える。一瞬の出来事に、隣の橋倉は気づいた様子もない。
 足を緩めて周囲の気配を探り、久弥はそっと唇を結んだ。前後に、いる。おそらく二人。

「ーー先生。青馬を少し頼めますか」

 小声で言うと橋倉が振り返り、不思議そうに首を傾げた。

「どうかしたかい?」
「詳しいことは後ほど。すみません」

 そう言うなり雑踏を横切って町屋の間の路地へ滑り込む。行き止まりで踵を返すと、間を置かずに浪人風の男が二人、足音も立てずに追ってきた。正吉の雇った破落戸かと思ったが、侍の身ごなしだ。久弥が抜刀すると、二人が次々刀を抜いた。ほの暗い路地裏に弦月のような白刃が三本閃き、無言の気迫が鋭く満ちた。
 猛然と殺到してきた男が上段から打ち落とす剣を、体を開いて躱す。間髪入れずに真横に胴を薙ぐ刀をわずかに飛び下がって紙一重に空を斬らせると、瞬きの間に刀を鞘に納め、蹲るなり抜き打ちの逆袈裟を放った。ばさりと胴から首元まで深々と切り裂かれた男が、ゆっくりと横に崩れ落ちる。ぎらっときらめくものが目の中に光る。身をよじって壁に体を寄せると、後ろの男が飛ばした匕首が一直線に路地の奥へと吸い込まれていった。

「おおっ!」

 獣じみた気合と共に下段から襲いかかる剣を半身になって躱し、突きを打とうとして足元に投げ出されている死んだ男の刀にはっと気づいた。咄嗟に飛び越え相手の剣を叩き落とす。一旦引いた剣が、久弥が足場を固める隙に、脳天目がけて刃唸りを立てながら振り下ろされる。後ろに飛んでから、背中に庭木戸が迫っているのを察した。目の前の男が歯を剥いて串刺しにしようと突きを繰り出す。刹那、久弥は飛び上がり、横手の町屋の壁を体重がないかのようにだっと走り、男の脇をすり抜けている。
 向き直った男が間髪入れずに横薙ぎに剣を払う。宙にいる久弥の方が不利であるのは明らかだった。だが、燕のような身ごなしで壁を蹴って大きく飛んだ久弥を捉えきれず、剣は袂を掠めて空を払っただけだった。振り抜いた剣が壁に当たって跳ね返る。あっ、と男が顔色を変えた時には、膂力を乗せた久弥の剣が深々と脾腹を貫き通していた。

「……卑しい三味線弾きめ」

 がくがくとふるえながら、眼前の男が苦痛と憤怒の形相で吐き出した。

彰則あきのりが死ねば、残るは貴様だ。決して、逃げられぬぞ」
 
 だらだらと唇の端から赤い筋を滴らせると、数度身をふるわせた末、男は虚ろな目を見開いたまま膝をつき、がくりと俯いた。
 肩に足をかけて刀を引き抜くと、丸太のように男が横向きに転がった。途端に、時が止まったかような静寂が降りた。路地に臓物と血の匂いがむっと充満している。通りのにぎわいを遠くに聞きながら、久弥は厳しい陰影を刻む路地に斃れた侍たちを、身じろぎもせずに見下ろしていた。

 晴天に、大きな黒い真鯉が悠々と泳いでいる。
 端午の節句の日、届けられた武者人形を飾り、花売りが運んでいた菖蒲の束と、真澄が差し入れてくれたあでやかな薬玉を軒下に吊るすと、家全体がたとえようもなく華やかになった。
 庭に鯉のぼりを立ててやったら、青馬は子犬のようにはしゃいで大喜びした。そうして風が吹く度に縁側に走っていっては、うっとりとして空を仰ぐのだった。
 皐月の五日を迎えた松坂町では、町屋や武家屋敷のそこここから、無数の鯉のぼりと幟旗が盛大に天に向かって伸びる様が楽しめた。縁側に出てそれを眺めていた久弥は、ごろりと横になって伸びをした。居間で柏餅を頬張っていた青馬が、こちらを見て目を丸くする。それからケタケタと笑ったかと思うと、側に来てころりと寝転がり、久弥の頭に自分の頭をくっつけて空を仰いだ。
 初夏のあたたかな風を受けて、真鯉の群れが尾鰭を上げて蒼穹を泳ぎ、鮮やかな幟が誇らしげに翻る。それを満ち足りた表情で、愉しげに見上げる青馬に静かな眼差しを送ると、久弥は一緒に空を見上げ、薫風に目を細めた。
 
***

 その夜、居間で久弥が黒紋付に火熨斗をかけていると、寝間着の上に久弥の半纏を着込んだ青馬が近づいてきた。もう皐月に入ったというのに、未だに半纏を着ていないと落ち着かぬらしく、頑に手放そうとしないのだった。

「何をなさっているんですか?」
「うん、お前の紋付を用意しておこうと思ってな。近い内に近江屋さんにご挨拶に上がって、お前のことをよくよくお願いしようと思う」

 当て布をして慎重に手を動かしていた久弥は、火熨斗を置くと、出来栄えを確認して頷いた。

「……よさそうだ。私が子供の時分に着ていたんだが、お前が着られないかと思い出したものでね。虫食いもしていないし、染みもない。あとは足袋だけ買い足せばいい。草履も揃っているし、丁度よかった」

 ちょっときてごらん、と手招きすると、青馬が半纏を畳んで脇に置き、戸惑いながら側に立った。
 五つ紋の正絹の単を肩に掛けてやる。紋は丸に一つ三味駒である。袖が少し長いようだが、見苦しいほどではない。袴も若干丈が余るものの、腰の位置を調整すればよかろう。草履も問題なさそうだ。

「まぁ、舞台に立つわけではないし、上等だ」

 満足げに言う久弥とは反対に、青馬は怯んだように口ごもった。

「でも、こんなに、その、着飾らなくても……」
「演奏者はこれが正装なんだよ。芸を生業にする者は、人前では常に姿を整えておくものだ。お前もいずれ人前で弾くようになれば、着るのが当たり前になる。お前はまだ養い子だから跡継ぎとして披露はしないが、皆さんの目に触れる場へ行く時にはきちんとしておいた方がいい」

 青馬は、にわかに緊張に顔を強張らせると、弱々しく頷いた。

「そんなに堅苦しく考えることはない。私の子も同然であるので、末永くお引き立て下さい、とご挨拶をするだけだ」

 久弥が着物を畳みながら言うと、青馬が小さく息を飲む気配がした。小さな顔に血が上り、はにかむような、泣き出すような顔で久弥を見たかと思うと、畳にすとんと膝を折った。

「……はい。はい」

 ほかに言うことが見つからぬように、青馬はひたすら頷き、はい、と詰まった声で繰り返した。久弥は頬を緩めて笑うと、丁寧にたとう紙に着物を包んだ。


 青馬が部屋で眠りに就き、久弥も寝支度をしようと家中の戸締りをして回っていると、玄関土間の戸を叩く音が聞こえた。
 訪問者は、そのまま訪いを入れるわけでもなく去って行った。訝しみながら土間に降りると、引き戸に挟まった文に気付いた。眉をひそめて文を手に取り、広げてみると、かな交じりの文字が目に入った。読み進めていくらもしない間に、額が強張った。  
 春日の手代からの文だった。大火で行方知れずになった、亡き店主の忘れ形見を拾われたのではないか。一ツ目橋でお待ちしているので、お会いできないかと書かれてあった。
 文を畳み、しばらくの間その場に佇むと、青馬の部屋の方をうかがった。
 たとう紙に包んだ黒紋付が頭を過る。
 いつかはけりをつけねばならないのだ。久弥は文を畳んで袂に入れると、居間に置いた刀を取りに戻り、提灯に火を入れてそうっと家を出た。
 通りはまだ屋台だの酒亭だのが賑わっている時分であるが、橋の上は闇にけぶって対岸も杳として見通せない。その橋の真ん中辺りの欄干に、提灯の灯りがひとつ、ぽつんと滲んで見えた。
 ゆっくりと橋を上って行くと、提灯を提げた着流しの男の姿が灯りに浮かび上がった。
 二つの提灯の灯りに照らされた男の顔を見た瞬間、青馬の父親であると分かった。
 なるほど、店の内儀が惚れただけあって鯔背な男だった。三十を少々過ぎたくらいか。五尺六寸ほどの背丈に、引き締まった体躯をしている。きりりとした眉宇の辺りと、薄い唇、すんなりと滑らかな輪郭が青馬とよく似ていた。だが、どこか抜け目のなさの漂う目は似ていないな、と考える。青馬のやさしげな大きな目は母親譲りか。
 きびきびと歩み寄った正吉は、手代らしいそつのない笑顔を浮かべたが、愛想の欠片も見せぬ久弥を見て笑いを引っ込めた。そして、突如深々と腰を折った。

「『春日』の手代の正吉でございます。夜分にお呼び立てし申し訳ございません。当店の坊ちゃんが、旦那にお世話になっているのではないかと聞き、矢も盾もたまらずこうして参りました」
「……私のことは、どこで」

 はい、と男がさらに腰を屈めた。

「坊ちゃんを探す手伝いを頼んでおります者から、先月、回向院でお見かけしたと聞き及びました。人に尋ねたら、松坂町の三味線のお師匠でいらっしゃると、こう伺いましたそうで」

 あの時か、と久弥は溜め息を吐いた。参詣客に声を掛けられたが、それをあの男に聞かれていたらしい。

「失礼とは存じますが、お師匠にはお子様はおられないとか。いや、あの男が怪しげに見えましたのも、無理からぬ話。咄嗟にそうおっしゃられたのでございましょう。しかし手前たち奉公人は、火事の日以来身の細る思いで坊ちゃんをお探ししております。どうか本当のところをお明かし下さいませんでしょうか」

 すがり付きそうな様子でこちらを見上げる男に、久弥は寸の間口を噤むと、ゆっくりと頷いた。ここまできたら、隠し立てしても無駄なことだ。どこかで青馬の顔を見られたら、本人であるかどうかは一目瞭然なのだ。おそらく、先月から今に至るまで、久弥の身辺を嗅ぎ回っていたに違いないのだ。どこかで青馬の顔も見ていたかもしれなかった。

「その通りです。あの子は神田の焼け跡で拾いました。ぽつんと一人でいましてね」
「やはり。地獄に仏とはあなた様のこと。まことに感謝の申し上げようがございません」

 感に耐えぬように絞り出す声を聞きながら、こいつは駄目だな、と久弥は白けた気持ちで考えていた。男の芝居に付き合うのに、いい加減嫌気が差して来そうだった。
 心労のあまり憔悴しきった様子で、確かにおれの坊主でござんしょうか、本当にすまねえことばかりしましたが、どうか会わせておくんなせぇ、と気でも狂わんばかりであれば、まだ見込みがあったものを。

「しかし、面妖ですな。うちで預かっている子は、あなたの面差しに実によく似ているのですが。ご店主の忘れ形見とおっしゃるが、もしやあなたのお子さんではないのですか?」

 じっと男の顔を見下ろすと、正吉はすっと表情の読み取れぬ目の色を浮かべ、探るように見返してきた。

「滅相もございません。主筋の坊ちゃんに畏れ多い。その、坊ちゃんが旦那に何かおっしゃいましたか?」
「まぁ、一通り話は聞きましたよ。名前も無いというので驚きましたが。一体どうしたわけで、ご店主の子息が名前も付けてもらっていないのでしょうか」

 正吉の目の光が、冷たく冴えていく。

「旦那、まさかそんな話を信じていらっしゃるんで。お名前が無いなんぞあるはずがございません。松之助というお名前がちゃんとございますよ。坊ちゃんは、火事のせいですっかり混乱してしまわれたんではないかと」
「ほう。与三郎とか呼ばれたこともあったと聞いたので、てっきりそれが名前なのかと思いましたが、違うんですか」
 
 平坦な声で言うと、ひやりとする風が正吉から吹いてきた気がした。

「何ですか、そいつは。とんでもない。まぁ、火事で町名主への届け出などもすべて燃えましたから、証拠と言われても困ってしまいますが。主筋のご親戚とも縁遠いですしねぇ。ご近所の方々も亡くなられた方が多ございますし。坊ちゃんは病弱な方でしたもので、奥でお過ごしになられてばかりで、お友達もおられなかったですし……」

 なるほど、すべての証拠は火事で消えたわけか。便利なものだ、と久弥は男のよく動く口を眺めながら考えた。

「その病弱な子供を、ずいぶん手荒に扱っていたようですな。お宅の店では、子供は皆傷だらけなんですか」

 正吉がうっすらと唇を引いて黙った。

「……旦那、そりゃあ何かの間違いでございますよ。坊ちゃんは火事の前にちょいとお怪我をなさっただけで。お労しい」  

 久弥は冷やかに男を見下ろして、がらりと口調を変えた。 

「よほど店の身代が欲しいらしいな。まぁ、分からんでもない。主筋の縁戚に相続させてもあんたは手代のままで、何の旨味もありはしないだろう。店の身代を自由にしたいのなら、自分の子を相続人に据えた方が都合がよかろう」
「……何をおっしゃいます。手前は忠心から店を再建したいだけなんで。坊ちゃんはおかみと旦那様の忘れ形見ですよ。手前はただの奉公人」

 不敵な笑みが、男の軽薄そうな唇にぞろりと浮かぶ。

「本当に店主夫婦の子なのか証拠もない。ということは、孤児も同然というわけだ。私が養い親となるのに不都合はないな」
「旦那、勘弁してくだせえよ」

 大店の手代らしからぬ崩れた口調に、荒んだ性根が滲み出すようだった。

「そりゃあ拐かしでございますよ。生き残った奉公人が見りゃ、一目で坊ちゃんだと証言するでしょうよ。町名主の記録も燃えちまったし、人別帳への記載が多少遅れるのもよくある話。何のつもりか知りやせんが、お上に訴えたら旦那が困るんじゃないですかね。あんまり無茶なことは、なさらねぇ方がいいんじゃねぇですか」
「そいつはどうかな」

 久弥はじっと男を見詰めて言った。

「お前さんや店の者があの子をどう扱ったか、お上に知れたら困るのはお前さんの方じゃないのか。おまけに密通の罪が知れたらどうなるのかね。店主夫婦は亡くなっているにしても、ずいぶんと外聞の悪い話だと思うが」

 手代の顔が強張った。

「……何だよ。旦那の子でもあるめぇし、何だって……黙って返すんなら、礼も弾むってのによ」

 静かに男の目を見返すと、不意に男の顔が赤黒く染まった。

「おい、あんまり調子に乗りなさんなよ旦那。人をこけにすると痛い目みるぜ。こちとら、浪人一人くらい、膾にして大川に放り込むのは屁でもねぇって連中がついてんだぜ。その若さで魚の餌になりたかねぇだろう」

 どすの効いた声で唸る男を、無感動に見詰める。なるほど、こういう顔をして青馬を折檻していたわけか。

「言いたいことはそれだけか」

 激しい嫌悪感が突き上げてくるのを抑えこむと、久弥は踵を返した。
 もしも心から改心して、青馬への情愛を示すのなら、こちらも身を切る思いで手放そうと覚悟してきたのだ。とんだ時間の無駄だった。安堵とはげしい落胆とが入り混じった、苦い気持ちが腹に溜まっていた。
 正吉の、殺気混じりの怒気を背中に感じながら、黙々と足を運ぶ。
 さんぴん侍め、という憎しみのこもった声が、ややあって生ぬるい闇の向こうから聞こえてきた。 

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