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第2章

第9話

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 俺が宿屋の一階の食堂で朝食を取っていると、一人の後輩ワンコが二階から慌てて下りてきた。

「お、おはようございます、クリード先輩!」

「ん、おはようユキ。よく眠れたか?」

 俺がパンにかじりつきつつ返事をすると、ユキは俺の前でびしっと背筋を伸ばす。

「は、はいっ! おかげさまで、この不肖の後輩ユキ、ぐっすり眠ることができました! ……と、ところであの、クリード先輩……?」

「なんだ」

「いえ、その……ボクって昨日、ひょっとして先輩に、すごく失礼なこととかしました……? 昨日は、その……飲み会を始めたあたりから記憶が飛んでいるんですけど、セシリーとルシアが、自分が何をしたか先輩に聞いてこいって……」

「あー……。ったく、あいつら」

 面倒事を俺に押し付けやがって。

 ちなみにだが、今のユキの服装は武闘着ではなく、どう見ても寝間着だ。
 寝起き姿そのままのようで、やたらと男心をくすぐる色気がある。

 着替えるよりも先に慌てて下りてきたってことなんだろうが、俺はともかく、ほかの客もいる共有スペースでお前はそれでいいのかと問いたい。

 ともあれ俺は──

「ユキ、お手」

「わんっ!」

 俺がユキの前に手を出すと、後輩ワンコは俺の手にぽんと自分の手を置いてきた。

 彼女は一瞬のちにハッとした表情になり、慌てて手を引っ込める。
 その手を胸に抱くようにして、恥ずかしそうに身を引くユキ。

「ボ、ボクは、いったい何を……」

「ま、そういうわけだ」

「そういうわけって、どういうわけですか!?」

「ちなみに、昨日のユキがやった一番とんでもないことは、何かというとだ──」

 俺は席から立ち上がり、ユキの前に立つ。
 たじろぐユキ。

 俺とユキとだと、男である俺のほうが、当然に身長は上なのだが──

 俺はそんなユキの頭部を、両腕で自分の胸に抱き寄せた。

「ふぇっ……!? ク、クリード先輩!?」

「俺は昨晩、お前からこんなことをされた」

「えっ……えぇえええええっ!?」

 俺はすぐにユキを解放してやる。
 後輩ワンコはこれ以上ないというほどに茹で上がっていた。

 俺は席に戻り、オレンジジュースを口にする。

「え、あ……ボ、ボクが……先輩の頭を、胸に抱いて……ぎゅーってしたって、そういうことですか……?」

「ああ、そうだ」

「う、嘘ですよね……?」

「残念ながら本当だ」

「え、えと……というと、やっぱり……ベッドの上で、ですか……?」

「ぶーっ!」

 俺はオレンジジュースを盛大に吹いた。

 記憶がないからって、なんという勘違いをしているんだこいつは。

「げほっ、げほっ! そ、そんなわけあるか。ここでだ、ここで」

「ここで!?」

「あー、待て待て。お前は多分、何か間違った想像をしている。そうじゃない、そうじゃないんだ」

 ちょっとからかうつもりが、こっちまでダメージを受けてしまった。
 なんてこった。

 と、そこに──

「ふわぁあああっ……! いやぁ、朝からお熱いっすねー、ご両人」

「ユキ、どうでもいいけどあなた、まずは顔を洗って着替えてきなさいよ。殿方の前に出ていい格好をしていないわよ」

 ルシアとセシリーが、二階から降りてきた。
 こちらはきちんと身なりを整えている。

「へっ……? あぁあああああっ、そうだった! ボ、ボクはいったん失礼します、クリード先輩!」

 セシリーに言われてようやく自分の格好に気付いたユキは、慌てて二階へと駆け上がっていった。
 やれやれ……。

「おはようございますっす、クリードの兄貴」

「おはよう、クリード」

 ルシアとセシリーが挨拶をしつつ、俺と同じテーブルにつく。
 注文を聞きにきたウェイトレスに、セシリーは俺と同じ朝食セットを頼む。

 ちなみにルシアは、昨晩食い溜めたから朝食はいらないらしい。
 逆にみじめな気がするんだが、いいのかそれで。

 俺は二人に挨拶と、ちょっとした苦情を返す。

「おはよう、セシリー、ルシア。……ていうかお前ら、朝から妙なもんをけしかけるなよ」

「あら、その様子だと、ユキへの対応でそれなりに苦労をしたみたいね。ふふっ、少し溜飲が下がったわ」

 セシリーはそう言って、楽しそうにくすくすと笑う。
 俺としてはバツが悪く、ぽりぽりと後ろ首をかくしかない。

「あのなぁ……。セシリー、なんでお前はそう、俺を目の敵にするんだ」

「あなたが私のことをからかうからでしょ。お返しよ」

「ちっ、覚えてろよ」

「そっちこそね」

 セシリーとそんな風に言い合ってから、互いに顔を見合わせて吹き出してしまう。

 それを見たルシアが、「クリードの兄貴は、今日も誑しオーラ全開っすねぇ……」などとジト目でつぶやいていた。

 しばらくするとユキも朝の支度を終えて下りてきたので、食事を終えてから四人で宿を出る。

 そして街中を、第一迷宮のある北門方面へと歩き始めた。

「今日は地下二階だな。地下一階よりもモンスターは強くなるが、お前たちも昨日より強くなっているから、普通にいけるはずだ」

「ううっ……またあの地獄の特訓のごとき、迷宮探索が始まるんすね……」

 ルシアがしょんぼりと肩を落とす。
 昨日の俺ペースの探索が、トラウマになっているらしい。

「何ならもっとゆっくりペースで探索してもいいけどな。そのほうがいいか?」

 俺がそう聞くと、ルシアの顔にぱああっと希望の光が宿った。

「も、もちろ──」

「もちろん、昨日と同じくビシバシお願いします、先輩! ボクたち、ちゃんとついていきますから!」

 ユキがルシアを遮って、元気よく返事をしてくる。
 ルシアの顔が再び絶望色に染まった。

「私も昨日と同じでお願いしたいわ、クリード。それになんだか、今日は昨日よりも頑張れる気がするの。体が軽いみたい。魔力も体からあふれ出しそうなほどよ」

 セシリーもユキに同意する。
 ルシアはこの世の終わりという顔をした。

 まあルシアの悲哀はさておき。

「体が軽く感じたりするあたりは、レベルアップの効果だろうな。俺も二年前、冒険者を始めたばかりの頃は、日ごとに成長を実感したもんだ」

「ということは、今はそうでもないの?」

「まあな。レベルアップは低レベルのうちは急速だが、高レベルになってくると、なかなかそうもいかなくなってくる。例えば、俺が29レベルから30レベルにアップするのには、だいたい三ヶ月かかった。日々、第三迷宮の強敵を相手にしていたにも関わらずだ」

「そうなんだ……。じゃあ、私たちが昨日のチンピラどもに勝てるようになるのも、そんなに容易い話じゃないわけね……」

「あー、いや。昨日のあいつら程度なら──」

 と、セシリーとそんな話をしていたときだ。
 交差点で横手に視線を向けたユキが、何かに気付いて、俺のそばに寄って耳打ちをしてきた。

「……クリード先輩、噂をすればなんとやらです」

 昨日、冒険者ギルドで出会ったチンピラ冒険者三人組が、向こうから歩いてきたのだ。
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