暁に消え逝く星

ラサ

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第6章

旅路の果て

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 ついにこの時が来た。

 女は茂みをかきわけながら、思った。
 永い苦しみから、ようやく解放されるのだ。
 皇子を追って、二ヶ月以上の永い――永遠にも思えた苦しい旅が、今ようやく終わるのだ。
 右手は、下衣の衣嚢に入れた短刀を確かめる。
 高鳴る鼓動に、身体は震えていた。
 最後の皇子は、一体どのように命乞いをするのだろう。
 弟が受けた苦しみを、皇子も味わってから死なねばならない。
 苦しんで苦しんで、無様で惨めに死んでくれれば、自分も心置きなく弟のところへ逝ける。
 女はもとより、これ以上生きる気などなかった。
 弟を失ってから、すでにこの身は死んだも同然。
 左手でそっと触れた首筋は、柔らかかった。
 男からの迎えがくるまでの待つ間に、女は無意識に首筋を探っていた。
 常に一番強く脈打つ場所を探して。
 確実に、死ねるように。

 待っていて、リュマ。

 女は祈るように呟いた。


 茂みをかき分ける音が徐々に近づいてくるのに、その場にいた者は気づいた。
 イルグレンは、音の近づいている方角を、跪いたまま見据える。

 自分をこの世で最も憎んでいる女。

 そんな人間は、皇妃しか知らない。
 だが、彼女はすでにいない。
 身内の誰かがまだいるのか。
 側室の中に、逃げ延びた者でもいたのか。
 考えてもイルグレンにはそれ以上はわからなかった。
 そして、案内を務めた男が茂みを出て、横に避けた時。
 イルグレンはその女を視界に捉えた。
「――」
 薄暗がりの中、近づいてくる女。

「覚えていて、皇子様?」

 優しいとも思える声音で、女は問うた。
 美しい女だった。
 頬は少しやつれたように痩けていたけれど、瞳には、強い力が溢れていた。
「――」
 見たことのない、女だった。
 けれど。
 見たことがある衣装――一目でわかる、それは、自分が失った故国の、皇宮や皇族に仕える侍女の着る装束だった。
 覚えているかと女が問うたのは、女自身にではない、その装束だったのだ。
「すまない。私にはあなたに見覚えはない。だが、その服には、覚えがある。あなたは皇宮に勤めていた人なのか?」
「――」
 女はわずかに眉根を寄せた。
 死を前に取り乱している腰抜けの無様な皇子を予想していたのに、あくまでも目の前の皇子は落ち着きを崩さない。
 そして、イルグレンも、女のかすかな苛立ちを見て取った。
 彼女の目的が何かはわかるが、その意図が読めなかった。
「そう。皇子様の言う通り、これは皇族に仕える侍女に許された装束よ。皇族に連なるとある姫君に仕えていた時の。そして、今はその皇国もお姫様もいない。
 あんたの身内は皆死んだわ、首を斬られて。無様に泣き叫んで、命乞いをしながら。
 警備の一番手薄になる時間を、そして、王宮の見取り図を革命派に流したから、皇宮を制圧するのなんて、あっけないほど簡単だった。もうその頃には、内部の警備はお飾りでしかなかったもの」
 イルグレンは信じられぬように女を見据えた。
 この目の前の華奢で頼りなげな女によって、国は滅びたというのか。
 女の美しくも無表情な顔と裏腹に、瞳には怒りと憎しみが溢れていた。
「私を――皇族を、そこまで憎む理由を聞かせてくれ。一体、私達は何をしたのだ」
 その問いに、

「あたしの家族を殺したのよ!!」

 激昂したように、女は叫んだ。
「あんたたちが自分達だけを護ってた贅沢な宮の、その壁の向こうで、あたしの家族は、食べるものも食べられず、餓えて、たった独りで死んでいった!! あたしのたった一人の肉親、あたしが守るはずだった、まだ十にしかならない弟は――!!」
 叫んでいるのに血の気のない青ざめた顔は、今にも倒れてしまいそうに儚げだった。
「あたしは、弟の葬儀をしたかった。あたしが、死に目にさえ会えなかったあたしが、弟にできる唯一のことだったから。せめて、弟を洗い清めて、きれいな装束を着せて、その魂を安らかに死の国へ旅立たせてやりたかった。
 でも、堅く閉ざされた門が弟のために開かれることはなかった。ほんの少しでいい、あたしが通るために通用門をほんの一時だけ、開けてほしいと言っただけなのに、それさえも、許されなかった。
 その日、あんたを逃がすためだけに、いとも容易く大門は開けられたのに。
 皇子様のためなら、あんなに堅く、頑丈な、大きな門がいとも容易く開かれたのに、弟のための、あんなに小さく、女のあたし一人でさえ容易く開ける通用門は、ついに開かれなかった――」
 拳を震わせ、女はじっとイルグレンを睨みつけた。
「何が麗しの皇国よ? はっ、そんなもん、みんな嘘っぱちだわ。弱いものを殺し、その死体を貪り食んで肥え太る国、嘘で固めたまがい物。
 神々の末裔? 尊い血統? どこが? 醜い、薄汚れた血よ。濁って腐った呪われた血よ。だから、みんな燃えて無くなった。皇子様、あんた以外は」
 女は細い指で、イルグレンを指差した。

「なぜあんたは生きているの?」

 一切の慈悲もなく、その言葉は紡がれた。
「あたしの弟は、可哀相なあたしの弟は、たった十年しか生きられなかったのに。
 あんた達が贅沢なお城でたくさんの食事を無駄に貪り食い散らかす間に、弟は餓えて餓えて、骨と皮ばかりになって死んでしまったのに。
 全てが失われても、あんただけは生き残るの?
 生きることを許されるだけの価値が、あんたにはあるの?」
「――」
 その問いに、イルグレンは答える術がなかった。

 全てが失われたのに、自分だけが今も生きているのは何故か。

 その問いを、彼自身が今も探しているからだ。
 そして、問うた女もその答えをすでに彼の口からは求めてはいないようだった。
 女は衣嚢から短刀を取り出し、鞘から抜いた。

「あんたで最後よ、皇子様。皇宮は燃え落ち、皇国はすでにない。皇族も全て晒し首になった。あんたが死ねば、あたしの復讐はやっと終わる」

 一歩、また一歩、女が近づく。
「――」
 女の持つ短刀の刃先は震えていた。
 頼りなげなその様子から、女は剣を持ったことすらないのだと気づいた。
 人を殺したことのない、人殺しの道具さえ持ったことのないだろう華奢な女だった。
 それでも、ここまで来たのだ。
 たった一人の家族のために。
 取り戻すことの叶わぬ愛しい者のために。
 自分とその血族が犯した愚かで残酷な罪故に。
「――」
 イルグレンは、女に対する憐憫で、胸が詰まった。
 なんという哀しみ。
 わかる。
 失いたくないと願った命を、イルグレンはすでに知っている。
 愛しくて、傍に居たくて、この時が永遠に続けばいいと心からこいねがう気持ちを知っている。
 それなのに、そんな気持ちを、ささやかな願いを、為す術もなく踏み躙られ、それでも受け入れねばならなかったのだ。

 なぜ生きているの?

 その答えの意味が、今、わかったような気がした。

「――あなたの手を汚してはならない!!」

 鋭い声が、女の動きを止めた。
 青ざめて儚げな女を安心させるように微笑んだ。
「自分の罪は、自分で贖う――だから、あなたがその手をこの穢れた血で汚すことはない」
 女が動くより先に、イルグレンは懐に隠し持っていた短刀を抜いた。
 逆手に持ち替える。
「グレン!?」
 アウレシアの叫びが聞こえた。
 そして目を閉じて、手を引き寄せた。


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