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1巻

1-2

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「は、ぁ」

 首筋に、熱い吐息がかかる。

「お前から離れられなくなってしまいそうだ」
「…………それは、困ります。あの、誰か、入ってきたら」
「施錠魔法をかけている。誰も入ってこないから安心して」

 外の助けは求められない。つまり、詰みだった。
 誰の助けも望めないのなら、諦めてしまえば楽なのを知っている。だって、ずっとそうやって生きて来たから、諦めることしか僕にはできなかった。
 抱きしめられると、殿下のまとう香りが余計に頭の中をかき乱してくる。柔らかな軽いテノールは鼓膜をしっとりと揺らして、艶のある声で囁かれると腰の奥が痺れてしまう。剣ダコのある、厚くて大きな手のひらに頬をくすぐられ、撫でられると安心感を抱いた。
 冬の空を映した瞳が、熱に浮かされてとろりと溶けていく。麗しいかんばせが近づいて、僕の唇を奪った。
 瞳はあんなにも熱っぽいのに、柔らかな唇は妙に冷たい。ちゅ、ちゅ、と鳴るリップ音に羞恥心を掻き立てられる。ファーストキスもセカンドキスも殿下だなんて、世の乙女たちに知られたら背中を刺されてしまうだろう。……あれ、キス、といえば昔何か……駄目だ、ベティ以外のことは自分自身のことであってもどうでもよすぎて、覚えてない。
 薄く開いた唇を舌先が割って口内を荒らす。歯列をなぞり、奥へ縮こまった舌を絡め取られて、水音を立てながらぢゅうぢゅうと吸われる。上顎の窪みを舌先になぞられると、耐えられないくすぐったさと背筋の甘い痺れに鼻から声が抜けて行った。
 膝が震えて立っていられない。ぐずぐずと腹の奥で燻ぶる感覚をごまかして、背中に回していた腕を幾分か高い位置にある首へと回した。縋り付く体勢に嬉しそうに目を細めるものだから、きっとこの人は僕が何をしても喜ぶのだろう。
 息ができなくて、頭がふわふわする。熱くて、あったかくて、気持ちが良い。
 まるで羊水に包まれているみたい。こんなの、ベティは与えてくれない。心の奥底から湧き上がる歓喜に、目尻から雫が零れた。
 数秒、数分、どれくらい経っただろう。ようやく離れた唇を透明な糸が繋ぎ、ぷつりとそれは途切れてしまう。名残惜しくて、血色の良くなった唇をぼんやりと見つめた。

「……あまり、物欲しそうな顔をしないでもらいたいのだけれど」
「もの、ほしそうなかお」
「とっても綺麗で、可愛くって、扇情的な表情かおだよ。はぁ……もう、ずっと私と一緒にいて欲しい。どうして君はこんなにも愛らしいのだろう。他の人間になんて見せたくない……。いっそ、囲って閉じ込めてしまえばいいのかな」

 人ひとり監禁するくらい、王子殿下なら簡単だろうな。
 細腰に回った腕に力が入る。
 僕にとって殿下は、遅効性の甘い毒の蜜だった。僕が欲している言葉を、求めているものを与えてくれる。声に、仕草に、記憶に、『エドワード』という男を刻みつけられる。
 ベティを救ってもらう約束をしてから、殿下と会うのはこれが初めてなはずなのに。学年が違えば行動範囲も違う。無駄に広い校舎内ですれ違うこともない。
 流れる水のように、揺蕩たゆたう花びらのようにするりと心の内側に入り込んできた殿下を、僕は追い出せなかった。
 鼻先を擦り合わせて、戯れに触れ合うだけの口付けを繰り返す。厭らしい行為ではなく、ネコとイヌが毛づくろいをし合っているようだ。

「ふふ、こんな状態じゃあ、愛しいお嬢様の元へは戻れないね」
「ぁ、ん、ん、で、殿下、」
「名前で、呼んで」

 息も絶え絶えで、真っ赤に蕩けた顔をしながら、この行為は不敬ではないのだろうか、と今更すぎることを思う。

「他ならぬ私が呼んでと言っているんだから、不敬でもなんでもないよ。さぁ、その可愛らしい声でさえずってごらん」

 煌々と光を湛える瞳に抗えず、彼の人の御名前を舌先で転がした。

「エドワード、さま」
「エディ、と呼んで。ヴィンスには、ただの『エディ』と呼ばれたいんだ」
「……エ、ディ」
「なぁに、ヴィンス。可愛い可愛い、私のヴィンス」

 赤くなった目尻に唇が寄せられる。リップ音を立てる殿下――エディに再び羞恥が湧いてくる。
 この人、いつまで抱きしめて「ちゅっちゅ、ちゅっちゅ」とキスをしているんだ。なんだ、『私のヴィンス』って。男に向かって可愛いなんて形容詞は正しくないだろ。
 どろどろに頭も体も溶かされてしまった僕は、その後ベティの元へ結局戻ることはできなかった。


   * * *


 フルール・サロン――ではなく、エディが個人で所有するサロンにてお茶の用意をしている僕。フルール・サロン風にいうなれば、ロイヤル・サロンだろうか。王子だけに。

「うん。美味しいね。ヴィンスの淹れる紅茶が一番美味しいよ」
「御冗談を。殿下の、」
「名前」
「…………え、エディに仕える方々が淹れるほうがずっと本格的で丁寧な風味を感じられるでしょう」

 三日に一度の頻度でエディがフルール・サロン、あるいは教室まで迎えに来るようになった。
 ベティは心の底から不機嫌を隠さず、「行きなさい」と扇子を振って、一瞥もくれなくなってしまった。
 フルール・サロンに所属する生徒のほとんどが上流階級の中でも更に上流に属するご令嬢だ。内装は華やかで繊細な拵えの調度品が多く、広い部屋を与えられている。それに比べると、王族が所有するにしては、この部屋はこぢんまりとしていた。
 大きな窓からは季節の花々が美しく彩る花園が望める。白と青を基調とした、落ち着いた雰囲気の室内にはカウチソファとローテーブルがひとつずつだけ。部屋の入り口には特殊な魔法陣が張られている。エディが許可した者でなければ、足を踏み入れることすらできない仕様だ。
 透き通るガラス窓は光が当たると、きらきらと輝きを放つ透かし細工が彫られている。置かれている調度品のひとつひとつが、一級品以上の価値があった。
 花瓶に生けられた白雪の花から香る甘い匂いは、どこかエディのまとう香りと似ている。僕の心をざわめき立てて、落ち着かなくさせた。
 大きなソファにひとりゆったりと腰かけるエディをこっそりと盗み見る。僕の視線に気が付いてにっこりと微笑んだ。

「そんなに見つめられると穴が空いてしまうな」
「見ていません」
「ふふ、こっちにおいで。一緒にお茶をしようと誘ったのに、どうしてお前だけ立っているの」

 座ろうと言われても、椅子はエディが腰かけているソファしかない。まさか隣に座れと仰っている?
 なぜか気に入られている(で済ませていいほど気軽な感情ではないが)僕だけれど、エディは王子で、僕は伯爵家の次男坊。昼と夜、光と闇、チョークとチーズと言っていいほどの身分差だ。
 唾液を交換し合う口付けまでしておいて、「不敬ですから」と言って断ろうものなら、何を今更、と鼻で笑われるだろう。
 隣の空いたスペースを叩くエディにむぎゅっと口を噤んで、おそるおそる近づいた。そっと、指先で触れたソファはやっぱり柔らかくて、腰を痛めない程度に反発がある。

「ヴィンス?」

 冬の瞳が丸められる。
 ひざまずくことはわりとよくあった。ベティと同じソファに腰かけることは僕自身が許せなくって、背後で佇み控えるか、ソファの足元でひざまずくかのどちらかだった。
 足元にも配慮されたこのサロンはフローリング全体にベルベットの絨毯が敷かれていて、膝をついても痛くない。
 ソファに腰かけるエディの足元に片膝をついて、許しを請う。

「殿下と、同じソファに腰かけるわけにはいきません」
「……ふ、ふふっ、はははっ、こ、これじゃあ、本当に〝待て〟をするワンコじゃないか」

 ぱち、ぱち、と冬の瞳が瞬き、目尻に浮かんだ涙を指先が拭う。年相応な笑みに、こんな表情かおもできるのかと驚いた。
 どうやらこの体勢がお気に召したらしい。ご機嫌に頬を緩ませ、伸ばした手のひらで、さらさらと僕の髪を梳いていく。
 魔力の循環が滞っている彼の体は、健常者よりも随分と平熱が低く、まるで雪の精霊のように冷たい。
 触れるたび熱と氷が溶け合って、混じり合っていくような感覚にふわふわしてしまう。混じり合う体温が、独りじゃないことを教えてくれて、もっと撫でて欲しい、もっと触れて欲しい、と無意識に頭を手のひらに押し付けていた。
 しゃらりしゃらりと指の隙間からこぼれていく感触を楽しみながら、エディは心を満たす充足感に、柔らかい顔をしていた。
 手のひらが滑り、指先が耳の形を確かめるようになぞっていく。
 くすぐったくて身を捩れば、「こら」とたしなめられてしまった。耳の裏を爪先がひっかき、柔らかくて薄っぺらい耳垂じすいをコリコリとこねくり回される。
 耳輪じりんの窪みを触れるか触れないかの曖昧な感覚でなぞられて、つい体が跳ねてしまう。

「あっ、も、申し訳ありません」
「んーん。かまわないよ。くすぐったい?」
「は、い」
「そっか」

 耳を弄っていた手は首筋を辿り、今度は顎下に触れた。顎関節から咽喉の上らへん、皮膚が薄く柔らかいところに指が押し付けられて、圧迫感と息苦しさに顎先が上を向く。
 急所である喉元を曝け出す姿は、御主人様から与えられるご褒美を待つ、従順な飼い犬のよう。そんな自分を想像して、苦虫を噛み潰したような顔になってしまう。
 する、するり、と顎下からワイシャツの合わせ目までを手のひらが行ったり来たりする。何かを確かめるように、細く白い首を軽く握ってみたり、撫でてみたりを繰り返した。
 ただ、撫でられているだけなのに、僕の体は触れられることに喜び、勝手に熱くなっていく。きっと、顔ももう真っ赤になっている。
 この行為は一体いつまで続くのだろう。このままだと、逆上のぼせてしまいそうだ。ただでさえ、このサロンにいると緊張して、深く息も吸えないのに。
 上目に窺ったエディは、にこにこと上機嫌で、相変わらず何を考えているのかわからない。
 ベティのことが羨ましかったと言ったが、つまり、僕のような下僕が欲しかった、ということだろうか。殿下なら、より取り見取りだろう。僕よりも美しい見目の女性から男性まで、はべらせることなんて簡単だ。殿下が自ら選ばなくとも、下僕のほうから寄ってくる。
 隣の芝生は青く見える、というやつかもしれない。このまま、エディに付き合っていたら、ベティは僕に愛想を尽かして、僕のことを捨ててしまうかも。でも、殿下のこのお戯れも一体いつまで続くのかわからない。
 捨てられて、お役ごめんになってしまったら、僕はどうしたらいい。
 誰にも求められず、透明人間のように扱われ、忘れ去られてしまう。あるかもしれない未来を考えると、胸が張り裂けそうになった。

「ヴィンス、口を開けて」

 楽しげなエディは、拒否されるなんて思ってもいない声音で僕に命令する。
 小さく、ほんの少しだけ開いた唇に指先が押し付けられた。角のない、まぁるく均一に整えられた爪が歯に当たる。

「舐めて」

 僕の熱が移って、溶けた指先に舌を伸ばす。おそるおそる、ちょん、と舌先が触れると、より一層笑みを深めたエディに、無意識に強張っていた肩から力が抜けた。
 揃えられた人差し指と中指を唇で食む。口内に侵入してきた異物に唾液があふれ、それをこぼさないように飲み込みながら丸い指の腹を濡らす。爪と皮膚の隙間をなぞり、指を伝っていく唾液が彼の人の袖を濡らす前に、舌を伸ばしてぺろぺろと掬った。
 気が付くと指は好き勝手に口内を動き回り、厭らしい水音がサロン内に響いた。
 舌の中央を押されると、ぐぷり、と唾液が増える。それを巻き込みながら内頬を掻いて、舌の裏側に潜り込ませたり、上顎のでこぼこをなぞられたりすると背筋が震えた。
 くすぐったさともどかしさに飲み込みきれなかった唾液がこぼれて、袖口を汚してしまう。
 噛まないようにと開けていた口元がテラテラと濡れる。肩で息をする姿はさぞ滑稽だろう。
「うぇ、」と喘ぐ音とともに、指先につままれた舌を引っ張り出される。

「短くって薄いなぁ」

 人差し指と親指でつままれた舌は、散々いじくりまわされて感覚が過敏になっていた。平べったいところを親指の腹が撫でると、もどかしさに頭がふわふわした。

「いい子だね、ヴィンス。私の言うことをよく聞く、とってもいい子だ」

 すっかり気が抜けて、ぺたんと尻を落としている僕を叱ることもなく、エディは手放しに褒めてくれる。いい子、イイ子、と頭を撫でて、頬を撫でて、言葉で褒めてくれる。
 麻薬みたいな甘い施しに、頭も体も溶けてしまう。与えられる甘美な施しを覚えてしまった身体は、すっかり言うことを聞かなくなってしまった。
 ベティの、ベアトリーチェのところへ戻らなくてはいけないのに。与えられる喜びを手放したくなかった。

「ヴィンスはとっても良い子だからね、今度、ご褒美をあげるよ」

 嗚呼、今まさに、この甘い行為こそご褒美だというのに。これ以上何を与えられるのだろう。
 糖蜜にズブズブと浸かった果実のように、這い出られなくなってしまう。
 パッと指を放したエディは、濡れた手を差し出してくる。懐から取り出したハンカチを水差しで濡らし、手首から指先までを丁寧に拭いていく。
 端麗な容姿に似合わず、ごつごつした手は騎士の形をしていた。

「――今月末にでも、君のだぁいすきなお嬢様と、愚弟の婚約は白紙になる」

 待ち望んでいた言葉に、勢いよく顔を上げる。
 エディは、とても不思議な表情かおをしていた。口元は緩やかに弧を描いているのに、灰蒼の眼はまるでガラス玉のようにつるりとしている。

「そうしたら、お前はもう、私から逃げられないね」

 手先を拭っていたハンカチごと手を強く握られて、腕を引かれる。

「ぁ」

 力の入らない体は簡単に引き寄せられて、ソファに手をつき、エディの膝に乗り上げてしまう。
 無理やり腕を引いた強引さはどこへやら、簡単に振りほどけてしまうほど、柔らかな力で抱きしめられた。
 まるで、僕が逃げて行かないことを確かめているようで、腕を伸ばして抱きしめ返すことも、拒否して逃げ出すこともできなかった。

「やっぱり、お前は良い子だね」

 いい子、いい子、私の可愛い子。
 子守唄を紡ぐように、砂糖菓子が蕩けた甘い声が流し込まれる。どろりと重たくまとわりつくそれは、冷えて固まり僕の身動きを取れなくしていく。

「大丈夫、ヴィンセントの望むように、ローザクロス嬢には傷ひとつつけないで解決してあげるよ。だから、私との約束を覚えているね」
「……はい」

 ヴィンセント・ロズリアは、エドワード・ジュエラ・レギュラス第一王子殿下の所有物となる。
 契約はすでに結ばれている。違えることも、拒否することも、逃げ出すことも僕はできない。
 心臓の真上に現れた契約紋は、エディが約束を果たすと同時に華を開かせ、決して断ち切ることのできない所有の証しとなる。それが咲いてしまえば、僕はエディの物となり、エディが僕を手放さない限り、契約紋が消えることはない。

「ヴィンス、口付けをして?」

 願われるがままに、柔らかな唇に触れるだけのキスをする。何度も何度も角度を変えてついばみ、冷たい唇を温めるようにんだ。
 エディとの戯れは、僕がどこかに忘れてきてしまった熱を思い出させる。中毒性があって、ついこの先を期待して、はしたなく強請ねだってしまいそうになる。
 ふとももを跨いで落とした腰に、時折膝が揺さぶられ、悪戯な快楽が体中を走った。
 口吸いとは、こんなにも甘いものなのか。それとも、エディが甘いからそう感じるのだろうか。
 逞しい腕がかき乱すように白金髪プラチナブロンドの頭を抱いて、さらに深くなる口付けに息ができなくなる。
 キスをしているときは鼻で呼吸をするんだよ、と教えてくれたけれど、まだ実践できなかった。だって、そんな余裕もない。

「きゃぁッ!」

 バチンッ、と入り口にかけられた魔法陣が侵入者を弾く音と、甲高い悲鳴が響いた。

「ッ!?」

 見られたんじゃ、と顔を蒼くする。体を離そうとする僕に「認識阻害の魔法もかけてる」と険を滲ませたエディは、抱きしめる腕に力を込めた。
 騎士見習いとしてエリート街道を突き進むエディの力に貧弱な僕がかなうはずもない。誰も入ってこられないし、見えもしないのならいいか、と大人しく腕の中に収まった。
 巣の外を警戒する僕に、エディは嗤いを噛み殺す。
 だぁいすきなお嬢様ベアトリーチェしか見えていなかった盲目の子犬ぼくは、放し飼いにされていた。美しくて綺麗で、とっても可愛い子犬を欲しがる者は大勢いるだろう。だから、どこの馬の骨ともわからぬ輩に手垢をつけられる前に、エディは首輪をつけることにした。
 ベアトリーチェがこの変わり様を見たなら、怒り狂って卒倒してしまうかもしれない。それも面白い余興だな、とこぼしたエディの胸元を叩きつければ、エドワードは『とっても優しいエディ』の仮面をかぶりなおした。

「せんぱぁい! いないんですかぁ?」

 間延びした少女の声に、全身の毛が逆立った。

「お知り合いですか?」
「こんな不作法な知り合いはいない。ヴィンスも、名前だけなら耳にしているはずだ。お前のだぁいすきなお嬢様を悲しませる原因となった、噂の次期聖女様だよ」

 愉悦と悪辣を内包した声に、息を潜めていた憎悪が再び芽を出す。

「親しいのですか?」
「愚弟に紹介だけされたな。向こうは私のことを気に入ったようだけれど、私は特になんとも」
「次期聖女様なら、王子殿下は親交を深めたほうがよろしいのでは?」
「君は、アレが本当に聖女に選ばれるとでも?」

 柔和で穏やかさが売りの王子殿下にしては珍しく、嘲りと嫌悪をあらわにしている。
 聖女とは、神の恩寵を受け、国を暗闇の侵略から守護する高潔で神聖な乙女のことを呼ぶ。聖女になるには第一に光の属性のみを持ち、純潔でなければならない。そのために聖女を志す少女たちは、数えで七歳になると、大聖教会へ赴き修行と勉学に努めるのだ。
 国を守護する聖女は国民にとって偶像的存在アイドルである。
 聖女第一候補であったとある公爵令嬢は、美しい容姿に慈愛に満ちた気質で、候補でありながらすでに国民から高い支持を受けていた。――にも関わらず、『次期聖女』としてポッと現れたのは市井育ちの、マナーも教養もなっていない芋臭い町娘。
 大聖教会は大混乱に陥っていたよ、と当時の様子を思い返しながらエディが教えてくれる。
 聖女とか偶像的存在アイドルだとか、興味のない僕には真新しい情報だ。
 継承の儀式を行っていないのに、次期聖女――サロンの入り口を塞いでいる少女に、聖女の『証し』が表れたのだとか。

「見目は良いと聞きましたが」
「市井育ちにしては整っているほうなんじゃないかな。ブロッコリーかカリフラワーかの違いだよ。それよりも、私のヴィンスの方がずっとずっと美しいよ」
「……まだ、貴方の物ではありません」
「ふふっ、まだ、ね。それで、どうする? 私が許可しない限り、彼女はこの中には入ってこられないけれど」

 入れても入れなくても、どっちでもいいよ、と選択がゆだねられる。

「――会うつもりはありません」
「そう。じゃあ居留守でもしようか。防音の魔法を張れば外の音も気にならない」

 口の中で呪文を紡ぎ、手をひらりと振った。とたん、キンキン響く黄色い声は聞こえなくなる。

「便利ですね」
「君が側にいてくれるから私は魔法を使えるのさ。これで外も気にならない。……続き、するかい?」

 言葉を探しあぐねる僕が紡いだ音は、悪戯に笑んだエディによってかき消されてしまった。


   * * *


 言葉の通じない宇宙人と会話をしている気分だ。

「ポチだなんて! 犬猫じゃないんだから、そんな名前で呼ぶなんて可哀そうよ!!」

 僕って可哀そうだったんだ。
 かろうじて、僕は微笑を保っている。けれど、足を止めさせられたベティは、堪忍袋の緒がそろそろ限界を迎えそうだ。
 不機嫌を全面に表し、顔の前で開いた扇子を握る手はギリギリと震えている。
 プライドが高く、性格のキツいベティだけれど、苛烈なように見えて意外と冷静。僕の方が直情的なところがあったりする。ベティのことに関すると、どうしても爆弾に直接着火してしまうからしかたない。

「わたくしとポチの問題に、なぜ貴女が口を挟んでくるの?」
「あたしが聖女だからよ! ねぇ、貴方もポチだなんて呼ばれて嫌でしょう?」
「僕は別に。強いて言うなら、ベティが特別につけてくれた愛称だから嬉しいよ」
「無理やり言わせられているのね!? なんて酷いのかしら! 大丈夫よ、きっとあたしが救ってあげるからね!」

 わぁ、本当に話が通じない。
 ベティの細く美しい柳眉が寄せ合わされて、眉間に深いシワが刻まれている。白い眉間に型がついたらどうしてくれるんだ。むしろどうしてやろう。
 眉尻を下げ、困り笑顔を浮かべながら、脳裏のイメージにモザイク処理をかけた。聖女ならやっぱりはりつけとかかな。いっそ火炙りか。骨も残さず焼いてしまえば証拠隠滅も完璧だ。


 ――事の発端は三十分ほど前。
 たまには大食堂リストランテでランチにしましょう、と言うベティのお誘いを断るわけがない僕は、二つ返事で大食堂までエスコートした。
「パスタが食べたいわ。ポチも好きなものを選んできなさい」と寛大なお言葉に、ルンルンでオーダーしに行こうとした僕を、品性の「ひ」の字もない声が引き留めた。

「ポチだなんて!! 人につけるあだ名じゃないわ!」

 すぐさま引き返した僕が目にしたのは、まるで小さな女の子がそのまま成長したような女子生徒――すなわち、次期聖女様ことセレーネ・ロスティー嬢だった。
 次期聖女様の背後には、腕組み後方彼氏面をする騎士団長令息様と宰相閣下の愛弟子様がいらっしゃる。いきり立つ彼女を落ち着かせるわけでもなく、「さすがは慈悲深いセレーネだ!」とでも言うかのようなドヤ顔を披露している。
 僕とベティの関係に、赤の他人が口を挟んでくるな、と声を大にして言いたい。
 ちら、と扇子の上から覗く瞳が僕に向けられる。なるほど、僕が手を出さないか見張っているのですねお嬢様。
 今のところ手は出すつもりないので安心していただきたい。僕はベティに忠実な忠犬であって、飼い主の許可なく誰かの手を噛む狂犬ではない。

「貴女と僕たちは初対面のはずだけれど。どうして赤の他人にそこまで余計な口を……ではなく、お節介を焼けるのかな?」

 一歩、前へ踏み出す。この次期聖女様は、ベティに手を上げると確信があった。野生の勘である。
 会敵かいてきして五分足らずだが、十分に、『次期聖女様』がどういう人物かわかった。ベティとは根本的に反りが合わない人間だ。それだけ判明すれば、どう対処すればいいかわかる。
 自身が正義だと、正論だと信じて疑わない愚直すぎるほど真っすぐで、折れることのない芯。心底、腹が立つ。綺麗ごとだけで生きて来たことを窺わせる、穢れない純真さ。横っ面をぶっ叩きたい衝動に駆られる。
 震えるほど強く拳を握りしめる。そうでもしていないと『ついうっかり』お化粧した顔に拳を叩きこんでしまいそうだった。

「あたしが、聖女だからよ!」

 ドドンッ、と効果音が聴こえそう、否、見えそうなほど堂々としたドヤ顔を披露されてしまった。
 ゆっくり、じっくり、三拍、間を置いて首を傾げる。

「それで?」
「えっ」

 鳩が豆鉄砲を食ったような顔で素っ頓狂な声を上げた彼女は、次第に困った表情になった。
『次期聖女』というだけで、セレーネ・ロスティーはまだ聖女ではない。
 現聖女のマリベル様に大変失礼だと思わないのだろうか。
 自分が聖女なのだと豪語する傲慢な態度も、ベティは気に入らないのだ。僕は直接お会いしたことはないが、ベティは正式な式典で何度かマリベル様とお会いしたことがある。素晴らしい方よ、とそのたびに笑みを浮かべていうのだからきっとそうに違いない。

「次期聖女様は、随分と、広い御心をお持ちなのだね。僕とベティ――ベアトリーチェ様の信頼関係が成り立ったうえでの愛称だと言うのに、赤の他人で無関係の貴女はそれすらも心に引っかかるわけだ。僕はベティの唯一のポチだ。彼女に傅き、褒められることに喜びを感じる。ポチ、と呼ばれると嬉しいんだよ。なのに、君は僕からその喜びを奪おうと言うんだね」
「え、え、だって、ポチって、犬とか猫とか、ペットにつける名前なのよ」
「慈愛あふれる次期聖女様は、呼称たったひとつで差別するんだね」
「さ、差別……!? あたし、そんな、」
「だって、そうだろう? 貴方は僕の愛称がおかしいと言う。ところで話は変わるけれど、そちらにいらっしゃいます宰相閣下の愛弟子殿は、大層愛らしい猫を飼っていらっしゃるとか」
「え? まぁ、ぼくのアレクサンドラはこの国一番の美人さんだけれど」
「おや、美人猫に相応ふさわしい、立派な名前だ」

 僕の言わんとしていることを理解した愛弟子殿。愛猫が褒められて、嬉しさを隠しきれない表情かおから一転、苦虫を噛み潰したような顔になって口をつぐんだ。

「まるで人間のような名前だね」

 次期聖女様に向かって、ゆるやかに微笑む。サッと顔色を蒼褪めさせる彼女は、僕と背後の彼らを交互に見やり、やがて顔を俯けた。
「はぁ」と、背後から小さな溜め息が聴こえる。ハッとしてベティを振り返れば、呆れた表情で扇子をあおいでいた。

「ご、ごめん、ベティ。出過ぎた真似をしてしまったかな」
「……いいわよ、別に。ねぇ、わたくしお腹が空いてしまったの。早く取って来いをしてらっしゃい」
「! うん、」

 まぁ、これで丸く収まるならよかったのだけれど、そうも簡単にはいかないようだ。

「――何よ、あたしが助けてあげると言っているのだから、素直に喜べばいいじゃない!」

 なんとも押し付けがましいお節介だこと。差し伸べた手を振り払われたことがないのだろう。これまで、随分と甘やかされてきたんだなぁ。
 一周回って呆れてしまう。ベティなんて言葉も出ない様子だ。
 まん丸い飴玉みたいな目に涙を溜め、堪える姿は憐憫を誘うが、それだけだ。
 僕にとってはベティが睫毛を震わせるほうが一大事だし、彼女がお腹を空かせているという現状のほうが第一優先事項である。

「ポチ、というあだ名は、まぁ、納得、したけれど……! 貴女の、彼に対する態度は傲慢だわ! まるで召し使いじゃない! この学園に通っている間は、どんなに身分が高くても、低くても、みんな平等なのでしょう? 取って来いだなんて、本当に犬だわ!」

 げんなりする。結局話が振り出しに戻った。
 手を出したらダメかな。ダメだろうなぁ。ベティが目でたしなめてくる。
 もはや傲慢にしか聞こえない救いの言葉もどきに、彼女のどこがお坊ちゃんたちの琴線に引っかかったのか、心底不思議だ。目が節穴なんじゃないかな。

「わたくしとポチの信頼の上に成り立っている関係だと、聞いていなかったのかしら?」
「そんなの信頼関係じゃないわ!」
「――そもそも、その言葉遣い、この学園に通うのなら直したらいかがかしら。食事処で大声を出してはしたない。スカートも規定より短いように見えるわ。膝頭が見えてしまっているわよ。人に注意するなら、自分自身を見直してからになさい」

 感情的な次期聖女様と、努めて冷静なベティ。この様子だけを見れば、次期聖女様がイチャモンをつけているようにしか見えなかった。
 昼時の大食堂なだけあり、人の目は多く、あからさまに様子を窺う生徒は居らずとも、耳の大きな彼らは一部始終を見聞きしている。ゴシップに飢えた学園内に、この衝突は瞬く間に広がっていくだろう。
 この学園に通う者なら、僕とベティの関係性に手出し口出し無用だと理解している。
 貴族とは、柔軟な思考を持たなくてはならない。背後に控える召し使いが元奴隷だなんて、よくある話だ。僕は奴隷ではなくて伯爵家の次男だけれど。
 一向に話が進まないことに痺れを切らしたベティが、カツンとヒールを鳴らし、広げていた扇子をパチンと閉じた。僕とは対照的に、にこりともしない冷ややかで華やかな美貌に、周囲は圧倒され、シン、と静まり返る。

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