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4章.妹君と辺境伯は揺れ動く

140.リーゼロッテは立ち向かう②

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「……できません」

 小さく呟くような声に、ヘンドリックは笑顔を消した。

「やるんだ」

「できません!」

 顔を上げた彼女の瞳に強い光が宿る。

 滅多に言い返さない娘が強く言い放ったことで、思わず目を瞑ったヘンドリックは、眉を吊り上げ怒りに満ちた表情を作る。

 しかし、それにも怯まずリーゼロッテは声を上げた。

「お父様は、それでいいのですか? お母様を失ってから支えてくださったお継母様……ナターリエお継母様に対する情はないのですか?」

「ない。そんなものはハナから持ち合わせていない」

 断言する彼に、リーゼロッテは悲しげに眉を下げた。

「そんな……酷いです。ナターリエお継母様はお父様とお姉様にずっと気を遣っていらっしゃったのですよ? この家に早く馴染めるようにと……」

「私にとってお前も、ナターリエも全て駒だ。しかしエルーヴィラは……エルーヴィラだけは私と共にあるべきなのだ。それをアンゼルムなどを産んだばかりに……」

「それはアンゼルムのせいではありません」

 首を横に振った彼女には、ヘンドリックが痙攣したかのように震えて見えた。

「ではエルーヴィラのせいだとでも言うのか!? エルーヴィラから生まれたお前がエルーヴィラを否定するのか!?」

「違います! お母様のせいでもありません。誰のせいでもないんです。誰かを責める必要なんてないんです」

 激昂した彼は、ただ怒りに震えていた。

 彼にあるのは妻を失った怒りと、妻のいない世界への憎悪だ。

 皮肉なことにここへきて、リーゼロッテは父のことが少しずつわかってくるような気がした。

「……まぁいい。お前と議論など交わそうが私の気持ちは変わらん。早くエルーヴィラに時の魔力を使え。それがエルーヴィラ、家族のためだ」

「……嫌です」

「リーゼロッテ!」

「嫌です! できません!」

 もう一度、彼女は自分でもこんなに大きな声が出せるのかと驚くほどの声を上げた。

 今までずっと、父が絶対の存在だと思っていた。

 父の決定ならばそれは覆らない。

 そう思って諦めていた自分がいた。

 しかし、こんな身勝手な決定はたとえ父と対立しようが認められない。

 リーゼロッテは声を振り絞った。

「お父様は……お母様や家族のためだとおっしゃいますが、本当はご自分のためにお母様にいてほしいだけではありませんか……?」

「…………違う」

 リーゼロッテの言葉に、ヘンドリックは動揺し首を振る。

(お母様は……時を戻すことなんて望んでいらっしゃらない……!)

 若くして家族を残し逝ってしまったエルーヴィラはさぞ無念だっただろう。

 しかし、だからこそ彼女の時を戻してはならない。

 彼女だけが巻き戻ったとして、空白の十三年に絶望し、きっと死んでしまった自分を責めるだろう。

 なおも言い連ねるリーゼロッテに気圧されるようにヘンドリックは後退る。

「こんな……こんな風に他人の命で無理やり保存されて、お母様は喜ぶとお思いですか……?!」

「保存……彼女は生きている」

「生きてなんかないです……! お父様の我儘に付き合わされているだけではありませんか!」

 強く言い放った彼女に、ヘンドリックは言葉に詰まった。

「今この時に、アンゼルムを妊娠する前のお母様までこのご遺体の時を戻したとしても、記憶までは変えられません。あれから十三年も経っているのですよ……!?」

「………煩い……」

「お母様はきっと悲しみます。十三年もの空白期間があることを。アンゼルムの成長を見守れなかったことを。自分がいない間に家族が歪んでしまったことを」

「黙れ……」

「そして未だにお父様が前を向けずにいることを」

「やめろ!」

 堪らずヘンドリックは手を振り上げた。

 リーゼロッテは両目をぎゅっと瞑る──が。

 何かが激しく弾かれる音がしただけで、振り上げられた手が降ってくることはなかった。

 おそるおそる目を開けると、黄色や緑、紫色が混ざり合うような複雑な薄い膜がリーゼロッテの周りを守りように張り巡らされていた。

「くっ……障壁か……」

「……これは……お祖母様と……お母様……ユリウス様の……魔力……?」


 弾かれた手を押さえたヘンドリックの表情は苦痛で歪む。

 よほど力一杯叩こうとしたのだろう。

 血は出ていないものの、赤くミミズ腫れを起こしていた。

「……おのれ……ユリウス・シュヴァルツシルト……ここまできても邪魔をするか……やはりあいつは殺しておかなければならないようだな」

「! お待ち下さい! ユリウス様に危害を加えるなら私は」

「五月蝿い!」

 彼は痛みと怨嗟渦巻く表情でリーゼロッテ──障壁を睨みつける。

 乱暴に扉付近の青い香炉に手をやると、その蓋を開けた。

 薄い朱の煙がくゆりだし、むせ返るような甘い匂いが漂い出す。

 ひと息吸い込んだ瞬間、彼女の視界がぼやける。

(これ……は……)

「お、父様……!?」

 両手で鼻と口を覆うが、隙間からこじ開けるように妖しい匂いが入り込んでくる。

 さすがの障壁も、匂いまでは防げないようだ。

 痺れるような感覚に抗えない。

「『浮舟』……辺境には出回っていないか。若年層に流行りの香に私なりに改良を加えた。高揚感を与え、思考を鈍らせ、長時間嗅げば身の自由や判断力すら奪う……しばらくこれで頭を冷やせ」

 口元をハンカチで覆い、いつもの冷徹な表情に戻ったヘンドリックは扉を開けた。

「やめて、ください……おと……さま……」

 追おうにも逃げようにも、彼女を繋ぐ手枷がそれを許さない。

 無情にも扉は閉められ、リーゼロッテの咳き込みと喘鳴だけが響いた。

「時間がないのだ。早くしなければ……」

 ヘンドリックはそう呟くと、仄暗い廊下の奥へと姿を消した。
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