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第二章 王子殿下の悪徳

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急に吐き気がせり上がってきた。
口を押さえて、俯く。

「おや、酔って仕舞われたかな? この国のーー清族でしたか。それは俺の国の術師と似ているようで別物のようでして。体質があわないと、目が回るような苦痛が襲うらしい。大丈夫ですかね?」

ぐるりと世界が回転しているような不快感があった。
目蓋の裏に天使が見えた。片翼の美しい天使だ。彼は血に染まっていた。
煙があちこちに上がっていた。剣戟の音が虚しくこだまする。馬の嘶きに、心細さを覚える。
はあっと息を吐く。脂汗が滲んで、ぽたりと落ちていた。

「だ、大丈夫よ」

文面では交流があるとはいえ初対面の相手だ。
警戒心を解く気にはなれなかった。

「気を楽にしてくれると嬉しいんですが。俺はギスラン様の命令で会いに来たので」
「ギスランの命令……?」
「ええ、うちは商家ですから、依頼されたら何でもしますよ。サガル王子のもとから救い出して欲しい、とね」

袖部分が妙に膨れた服を着込んでいた。指の先には煙管が。一度口に含み、蘭王は煙を吐き出す。

「疑っているって顔だ。正直に話してますよ。こんな嘘ついても一文にもならないんでね」
「ギスランはどこにいるのよ」
「外でお待ちになっていますよ。俺は仲介役。ギスラン様はどうにもオペラハウスに入ることが出来ないようなので」
「どういう意味?」

貴族であるギスランがオペラハウスに入れないなんてありえないだろう。仮面のせいで表情が読めない。質問は無視されてしまった。

「俺がご案内するべきなんでしょうが、困ったことに俺にも厳しい監視の目がついていましてね。簡単にはこのオペラハウスで自由に動き回れないんですよ。だから、ノア様に頼んでこうやって会っているわけですが」
「ノアと知り合いなの?」
「お得意様のお一人ですよ。トヴァイス様にもご協力いただきました。いやあ、お姫さんは愛されてますねえ。おかげで、この通り、お会いすることが叶いました」
「……ここから、私は出られないわよ」

赤茶色の髪がさらりと揺れた。三つ編みに結われた腰まで伸びる長い髪だ。並みの女性よりも長いのではないだろうか。
蘭王の動きはゆったりとしていて品を感じた。
倦怠感というのだろうか、どの仕草も怠そうで、せかせかしていない。

「イルとハルのことならご安心を。お金さえ払えばどんなご要望にもお応えするのが蘭花の基本ですので」

そういうと蘭王は懐から鏡を差し出してきた。
指を鏡面につけると、映っていた私の輪郭がぼやけていく。雲が大きな塊をつくるように、再び輪郭がはっきりとしてくる。
男が二人見えた。どちらも長身だが、特にぼさぼさの髪の男は大股だ。凄まじい速さで走っている。
ハルだった。
隣で追従する男は、見かけない顔だった。目つきがあまりよくない。
……よく見たら、イルじゃないか?!
眼鏡がないから分からなかったが、どう見てもあの男だ。口の端が切れているのか、血が滲み赤くなっている。

「こ、これ」
「脱走のお手伝いをさせていただきました。楊という脱獄犯がいまして、そいつが助力しているんですよ。この方達と縁があったら、また会えるかもしれませんね」

ハルは懸命に走っていた。息を切らせて、がむしゃらに。

「鳥籠は開いた。なら、逃げるのはご自由に」
「……なにか、お礼をするわ」
「そうですか? ならば、お金、と言いたいところですが、ギスラン様から賃金の方はたっぷりといただいておりますので。弱ったなあ」

声色は言うほど困っている様子ではない。

「私とつながりを持ちたかったのよね?」
「おや、覚えてらしたんですね。御姫さんには魅力を感じていまして」
「魅力……?」
「正確にはお姫さんの能力とその人脈ですね。特に人脈に関しては言うことなしです。あの人嫌いで有名なトーマともお知り合いとか? 是非紹介していただきたいです」

直球の要求につい笑ってしまった。利害関係だけを求めてくるのは小気味いい。
蘭王は水のように透明だった。私への執着も興味もさほどないようだった。あるのは、金になるかもしれないという純粋な損得勘定だ。

「無事にここから出られたら取り次いであげるわ。蘭花王」
「おや?」
「蘭王ってそういう意味でしょう? 蘭花――ランファの王」
「察しのいい女性は好きですよ。楽しみにしています。……李」

空間から溶けでるように男が現れた。蘭王と同じような踝まで裾がある服を着ている。
拝礼すると、私に視線を合わせた。

「これがエスコートします。……丁寧に扱えよ?」
「勿論です、蘭大人。姫、こちらへ」

手を振られ、見送られる。
大人――ターレン。あちらで偉い人につける敬称らしい。
潰れた鼻のいかにも移民である彼に続く。
一度だけ、振り返って蘭王を見た。仮面の奥の瞳は不気味なほど全く見えなかった。


「カルディア姫!」

久しぶりに会ったギスランはどことなく覇気がなかった。
オペラハウスを出て、馬車に乗り込む。楊はダミーを作ると言って、もう一つの馬車に乗り込んだ。
馬が走り始め、動き出してきた頃に、やっとギスランが私の肩を抱きしめた。
じんわりとギスランの温かなぬくもりが伝播してくる。私も背中に手を回して、抱きしめ返した。

「……ギスラン。お前、きちんと食べていたの?」
「カルディア姫。カルディア姫……」

こいつ、人の話聞いていないな。
抱きしめることに夢中なのか、私の言葉が耳に入らない様子だった。
大切な宝物を守ろうと必死になっている子供のように覆い被さってくる。

「重いわよ。体重かけないで」
「カルディア姫」

ふいに首元に埋まっていた顔が上がる。
前髪が荒れ放題だった。変な感じで前髪がせり出している。
紫色の瞳と瞳が絡んだ。
当たり前のように口付けていた。
口を合わせるだけの軽いものなのに、合わせている間は永遠のように感じられた。

「赤くならないで。こちらまで恥ずかしいじゃない!」

暗闇の中でも分かるほど、ギスランの顔が赤くなっていた。

「カルディア姫も同じように、赤いです」

頬をゆっくりと擦られる。

「カルディア姫は馬鹿です。貧民を助けに行って捕まるだなんて」
「……イルのこと、悪かったわね」
「謝るのはそこではないないのでは。カルディア姫はどうして、あの貧民に心を傾けられるのですか? 貧民と仲良くしたい?」
「違う。貧民ではなくて」

ハルだから助けたいと思ったのだ。
だが、それをギスランに言ってどうするんだ。嫉妬心を煽るだけではないのか。

「気がついておられますか? 鳥人間の一件も、今回のこともあの貧民と関わったせいで起こっている。カルディア姫は特別にあの貧民のことを想っているようですが、それがどのような結果になっているか、分からないわけではないでしょう?」
「それは……!」
「お願いです、カルディア姫。私だけを見て。ほかの誰にも心を配らないで欲しい。情のせいで首を締めているんです」

首をハルという情が締めている?
だが、ハルは助けたいのだ。これは諦めきれない。
ギスランに納得してもらうしかない。

「ハルが海外に亡命したら、もう、あいつを忘れる」
「……本当ですか?」
「本当よ。生きていて欲しかった、それだけ。ハルとは恋仲じゃない」
「その答えは、浮気をしていたと言われるより、辛いものだと認識している?」

ギスランの頭の重みが背中にのしかかる。
丸い頭を手で包み込んだ。緩く結ばれた髪はボサボサとしている。

「……そいつとは一緒に地獄に落ちたくない?」

くぐもった声が肌を掠めた。少しだけくすぐったい。
ギスランの質問は馬鹿げたものだった。

「当たり前でしょう。お前しかいないわよ」

こんなどうしようもない権力しかない嫌味で、ふらふらしていて、きちんとした幼い記憶だってろくにない女。一緒に地獄に落ちてくれる人間はいない。
奇特で悪趣味な人間はこの男だけだ。
―ーどうして地獄はないのだろうか。
ギスランは縋るように、地獄と言う。本当にあったら、この男にあげられるのに。
死後の世界の全てを、まるまる捧げてもいいのに。

「ギスラン・ロイスター。お前以外の誰が、好き好んで死んだ後もそばにいてくれるの?」

首筋に吐息が落ちた。
こもる熱気に茹だるような気持ちになった。

「カルディア姫は、意地が悪いです」
「知らなかったの?」
「……あの男、殺してしまいたい」

殺意が混じった声に背筋が伸びる。

「だめ」
「わかりました。腕の一本ぐらいは切ってもよろしい?」
「五体満足のままに決まっているでしょう!?」

うぐうぐと口ごもり、ギスランはがばっと顔を上げる。

「カルディア姫の浮気者。間男に制裁を下すのは夫の義務です」
「まだ結婚していないわ!」
「時間の問題では?」
「……お前、どうしてもハルを痛めつけたいのね」
「はい。殺してしまいたいと先ほども申し上げましたが?」

縋るように見つめてくるギスランの目を見つめ返す。紫色の瞳は濁っているのに爛々と凶暴に輝いていた。

「ギスラン。お願い」
「憐れっぽい言葉で同情を誘うおつもり? 無駄です。カルディア姫は、私の気持ちを知っていらっしゃるのにあの男の肩を持つ」
「……それは、悪いとは思っているわよ」
「カルディア姫。貴女様は二心を嫌っているのではなかったのですか? 自分はやっておきながら、私には強要する?」

ギスランと触れ合っている部分はないはずなのに、火花のように体が熱くなった。羞恥なのか、怒りなのか。訳が分からない激情に押し潰されそうになる。
正論だと私を嬲る気持ちと言い訳をしたい子供のような気持ちがごちゃごちゃになって、子供のように憤慨しそうになった。子供っぽい、制御出来ない苦しさに息が詰まった。
私は愛人を持って欲しくない。
なのに、ハルを心に住まわせるのか? それは、裏切りだ。ギスランに対する背信だ。
傲慢な欲求をギスランに要求している。だが、ギスランを誰にもやるかという独占欲もあった。
いくつも心があって、誰かを思うたびにその一つをはめ込んで場当たり的に過ごしているような気さえしていた。それぐらい、ぐらぐらと揺れている。

「カルディア姫。私はどうやったら貴女様の心を手に入れられる?」

私は父王と同じなのだろうか。正妻と愛人を持つような不埒な人間と同じ血が流れているから、多情なのか。
ギスランの腕が伸びてくる。
ぎゅっと目を瞑り、恐々と開く。
顔に触れる前で止まっていた。ギスランはゆっくりと顔を下げる。傷付けたのが分かった。
止まったままの腕が落ちた。たまらず二の腕を掴む。
ずぶずぶとギスランと混ざり溶け合うような、酩酊感のような甘い気持ちがふっとわいてでた。
言葉が咄嗟に出てこない。誤魔化しも、言い訳もできたはずなのに、ただギスランを見つめるだけだった。フツフツと的外れな怒りが出てくる。私だけ責められるのが許せなくなった。

「……お前は、大切なことを私に話していないでしょう?」
「大切なことですか?」

しらを切るギスランの腕をぎちぎちと掴む。
誤魔化すような微笑を浮かべさせるつもりはなかった。

「教えて。お前の部屋が赤い理由」
「なんですか、突然」
「部屋に物も少ないわよね。どうして?」
「……物に固執しないので。欲しいと思わなければ部屋に置きたくないんです」

それだけではない。
私には確信があった。トーマ達清族に聞いたことをしっかりと覚えていたからだ。

「私と早く結ばれようと意固地になるのはなぜ? たったひとりの婚約者なのに、何を焦っているの」
「カルディア姫が好きなだけです。だから、早く欲しい」
「咳をしている。それを隠すのはなぜ?」
「何かの見間違いでは?」

隠し通せると思っているのだろうか。なにもかも、勘付いているのに。それでも、騙せると思っている。軽んじられていた。それほど鈍感な女ではない。それとも見て見ぬ振りをするだろうと思い込んでいたのか?

「ギスラン。正直に言って。お前はもうすぐ死ぬの?」

体に衝撃が走った。堪えきれず、ギスランに寄りかかる。
馬車の動きが止まった。しばらくして、ラーが扉を強引に開けて、私達を外に出した。

「追っ手が来てる! さっさと逃げろ」

工場の使用済み水と汚水が混じって流れるファミ河が見える。
魚が腐っている臭いがする。泡と死体が浮かぶファミ河近辺では珍しいことではない。

「逃げろって、どこによ、ラー」
「河岸に小舟を用意させてる」
「分かった。蘭王に言っておけ。見返りはきちんと払うと」
「まいどあり」

すれ違い様にラーに背中をかなり強い力で叩かれた。
二、三歩前に吹き飛ばされる。首を横に向けてラーの姿を追うがすぐに消えてしまう。
ギスランに手を取られて走り出す。

「あの男とも知り合いですか?」
「うっ……」

あからさまに低い声を出す。
ギスランは長いため息を吐いた。
あの時のレイ族がラーだと気が付いたのかもしれない。小声でぶつくさと囁き、ぐいぐいと食い込む指の力のまま引っ張られる。
河岸の小舟の前には人影が見えた。どんどんと近付いていくうちに見覚えのある形を取っていく。

「やあ、カルディア」

雲がかった空から月光が差し込む。
月影のなか、サガルは白い歯を見せて笑った。

「僕から逃げられると思った?」


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