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第三章 嫌われた王子様と呪われた乞食
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ぎゃあああああ。
巨体が尾鰭をくねらせ空の上で踊る。
たしかに手応えはあった。だが、高度は落ちない。墜落しそうな素振りもない。
「まるで飛空艇だな……」
小石を池に投げ込んでいるような感覚だ。
波紋は立つが、それだけ。何も影響は与えられない。
「威力が足りない」
「イル、どうにかしろ! 俺が落とされたら終わりだ!」
「こういう時のためになんか用意してないんですか!? ちょっと、手に余るんですけどっ」
うるさいトーマに反論しながら手榴弾を投げ込む。爆発音が響き、再び雄叫びのような悲鳴が上がる。やはり墜落の気配はない。
だが、今度は真っ赤な血が降り注いできた。顔をべったりと赤い粘液が濡らす。
何かがこつんと頭の上に落ちる。拾い上げると、人の指だった。は? と思いながら、見上げる。
「トーマ様……こいつ、人食ってたみたいなんですけどお……」
腹の中から、ごろごろと人間の内臓が溢れ出してくる。イルの眼前に落ちてくるのだからたまらない。
「人を食った?」
「ええ、内臓が……って、うわっ!」
ごろっと再び指が落ちて来た。ぱらぱらとさっき落ちて来たものを合わせて十指。
指を食べるのを好む化け物魚なのか?
何にせよ攻撃は効いているようだ。手榴弾をもう一つ取り出しながら、目標に狙いを定める。
「待って、イル。何かがおかしい」
「何かって? ――――っ!」
ずり落ちてきていた内臓がもぞもぞと動き出す。腸や胃が這いずり、近寄っていくのだ。
咄嗟に飛び退く。臓器達が残念そうにイルの影を舐めた。
臓物達は蠢き、集まり、一つになっていく。足が生え、胴がつくられ、手や頭がつく。骨格は男のものだった。立派な性器。鍛え抜かれた四肢。潰れた鼻に整った甘い顔立ち。太く、困ったような眉。
黒髪は長く、細い。男は、ゆらりと全裸のまま立ち上がり、舌を舐めた。
「おや、いい男揃いだね。困ってしまうな」
激震が走る。さっきまで、ただの肉の塊であったはずのものが、流暢に言葉を話している。
術だろうとトーマを見るが、トーマも唖然とした様子で男を見つめていた。
いけないと思った。場が飲まれかけている。対応が後手に回るのだけは避けたい。銃を構え、狙いを定め撃つ。
心臓を確かに射抜いた。だが、男は微睡むような微笑みを浮かべただけだ。
「いい腕だねえ。心臓を狙い撃ちだ。腕を見せてもらって気分がいい」
「そうですか。ならば潔く死んでくれたほうが俺としても嬉しいのですが」
これでは効かないと、懐にしまい、代わりにナイフを取り出す。全く、人間を相手にしたいものだ。悪鬼のような奴らではなく。
「ハル、下がってなよ。手を出されると迷惑だ」
足に力を入れて飛び出す。
ひとっ飛びで、男の首に迫る。喉元を掻き切ったが、やはり手応えがない。ふにゃふにゃとした柔らかいものを切り落としという感触だけが、手元に残る。
「あははは、すごいすごい。人を殺すの慣れてるんだねえ。上手上手!」
「くそが。喉切ったのに、どうやって声出してんだ。……死なないってんなら、動けなくしてあげるよ」
「イル、上!」
ハルの声に促され見上げると、さきほど、腹から臓物をぼろぼろとこぼしていた魚から、臭い液体が落ちてくる。服にどろりとかけられたそれに、くそっと舌打ちをして、ハルとトーマへ声を張り上げる。
「油だ、被らないように!」
「優しいね、君。とってもいい子だ。丸焦げになってもそう言えたら、もっともっと褒めてあげるからね」
男は、床に流れた油に指を浸した。
べえと口を広げ舌の先からギザギザと尖った石。そして、鋼の火打金を取り出す。
優しい顔をしたまま、唾液のついた状態のままのそれらを擦り付ける。
小さな火花が走り、油がついた爪の先に火が移った。
爪から、指に炎が移る。洋燈のように煌々とした灯をともしたまま、男はゆっくりとイルに指の先を向ける。
「まじで冗談きついってのっ!」
無我夢中で飛び退いたが遅かった。
男の指から火の粉が落ちる。その瞬間、床に溢れた油に引火し、瞬く間に広がった。
――あ、これはやばい。
イルにまで飛び火して一瞬で火に飲まれる未来まで予想がついた。想像出来てしまえば先は簡単だ。心構えをつくるだけ。肺に息を貯め、煙を吸い込まないように準備する。
だが、いつまでたっても火は襲いかかってはこなかった。距離を取るため、何度か体を回転させ、燃え盛る火の粉から逃げる。
どういうことだとあたりを睥睨すると、火を放ったはずの男が炎に包まれていた。
「こういうことだろうと思って、演算していて正解でしたわね!」
脳に直接に声が流れ込んでくる。
ヴィクターの上擦った声で、術によって守られたのだと知る。
転移魔術か。炎の座標を、男のもとに移動させた。
「邪魔が入ってしまったねえ。弱った、弱った」
「イル、ひいて。今の状態じゃ分が悪い」
「……業腹だがその通りだね。その綺麗な顔を焼いてやりたくてたまらないが」
「相手をしてくれないのかい? 悲しいなあ。君に顔を焼かれたかったよ。熱いなあ、もう、いいよねえ」
男が手を振ると、上から大量の雪が降ってくる。男の上に落ちて来た純白の塊は炎を少しずつ消していった。
火傷痕が残る顔を触りながら、やはり男は痛覚など感じていないというようににこにこと笑っている。
「ああ、あれはね、僕の信者だよ。僕の言うことを聞いてくれるいい子達なんだ」
「――信者?」
ハルの警戒するような声に、男はまた声を重ねた。
「そうだよ。村の皆さ。僕の村はねえ、ここよりもずっとずっと貧しかった。お坊様だって、山伏様だって来ては下さらなかった。いつも、幽鬼が村にやって来て悪さばかりするんだ。神仏に頼っても何もしてはくれない」
――この顔に、この物言い。やはり、異国の人間。
ただ、蘭王と同じとは思えない。顔の作りが違い過ぎる。この男は蘭王より、顔がのっぺりとしていて凹凸がない。肌はまるでバターを何度も塗りつけたような甘そうな黄色だ。
「だから、神様を自分達でつくることにしたんだ。彼らは信者なんだ」
「その言い方、貴方が信者を束ねる司祭だとでも言うつもりか?」
「もう、違うよ。僕の教団なんだから。眼鏡君は分かってないなあ」
僕の教団?
意味は分かるが脳が理解を拒んでいる。まさか、この全裸男が、教祖とでも言うつもりか?
「お凛、君のものを見せてあげるといいよ。僕への信仰を示してごらん」
男がまったりとその言葉を口にすると、魚が嬉しそうに声を上げる。そうして、穴が空いたままの腹部から何かを落としてきた。
それはたしかに人だった。魚の体液がついたまま真っ逆さま。
首がいかれてしまうような体勢で墜落した。男は落ちてきた人間を抱え上げると、イル達に勲章のように見せびらかして来た。
「この人はねえ、両替商をしている孫八郎さんって言ってね、あのお凛を雇っていた人なんだ。下女だからって、甘言を吐いて手を出しちゃったんだよ」
ぶらりと吊るされた男はまだ息があるように見えた。上等な服を着た、いかにも品の良さそうな男だった。生きてはいるようだが、虫の息だ。
目は充血し、何か不思議な呪文を唱えている。
「彼の奥さんがさあ、それを見ちゃって。お凛は裸に剥かれて池に投げ込まれたんだ。そこには人を食う魚が何匹も生息していてね、彼女は三日三晩、餌として食べられ続けた。僕が発見した時、彼女はどこもかしも齧られていて、穴ぼこだらけだった」
「なっ。……そ、そんな」
ハルの動揺した声に、男はにこりと口角を上げる。
「可哀想だろう。だから、助けてあげたんだ。そうしたら、ほら。こうやって今では好きな男を肚の中に入れるほど強くなった」
肚の中に、男を。
ハルは使い物にならない。固まったままだ。
イルは注意深く、男を観察した。近づくのは無理でも、ナイフならば投げられる。ただ先ほども、殺すことは出来なかった。何か仕掛けがあるはずだ。
「さてと。ありがとう、美味しくいただくね」
首が折れた。呪文を唱えていた口から唾液が溢れる。
男はそのまま首を曲げ、取り外した。骨と神経が悲鳴をあげながら引き千切られた。
血が山を描きながら噴き出す。男は首に噛み付きながら服を剥いでいく。
虚を突かれた。
肉を食い破り、咀嚼している。
しかも服を奪い、自分のものにしている。
貧民街にも人肉を食べる奴はいた。だから驚きはない。ただ、嫌悪感が走る。この男を野放しにしていてはいけないと本能が叫んでいる。
――この男、ずっと、笑ってやがる。
表情筋が笑顔のまま固まっているように、全く変わらない。
のほほんと微笑んでいる。
長い袖、踝までゆったりとしたトラウザーズ。
異国風の服装をきっちりと着こなしている。飛び散った血がなければ、この男こそ上等な身分の奴だと錯覚しそうだ。それぐらい優雅で、人離れした穏やかさがあった。
「ふふ、やっぱり美味しいね。人間ってのは」
「……化け物め」
「酷い言われようだなあ。僕の国じゃあ、人の肉は薬になるってもっぱらの噂だったんだよ」
お凛と呼ばれた女が、空飛ぶ魚という。
そして目の前の男は人を食う。
『カリオストロ』は人外魔境か何かだろうか。
何が薬だと心の中で吐き捨てる。
本当に薬になるとはかけらも思っていないだろうに。
「ほら、お凛。もっと僕の為に人を落としておくれ」
男は、人だったものに食らいつきながら、催促する。だが、なかなか魚は言うことを聞かない。男は困ったように頬をかくと指を引き千切って、空に投げた。
まるで、魚に餌をやるように。
ぱくつくと、魚は尾鰭を丸め、嬉しそうに一回転した。感情の発露とも言えるその行動に、知性のにおいを感じ押し黙る。
口からでまかせではなく、本当にあの魚はーー。
「イル! 上見ろ、馬鹿!」
気を取られていたイルの目の前に魚が墜落してきた。トーマの声がなければ、足が巻き込まれていたかもしれない。
激しい衝撃音とともに、血溜まりが出来上がる。魚の背にはリュウが乗っていた。
「なあに、油売ってんのぉ、イル。さっさと終わらせなよ」
人の顔の長さはある大振りのナイフで目をくり抜き、そこから脳を引きずり出していた。
男の捕食に気を取られて、リュウが魚の上で格闘しているのに気が付けなかった。
ならばさっき指を食べた魚の動きも、痛みにのたうちまわっていたということなのだろうか。
「あーあ、お凛が。お気に入りだったのに」
「なあに、この異邦人は。船で送り返してあげなよ、ハル」
「リュウ……! 本当に生きてたんだ」
「正面はどうしたの、抜け出して来て良かったのか」
見た限り、鬼と見紛うような連中がのそりのそりと近付いて来たはずだ。迎撃のために、猫の手も借りたい忙しさのはず。
イルは正面玄関を見下ろした。
月影に素早く影が踊る。
剣が煌めき、一撃にして敵が沈む。踊っているようですらあった。美しい音が聴こえてきそうだ。
比類なき圧倒的な強さ。鬼達が瞬く間に数を減らしていく。
――ヨハンか。
「あの人いれば他いらないでしょ。英雄様様だよねえ」
「リュウより、あの人が応援の方が良かったんだけど」
憎まれ口を叩きながらも、イルは安堵していた。イルと目の前のこの男では相性が悪過ぎる。攻撃が効かないのは術のせいだろうが、見当がつかない。術が使えるリュウの方がまだ相手になるだろう。
「――ああ、こっちもか」
魚が美しい女の姿に変わる。腕と足が穴ぼこだらけの黄色い肌の女。腹部には穴が空き、肋骨から下がぺたんこになっている。
目玉はくり抜かれており、視神経が引っ張り出されていた。
無惨な姿にハルが軽くえずく。
イルも胃がむかっと反射的に蠢く。吐くことはしないが、それでも生理的にくるものがある。
「これは」
「あっちの鬼どもも死んだら人間に戻るんだよねぇ。元は人間だったってことでしょ?」
戻る。
人間に戻るというのか。
肺に貯まった空気を全部、吐き出す。
気合いを入れ直す。何を惚けた反応をしている。怪物が人間だったなんて、童話の世界じゃよくあることだ。
人は、簡単に獣に堕ちる。
人殺しならばいつもやっている。怯えるような事じゃない。
「君達は本当に酷い奴だねえ」
男が指を鳴らす。空には無数の影が現れた。餌をやる人間に群がる魚のように、男の頭上で集まっている。
城を隠す海雲のような影。幻魔供の哄笑が聴こえてきそうだ。
トーマが声を張り上げる。殺せと。
巨体が尾鰭をくねらせ空の上で踊る。
たしかに手応えはあった。だが、高度は落ちない。墜落しそうな素振りもない。
「まるで飛空艇だな……」
小石を池に投げ込んでいるような感覚だ。
波紋は立つが、それだけ。何も影響は与えられない。
「威力が足りない」
「イル、どうにかしろ! 俺が落とされたら終わりだ!」
「こういう時のためになんか用意してないんですか!? ちょっと、手に余るんですけどっ」
うるさいトーマに反論しながら手榴弾を投げ込む。爆発音が響き、再び雄叫びのような悲鳴が上がる。やはり墜落の気配はない。
だが、今度は真っ赤な血が降り注いできた。顔をべったりと赤い粘液が濡らす。
何かがこつんと頭の上に落ちる。拾い上げると、人の指だった。は? と思いながら、見上げる。
「トーマ様……こいつ、人食ってたみたいなんですけどお……」
腹の中から、ごろごろと人間の内臓が溢れ出してくる。イルの眼前に落ちてくるのだからたまらない。
「人を食った?」
「ええ、内臓が……って、うわっ!」
ごろっと再び指が落ちて来た。ぱらぱらとさっき落ちて来たものを合わせて十指。
指を食べるのを好む化け物魚なのか?
何にせよ攻撃は効いているようだ。手榴弾をもう一つ取り出しながら、目標に狙いを定める。
「待って、イル。何かがおかしい」
「何かって? ――――っ!」
ずり落ちてきていた内臓がもぞもぞと動き出す。腸や胃が這いずり、近寄っていくのだ。
咄嗟に飛び退く。臓器達が残念そうにイルの影を舐めた。
臓物達は蠢き、集まり、一つになっていく。足が生え、胴がつくられ、手や頭がつく。骨格は男のものだった。立派な性器。鍛え抜かれた四肢。潰れた鼻に整った甘い顔立ち。太く、困ったような眉。
黒髪は長く、細い。男は、ゆらりと全裸のまま立ち上がり、舌を舐めた。
「おや、いい男揃いだね。困ってしまうな」
激震が走る。さっきまで、ただの肉の塊であったはずのものが、流暢に言葉を話している。
術だろうとトーマを見るが、トーマも唖然とした様子で男を見つめていた。
いけないと思った。場が飲まれかけている。対応が後手に回るのだけは避けたい。銃を構え、狙いを定め撃つ。
心臓を確かに射抜いた。だが、男は微睡むような微笑みを浮かべただけだ。
「いい腕だねえ。心臓を狙い撃ちだ。腕を見せてもらって気分がいい」
「そうですか。ならば潔く死んでくれたほうが俺としても嬉しいのですが」
これでは効かないと、懐にしまい、代わりにナイフを取り出す。全く、人間を相手にしたいものだ。悪鬼のような奴らではなく。
「ハル、下がってなよ。手を出されると迷惑だ」
足に力を入れて飛び出す。
ひとっ飛びで、男の首に迫る。喉元を掻き切ったが、やはり手応えがない。ふにゃふにゃとした柔らかいものを切り落としという感触だけが、手元に残る。
「あははは、すごいすごい。人を殺すの慣れてるんだねえ。上手上手!」
「くそが。喉切ったのに、どうやって声出してんだ。……死なないってんなら、動けなくしてあげるよ」
「イル、上!」
ハルの声に促され見上げると、さきほど、腹から臓物をぼろぼろとこぼしていた魚から、臭い液体が落ちてくる。服にどろりとかけられたそれに、くそっと舌打ちをして、ハルとトーマへ声を張り上げる。
「油だ、被らないように!」
「優しいね、君。とってもいい子だ。丸焦げになってもそう言えたら、もっともっと褒めてあげるからね」
男は、床に流れた油に指を浸した。
べえと口を広げ舌の先からギザギザと尖った石。そして、鋼の火打金を取り出す。
優しい顔をしたまま、唾液のついた状態のままのそれらを擦り付ける。
小さな火花が走り、油がついた爪の先に火が移った。
爪から、指に炎が移る。洋燈のように煌々とした灯をともしたまま、男はゆっくりとイルに指の先を向ける。
「まじで冗談きついってのっ!」
無我夢中で飛び退いたが遅かった。
男の指から火の粉が落ちる。その瞬間、床に溢れた油に引火し、瞬く間に広がった。
――あ、これはやばい。
イルにまで飛び火して一瞬で火に飲まれる未来まで予想がついた。想像出来てしまえば先は簡単だ。心構えをつくるだけ。肺に息を貯め、煙を吸い込まないように準備する。
だが、いつまでたっても火は襲いかかってはこなかった。距離を取るため、何度か体を回転させ、燃え盛る火の粉から逃げる。
どういうことだとあたりを睥睨すると、火を放ったはずの男が炎に包まれていた。
「こういうことだろうと思って、演算していて正解でしたわね!」
脳に直接に声が流れ込んでくる。
ヴィクターの上擦った声で、術によって守られたのだと知る。
転移魔術か。炎の座標を、男のもとに移動させた。
「邪魔が入ってしまったねえ。弱った、弱った」
「イル、ひいて。今の状態じゃ分が悪い」
「……業腹だがその通りだね。その綺麗な顔を焼いてやりたくてたまらないが」
「相手をしてくれないのかい? 悲しいなあ。君に顔を焼かれたかったよ。熱いなあ、もう、いいよねえ」
男が手を振ると、上から大量の雪が降ってくる。男の上に落ちて来た純白の塊は炎を少しずつ消していった。
火傷痕が残る顔を触りながら、やはり男は痛覚など感じていないというようににこにこと笑っている。
「ああ、あれはね、僕の信者だよ。僕の言うことを聞いてくれるいい子達なんだ」
「――信者?」
ハルの警戒するような声に、男はまた声を重ねた。
「そうだよ。村の皆さ。僕の村はねえ、ここよりもずっとずっと貧しかった。お坊様だって、山伏様だって来ては下さらなかった。いつも、幽鬼が村にやって来て悪さばかりするんだ。神仏に頼っても何もしてはくれない」
――この顔に、この物言い。やはり、異国の人間。
ただ、蘭王と同じとは思えない。顔の作りが違い過ぎる。この男は蘭王より、顔がのっぺりとしていて凹凸がない。肌はまるでバターを何度も塗りつけたような甘そうな黄色だ。
「だから、神様を自分達でつくることにしたんだ。彼らは信者なんだ」
「その言い方、貴方が信者を束ねる司祭だとでも言うつもりか?」
「もう、違うよ。僕の教団なんだから。眼鏡君は分かってないなあ」
僕の教団?
意味は分かるが脳が理解を拒んでいる。まさか、この全裸男が、教祖とでも言うつもりか?
「お凛、君のものを見せてあげるといいよ。僕への信仰を示してごらん」
男がまったりとその言葉を口にすると、魚が嬉しそうに声を上げる。そうして、穴が空いたままの腹部から何かを落としてきた。
それはたしかに人だった。魚の体液がついたまま真っ逆さま。
首がいかれてしまうような体勢で墜落した。男は落ちてきた人間を抱え上げると、イル達に勲章のように見せびらかして来た。
「この人はねえ、両替商をしている孫八郎さんって言ってね、あのお凛を雇っていた人なんだ。下女だからって、甘言を吐いて手を出しちゃったんだよ」
ぶらりと吊るされた男はまだ息があるように見えた。上等な服を着た、いかにも品の良さそうな男だった。生きてはいるようだが、虫の息だ。
目は充血し、何か不思議な呪文を唱えている。
「彼の奥さんがさあ、それを見ちゃって。お凛は裸に剥かれて池に投げ込まれたんだ。そこには人を食う魚が何匹も生息していてね、彼女は三日三晩、餌として食べられ続けた。僕が発見した時、彼女はどこもかしも齧られていて、穴ぼこだらけだった」
「なっ。……そ、そんな」
ハルの動揺した声に、男はにこりと口角を上げる。
「可哀想だろう。だから、助けてあげたんだ。そうしたら、ほら。こうやって今では好きな男を肚の中に入れるほど強くなった」
肚の中に、男を。
ハルは使い物にならない。固まったままだ。
イルは注意深く、男を観察した。近づくのは無理でも、ナイフならば投げられる。ただ先ほども、殺すことは出来なかった。何か仕掛けがあるはずだ。
「さてと。ありがとう、美味しくいただくね」
首が折れた。呪文を唱えていた口から唾液が溢れる。
男はそのまま首を曲げ、取り外した。骨と神経が悲鳴をあげながら引き千切られた。
血が山を描きながら噴き出す。男は首に噛み付きながら服を剥いでいく。
虚を突かれた。
肉を食い破り、咀嚼している。
しかも服を奪い、自分のものにしている。
貧民街にも人肉を食べる奴はいた。だから驚きはない。ただ、嫌悪感が走る。この男を野放しにしていてはいけないと本能が叫んでいる。
――この男、ずっと、笑ってやがる。
表情筋が笑顔のまま固まっているように、全く変わらない。
のほほんと微笑んでいる。
長い袖、踝までゆったりとしたトラウザーズ。
異国風の服装をきっちりと着こなしている。飛び散った血がなければ、この男こそ上等な身分の奴だと錯覚しそうだ。それぐらい優雅で、人離れした穏やかさがあった。
「ふふ、やっぱり美味しいね。人間ってのは」
「……化け物め」
「酷い言われようだなあ。僕の国じゃあ、人の肉は薬になるってもっぱらの噂だったんだよ」
お凛と呼ばれた女が、空飛ぶ魚という。
そして目の前の男は人を食う。
『カリオストロ』は人外魔境か何かだろうか。
何が薬だと心の中で吐き捨てる。
本当に薬になるとはかけらも思っていないだろうに。
「ほら、お凛。もっと僕の為に人を落としておくれ」
男は、人だったものに食らいつきながら、催促する。だが、なかなか魚は言うことを聞かない。男は困ったように頬をかくと指を引き千切って、空に投げた。
まるで、魚に餌をやるように。
ぱくつくと、魚は尾鰭を丸め、嬉しそうに一回転した。感情の発露とも言えるその行動に、知性のにおいを感じ押し黙る。
口からでまかせではなく、本当にあの魚はーー。
「イル! 上見ろ、馬鹿!」
気を取られていたイルの目の前に魚が墜落してきた。トーマの声がなければ、足が巻き込まれていたかもしれない。
激しい衝撃音とともに、血溜まりが出来上がる。魚の背にはリュウが乗っていた。
「なあに、油売ってんのぉ、イル。さっさと終わらせなよ」
人の顔の長さはある大振りのナイフで目をくり抜き、そこから脳を引きずり出していた。
男の捕食に気を取られて、リュウが魚の上で格闘しているのに気が付けなかった。
ならばさっき指を食べた魚の動きも、痛みにのたうちまわっていたということなのだろうか。
「あーあ、お凛が。お気に入りだったのに」
「なあに、この異邦人は。船で送り返してあげなよ、ハル」
「リュウ……! 本当に生きてたんだ」
「正面はどうしたの、抜け出して来て良かったのか」
見た限り、鬼と見紛うような連中がのそりのそりと近付いて来たはずだ。迎撃のために、猫の手も借りたい忙しさのはず。
イルは正面玄関を見下ろした。
月影に素早く影が踊る。
剣が煌めき、一撃にして敵が沈む。踊っているようですらあった。美しい音が聴こえてきそうだ。
比類なき圧倒的な強さ。鬼達が瞬く間に数を減らしていく。
――ヨハンか。
「あの人いれば他いらないでしょ。英雄様様だよねえ」
「リュウより、あの人が応援の方が良かったんだけど」
憎まれ口を叩きながらも、イルは安堵していた。イルと目の前のこの男では相性が悪過ぎる。攻撃が効かないのは術のせいだろうが、見当がつかない。術が使えるリュウの方がまだ相手になるだろう。
「――ああ、こっちもか」
魚が美しい女の姿に変わる。腕と足が穴ぼこだらけの黄色い肌の女。腹部には穴が空き、肋骨から下がぺたんこになっている。
目玉はくり抜かれており、視神経が引っ張り出されていた。
無惨な姿にハルが軽くえずく。
イルも胃がむかっと反射的に蠢く。吐くことはしないが、それでも生理的にくるものがある。
「これは」
「あっちの鬼どもも死んだら人間に戻るんだよねぇ。元は人間だったってことでしょ?」
戻る。
人間に戻るというのか。
肺に貯まった空気を全部、吐き出す。
気合いを入れ直す。何を惚けた反応をしている。怪物が人間だったなんて、童話の世界じゃよくあることだ。
人は、簡単に獣に堕ちる。
人殺しならばいつもやっている。怯えるような事じゃない。
「君達は本当に酷い奴だねえ」
男が指を鳴らす。空には無数の影が現れた。餌をやる人間に群がる魚のように、男の頭上で集まっている。
城を隠す海雲のような影。幻魔供の哄笑が聴こえてきそうだ。
トーマが声を張り上げる。殺せと。
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