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沼に落ちた

嫉妬

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今し方、ゴッホ展から帰ってきた。
自室のソファーに座り込み思わず頭を抱え込む。
大きな息が漏れる。
あり得ないだろう。
なんなんだ、あの愛くるしい生き物は。
クリスマスの街並みを見て、あんなに嬉しそうにするなんて。
高揚し頬を赤らめ絵に魅入る様子は綺麗な顔が引き立っていた。
入ったカフェでは興奮を引きずったままの様子だったのに、妙な腹の音を鳴らして恥ずかしそうにしていた。
なんだあの生き物は。
陽太のためにも絶対に近づいてはいけないと、そう足掻けば足掻くほど、とんでもない深みに落ちる。
沼だ。


「陽太沼…」


足掻いているうちに、あっという間に抜け出せない沼にはまっていた。
抜け出せないのなら足掻くのをやめよう。
そう考えをシフトしてしまうと、どうやって手中に収めようかと算段が自分の中に構築されていく。
生徒だからだとか、高校生相手にだとか、大人としてだとか、世間体がどうでもよくなる。
やはり悪い大人になってしまったものだ。




今日は、今月の備品の要求リストを揃え保健室に向かっている。
鬼束が要求してくる備品内容が専門的過ぎるため、毎月殆ど通らない。
ここは病院じゃなくて保健室だと説得してほしいと上から頼まれる。
毎度の事だ。
おそらく今回も意味はないだろう。
保健室に向かっていると廊下の先の方で生徒がもめているようだった。
俺が、と叫んでいる声がする。
何か厄介ごとに遭遇したかと訝しみつつ近付くと、どうやら野球部の生徒が誰かに付きまとっているように見えた。
さらに近付くと相手が分かった。


陽太だ。
手首を強い力で掴まれているらしく苦痛に顔を歪ませている。
目には涙が溜まっているようで、相手の生徒に勃然と忿怒が湧き上がる。
それと同時に嫉妬心が急激に芽生えた。
そんな顔を、そんな奴に見せるな。
俺にだけ見せればいい。
我ながら情けないが醜い嫉妬心だ。


「陽太。どうした?」


陽太を怖がらせないように極力柔らかに声をかける。
野球部の生徒は直ぐに去って行ったが、そんなことは心底どうでも良い。
恐らく痺れて力が入らないのだろう、ダランと力の抜けた手首が痛々しい。
大丈夫かと問うが、陽太は大丈夫だと取り繕う。
声が震えているのに平気だと強がる。
目に溜まった涙を指摘し本当に大丈夫なのかと確認すると、ひどく焦った様子で大丈夫だと走って去って行ってしまった。


呆気にとられ追いかけたい衝動に駈られたが仕事に戻る。
保健室に出向かねばならない。


気分を切り替え廊下を歩いていても、手に残った細い手首の感触が思い出させる。
あの痛みに歪んだ顔。
涙の溜まった孤独な瞳。
何かに怯えたような声。
我慢せずに泣き叫ばせたい。
俺にだけ、弱さを見せればいい。
弱さを暴いて、何もかもを俺に晒してほしい。
優しくするだけでは物足りない。
足掻いてみたが。


「意味はなかったな。」


そう大きめの独り言を発しつつ保健室に無遠慮に入室する。
鬼束が、また要求した物品の許可が下りなかったのかと憤怒した。
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