日陰者の暮らし

阪上克利

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7日

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 言わなきゃよかった……という失敗をしてしまうのはあたしだけだろうか……。
あたしは職場のデスクに戻るとパソコンで何かをするふりをしていたが、心中は辺見さんの家のことで頭がいっぱいだった。

言わなきゃよかった。
言い方をもっと変えればよかった。
そんなふうに思うけど……

ただ……あたしの言ったことは間違っていない。

あたしはたとえ担当が交代になってもあのバカ息子に謝るつもりなんかない。
鼻息荒く事務所に帰ってきたもののクレームが怖い。
主任に何かを言われるかと思うと、ちょっと腹立たしいし、その腹立たしいことすらストレスだ。

『はあ~』
あたしは思わずため息をついた。

『どうしたの?』

ふと背後から声がかかったことに軽く驚きつつ、振り返るとそこにはきっこちゃんがいた。
何か用事があったのだろうか。

ほっそりとした腕。
肌は日焼けしているから少し黒いけど、しみなどはない。
肩はなで肩。全体的に細身の体型。

きっこちゃんは二人の子供がいるとは思えないぐらいキレイだ。
普通、介護をやっているとどうしても力を使うから腕は太くなってしまう。
あたしなんか腕だけでなく全体的に太い。
最近は樽みたいな体型になりつつある。

『康彦のバカがね……』
『ああ。そうそう……電話あったわよ』

あたしが何か言う前にきっこちゃんは要件を言った。
電話があったのか……万事急す……か。

『何?クレーム??』
あたしはもう投げやりになって言った。
どうにでもなれ、だ。

『え??クレーム???違うわよ』
『違うの??』
『てゆうかクレーム来るようなことしたの?』

はい。
したんです。

きっこちゃんは立っていてあたしは座っていたので、どうしても上目遣いになる。

てゆうか、あせることなんかないのだ。
あたしは何も悪くないんだし。
『いや……ちょっと分からんこと言い出すもんだからガツンと言ってやった……』
『ありゃま……「ガツンと」がどれくらいかは分からないけど、あの家にははっきり言わないとどうしようもないからね……』
きっこちゃんの優しい言葉にあたしはうんうんと頷いた。
『でも、安心して。電話の内容はクレームではなかったわよ。なんでも……担当者会議やるって……』

『え???なんで????』

もう何が何だかよく分からない。
あたしはあれだけのタンカを切ったのだ。担当から外されることも覚悟してたのに……。

『結局、あの人も心のどこかで負い目を感じてるのかもね。』

う~ん。
どうなんだろう。

負い目を感じているならいいんだけど、何かあったときの保身を考えてのことという可能性もある。

ただ……
この程度のことで負い目を感じてくれるんだったら、最初からちゃんとお母さんの介護ぐらいするだろう。

『いつがいい……とかは言ってなかったのよね?』
『7日がいいって』
『7日??もう~よりによって忙しい日に~!!』

介護保険の保険給付を国民保健団体連合会に請求データを伝送する締切は10日である。
ケアマネジャーの仕事は給付管理票という書類の作成、といってもデータのみを伝送するのだが……

そのデータというのは一人の利用者さんに対するすべての介護サービスに係わる請求データをまとめなければならない。

これがけっこう骨の折れる仕事なのだ。
10日までにやってしまわなければならない仕事だから、7日ぐらいは目が回るほど忙しいのだ。
康彦が知っててやってるとは思わないが、それにしてもつくづく間の悪い人だ。

『あたしも忙しいけどなんとかするわ』

きっこちゃんは手帳を見ながらあたしに言った。忙しいのはケアマネージャーだけじゃない。事業所の担当者だって十分忙しいのだ。あたしばかり忙しさに甘えてられない。

『そうね。康彦さんに電話してから、事業所さんにも通知しておくわ。よろしくね』

あたしは気を取り直して受話器をとった。
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