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第3話

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「えっと……やっぱり覚えてはいませんよね、十年前のこと」

「あー……うん、ごめんなさい。正直に言って、思い出せないわ」

 これまでにイーリスが救った村の数は、一つや二つではない。

 山ほどの人々をモンスターの魔の手から救ってきたのが剣聖イーリスであるから、少年にとっては特別な出来事も、実は日常茶飯事の一つだ。

 だが──

「そうですよね……。あのときはゴブリンの大氾濫スタンピードだったみたいなんですけど、そんなの覚えてませんよね」

「ゴブリンの、大氾濫スタンピード? あー……っていうと、あのときのあの村の──えっ、ひょっとして、あのときの男の子!? お母さんをかばって、木の棒でゴブリンに立ち向かってた、あのときの子!?」

「……っ! はい、そうです! まさか、覚えていてくれたなんて」

「いや、まあ……」

 イーリスはバツが悪そうに、首筋をぽりぽりと掻く。

 さすがに大氾濫スタンピードというのは、そう頻繁に起こる事件ではない。
 その記憶と紐づけることで、イーリスも当時の記憶を思い浮かべることができた。

(でもあのときの男の子が、こんなに大きく……)

 イーリスは目の前に現れた少年の姿を見る。

 ほどよい長さに切り揃えられた艶やかな銀髪に、エメラルドグリーンの瞳を宿した真っすぐな眼差し。

 背丈は男子にしては低めだ。
 まだ成長期の最中なのか定かではないが、少なくとも現段階では、女性であるイーリスやエレンと比べても、少年のほうが背が低い。

 顔立ちも雄々しいというよりは、中性的で可愛らしいつくりをしている。
 女装でもすれば、ボーイッシュな少女と偽っても普通に通用しそうなぐらいだ。

 武装は魔術師の杖と、魔術師のローブ。
 それに加えて、腰帯には短剣が一振りくくりつけられている。

 確かに、十年前のゴブリンの大氾濫スタンピードのときに出会った少年が、立派に育ったらこうなるかもしれないという姿だった。

(か、かわいい……!)

 イーリスは、少年の姿を間近で見て、そんな感想を抱かざるを得なかった。

 この胸のトキメキはなんだろう。
 ひょっとして、恋……?

 などという発想が浮かんでしまい、イーリスは頭の中でぶんぶんと首を横に振る。

 自分を尊敬してこれまで頑張ってきたという少年に、なんという邪な目を向けているのか。

 というか、無様な姿は見せられない。

 イーリスはテーブルに転がっている酒瓶を隠すように前に進み出て、格好いい剣聖の決め顔を作りつつ、少年に向かって手を差し出す。

「驚いたわ。あのときの男の子が、こんなに立派になって。でも冒険者としては、これからが本当の戦いだからね」

 少年はイーリスの手を取り、力強く握り返してくる。
 魔術師にしては、意外と力が強い。

「はい! ありがとうございます、イーリスさん。きっとイーリスさんは、あのときよりもさらにすごくなっているんでしょうけど──俺もそのうちに、イーリスさんのようなすごい冒険者になれるように、精いっぱい頑張ります!」

「え、ええ、頑張ってね。陰ながら応援しているわ」

 そう外面を作りながら、イーリスは内心、ズキズキと胸を痛ませていた。

 確かにあの当時よりも剣士としての腕は上がったかもしれないが、一方で、人としてはどこかダメな感じになった気がしないでもない。

 尊敬のまなざしが、ぐさぐさと胸に突き刺さってきて痛い。
 助けて。

 イーリスはそんな思いを込めて、相棒のエレンのほうへ、ちらりと視線を向ける。

 そして、ぎょっとした。
 そこにいた親友が、何か面白いことを思いついたという顔で、にやぁっと笑っていたからだ。

 嫌な予感がする、とイーリスが思ったのも束の間。
 エレンは少年の前に歩み出て、人好きのする笑顔でこう言い放った。

「はじめまして、アルトくん。あたしはイーリスとパーティを組んでいる、盗賊のエレンよ。──ねえアルトくん、良かったらあたしたちのパーティに入らない? 冒険のこととか、お姉さんたちがいろいろと教えてあげるよ」

 それを聞いたイーリスは、熱帯魚のように口をパクパクとさせる。
 いったい何を言っているんだ、この相棒は。

 だがそんなイーリスをよそに、エレンと少年、二人の間で話が進んでいく。

「えっ……? い、いいんですか? でも……」

「あーっと、年上の女性冒険者にいろいろ教わるっていうのは、男の子としては、やっぱり嫌かな?」

「い、いえいえいえっ……! め、滅相もないです! お二人みたいなベテランの冒険者で、しかもすごく綺麗なお二人とご一緒できていろいろ教えてもらえるなんて、嬉しいに決まってます! あ、いえ、その……綺麗とかそういうのは、冒険者なんだし、違いますよね……ご、ごめんなさい。でも、その、嬉しいんですけど、俺みたいな初心者がパーティに入ったら、お二人に迷惑なんじゃないかって……」

「ふふっ、真面目なんだね、アルトくんは。でもそれは気にしなくていいよ。ちょうど魔法使いが一人、パーティにほしかったところなんだよね。それでもし一緒にパーティを組んでみて嫌だったら、いつでも抜けてくれても構わないからさ。お試しってことで、どうかな?」

「は、はい! お二人が良ければ是非、お願いします! 俺、光栄です!」

 そう言って、深々と頭を下げる少年。

 だがそこで、ようやく動作停止していたイーリスが復活した。

 イーリスは慌てて相棒を酒場の壁際まで引っ張っていって、必死の形相で抗議する。

「ちょ、ちょっとエレン……! 何を考えてるのよ……!」

「うん、何か問題があるかにゃ? ベテランの先輩冒険者が、新人の冒険者に手取り足取りいろいろと教えてあげるのは、悪いことじゃないでしょ?」

「そ、それはそうだけど……あんな若い子を、私たちみたいな──ていうか、そうじゃなくて! エレンあんた、あの子に手を出すつもりじゃないでしょうね!?」

「何よぉ、人聞きの悪い。十年来の相棒を、見境のない色情魔みたいに言わないでよ」

「十年来の相棒だから言ってんのよ! あんたの前科を全部知ってるのよこっちは!」

「だったら分かるでしょ。あたしがこれまでに落としてきたのは、全部年上のオジサマよ。年端もいかない男の子を、どうこうしたことはありませぇ~ん」

「あれ……? ……あ、そうなんだ」

 イーリスは、相棒のこれまでの交遊戦績を思い浮かべる。
 言われてみれば確かに、年下の若い少年を誑かした例はなかった、のか……?

 などと思っていると、今度はエレンのほうが、ずずいっとイーリスに迫ってくる。

「ていうかイーリス、これはあんたのためよ」

「わ、私のため……?」

 攻守逆転、及び腰になるイーリス。
 そんなイーリスに、相棒の盗賊はぐいぐいと攻め込んでいく。

「そうよ。断言してもいいけど、こんな最高のチャンスはもう二度と来ないわ。イーリス、あんたあの子と親睦を深めなさい」

「そ、それは……ダメじゃない?」

「ダメって、何がよ」

「だって……あの子は、剣聖としての格好いい私を尊敬してくれているのだし……その期待を裏切るのは、ダメだよ……」

 そう言ってイーリスはもじもじとする。

 エレンは、はぁああああっと大きくため息をついた。

「あのねぇイーリス。『剣聖としてのイーリス』なんて、あの子の中の幻想でしょ。どうして現実のあんたが、あの子の中の幻想に遠慮しなきゃいけないのよ」

「それは……そうだけど……」

「幻滅されるのが怖いの?」

「……うん」

「ああもう、かわいいなぁ。あの子といい勝負だよ、まったく。はいお似合い~」

「お似合いじゃないよ~! あんな若くてかわいい子と、こんな年増のおばさんとがお似合いなわけないよ、いい加減にしてよ」

「はあ……こりゃ重症だな。だいたいあんたもあたしも、まだおばさんって歳じゃないでしょうに」

「きっとアルトくんにとっては、おばさんだよ……。こんな私が、あの子のことをちょっと好きかもとか言ったら、気持ち悪がられるに決まってる……。それで私に、侮蔑の目を向けてくるんだ……。……あ、でもそれちょっとご褒美かも」

「うん、最後のは本気で気持ち悪いから、心の中にしまっとこうね。──じゃあ何、イーリス、あんたあの子とパーティを組むのは嫌なの?」

「いや、その……もちろん、嫌ではないけど、あっちが嫌かなって……」

「あっちは『是非お願いします』『光栄です』って言ってたけど?」

「うっ……それは、だって……私の本性を、知らないからで……」

 もじもじもじもじ。
 うだうだうだうだ。

 剣聖のあまりの煮え切らない様子に、さすがの相棒エレンも、そろそろイラッとし始める。

 そこでエレンは、少し考えてから、イーリスに向かってこう言った。

「ふぅーん、分かった。結局イーリスは、あの子とパーティを組むのは嫌ってことね。じゃあしょうがないわ。あたし、やっぱり一緒にパーティは組めないって、あの子に断ってくるね。そうしたらあの子、変な冒険者とパーティを組んでずたぼろに使い潰されたり、モンスターに殺されちゃったりするかもしれないけど、それも仕方ないね」

 そしてエレンはイーリスの前できびすを返し、少年のほうへと向かおうとしたのだが──

 がしっ。
 そんなエレンの腕を、イーリスがつかんで引きとめた。

「ま、待って。……やっぱりパーティ、組む」

「ふふん、そう来なくっちゃ」

 エレンはにっこりと、相棒の剣聖に微笑みかけた。
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