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第二章 王子殿下の悪徳
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しおりを挟む私はあのあと、一日寝込むことになった。うまく口を漱げなかったようだ。
毒には耐性があるつもりだったが、耐性だけではどうにもならなかった。寝台の上で、サガルに心配されながらぼんやりと考える。
毛布のふわふわとした感触が、頬を擦って痒い。
イルの手を借り、逃げることを決めたものの、このままサガルを置いていっていいものか分からなかった。
双頭の男に対する傍若無人な様子はサガルの異常性を端的に表しているように思えてならない。
私に危害を加えたものを徹底的に追い詰める。その根幹にあるのは王妃の言葉なのかもしれない。あの女は私を殺すと言っていた。
過保護なサガルは、それを警戒しているのだろうか。
そもそもあの双頭の男は、いったい誰から毒を受け取ったのだろう。地下にいる人間が簡単に毒薬を手にできるとは思えない。誰かが唆し与えたのだろう。
サガルの秘密の地下を知っている人間は限られている。考えられるのはサガルの身近にいて、なおかつ、私を排除することに積極的な人間。
私が知る中で、当てはまるのはリュウぐらいだ。だがあの男がやったという確証はない。
あの男がーー男達が死んでしまった以上、真実は闇の中だ。
木の匂いは優しくて、人工的に作られた川の水は冷たかった。サガルの夢の国。平和を絵に描いた楽園でも命が狙われる。早く外に出るべきだ。双頭の男に殺させた犯人が別の人間を使って再び命を狙ってくるとも限らない。
けれど、サガルをこのまま放置していくのも違う気がする。ぱんぱんに膨らんだ風船に息を吹きかけ続けているような、危機的な状況だ。サガルはもう限界と思う。
詳しいことは分からないけれど、サガルがこれ以上ないほど追い詰められているのは分かっている。それから脱却しようともがいていることも、行動から気がついていた。
阻む相手は王妃だ。あの女のせいで、サガルはガタガタと体を震わせていた。怯え、早くいなくなってくれと小さな悲鳴を上げていた。あの女の存在が、サガルの世界に深い影を落とす。
サガルを国外逃亡させる? だが、王子であるサガルを逃がせるのか。つてもないのに?
蘭王だって、金を積まれても嫌がるだろう。厄介な問題がつきまとうからだ。
王子の亡命は国内情勢が不安定だと諸国に誤解を与える。兄弟対立が悪化し、レオン兄様が強権を発動して弟を追い出したと思われてしまう。
レオン兄様の評判は落ち、それに付け入るように反乱が起こるのは目に見えていた。内政が荒れれば、ここぞとばかりに砂漠の王や他国が攻め行ってくる。戦争が始まれば、どの国に逃げても呼び戻される可能性が高い。
他国に亡命させるつてがない。それに加えて王子であるサガルを亡命させるのは、個人的な問題では済まされない。レオン兄様達に確認をとって行う一大事だ。
唇を噛んで唸る。熱い吐息を吐き出す。膿むようにぐちゅりと口内は湿っていた。
「気持ち悪い? カルディア」
サガルはずっと献身的な看病をしてくれる。
自分のせいだと責めているのか、唇の端が切れていた。サガルのせいではないと伝えられたらいいのに。喉が腫れて、上手く喋れない。
首を振って、ひとまず安心させる。だが、サガルはますます怖い顔をして私の顔を見つめてくる。
「寝ていていいからね」
サガルの言葉に甘えて目を閉じて、思考を再開する。
平和的な解決は難しい。ならば、暴力的な解決を模索するべきだ、
サガルは明らかに私を庇っていた。そのせいで口にするのも悍ましい責め苦を受けている。
サガルのことを助けたかった。
あの女がいなくなればいい。王妃が死んでしまえば、サガルは自由の身になれるはずだ。少なくとも、隠居の話は気の迷いだったと撤回できるはず。
殺すならば、私の手で殺す。ギスランの手を借りては駄目だ。勿論、他の人間も巻き込むわけにはいかない。処刑されてしまう。私ならば、幽閉で済まされるかもしれない。悪評ばかりの私がいよいよ狂ったと判断されるかも。
ーー殺すなんて無理だ。
あの女を殺すということは、人を殺すということだ。
殺した人間の人生が喪われる。あったはずの未来を消す。悪人だとしても、誰かを救うかもしれない。誰かの心の支えになるかもしれない。勇気を与える存在になるかもしれない。もう、すでになっている可能性もある。あの女がいなければ生きていけない。そんな人間が、いるかもしれない。
誰かの大切な人を殺す。
私にそんな決断ができるのか?
イヴァンを殺した時とは訳が違う。本当にこの手を血で汚す覚悟があるのか。
腹を切り裂かれた母は、子供をあの女の口に運ばれ、力尽きた。無念な最期だ。あの女に、そんな最期を与えたい?
姉を殺すと決意したあの女はどんな気持ちだったのだろう。
とろとろと眠りに沈む頭の中で、外に出た私がその足であの女を殺しに行く。手に持ったナイフを振り上げて、切り裂いた。無表情のまま、私はあの女の死体を前に蹲る。女のなかから何かを取り出すために。
ゆっくり体を傾ける。嫌な汗が頭皮からだらだら流れていた。殺人を犯せば、忌み嫌っていたあの女になる。
踏ん切りがつかないまま、時間だけが過ぎていく。
立食パーティーのために用意された食事はまったく減っていなかった。ひとつひとつ、料理人が真心を込めて作っただろう一品達は綺麗な姿のままじわじわと腐り始めていた。
すっかり体調も良くなった頃、サガルは意気揚々とまた集会を開くと言った。興奮した様子のサガルに連れられたまま向かったが、来客は誰一人としていなかった。
無人の空間に大量の食事が用意されている。
サガルはテーブルとテーブルの間を跳ねるよう歩き回り、一口サイズの食べ物を次々口に入れる。
「美味しい。こういうの今まで最後には吐いてたけど、勿体なかったな。カルディアも食べる?」
そろりと近付いて臭いを確かめる。変な臭いはしない。むしろ美味しそうだ。
けれど、毒が入っていない保証はない。いらないと訴えることにした。サガルは私の気持ちを察してくれたのか、強く勧めることはしないでくれた。
「みんないなくなっちゃったな。こうも誰も来ないと面白いな。本当はあと数人、貴族として残しているんだけどね。みんな怖くなって言い訳をつけて休んでいるんだよ」
硬いパンにクリームチーズとサーモンをのせたものを口に入れながら、サガルが教えてくれた。
サーモンは炙られ、溶け出したチーズのいい香りがしていた。
「僕は誰もが認める暴君だ。こうなる前に、性病で顔がやられると思ったんだけどなあ」
指を行儀悪く舐め、そのまま頬をなぞる。自分の顔が醜くなっていないことを残念がるように。
「陶酔していた人間に唾を吐かれて、やっと自分を取り戻せると思っていたのに」
ワインじゃないのが残念だとこぼして、用意された紅茶を飲みほした。カップの中を空にしたサガルは、清々しい顔をしていた。
「いつものところに行こうか。ここにはもう誰も来ないだろうから」
「サガル様!」
サガルの使用人が近付いて来て、耳打ちをする。
ばっと顔色が変わる。眉を顰めたサガルを見つめて事態を伺っていると、がやがやとした喧騒が聞こえて来た。
美貌の侍女が制止する声を無視して、足早に目の前に現れた。見覚えのある顔だった。あの女の使用人だ。
頭を下げ、ヒールの音を響かせてやって来る女に敬愛を示す。
胸元が開いたドレスは真っ赤だった。純白のショールをゆらゆら揺らし、真っすぐに美しい女が近付いてくる。
「サガル、やっと会えたわね!」
子供のような無邪気な顔で、王妃が手を上げた。
金色の髪が黄金の滝のようにきらきらと輝いていた。
太陽のような鮮烈で傲慢な美しさだった。顔を見つめているだけで、溶けて消えてしまいそうになる。
美しさの奴隷になれたらよかった。この女の美しさを褒めたたえるだけの人間だったら、美を憎まずに済んだのに。
醜悪な心を持つ女だ。容姿も醜くあって欲しかった。
邪悪な性根がその美しさをますます高めているように、瑞々しい肌で、少女のように澄んだ瞳をしている。馬鹿な私の頭は怒りで目が曇る前に、賞賛の言葉が占拠していた。
「会えなくて、寂しかったのよ。もう、我儘な息子ね」
「……帰って下さい」
「あら、母様になんて口の利き方なの! そう言わず、遊びましょうよ。久しぶりに、二人っきりで」
「帰れって言っているのが、分からないのか」
威圧的に言い直しても、意にも返さない。扉の向こうで泣きまねをして同情を誘っていた邪悪な女が平然と目の前に立っていた。サガルの意思など関係ない。自分の思い通りにならないと気がすまないのだろう。
「ひどい子ね。母様と遊んでくれないの? せっかく、二人っきりで遊んであげるのよ。光栄なことだというのに」
「僕のことは放っておいて、フィリップ兄様のところにでも行ったらどうですか」
「フィリップは嫌いよ。レオンのお嫁さんを決めただけで、脅迫状が届いたのよ。そのうえ私がせっかく決めてあげたのに、嫌だ嫌だと駄々をこねて、中絶させようとしたのだから! もみ消すのにどれだけ、わたくしが奔走したか。そのくせ、わたくしを蔑んでいるのだから始末に負えないわ」
……フィリップ兄様のとんでもない話が聞こえた気がする。気のせいであって欲しい。
「わたくしはサガルと遊びたいの。ね、いいでしょう」
「嫌だ。嫌です」
サガルは明確に拒否した。サガルは必死でこの女から逃げようとしている。
けれど、それを許すはずがない。
「――サガルは、聞き分けのない子になっちゃったのね。この子のせいね」
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