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1巻
1-3
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ベティには、自然と人の目を惹きつけるカリスマ性がある。
公爵家の御令嬢として、第二王子の婚約者として、しかるべき教育を怠けることなくしっかりと受けて来たベアトリーチェには、人の上に立つ才能があるのだ。それこそ、ポッと出の次期聖女様よりもずっと、憧憬と人望を抱かれている。
ベティの正論に、大勢の前で辱められた次期聖女様はついに涙をこぼした。泣けばいいと思っている典型的な例だ。
「レオン……! あたし、あたし……!」
「嗚呼、セレーネ……! 可哀そうに、こんなに涙をこぼして……。君はついこないだまで庶民で、貴族社会のことなんてわからないだけなんだよな。どこの御令嬢かは知らないが、随分と酷いんじゃないか?」
全肯定する機械となっていた騎士団長令息様は、眦を吊り上げてベティを睨む。
……えっ、ベアトリーチェ・ローザクロスお嬢様を知らないなんて、どこのモグリですか?
周囲にもどよめきが走り、愛弟子殿が珍生物を見る目で彼を見ていた。
「――あら、そう。わたくしをご存じないのね」
艶やかに、艶やかに。美しい黄金の大輪の華は、口の端を吊り上げて悪辣に微笑う。
ベティは、自分自身の存在を知らしめるように恭しく、最上級のカーテシーを披露する。豊かな胸に手のひらを当て、襞の多いスカートを指先で摘まみ、滑らかに片足を引く。蝶が羽ばたくように、音もなくふわりと頭を垂れた。
「ご挨拶が申し遅れました。お初にお目にかかりますわ、次期聖女様。サミュエル・ディエ・ローザクロス公爵が第一子、ベアトリーチェ。いずれ、わたくしが北の領地を治めた暁には貴女と顔を合わせることも多くなるでしょう。貴女の御名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「ぁ、あっ、えっ、あ、あの、あたし、は」
その場に居合わせた御令嬢たちは、お手本となる最上級のカーテシーに感嘆の声を漏らす。
片足を引き、胸元に手を当てるだけの仕草ですら美しい。しなやかな指先に、ぶれることのない体幹。一朝一夕でできる仕草ではない。学園に通う御令嬢なら誰もが憧れるお嬢様が、ベアトリーチェ・ローザクロスなのだ。
それはベティからの挑戦状だった。
ローザクロス公爵――すなわち、この国の宰相閣下であらせられるベティの父君の名を聞いて、さすがに彼らも顔色を悪くする。というよりも、愛弟子殿は師事している方の愛娘だと知っているだろう。次期聖女様の暴走を窘めなければいけない立場のはずだ。
見よう見まねでカーテシーをする次期聖女様に、落胆の声があちこちから聞こえる。
足は引きすぎて不格好だし、スカートは握りしめすぎてシワになっている。体幹はブレブレで、振り子時計みたいだ。国民の偶像的存在にしては随分とお粗末な動作だった。
「わたくしのポチへの扱いは、わたくしなりの愛情表現よ。貴族社会に足を踏み入れて間もないバンビちゃんは、相手を選んでその小さなお手てを差し伸べるべきね。シオン、今回の件、お父様に報告するわ」
僕が手出し口出ししなくても、さすが、ベティの手腕でこの場を無事に収められる。
「行くわよ、ポチ。気が削がれてしまったわ」
色を失くした顔でベティを呼び止める愛弟子殿だけれど、その優秀な頭で考えれば、すぐに導き出せたはずだ。
僕には、次期聖女様に侍り尽くすほどの魅力が感じられなかった。
マナーも教養も、一年生たちの方がよほど上手だ。曲がりなりにもエリート学校のひとつに数えられているこの学園に編入できたのが心底不思議だ。
淑女とも呼べない少女に、第二王子は首ったけだというのだから、よほど女性を見る目がないのだろう。そうでなければ、完璧な淑女であるベティを袖にできるわけがない。
「……よ、」
「セレーネ?」
「……皆、騙されているんだわ! ヴィンセント君、あたしが、魅了から救ってあげるからね! ――《光よ》!」
スカートを翻し、背中を向けたベアトリーチェに、光弾が迫る。
いくらベティが四大属性を扱える、類い稀なる魔法の才能にあふれていたとしても、その道を目指しているわけではない。魔法使いを目指す生徒たちに比べれば、魔力を込めるスピードも、反射神経も劣ってしまう。
目前に迫る光弾に瞳を丸くして、濡れた唇が防衛の魔法呪文を唄うよりも速く、彼女の細い腕を引いてとっさに場所を入れ替わった。
運動能力は良くも悪くもないけれど、反射神経には自信があったからできた業だ。あとは火事場の馬鹿力のようなもの。
顔に当たるのだけは避けなければ、と無意識に空いている方の腕を頭の前に翳した瞬間、真っ白い光と焼けるような熱が弾けた。
通常の属性魔法よりも勢いのある光の魔法に吹き飛ばされ、床を滑り転がり、背中と頭を強く打ち付ける。
初めて聞くベティの悲鳴を最後に、僕の意識はぷっつりと途切れた。
また、泣いていないだろうか。その涙を拭ってやれない自分が情けなかった。
* * *
薬臭さと、見覚えのない真っ白な天井だ。四方はこれまた真っ白いカーテンで仕切られており、学園のざわめきがどこか遠くに聞こえる。
白衣をまとった保健医がカーテンの隙間から顔を覗かせた。ここが医務室であると気が付いた。
「具合はどうですか? 頭を打ち付けたと聞きました。眩暈や、視界がちらつくとかはありませんか? 痛むところなどは?」
「……だいじょうぶ、です」
「そうですか。今は平気でもあとから痛み出すこともあります。二、三日は安静にしてください。クラス担任には授業を休ませるように連絡をしていますので、安心して体を休めてください。ここにいてもよろしいですが、どうしますか? 寮に戻るなら、誰か迎えを呼びますが」
熱を持った体を悟られないように、常日頃から癖になっている緩やかな笑みを浮かべて首を振る。
「いえ、お手数はおかけしません。寮へは戻りますが、ひとりで大丈夫です」
頭はガンガンと金槌で打ち付けられているように痛みが走っている。背中から広がる熱は全身を苛む。
なによりも、三角に吊された右腕は切り落としてしまいたいほどに、ジクジクと痛みを孕んでいた。
それらをすべて覆い隠してしまえる僕は、「ぼく」に感謝した。暴力が日常的だったあの頃のおかげで、我慢することには慣れている。むしろこの痛みに懐かしさすら感じた。
打ち付けた頭と背中への処置と、一番酷い怪我をした腕の状態を説明してくれた先生は、冷たく見える表情を心配に歪める。
氷の美人保健医、なんて言われている先生に頭を下げてお礼を言う。
「……本当に平気ですか?」
「はい。先生のおかげです」
正直なところ、さっさと寮に帰ってこの痛みから解放されたかった。――父が禁じたのは、他者に治癒魔法を施すことだ。自分自身にかけることは禁止していない。
痛む体を無理やり起こして、再度お礼を言って保健室をあとにする。
ふらつく頭を支えながら、いつもよりゆっくり歩を進めた。
手っ取り早く治してしまいたいが、どこで誰が見ているかわからない。治癒魔法が使えることが露見してしまえば、今度こそ、父によって屋敷の地下に監禁されてしまう。
校舎を出ると、夏の終わりを感じさせる生ぬるい風が吹き抜けた。
「う、わ」
ふわり、風に背中を押されてたたらを踏む。
目の前には下りの石階段があり、手すりを掴もうと伸ばした手は空を切った。
どうせ寮へ帰れば治せるのだから、と衝撃と痛みを享受しようと目を瞑る。
「――ッ、馬鹿だろ……!」
けれど、痛みはいつまでもやってこなくて、その代わりにすっかり嗅ぎ慣れてしまった匂いに包まれた。
「エ、ディ……?」
「なぜ目を閉じた!! なぜ諦めた!? お前はッ……いや、そうだった、怪我を、していたんだったね。……すまない、痛むんだろう」
背後から回る腕にこもっていた力が緩められる。
腕は痛いし、背中も痛い。頭も頭痛なのか鈍痛なのかよくわからない痛みが響いている。そっと、エディにばれない程度に魔力を全身に回した。詰まっていた息がすぅっと通り、喋れるくらいには痛みがごまかされた。
抱き寄せる腕に手を添えて体を離し、不自然にならない程度に笑みを浮かべてエディを見る。
「えぇっと……ここまで怪我をしていたなら、階段を落ちても落ちなくても一緒かと」
「一緒なわけがあるか。お前、馬鹿だったか? 最優秀成績者のはずだろう……はぁ……本当に、肝が冷えた。医務室へ向かえばひとりで帰ったというし、どうしてお前は……いや、ひとまず、話は寮で聞く」
肩で息をするエディの額には汗が滲んでいて、相当急いで来たのが窺える。余裕にあふれた殿下はどこへやら、息を乱して声を荒らげる様子は、まるで僕のことを心配しているようだった。
珍しいエディに目を丸くして、まじまじと見つめる。
穏やかな印象を抱かせる垂れ眉は、眉間にギュッと寄ってシワを作り、呆れや嫌悪ではなく、怒りが感じ取れた。
「エディ、って、う、わぁ……!?」
僕に怒っているのか、そう尋ねようとした矢先、視界がグンと持ち上がった。不安定さに、目の前にあった首に抱き着いてしまう。目を白黒させていると、やがてバランスが安定して、エディの足音とともに体が揺れた。
男として非常に情けない体勢になってしまった。
確かに、エディのほうが頭ひとつ分背が高く、騎士を専攻しているだけあって筋肉量の差もある。しかし、僕だって平均身長より背丈はあるのだ。
まさか、まさか同年代の同性に横抱きにされることになるなんて。男として屈辱である。
僕だってまだベティのことをお姫様抱っこしたことがないのに……! 以前しようとしたら「ポチが折れてしまいそうだから嫌よ」と拒否されたことを思い出した。
「あ、あ、あの!? エディ、降ろしてくださいっ! 歩けますから!!」
「ダメだよ。またふらついて、倒れて頭を打ち付けたらどうするんだ? まぁ、率先して怪我をしたいマゾヒストだというのなら私にも考えようがあるけれど」
誰がマゾヒスト!?
何を言ってもこの人は聞かないのだろう。短く息を吐き出して、強張る体から力を抜いた。
エディが意外と頑固だと気が付いたのは、サロンを訪れた幾度目かの時。
ベティは僕が傅こうと背後に控えようと何も言わない。それなのにエディは、僕がすることなすこと愛しげに見つめて、何をしても褒めてくださる。愛しげ、というのも僕の思い違いではない。穏やかだとか、優しげだとか、そんなものには収まらないほどの熱情を感じるのだ。
面と向かって「君とともに過ごせる時間すらも愛しいのだよ」なんて言われては、何も言い返せず、口を噤むことしかできなかった。
恥ずかしいのでやめてください、と何度も何度も何度も! 言っているのに「愛しい人に愛を告げることの何がダメなんだい?」と物理的に黙らせられてしまう。
エディは、初めから最後まで僕の言うことなんて聞きゃしないのだ。それに気づいてからは、諦めて彼からの愛を享受することにした。
真っすぐな、燃えるほどの盲愛を向けられて悪い気はしない。
せめて誰にも見られないことを祈り、胸に頭を預ける。頭上で短く息を吐く音が聞こえた。ほんの少し、彼から聞こえる心臓の音が早まった。
ドク、ドク、と脈打つ音。触れ合ったところから混じり合う熱。ほのかに香る甘い匂い。
エディが僕に抱く感情が、いまだによく理解できない。愛なのか、恋なのか、独占欲なのか。
涼風が通り過ぎていく。夏が終われば、秋が来る。
その頃には、ベティの新しい婚約者が決まっているだろう。
目を瞑ると、余計なことばかり考えてしまう。眠ると、思い出したくもないことを夢に見てしまう。
「ヴィンス。私の心臓の音を聞いて」
「……エディ? それは、なぜ?」
「私のことだけを考えてほしいからだよ」
喉から笑いがこぼれた。
殿下はなんでも見通す慧眼をお持ちだ。僕が何を考え、何を思っているのかも、きっとわかっているのだろう。
「私の部屋に真っすぐ向かうけれど、何か持っていきたいものとかはある? あ、ちなみに、先生には許可を取っているし、着替えなどは用意させるから安心して」
至極当たり前のように、エディの部屋でお世話になることが決まっていた。もはや逆らう気もおきない僕は首を横に振る。
「……ところで、エディが所属する寮って」
「嘘だろう……? 酷い。ひどすぎる。同じイヴェール寮だというのに、わからなかったの?」
「あ、あはは……その、他人がどこに所属していようと、さして興味がなかったものですから」
さすがに罪悪感を抱いた。
エディと僕、もちろんベティも所属するイヴェール寮は、学園の北側にある。一年中溶けない氷の湖の中、透き通った氷水に囲まれた寮はとても美しい景観だ。
僕も、イヴェール寮の景観は気に入っていた。白く透き通り、理智的な青さ。ツンと肌を突き刺す冷たさと静謐な空気は、不思議と心を落ち着かせてくれる。
氷の湖の中――文字通り、凍った湖の中に寮が存在しているのだ。
「六学年。エドワード・ジュエラ・レギュラス」
「四学年、ヴィンセント・ロズリアです」
――只今、帰寮いたしました。
つるりと、堅氷に閉ざされた白い湖面がほのかに光り、下り階段が現れる。
「安心して。人払いは済ませている」
「……至れり尽くせり。感謝してもしきれません」
「うん。お礼は元気になってからしてもらうよ」
恐ろしい宣言をされた。エディのことだから、無理難題を言わないのはわかっている。僕ができる、了承するギリギリを見極めたお礼を求めてくるに違いない。
気が重くなる。今頭を悩ませてもしかたない。一体、何を求められるのやら。
氷の湖の中にあり、寮内は冷えた空気が漂っている。氷の階段は、やがて石畳の階段へと変わり、その先には扉がいくつも並んだ居住区がある。
螺旋状に階段が続き、ネームプレートがかかった扉を通り過ぎる。途中、僕の名前が書かれたネームプレートがぶら下がった扉もあった。
「――着いた。どうぞ、くつろいでくれてかまわないよ」
寮の最奥、最も安全な場所に位置したエディの私室。
五学年になると、二人部屋からひとり部屋になり、部屋を魔法でカスタマイズすることが許可される。僕も来年からひとり部屋だ。魔法が使えないのでそのままの部屋を使うつもりだ。
音も立てずに扉が開き、中へと招かれる。貴族の屋敷のような内装が広がっていた。
白と青を基調としたインテリアに、壁は一面のガラス窓で透明な水の中を泳ぐ魚たちが見えた。天然のアクアリウムだ。
ロイヤルブルーの絨毯に、白いソファ、白いテーブル。その中で唯一、幾重にも重なった紗の向こうに鎮座する、真っ黒な寝台が異彩を放っている。
「ちょっと待っていて」
サロンに置かれているソファと同じだろう。柔らかな白いソファに降ろされて、エディは紗の向こうに消えていった。
無意識に、詰まっていた息を長く吐き出す。魂も一緒に抜け出してしまいそうだ。
エディと二人きりのサロンも緊張するけれど、このプライベートルームはもっと緊張してしまう。エディが生活をする空間だ。ここで、彼の殿下は寝起きして、日常を過ごしている。脳裏に思い浮かんだ、プライベート姿のエディにそわそわした。
居心地の悪さを無理やり飲み込んで、ひとまず、体に魔力を巡らせることにした。
治癒魔法を使うのに、特に意識することはない。呪文もなにも必要ない。ただ、魔力を少しばかり体に巡らせるだけ。
息を整え、深呼吸する。
この部屋が、氷湖の最も深いところにあるからだろう。澄んで冷たい魔力素が体内に取り入れられる。
患部が熱を持ち、皮膚の下で細胞が蠢くのが感じられる。
冷気を吸い込み、ゆっくり吐き出す。乱れた体内の魔力を正して、巡らせ、循環させる。
「ヴィンセント?」
「ひッ!?」
鼓膜に、一段低い艶声が流し込まれる。
ぶわり、と全身に熱が広がり、耳元を抑えて飛び退った。ドッドッドッドッ、と口から心臓がまろび出るかと思った。
真っ赤な顔で振り返れば、制服から着替えたエディが、不思議な笑みを湛えてこちらを覗き込んでいた。
「魔力を感じた。何をしていたの?」
「エッ、え、いや、えーっと」
「ヴィンセント?」
ずい、と秀麗な美貌がさらに距離を詰めてくる。
﨟たけた美貌はベティで慣れているとはいえ、彼の人の麗しい相貌にはいつまでたっても慣れそうにない。
「答えて、ヴィンセント」
鼻先がかすめ、吐息が感じられるほど近い顔に、目の奥がぐるぐると回った。
「まっ、魔力を! 魔力を循環させていたんです!」
「なぜ?」
「怪我をしたことによって、体内を巡る魔力が乱れていたので、それを、正していたんです」
「ふぅん。そうなんだ」
パッと離れたエディに安堵する。
「さて、それじゃあヴィンスも着替えて。ついでに、怪我の具合も見せておくれ」
「……え゛っ」
今度こそ、僕は固まった。
驚いた勢いでついうっかり、怪我の内側だけを治すつもりが、きれいさっぱりすべて治してしまったのだ。だからもう痛みはないし、痕だってない。
「さ、脱いで?」
もしかして、殿下は気づいている?
ワイシャツの襟元を握りしめ、だらだらと冷や汗をかく僕。
きらきらと眩いロイヤルスマイルを向けてくる。眩しすぎて目を背けてしまう。いや、決して気まずくて目を逸らしているわけじゃない。
「ヴィンス、こちらを見て」
「うっ……あの、殿下、僕の傷は別に見なくてもいいんじゃないでしょうか」
「どうして? お前は私のモノだ。私のモノが傷ついたのなら、所有者である私は確認しないといけないだろう」
さぁ、と再度促す殿下を、ごまかせるような良い案は思い浮かばない。
学年では最優の成績を修め、むしろこの頭しか取り柄がないというのに。こういう時に限って、動いてくれない頭は役立たずも同然だ。
「脱げない? 私が手伝ってあげようか」
「け、けっこうです……」
「じゃあ、ほら、早く脱いで」
うぐ、と唾を飲み込む。退く気はなさそうだ。
視線をうろつかせるが、右も左も、エディが腕で塞いでいる。足だって彼のほうが速いし、なにより、扉は施錠されている。逃げられるわけがなかった。
「殿下、あの、さすがに僕も、恥ずかしいので、」
「ねぇ、ヴィンセント」
にこにこという擬音がぴったりな彼の笑みが、ひやりと失われる。
「お前、焦ったり隠し事があったりすると、私のことを〝殿下〟と呼ぶね。――それは、私には、言えないこと?」
冬の空のように煌めいていた瞳から、急速に熱が失われていく。さらさらと、白銀髪は落ちて白い顔を翳らせる。
触れ合っているはずなのに、瞳からも、吐息からも彼の人の熱を感じられない。
するりと、指の隙間からすり抜けていってしまう。失うことへの恐怖に、気が付いたら僕はエディに縋り付いていた。
「そんなことッ、そんなことありません。むしろ、殿下にしか――エディにしか、言えないことです」
「……それじゃあ、教えてくれる?」
「――……はい」
震える指先が、リボンタイの先を摘まんで解いていった。
シャツのボタンを外し、保健医が施してくれた湿布や包帯を解き、患部に当てられていたガーゼが足元に落ちていく。
「ヴィンス、お前――怪我をしていたんじゃ」
「殿下、僕は、治癒魔法が使えるんです」
はらり、と肩から落ちたシャツ。薄暗い、青さの光る室内に、白い上半身を晒す。
怪我をしていた腕を抱いて、背を丸めた。できるかぎり、彼の視界に映る自分を小さくしようと努める。
そろり、と伸ばされた指先が、腕に巻いていた包帯を摘まんで引っ張る。
光魔法によって傷つけられた腕は、酷い有様だったと先生が教えてくれた。高温の光熱により血肉が焼け溶け、骨が見えてしまっていた。
は、と短い吐息とともに手のひらが掬われて、血肉が抉れていただろう箇所に唇を寄せられた。
「――……よかった」
痕もなく、白く滑らかな肌を吸い、赤い華が残される。
「お前に怪我がなくて、ほんとうによかった」
ふ、とこぼれたのは静かで穏やかな、幸せにあふれた囁きだった。
「怪我がないなら湯浴みもできそうだね。この部屋は拡張魔法で広げていて、あの扉の向こうに浴室があるんだ。氷湖の中にあるこの寮はよく冷える。私もよく湯船に浸かるんだよ。用意をしてくるから。その間に着替えておいて」
泣くのかと思った。
唖然と、瞬く間にエディは扉の向こう側へ姿を隠してしまう。
扉の向こうから水の流れる音が聞こえてくる。しばらく待ったが、エディは戻ってこなかった。
なぜ、治癒魔法が使えることを言ってはいけないのか。それは、父が僕のことを利用するためだ。
失われた魔法のひとつである治癒魔法が使えるとわかれば、今すぐにでも王宮か、魔法協会、あるいは大聖教会に保護されるだろう。
その場しのぎの回復魔法とは違う。血肉を治癒し、死んでさえいなければ、あらゆる怪我や病を治せてしまえるのだ。
ちゃぷん、と湯船に張られた湯が波打つ。白濁の湯は美容と美白の効果があるらしく、しっとりと重たく体にまとわりついた。
温かいのか、熱いのかわからない。
足を悠々と伸ばせる広い湯舟で、僕は抱えた膝を一身に見つめた。
「あったかいねぇ」
「そ、ですねぇ……」
背後にはなぜかエディがいる。どうして一緒に入っているんだっけ。確か、待っている間暇だからとか、ふたりで入ったほうが温かいだとか。なんだかいろいろエディが言っていて、気が付いたら体を洗われて、気が付いたらこの体勢だった。……なんで?
無防備に背中を晒しているけれど、向かい合うよりマシだ。出来心で振り返ったら、水も滴るイイ男すぎて直視できなかった。
白濁の湯で見えないとはいえ、逞しい胸板とか、くっきりとした鎖骨に筋肉質な二の腕とか。滴る水を払い、濡れた前髪をかき上げる仕草とか。
色艶をまとった、夜の行為を匂わせる濡れた仕草に逆上せてしまいそうだった。
「こっちを向いてはくれないの?」
「直視できないのでムリです」
「私がかっこよすぎて?」
「…………えぇ、まぁ、はい、そうですよ、イイ男すぎて、僕は恥ずかしいんです。なので、この体勢で許してください」
顔が熱くなる。やけっぱちで早口に紡げば、弾けるような笑い声が浴室に響いた。
「ふ、ふふっ、ヴィンスは、私のことをイイ男だって思うんだ」
「……むしろ、エディがイイ男じゃなかったらほかの男なんてジャガイモになってしまいますが」
「あははっ、そうだね、確かにそうだ。でも、ヴィンスは違うよ」
「なんですか、もやしだとでも言いたいんですか」
「違うってば。ふふっ、ヴィンスは、一等美しい宝石だよ」
また、だ。何を考えているのかわからない声音。
僕を美しいと彼は言う。綺麗で、可愛くて、愛おしい。大事に大事にしまって、囲って、誰にも見せたくない宝物。
ツゥ、と浮き出た背骨を指先がなぞる。
いくら食べても肉が付かず、鍛えても筋肉が付きづらい体質だった。背骨もあばらもごつごつと浮いた体は貧相に見え、あまり好きじゃない。
男として憧れるのは、やっぱりエディみたいな体型だ。細すぎず太すぎず、きゅっと引き締まって張りがある。腹筋だって綺麗に六つに割れていて、顔だけでなく肉体美まで素晴らしい。羨ましいにもほどがあった。
濁り湯の中で、エディの腕が腹に回ってくる。「あ、」と言葉がこぼれた頃には、できるかぎり距離をとって座っていた体が引き寄せられていた。
「!?」
「ふふ、細くて薄いし、折れてしまいそうだなぁ」
「お、折らないでください」
「私がお前を傷つけるわけないだろう」
何を言っているんだか、と呆れた笑い声なのに、それは嬉しそうに聞こえた。
背中に、エディの素肌が密着している。ドクドクドクと心臓は早鐘を打ち、一生分の鼓動を使い果たしてしまいそうだ。
嗚呼、どうしてこんなにも、彼のそばにいると心が浮ついてしまうのか。
与えられるぬるま湯のような感覚が心地よい。いっそそのぬるま湯に溺れて、死んでしまえたなら幸せなのに。
「ヴィンセント」
「っな、なに、」
「私はどこへも行かないよ」
腹に回る腕に力がこもり、肩に額が乗せられる。すっぽりと、包み込まれてしまった、僕は息ができなくなる。
絶対なんてない。口ではどうとでも言えるのだから。
――だって、約束をしたのにお母様はいなくなってしまった。
「だから、お前も私から離れないで」
「……エディ」
「お願いだよ。もう、私の知らないところで傷つかないで。……本当に、心配したんだ」
いつもの余裕にあふれた殿下とは違う。酷く弱弱しい、喪失を恐れている声だった。かすかに音は震えて、僕が頷くのを待っていた。
「……約束しかねます」
「いやだ」
間髪入れずに拒否されてしまった。ぐりぐりと額を押し付けられる肩が痛い。まるで駄々をこねる子供ではないか。
契約は絶対だけど、約束は絶対じゃない。
「もし、約束して、それを守れなかったら殿下がもっと傷ついてしまうでしょう。だから、僕はできない約束はしません」
「じゃあ、私にお前のことを守らせてくれ」
護られるのは王子殿下である貴方なのに。
いずれ、彼の両手はこの国でいっぱいになってしまう。それなのに、僕ひとりのために殿下の手を煩わせてしまうなんて、できるわけがなかった。
「嬉しい申し出ですけど、僕は自分のことくらい自分でできます」
「いいや。お前は意外と、甘えたで寂しがりやで、かまってちゃんだろう」
「…………エディは、僕のことを五歳児か何かかと思ってます?」
「まさか。大人ぶって、大好きなお嬢様に見合う男であろうと努力する、とっても可愛い良い子さ」
皮肉に聞こえるのは気のせいか。
エディはすっかり拗ねてしまった。浴槽の中で胡坐をかいた上に僕を座らせて、右手を僕の腹に回し、左手は手の甲の上から重ねられる。
大きな手のひらだ。ごつごつしていて、筋張っていてかっこいい男の人の手。よく見ると、薄くなった小さい傷跡がいくつもあった。
剣の訓練中にできたものなのだろう。僕の手は、傷ひとつもなく真っ白で薄っぺらくて柔らかい。体を巡らせる魔力があるかぎり、小さな傷なら一日もしないで消え去ってしまうから、ベティよりも綺麗な手をしている。
「お前は私のモノになるのに、そばにもいてくれないし、守らせてもくれないのか」
「そういうのは、好い人に向かって言うべきですよ」
「じゃあ、合っているよ」
「……好い人というのは、お気に入りとかそういう意味ではなく、」
「もちろんわかっているさ。一国の王子が色恋沙汰に鈍くては話にならないだろう?」
「では、」
「だから、私が好いているのはお前だと言っているんだよ、ヴィンセント」
藪蛇を、突いてしまったかもしれない。
気のせいじゃなかった。勘違いじゃなかった。友愛だとか、そういうのじゃない。こうして言葉で示されてしまえば、僕はどうしたらいいんだ。どうするのが正解なんだ。
「あ、あー……僕も、……僕もエディのことを好いていますよ! 一等、仲の良い友人ですからね」
だから、気が付かなかったことにした。
「――うん」
あ、僕、間違えてしまった。
「うん、今は、まだそれでいいよ。一番仲の良いお友達だものね。いいよ、いいさ、まだこの関係で我慢してあげる」
声が冷たい。
ぴったりとくっついて、湯に浸かっているのに、エディの体が冷たく感じられる。自分で言ったことだけれど、今すぐにでも撤回してしまいたかった。
けれど、でも、だって、僕は、恋というものがわからない。エディの気持ちが、本物なのか、わからない。信じられない。信じたら、だって、信じたら最後、苦しいじゃないか。
「まぁつまり、私の愛が伝わっていなかった、ということだよね」
「え」
「安心して、仲の良い友達だものね、性急に事を進めるつもりはないよ。何事も順序は大事だもの」
無理に明るく振る舞っている声に、喉奥が引き絞られる。振り返って、彼の顔を見たいのに、体は凍り付いたかのように動かない。
逃げ出せない僕をいいことに、うなじから背骨の頂点、耳の裏側に口付けを落とされる。
首筋から唇が下りて行って、肩口の皮膚を突き破る痛みに呻き声をあげた。悲鳴を我慢してしまうのは前世からの癖で、ろくな抵抗もままならない僕を、好き勝手にエディは啄んだ。
濁り湯に赤色が垂れて混じり、僕の胸中を表しているみたいだった。
「な、にを」
「この傷も、治せてしまうんだろうね。いくら痕をつけたって、治癒魔法の使い手なら意味はない。――ねぇ、私が一等仲良しなお友達なら、この怪我を治してしまわないで。私のささやかなお願いを聞いてくれる?」
「……それくらいなら、別に、かまいません」
やったぁ、とエディは嬉しそうに破顔するけれど、僕の情緒が追い付かない。
「君の真っ白な体に傷がつくのなら、私が最初に痕をつけたいんだ」
ささやか、なんてものじゃない。滲み出る執着に、一等仲の良いお友達、というのは無理があった。
そもそも、普通のお友達は同じバスタブでこんなに密着はしない。矛盾だらけの言い訳だ。エディといると、僕の頭はポンコツになってしまう。
「あの、さっき、エディが僕を傷つけるわけがない、と仰っていた気がするんですが、聞き間違いでしたか?」
「もちろん、言ったね。君を傷つける輩がいるなら、即刻切り捨ててやろう」
つまり、他者に傷つけられるのは許さないが、自分が傷つけるのは良い、という独占欲と執着と王族らしい傲慢だった。
「ヴィンセントの初めては、ぜぇんぶ私にちょうだいね」
「……善処します」
まるで真綿で首を絞められていくような独占欲。
それを、心地よいと感じてしまった。
公爵家の御令嬢として、第二王子の婚約者として、しかるべき教育を怠けることなくしっかりと受けて来たベアトリーチェには、人の上に立つ才能があるのだ。それこそ、ポッと出の次期聖女様よりもずっと、憧憬と人望を抱かれている。
ベティの正論に、大勢の前で辱められた次期聖女様はついに涙をこぼした。泣けばいいと思っている典型的な例だ。
「レオン……! あたし、あたし……!」
「嗚呼、セレーネ……! 可哀そうに、こんなに涙をこぼして……。君はついこないだまで庶民で、貴族社会のことなんてわからないだけなんだよな。どこの御令嬢かは知らないが、随分と酷いんじゃないか?」
全肯定する機械となっていた騎士団長令息様は、眦を吊り上げてベティを睨む。
……えっ、ベアトリーチェ・ローザクロスお嬢様を知らないなんて、どこのモグリですか?
周囲にもどよめきが走り、愛弟子殿が珍生物を見る目で彼を見ていた。
「――あら、そう。わたくしをご存じないのね」
艶やかに、艶やかに。美しい黄金の大輪の華は、口の端を吊り上げて悪辣に微笑う。
ベティは、自分自身の存在を知らしめるように恭しく、最上級のカーテシーを披露する。豊かな胸に手のひらを当て、襞の多いスカートを指先で摘まみ、滑らかに片足を引く。蝶が羽ばたくように、音もなくふわりと頭を垂れた。
「ご挨拶が申し遅れました。お初にお目にかかりますわ、次期聖女様。サミュエル・ディエ・ローザクロス公爵が第一子、ベアトリーチェ。いずれ、わたくしが北の領地を治めた暁には貴女と顔を合わせることも多くなるでしょう。貴女の御名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「ぁ、あっ、えっ、あ、あの、あたし、は」
その場に居合わせた御令嬢たちは、お手本となる最上級のカーテシーに感嘆の声を漏らす。
片足を引き、胸元に手を当てるだけの仕草ですら美しい。しなやかな指先に、ぶれることのない体幹。一朝一夕でできる仕草ではない。学園に通う御令嬢なら誰もが憧れるお嬢様が、ベアトリーチェ・ローザクロスなのだ。
それはベティからの挑戦状だった。
ローザクロス公爵――すなわち、この国の宰相閣下であらせられるベティの父君の名を聞いて、さすがに彼らも顔色を悪くする。というよりも、愛弟子殿は師事している方の愛娘だと知っているだろう。次期聖女様の暴走を窘めなければいけない立場のはずだ。
見よう見まねでカーテシーをする次期聖女様に、落胆の声があちこちから聞こえる。
足は引きすぎて不格好だし、スカートは握りしめすぎてシワになっている。体幹はブレブレで、振り子時計みたいだ。国民の偶像的存在にしては随分とお粗末な動作だった。
「わたくしのポチへの扱いは、わたくしなりの愛情表現よ。貴族社会に足を踏み入れて間もないバンビちゃんは、相手を選んでその小さなお手てを差し伸べるべきね。シオン、今回の件、お父様に報告するわ」
僕が手出し口出ししなくても、さすが、ベティの手腕でこの場を無事に収められる。
「行くわよ、ポチ。気が削がれてしまったわ」
色を失くした顔でベティを呼び止める愛弟子殿だけれど、その優秀な頭で考えれば、すぐに導き出せたはずだ。
僕には、次期聖女様に侍り尽くすほどの魅力が感じられなかった。
マナーも教養も、一年生たちの方がよほど上手だ。曲がりなりにもエリート学校のひとつに数えられているこの学園に編入できたのが心底不思議だ。
淑女とも呼べない少女に、第二王子は首ったけだというのだから、よほど女性を見る目がないのだろう。そうでなければ、完璧な淑女であるベティを袖にできるわけがない。
「……よ、」
「セレーネ?」
「……皆、騙されているんだわ! ヴィンセント君、あたしが、魅了から救ってあげるからね! ――《光よ》!」
スカートを翻し、背中を向けたベアトリーチェに、光弾が迫る。
いくらベティが四大属性を扱える、類い稀なる魔法の才能にあふれていたとしても、その道を目指しているわけではない。魔法使いを目指す生徒たちに比べれば、魔力を込めるスピードも、反射神経も劣ってしまう。
目前に迫る光弾に瞳を丸くして、濡れた唇が防衛の魔法呪文を唄うよりも速く、彼女の細い腕を引いてとっさに場所を入れ替わった。
運動能力は良くも悪くもないけれど、反射神経には自信があったからできた業だ。あとは火事場の馬鹿力のようなもの。
顔に当たるのだけは避けなければ、と無意識に空いている方の腕を頭の前に翳した瞬間、真っ白い光と焼けるような熱が弾けた。
通常の属性魔法よりも勢いのある光の魔法に吹き飛ばされ、床を滑り転がり、背中と頭を強く打ち付ける。
初めて聞くベティの悲鳴を最後に、僕の意識はぷっつりと途切れた。
また、泣いていないだろうか。その涙を拭ってやれない自分が情けなかった。
* * *
薬臭さと、見覚えのない真っ白な天井だ。四方はこれまた真っ白いカーテンで仕切られており、学園のざわめきがどこか遠くに聞こえる。
白衣をまとった保健医がカーテンの隙間から顔を覗かせた。ここが医務室であると気が付いた。
「具合はどうですか? 頭を打ち付けたと聞きました。眩暈や、視界がちらつくとかはありませんか? 痛むところなどは?」
「……だいじょうぶ、です」
「そうですか。今は平気でもあとから痛み出すこともあります。二、三日は安静にしてください。クラス担任には授業を休ませるように連絡をしていますので、安心して体を休めてください。ここにいてもよろしいですが、どうしますか? 寮に戻るなら、誰か迎えを呼びますが」
熱を持った体を悟られないように、常日頃から癖になっている緩やかな笑みを浮かべて首を振る。
「いえ、お手数はおかけしません。寮へは戻りますが、ひとりで大丈夫です」
頭はガンガンと金槌で打ち付けられているように痛みが走っている。背中から広がる熱は全身を苛む。
なによりも、三角に吊された右腕は切り落としてしまいたいほどに、ジクジクと痛みを孕んでいた。
それらをすべて覆い隠してしまえる僕は、「ぼく」に感謝した。暴力が日常的だったあの頃のおかげで、我慢することには慣れている。むしろこの痛みに懐かしさすら感じた。
打ち付けた頭と背中への処置と、一番酷い怪我をした腕の状態を説明してくれた先生は、冷たく見える表情を心配に歪める。
氷の美人保健医、なんて言われている先生に頭を下げてお礼を言う。
「……本当に平気ですか?」
「はい。先生のおかげです」
正直なところ、さっさと寮に帰ってこの痛みから解放されたかった。――父が禁じたのは、他者に治癒魔法を施すことだ。自分自身にかけることは禁止していない。
痛む体を無理やり起こして、再度お礼を言って保健室をあとにする。
ふらつく頭を支えながら、いつもよりゆっくり歩を進めた。
手っ取り早く治してしまいたいが、どこで誰が見ているかわからない。治癒魔法が使えることが露見してしまえば、今度こそ、父によって屋敷の地下に監禁されてしまう。
校舎を出ると、夏の終わりを感じさせる生ぬるい風が吹き抜けた。
「う、わ」
ふわり、風に背中を押されてたたらを踏む。
目の前には下りの石階段があり、手すりを掴もうと伸ばした手は空を切った。
どうせ寮へ帰れば治せるのだから、と衝撃と痛みを享受しようと目を瞑る。
「――ッ、馬鹿だろ……!」
けれど、痛みはいつまでもやってこなくて、その代わりにすっかり嗅ぎ慣れてしまった匂いに包まれた。
「エ、ディ……?」
「なぜ目を閉じた!! なぜ諦めた!? お前はッ……いや、そうだった、怪我を、していたんだったね。……すまない、痛むんだろう」
背後から回る腕にこもっていた力が緩められる。
腕は痛いし、背中も痛い。頭も頭痛なのか鈍痛なのかよくわからない痛みが響いている。そっと、エディにばれない程度に魔力を全身に回した。詰まっていた息がすぅっと通り、喋れるくらいには痛みがごまかされた。
抱き寄せる腕に手を添えて体を離し、不自然にならない程度に笑みを浮かべてエディを見る。
「えぇっと……ここまで怪我をしていたなら、階段を落ちても落ちなくても一緒かと」
「一緒なわけがあるか。お前、馬鹿だったか? 最優秀成績者のはずだろう……はぁ……本当に、肝が冷えた。医務室へ向かえばひとりで帰ったというし、どうしてお前は……いや、ひとまず、話は寮で聞く」
肩で息をするエディの額には汗が滲んでいて、相当急いで来たのが窺える。余裕にあふれた殿下はどこへやら、息を乱して声を荒らげる様子は、まるで僕のことを心配しているようだった。
珍しいエディに目を丸くして、まじまじと見つめる。
穏やかな印象を抱かせる垂れ眉は、眉間にギュッと寄ってシワを作り、呆れや嫌悪ではなく、怒りが感じ取れた。
「エディ、って、う、わぁ……!?」
僕に怒っているのか、そう尋ねようとした矢先、視界がグンと持ち上がった。不安定さに、目の前にあった首に抱き着いてしまう。目を白黒させていると、やがてバランスが安定して、エディの足音とともに体が揺れた。
男として非常に情けない体勢になってしまった。
確かに、エディのほうが頭ひとつ分背が高く、騎士を専攻しているだけあって筋肉量の差もある。しかし、僕だって平均身長より背丈はあるのだ。
まさか、まさか同年代の同性に横抱きにされることになるなんて。男として屈辱である。
僕だってまだベティのことをお姫様抱っこしたことがないのに……! 以前しようとしたら「ポチが折れてしまいそうだから嫌よ」と拒否されたことを思い出した。
「あ、あ、あの!? エディ、降ろしてくださいっ! 歩けますから!!」
「ダメだよ。またふらついて、倒れて頭を打ち付けたらどうするんだ? まぁ、率先して怪我をしたいマゾヒストだというのなら私にも考えようがあるけれど」
誰がマゾヒスト!?
何を言ってもこの人は聞かないのだろう。短く息を吐き出して、強張る体から力を抜いた。
エディが意外と頑固だと気が付いたのは、サロンを訪れた幾度目かの時。
ベティは僕が傅こうと背後に控えようと何も言わない。それなのにエディは、僕がすることなすこと愛しげに見つめて、何をしても褒めてくださる。愛しげ、というのも僕の思い違いではない。穏やかだとか、優しげだとか、そんなものには収まらないほどの熱情を感じるのだ。
面と向かって「君とともに過ごせる時間すらも愛しいのだよ」なんて言われては、何も言い返せず、口を噤むことしかできなかった。
恥ずかしいのでやめてください、と何度も何度も何度も! 言っているのに「愛しい人に愛を告げることの何がダメなんだい?」と物理的に黙らせられてしまう。
エディは、初めから最後まで僕の言うことなんて聞きゃしないのだ。それに気づいてからは、諦めて彼からの愛を享受することにした。
真っすぐな、燃えるほどの盲愛を向けられて悪い気はしない。
せめて誰にも見られないことを祈り、胸に頭を預ける。頭上で短く息を吐く音が聞こえた。ほんの少し、彼から聞こえる心臓の音が早まった。
ドク、ドク、と脈打つ音。触れ合ったところから混じり合う熱。ほのかに香る甘い匂い。
エディが僕に抱く感情が、いまだによく理解できない。愛なのか、恋なのか、独占欲なのか。
涼風が通り過ぎていく。夏が終われば、秋が来る。
その頃には、ベティの新しい婚約者が決まっているだろう。
目を瞑ると、余計なことばかり考えてしまう。眠ると、思い出したくもないことを夢に見てしまう。
「ヴィンス。私の心臓の音を聞いて」
「……エディ? それは、なぜ?」
「私のことだけを考えてほしいからだよ」
喉から笑いがこぼれた。
殿下はなんでも見通す慧眼をお持ちだ。僕が何を考え、何を思っているのかも、きっとわかっているのだろう。
「私の部屋に真っすぐ向かうけれど、何か持っていきたいものとかはある? あ、ちなみに、先生には許可を取っているし、着替えなどは用意させるから安心して」
至極当たり前のように、エディの部屋でお世話になることが決まっていた。もはや逆らう気もおきない僕は首を横に振る。
「……ところで、エディが所属する寮って」
「嘘だろう……? 酷い。ひどすぎる。同じイヴェール寮だというのに、わからなかったの?」
「あ、あはは……その、他人がどこに所属していようと、さして興味がなかったものですから」
さすがに罪悪感を抱いた。
エディと僕、もちろんベティも所属するイヴェール寮は、学園の北側にある。一年中溶けない氷の湖の中、透き通った氷水に囲まれた寮はとても美しい景観だ。
僕も、イヴェール寮の景観は気に入っていた。白く透き通り、理智的な青さ。ツンと肌を突き刺す冷たさと静謐な空気は、不思議と心を落ち着かせてくれる。
氷の湖の中――文字通り、凍った湖の中に寮が存在しているのだ。
「六学年。エドワード・ジュエラ・レギュラス」
「四学年、ヴィンセント・ロズリアです」
――只今、帰寮いたしました。
つるりと、堅氷に閉ざされた白い湖面がほのかに光り、下り階段が現れる。
「安心して。人払いは済ませている」
「……至れり尽くせり。感謝してもしきれません」
「うん。お礼は元気になってからしてもらうよ」
恐ろしい宣言をされた。エディのことだから、無理難題を言わないのはわかっている。僕ができる、了承するギリギリを見極めたお礼を求めてくるに違いない。
気が重くなる。今頭を悩ませてもしかたない。一体、何を求められるのやら。
氷の湖の中にあり、寮内は冷えた空気が漂っている。氷の階段は、やがて石畳の階段へと変わり、その先には扉がいくつも並んだ居住区がある。
螺旋状に階段が続き、ネームプレートがかかった扉を通り過ぎる。途中、僕の名前が書かれたネームプレートがぶら下がった扉もあった。
「――着いた。どうぞ、くつろいでくれてかまわないよ」
寮の最奥、最も安全な場所に位置したエディの私室。
五学年になると、二人部屋からひとり部屋になり、部屋を魔法でカスタマイズすることが許可される。僕も来年からひとり部屋だ。魔法が使えないのでそのままの部屋を使うつもりだ。
音も立てずに扉が開き、中へと招かれる。貴族の屋敷のような内装が広がっていた。
白と青を基調としたインテリアに、壁は一面のガラス窓で透明な水の中を泳ぐ魚たちが見えた。天然のアクアリウムだ。
ロイヤルブルーの絨毯に、白いソファ、白いテーブル。その中で唯一、幾重にも重なった紗の向こうに鎮座する、真っ黒な寝台が異彩を放っている。
「ちょっと待っていて」
サロンに置かれているソファと同じだろう。柔らかな白いソファに降ろされて、エディは紗の向こうに消えていった。
無意識に、詰まっていた息を長く吐き出す。魂も一緒に抜け出してしまいそうだ。
エディと二人きりのサロンも緊張するけれど、このプライベートルームはもっと緊張してしまう。エディが生活をする空間だ。ここで、彼の殿下は寝起きして、日常を過ごしている。脳裏に思い浮かんだ、プライベート姿のエディにそわそわした。
居心地の悪さを無理やり飲み込んで、ひとまず、体に魔力を巡らせることにした。
治癒魔法を使うのに、特に意識することはない。呪文もなにも必要ない。ただ、魔力を少しばかり体に巡らせるだけ。
息を整え、深呼吸する。
この部屋が、氷湖の最も深いところにあるからだろう。澄んで冷たい魔力素が体内に取り入れられる。
患部が熱を持ち、皮膚の下で細胞が蠢くのが感じられる。
冷気を吸い込み、ゆっくり吐き出す。乱れた体内の魔力を正して、巡らせ、循環させる。
「ヴィンセント?」
「ひッ!?」
鼓膜に、一段低い艶声が流し込まれる。
ぶわり、と全身に熱が広がり、耳元を抑えて飛び退った。ドッドッドッドッ、と口から心臓がまろび出るかと思った。
真っ赤な顔で振り返れば、制服から着替えたエディが、不思議な笑みを湛えてこちらを覗き込んでいた。
「魔力を感じた。何をしていたの?」
「エッ、え、いや、えーっと」
「ヴィンセント?」
ずい、と秀麗な美貌がさらに距離を詰めてくる。
﨟たけた美貌はベティで慣れているとはいえ、彼の人の麗しい相貌にはいつまでたっても慣れそうにない。
「答えて、ヴィンセント」
鼻先がかすめ、吐息が感じられるほど近い顔に、目の奥がぐるぐると回った。
「まっ、魔力を! 魔力を循環させていたんです!」
「なぜ?」
「怪我をしたことによって、体内を巡る魔力が乱れていたので、それを、正していたんです」
「ふぅん。そうなんだ」
パッと離れたエディに安堵する。
「さて、それじゃあヴィンスも着替えて。ついでに、怪我の具合も見せておくれ」
「……え゛っ」
今度こそ、僕は固まった。
驚いた勢いでついうっかり、怪我の内側だけを治すつもりが、きれいさっぱりすべて治してしまったのだ。だからもう痛みはないし、痕だってない。
「さ、脱いで?」
もしかして、殿下は気づいている?
ワイシャツの襟元を握りしめ、だらだらと冷や汗をかく僕。
きらきらと眩いロイヤルスマイルを向けてくる。眩しすぎて目を背けてしまう。いや、決して気まずくて目を逸らしているわけじゃない。
「ヴィンス、こちらを見て」
「うっ……あの、殿下、僕の傷は別に見なくてもいいんじゃないでしょうか」
「どうして? お前は私のモノだ。私のモノが傷ついたのなら、所有者である私は確認しないといけないだろう」
さぁ、と再度促す殿下を、ごまかせるような良い案は思い浮かばない。
学年では最優の成績を修め、むしろこの頭しか取り柄がないというのに。こういう時に限って、動いてくれない頭は役立たずも同然だ。
「脱げない? 私が手伝ってあげようか」
「け、けっこうです……」
「じゃあ、ほら、早く脱いで」
うぐ、と唾を飲み込む。退く気はなさそうだ。
視線をうろつかせるが、右も左も、エディが腕で塞いでいる。足だって彼のほうが速いし、なにより、扉は施錠されている。逃げられるわけがなかった。
「殿下、あの、さすがに僕も、恥ずかしいので、」
「ねぇ、ヴィンセント」
にこにこという擬音がぴったりな彼の笑みが、ひやりと失われる。
「お前、焦ったり隠し事があったりすると、私のことを〝殿下〟と呼ぶね。――それは、私には、言えないこと?」
冬の空のように煌めいていた瞳から、急速に熱が失われていく。さらさらと、白銀髪は落ちて白い顔を翳らせる。
触れ合っているはずなのに、瞳からも、吐息からも彼の人の熱を感じられない。
するりと、指の隙間からすり抜けていってしまう。失うことへの恐怖に、気が付いたら僕はエディに縋り付いていた。
「そんなことッ、そんなことありません。むしろ、殿下にしか――エディにしか、言えないことです」
「……それじゃあ、教えてくれる?」
「――……はい」
震える指先が、リボンタイの先を摘まんで解いていった。
シャツのボタンを外し、保健医が施してくれた湿布や包帯を解き、患部に当てられていたガーゼが足元に落ちていく。
「ヴィンス、お前――怪我をしていたんじゃ」
「殿下、僕は、治癒魔法が使えるんです」
はらり、と肩から落ちたシャツ。薄暗い、青さの光る室内に、白い上半身を晒す。
怪我をしていた腕を抱いて、背を丸めた。できるかぎり、彼の視界に映る自分を小さくしようと努める。
そろり、と伸ばされた指先が、腕に巻いていた包帯を摘まんで引っ張る。
光魔法によって傷つけられた腕は、酷い有様だったと先生が教えてくれた。高温の光熱により血肉が焼け溶け、骨が見えてしまっていた。
は、と短い吐息とともに手のひらが掬われて、血肉が抉れていただろう箇所に唇を寄せられた。
「――……よかった」
痕もなく、白く滑らかな肌を吸い、赤い華が残される。
「お前に怪我がなくて、ほんとうによかった」
ふ、とこぼれたのは静かで穏やかな、幸せにあふれた囁きだった。
「怪我がないなら湯浴みもできそうだね。この部屋は拡張魔法で広げていて、あの扉の向こうに浴室があるんだ。氷湖の中にあるこの寮はよく冷える。私もよく湯船に浸かるんだよ。用意をしてくるから。その間に着替えておいて」
泣くのかと思った。
唖然と、瞬く間にエディは扉の向こう側へ姿を隠してしまう。
扉の向こうから水の流れる音が聞こえてくる。しばらく待ったが、エディは戻ってこなかった。
なぜ、治癒魔法が使えることを言ってはいけないのか。それは、父が僕のことを利用するためだ。
失われた魔法のひとつである治癒魔法が使えるとわかれば、今すぐにでも王宮か、魔法協会、あるいは大聖教会に保護されるだろう。
その場しのぎの回復魔法とは違う。血肉を治癒し、死んでさえいなければ、あらゆる怪我や病を治せてしまえるのだ。
ちゃぷん、と湯船に張られた湯が波打つ。白濁の湯は美容と美白の効果があるらしく、しっとりと重たく体にまとわりついた。
温かいのか、熱いのかわからない。
足を悠々と伸ばせる広い湯舟で、僕は抱えた膝を一身に見つめた。
「あったかいねぇ」
「そ、ですねぇ……」
背後にはなぜかエディがいる。どうして一緒に入っているんだっけ。確か、待っている間暇だからとか、ふたりで入ったほうが温かいだとか。なんだかいろいろエディが言っていて、気が付いたら体を洗われて、気が付いたらこの体勢だった。……なんで?
無防備に背中を晒しているけれど、向かい合うよりマシだ。出来心で振り返ったら、水も滴るイイ男すぎて直視できなかった。
白濁の湯で見えないとはいえ、逞しい胸板とか、くっきりとした鎖骨に筋肉質な二の腕とか。滴る水を払い、濡れた前髪をかき上げる仕草とか。
色艶をまとった、夜の行為を匂わせる濡れた仕草に逆上せてしまいそうだった。
「こっちを向いてはくれないの?」
「直視できないのでムリです」
「私がかっこよすぎて?」
「…………えぇ、まぁ、はい、そうですよ、イイ男すぎて、僕は恥ずかしいんです。なので、この体勢で許してください」
顔が熱くなる。やけっぱちで早口に紡げば、弾けるような笑い声が浴室に響いた。
「ふ、ふふっ、ヴィンスは、私のことをイイ男だって思うんだ」
「……むしろ、エディがイイ男じゃなかったらほかの男なんてジャガイモになってしまいますが」
「あははっ、そうだね、確かにそうだ。でも、ヴィンスは違うよ」
「なんですか、もやしだとでも言いたいんですか」
「違うってば。ふふっ、ヴィンスは、一等美しい宝石だよ」
また、だ。何を考えているのかわからない声音。
僕を美しいと彼は言う。綺麗で、可愛くて、愛おしい。大事に大事にしまって、囲って、誰にも見せたくない宝物。
ツゥ、と浮き出た背骨を指先がなぞる。
いくら食べても肉が付かず、鍛えても筋肉が付きづらい体質だった。背骨もあばらもごつごつと浮いた体は貧相に見え、あまり好きじゃない。
男として憧れるのは、やっぱりエディみたいな体型だ。細すぎず太すぎず、きゅっと引き締まって張りがある。腹筋だって綺麗に六つに割れていて、顔だけでなく肉体美まで素晴らしい。羨ましいにもほどがあった。
濁り湯の中で、エディの腕が腹に回ってくる。「あ、」と言葉がこぼれた頃には、できるかぎり距離をとって座っていた体が引き寄せられていた。
「!?」
「ふふ、細くて薄いし、折れてしまいそうだなぁ」
「お、折らないでください」
「私がお前を傷つけるわけないだろう」
何を言っているんだか、と呆れた笑い声なのに、それは嬉しそうに聞こえた。
背中に、エディの素肌が密着している。ドクドクドクと心臓は早鐘を打ち、一生分の鼓動を使い果たしてしまいそうだ。
嗚呼、どうしてこんなにも、彼のそばにいると心が浮ついてしまうのか。
与えられるぬるま湯のような感覚が心地よい。いっそそのぬるま湯に溺れて、死んでしまえたなら幸せなのに。
「ヴィンセント」
「っな、なに、」
「私はどこへも行かないよ」
腹に回る腕に力がこもり、肩に額が乗せられる。すっぽりと、包み込まれてしまった、僕は息ができなくなる。
絶対なんてない。口ではどうとでも言えるのだから。
――だって、約束をしたのにお母様はいなくなってしまった。
「だから、お前も私から離れないで」
「……エディ」
「お願いだよ。もう、私の知らないところで傷つかないで。……本当に、心配したんだ」
いつもの余裕にあふれた殿下とは違う。酷く弱弱しい、喪失を恐れている声だった。かすかに音は震えて、僕が頷くのを待っていた。
「……約束しかねます」
「いやだ」
間髪入れずに拒否されてしまった。ぐりぐりと額を押し付けられる肩が痛い。まるで駄々をこねる子供ではないか。
契約は絶対だけど、約束は絶対じゃない。
「もし、約束して、それを守れなかったら殿下がもっと傷ついてしまうでしょう。だから、僕はできない約束はしません」
「じゃあ、私にお前のことを守らせてくれ」
護られるのは王子殿下である貴方なのに。
いずれ、彼の両手はこの国でいっぱいになってしまう。それなのに、僕ひとりのために殿下の手を煩わせてしまうなんて、できるわけがなかった。
「嬉しい申し出ですけど、僕は自分のことくらい自分でできます」
「いいや。お前は意外と、甘えたで寂しがりやで、かまってちゃんだろう」
「…………エディは、僕のことを五歳児か何かかと思ってます?」
「まさか。大人ぶって、大好きなお嬢様に見合う男であろうと努力する、とっても可愛い良い子さ」
皮肉に聞こえるのは気のせいか。
エディはすっかり拗ねてしまった。浴槽の中で胡坐をかいた上に僕を座らせて、右手を僕の腹に回し、左手は手の甲の上から重ねられる。
大きな手のひらだ。ごつごつしていて、筋張っていてかっこいい男の人の手。よく見ると、薄くなった小さい傷跡がいくつもあった。
剣の訓練中にできたものなのだろう。僕の手は、傷ひとつもなく真っ白で薄っぺらくて柔らかい。体を巡らせる魔力があるかぎり、小さな傷なら一日もしないで消え去ってしまうから、ベティよりも綺麗な手をしている。
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「そういうのは、好い人に向かって言うべきですよ」
「じゃあ、合っているよ」
「……好い人というのは、お気に入りとかそういう意味ではなく、」
「もちろんわかっているさ。一国の王子が色恋沙汰に鈍くては話にならないだろう?」
「では、」
「だから、私が好いているのはお前だと言っているんだよ、ヴィンセント」
藪蛇を、突いてしまったかもしれない。
気のせいじゃなかった。勘違いじゃなかった。友愛だとか、そういうのじゃない。こうして言葉で示されてしまえば、僕はどうしたらいいんだ。どうするのが正解なんだ。
「あ、あー……僕も、……僕もエディのことを好いていますよ! 一等、仲の良い友人ですからね」
だから、気が付かなかったことにした。
「――うん」
あ、僕、間違えてしまった。
「うん、今は、まだそれでいいよ。一番仲の良いお友達だものね。いいよ、いいさ、まだこの関係で我慢してあげる」
声が冷たい。
ぴったりとくっついて、湯に浸かっているのに、エディの体が冷たく感じられる。自分で言ったことだけれど、今すぐにでも撤回してしまいたかった。
けれど、でも、だって、僕は、恋というものがわからない。エディの気持ちが、本物なのか、わからない。信じられない。信じたら、だって、信じたら最後、苦しいじゃないか。
「まぁつまり、私の愛が伝わっていなかった、ということだよね」
「え」
「安心して、仲の良い友達だものね、性急に事を進めるつもりはないよ。何事も順序は大事だもの」
無理に明るく振る舞っている声に、喉奥が引き絞られる。振り返って、彼の顔を見たいのに、体は凍り付いたかのように動かない。
逃げ出せない僕をいいことに、うなじから背骨の頂点、耳の裏側に口付けを落とされる。
首筋から唇が下りて行って、肩口の皮膚を突き破る痛みに呻き声をあげた。悲鳴を我慢してしまうのは前世からの癖で、ろくな抵抗もままならない僕を、好き勝手にエディは啄んだ。
濁り湯に赤色が垂れて混じり、僕の胸中を表しているみたいだった。
「な、にを」
「この傷も、治せてしまうんだろうね。いくら痕をつけたって、治癒魔法の使い手なら意味はない。――ねぇ、私が一等仲良しなお友達なら、この怪我を治してしまわないで。私のささやかなお願いを聞いてくれる?」
「……それくらいなら、別に、かまいません」
やったぁ、とエディは嬉しそうに破顔するけれど、僕の情緒が追い付かない。
「君の真っ白な体に傷がつくのなら、私が最初に痕をつけたいんだ」
ささやか、なんてものじゃない。滲み出る執着に、一等仲の良いお友達、というのは無理があった。
そもそも、普通のお友達は同じバスタブでこんなに密着はしない。矛盾だらけの言い訳だ。エディといると、僕の頭はポンコツになってしまう。
「あの、さっき、エディが僕を傷つけるわけがない、と仰っていた気がするんですが、聞き間違いでしたか?」
「もちろん、言ったね。君を傷つける輩がいるなら、即刻切り捨ててやろう」
つまり、他者に傷つけられるのは許さないが、自分が傷つけるのは良い、という独占欲と執着と王族らしい傲慢だった。
「ヴィンセントの初めては、ぜぇんぶ私にちょうだいね」
「……善処します」
まるで真綿で首を絞められていくような独占欲。
それを、心地よいと感じてしまった。
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嫉妬と憎悪が社交界を揺るがす愚行へと繋がり、王宮での婚約破棄、王の御前での一族追放へと至る。
混乱の只中、妹を庇おうとするレイモンドの前に立ちはだかったのは、王国騎士団副団長にしてリーシャの異母兄、ヴィンセント・グレイヴェル。
琥珀の瞳に嗜虐を宿した彼は言う――
「この才を捨てるは惜しい。ゆえに、我が手で飼い馴らそう」
知略と支配欲を秘めた騎士と、没落した宰相家の天才青年。
耽美と背徳の物語が、冷たい鎖と熱い口づけの中で幕を開ける。
義兄の愛が重すぎて、悪役令息できないのですが…!
ずー子
BL
戦争に負けた貴族の子息であるレイナードは、人質として異国のアドラー家に送り込まれる。彼の使命は内情を探り、敗戦国として奪われたものを取り返すこと。アドラー家が更なる力を付けないように監視を託されたレイナード。まずは好かれようと努力した結果は実を結び、新しい家族から絶大な信頼を得て、特に気難しいと言われている長男ヴィルヘルムからは「右腕」と言われるように。だけど、内心罪悪感が募る日々。正直「もう楽になりたい」と思っているのに。
「安心しろ。結婚なんかしない。僕が一番大切なのはお前だよ」
なんだか義兄の様子がおかしいのですが…?
このままじゃ、スパイも悪役令息も出来そうにないよ!
ファンタジーラブコメBLです。
平日毎日更新を目標に頑張ってます。応援や感想頂けると励みになります。
※(2025/4/20)第一章終わりました。少しお休みして、プロットが出来上がりましたらまた再開しますね。お付き合い頂き、本当にありがとうございました!
えちち話(セルフ二次創作)も反応ありがとうございます。少しお休みするのもあるので、このまま読めるようにしておきますね。
※♡、ブクマ、エールありがとうございます!すごく嬉しいです!
※表紙作りました!絵は描いた。ロゴをスコシプラス様に作って頂きました。可愛すぎてにこにこです♡
【登場人物】
攻→ヴィルヘルム
完璧超人。真面目で自信家。良き跡継ぎ、良き兄、良き息子であろうとし続ける、実直な男だが、興味関心がない相手にはどこまでも無関心で辛辣。当初は異国の使者だと思っていたレイナードを警戒していたが…
受→レイナード
和平交渉の一環で異国のアドラー家に人質として出された。主人公。立ち位置をよく理解しており、計算せずとも人から好かれる。常に兄を立てて陰で支える立場にいる。課せられた使命と現状に悩みつつある上に、義兄の様子もおかしくて、いろんな意味で気苦労の絶えない。
ブラコンすぎて面倒な男を演じていた平凡兄、やめたら押し倒されました
あと
BL
「お兄ちゃん!人肌脱ぎます!」
完璧公爵跡取り息子許嫁攻め×ブラコン兄鈍感受け
可愛い弟と攻めの幸せのために、平凡なのに面倒な男を演じることにした受け。毎日の告白、束縛発言などを繰り広げ、上手くいきそうになったため、やめたら、なんと…?
攻め:ヴィクター・ローレンツ
受け:リアム・グレイソン
弟:リチャード・グレイソン
pixivにも投稿しています。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
【完結】悪役令息の従者に転職しました
* ゆるゆ
BL
暗殺者なのに無様な失敗で死にそうになった俺をたすけてくれたのは、BLゲームで、どのルートでも殺されて悲惨な最期を迎える悪役令息でした。
依頼人には死んだことにして、悪役令息の従者に転職しました。
皆でしあわせになるために、あるじと一緒にがんばるよ!
透夜×ロロァのお話です。
本編完結、『もふもふ獣人転生』に遊びにゆく舞踏会編、完結しました!
時々おまけを更新するかもです。
『悪役令息を改めたら皆の様子がおかしいです?』のカイの師匠も
『悪役令息の伴侶(予定)に転生しました』のトマの師匠も、このお話の主人公、透夜です!(笑)
大陸中に、かっこいー激つよ従僕たちを輸出して、悪役令息たちをたすける透夜(笑)
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
性悪なお嬢様に命令されて泣く泣く恋敵を殺りにいったらヤられました
まりも13
BL
フワフワとした酩酊状態が薄れ、僕は気がつくとパンパンパン、ズチュッと卑猥な音をたてて激しく誰かと交わっていた。
性悪なお嬢様の命令で恋敵を泣く泣く殺りに行ったら逆にヤラれちゃった、ちょっとアホな子の話です。
(ムーンライトノベルにも掲載しています)
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