どうやら私はバッドエンドに辿りつくようです。

夏目

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第三章 嫌われた王子様と呪われた乞食

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「へし折られそうなぐらい首を掴む手には力がこもっていたな。爪で引っ掻いても、びくともしなかった。酸素がなくなって、頭がチカチカした。星が頭の中に舞って、綺麗だったな。啜り泣く兄上の声が聞こえて、死が近づいて来た」

 フィリップ兄様はまるでそれが何でもないことのように言った。死にそうになったというのに、まるで他人事だ。

「どうしてだろうと何度も考えたよ。マイク兄上の邪魔になったのか。でも、自分で殺しに来ちゃ駄目じゃないか、とか。おれは死んでもいいけれど、兄上が責められるのは嫌だな、とか。いや、やっぱり死ぬのが怖いなとか。兄上、謝ったら、許してくれるかなとか」

 つらつらと考えながらも、背後には死が近付いてきている。それは夜のことだったという。寝台の上で、眠りについていた。明るくないと眠れないから、ランプを灯していて、その光のおかげでマイク兄様の顔がよく見えた。

「顔に熱が集まって、喉の奥が干上がったように乾いて痛かったなあ。肌の向こう側に空気があるのに、穴が塞がっただけで呼吸が出来なくて、嘘みたい醜くもがいた。力が抜けて、マイク兄上を引っ掻いた指が外れると、ますます兄上は泣いた。ごめん、ごめんと縋るように首を絞めていた。ぽたぽた肌の上に涙がこぼれ落ちてきて、泣かないでと慰めて差し上げたくなったのを良く覚えている。――いや、これは美化しているな。だって、おれは」

 フィリップ兄様が手で顔を隠して、すぐに、手を外した。

「なぜか、一瞬、兄上が腕から力を抜いた。好機だった。がむしゃらに飛び上がって、咳をこぼしながら兄上に馬乗りになって首を絞めたよ。そのときの首の太さを、脈打つ血管を、よく覚えている」

 今もその感触があると言わんばかりにフィリップ兄様は手を見つめた。金の指輪が嵌められた、綺麗で汚れを知らないような指。それが、マイク兄様の首を絞めた。
 実感が全然わかなかった。そんなことが、本当にありえるのか?

「あの時、おれは死ねと言いながら首を絞めていた。おれは兄上に死んで欲しかったんだ。おれを殺しに来る兄上をーーおれを上手く殺せなかった兄上を殺したかった。戸惑うことなんてなかった。力を緩めることもしなかった。許しての声さえ、上げさせなかった。不愉快だったから。雑音だったから。なにより、聞きたくなんてなかったから」

 抵抗はさほどなかったとフィリップ兄様はこぼした。マイク兄様の力だったら、振り払えたかもしれないだろうに、ろくに抵抗なんかしなかった。
 死にたかったのかもしれない。言葉をなぞって、そんなことを思った。けれど、そんなことを言えるほどフィリップ兄様の言葉を受け止めきれてはいなかった。何というのだろう。知っている人の名前を使った童話でも聞かされているのような、そんな荒唐無稽さを感じてしまっていた。

「冷たくなっていく兄上の体と、一夜を過ごした。眠れなかった。頭の中にずっと聖歌が流れていた。女神に祈ったよ。でも、届いてはいないようで、おれに天罰が降ることもなければ、兄上が甦ったりもしなかった。ただ、太陽が昇るだけだった」

 やがて、使用人達がやってくる朝になった。フィリップ兄様はマイク兄様を寝台の下に潜り込ませて、一日を過ごした。誰かに死体が見つかるのではないかと気が気でなかったが、何もなく終わったらしい。日が暮れて、夜が来た。その頃になると、マイク兄様を探す使用人達が城のなかを歩き回っていた。

「誤魔化せないだろうと感じた。兄を殺したんだ。おれはきっと、兄上以上に酷い死に方をする。処刑されるか、幽閉されるか。どちらにしても報いを受けることになる。怖くて、恐ろしくて、泣いた。罪の重さをあれほど感じたことはない。法律では、人一人殺しても死刑にならないことがある。まして、これは正当防衛だ。それを証言すればもしかしたら罰せられないかもしれなかった。王族が王族を殺そうとした。そういう醜聞が立つだけだったかもしれない。――けれど、そんなことは考えられなかった。だって、人を一人殺したんだ。この手で。人を殺したのならば、死ぬべきだ。そう感じだ」

 フィリップ兄様の声は感情がこもっているはずなのに、冷ややかだった。

「人を殺した。死ぬべきだ。そう自分を責めるくせに、どうしてか死ぬ気にはなれなかった。死体を隠さなくては、と思った。どうしてだろうね、ディア。おれは今でもマイク兄上のことを好いているけれど、あのとき確かに死体が邪魔だと思った。どこかに消えて無くなってくれないかと願った。生き返って欲しいでは、もうなくなっていた」

 死臭がする。綺麗な王座。チリひとつない謁見室。
 それなのに、処刑場に住む死肉を求める鴉の鳴き声が聞こえてきた気がした。

「――レオン兄上がやってきたのはそんな時だった。マイク兄上を探しにきたと言っていたな。おれに知らないかと。最初は誤魔化した。知らない。知るはずがない。……でも、堪えきれなくなって、何もかも、洗いざらい話した。告解をする罪人の気持ちだった。兄上は静かに聞いてくれた。おれが話し終わるまで相槌だけしてくれたな。優しい声だった。うん、うんって」

 その声には私も覚えがあった。レオン兄様は、優しく相槌を打つのだ。まるで、すべてを受けとめるように。

「洗いざらい吐き出した。気持ち悪くなって、胃の中のものを全部吐き出したな。背中を撫でる兄上の手が何度も上から下に流れてさ、優しくて、地獄の中なのに、生温い水の中で微睡んでいるような浮遊感があった。兄上、優しかったなあ。おれが泣き止むまでずっと背中をさすってくれた。大丈夫、大丈夫だよって言い続けてくれた」

 ――それなのに、レオン兄様を殺した?
 フィリップ兄様の声は優しくて、神を語る信徒のように敬愛に満ちていた。
 それなのに、現実との乖離が酷い。だって、フィリップ兄様は自分がレオン兄様を殺したと言ったのだから。

「起きたら、寝台の上で眠っていた。死体の放つ腐臭ではなくて、花の匂いがした。カルディアという小さな花が花瓶に飾ってあった。兄上は昔、王都に沢山咲いていた花なんだと言っていたな。あの男の癇癪で、全部燃やしてしまったけれど、自分は何だか忍びなくてひっそり育てていたんだって。……死体はどこかに行っていた。王都郊外の沼地に捨てたと言っていた。百年は見つからないだろうって、泣いていて。太陽が、兄上の頬を照らして、まるで一つの絵画みたいに綺麗だった」

 隣のフィガロは唇を噛みしめて、目を伏せていた。

「次の日も、その次の日も、マイク兄上の捜索が行われた。けれど、見つかることはなかった。誘拐されたか、それともどこかに身を隠しているのか。変な噂も出回ったな。女神から罰を受けて、姿を犬にでも変えられているのではないか! とね。おれに絞殺されて、沼地に捨てられただけだっていうのに」

 その噂話を笑うというよりは、自分を嘲笑っているように、唇が上がる。

「あの男は、そういう噂話がお気に召さなかったんだろ。一カ月後には、マイク兄上は病死したと発表した。死体だってないのに、死んだことにした。空の棺を掲げて、葬式が執り行われた。――マイク兄上を慕っていた奴らが、棺を目の前にして、おいおい泣いていた。あとを追うと言って、ファミ河に飛び込んでそのまま上がってこなかった奴もいた。いや、それ以上に酷かったのは、マイク兄上の乳母だったな。マイク兄上を匿っているのではないかと疑われて、狂って首を吊って死んだ。嘘はついていないと、遺書に書かれていた」

 悪い夢でも見ているような蒼白い顔をして、フそのときのことを思い出すように、フィリップ兄様はそういった。

「おれは、マイク兄上を殺して、騎士の奴らを殺して、乳母を死なせて、生き延びた。ならば、せめて兄上のために生きるべきだろう? ……世のため、人のために、少しは上等に生きるべきだろう? ――ディアは、レオン兄上が課題で書かれた理想の王政についての文章を読んだことは?」

 突然尋ねられ、戸惑いながら、首を振る。

「そうか。知らないのか。もう、燃やしてしまったし、見せられないのが残念だな。……理想論ばかりの可哀想になるぐらい実現性のないものだった。民が飢えないように、伴侶と幸せな一生を送れるように。住むところに困らず、誰にも害されず、善なる者が尊敬され、悪徳は駆逐される。鍍金で塗られたような理想郷の話。しかも、書いた理想を兄上すら信じてはいなかった。あの人は、人に褒められたい人だったから。褒められるために、そんな理想論を語って、立派だと言われたかったんだろうね。……でも、おれにはとても、とても素敵なものに思えた」

 だから、力を貸した。レオン兄様が、掲げる誰も信じていない理想を、フィリップ兄様だけは信じた。実現したいと願った。
 善人が救われて、悪人が罰せられる。
 素晴らしい、世界だ。

「政敵は兄上が何か言う前にうち滅ぼした。おれの後見人であったアレクセイ・ロバーツを失脚させ、隠居させた。大四公爵家を完全に沈黙させた。まあ、強く躾を掏る前に、彼らは自滅していったけれど。残りは、治外法権を管轄する若い辺境伯達を始末するだけ、だったけれど。――そんなとき、マイク兄上が見つかった」

 沼地にぷかぷかと浮くマイク兄様を想像して、気持ちが悪くなった。沼地の奥に沈められたはずの死体が、フィリップ兄様の罪を告発した。

「おれが殺したのだと何故か誰もが知っていた。秘密裏に牢屋に入れられた。知っている? 王族が入る牢を。臭い寝台に、鼠の群れ。信じられないほど不衛生な場所だった。そこに入れられたおれを見てレオン兄上は酷く狼狽えていたな。沼地に捨てたはずなのに、死体が出てきてしまった。申し訳ない。変わってやりたい。おれも、マイク兄上のように病死扱いにされて殺されるかもしれない。さめざめ、泣いていた」

 そういうフィリップ兄様は穏やかだった。牢に入れられた兄様もこんな顔をしていたのではないかと、ふと思った。

「死ぬのは怖くはなかった。だってマイク兄上の方がよっぽど怖かっただろうから。おれに首を絞められて殺されて、沼地に沈められた。肉親に殺された。それ以上に恐ろしいことがある? 誰にも見つけられず、犯人は報いを受けず。――そういうものがおれは一番、恐ろしいと思った。だから、怖くなどなかった」

 虚勢だと、気がついてしまった。フィリップ兄様の顔には死への恐怖が張り付いていた。もしかしたら、彼自身も気がついていないのかもしれない。恐ろしくないのだと思い込もうとしているようにさえ思えた。

「ザルゴ公爵がやって来たのは、そんな時だった。死んだはずの男が、おれの前にやって来て言ったんだ。『お前は騙されている。なんて、憐れな王子なのだろうね』と」

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