後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

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五章 女炎帝

7、侵入者【1】

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 翌朝。夜更かしをしてしまった翠鈴ツイリンは、あくびが止まらなかった。
 なにしろ陳燕チェンイェンの話が長かったのだ。

 しかも夜明けに合わせて、未央宮の下げ灯籠を消して回らなければならない。

「眠そうね、翠鈴」
「うん。ちょっと頭が働かないかも」

 食堂で、由由ヨウヨウと並んで座り朝食をとる。
 油条ヨウティヤオを手で折ってどぼん。
 あれ? ふだんと音が違う。

「ちがうちがう。翠鈴。それ、鹹豆醤シェントウジャンじゃなくって、お茶」
「あー。やっちゃった」

 温かい塩味の豆乳に、酢や醤油、ネギに干した小エビを入れたのが鹹豆醤シェントウジャンだ。酢で凝固して、ほろほろとした豆乳に油条をひたすと、とてもおいしい。

 うすい茎茶を吸ってしまった油条を、翠鈴は「困ったなぁ」と眺める。
 しょうがない。今日は宮灯の掃除のついでに、座ったままでちょっと寝よう。

 午後。翠鈴はさぼっていないように見せながら、仮眠をとった。
 床に座って、自分の前には宮灯を置いておく。右手に布を持って、さも「宮灯を磨いている途中ですよー」という風を装って、目を閉じる。

 未央宮にある作業部屋には、翠鈴ひとりだけ。
 庭から桃莉公主の声が聞こえる。蘭淑妃も一緒なのだろう。桃莉タオリィ公主は軽やかにはしゃいでいる。

「桃莉。その鉢は触ってはいけませんよ」と、蘭淑妃の声が聞こえた。

 そういえば、盆山ぼんざんに使う松の盆栽があったな。てのひらに載るほどに小さいのに、樹形は風格ある松に育っている。
 未央宮に飾るために、園丁が丹精込めて手入れしている逸品だ。

 あの松は高そうだなぁ。今日も風が冷たいなぁ。桃莉公主のしもやけは、完治なさっただろうか。
 眠いので、翠鈴の思考はバラバラだ。

 火鉢はないが。まどから射しこむ陽射しで、室内は寒すぎるほどでもない。瞼がとろんと落ちるのが妙に心地いい。

 だが、眠りは妨げられた。

「早く探せ」
「どこに逃げ込んだ」

 緊迫した声が、遠くから聞こえる。
 翠鈴は跳び起きた。

 力任せに扉を開き、声のした方を確認する。右? 左? 違う。前方の門だ。
 だが、まずは皆の安全の確認を。
 翠鈴は回廊を走った。さっきまで眠っていたとは思えぬ速さだ。

「ツイリン。どうしたの?」

 侍女たちに囲まれた蘭淑妃と桃莉公主が、目を丸くする。
 さすがに淑妃の侍女は心得たもので、主たちを囲んで守っている。

「あの声は何でしょう」
「分かりません。ですが『どこに逃げ込んだ』と聞こえました。不審な者が、未央宮に侵入する可能性があります。早く中にお入りになってください」

 蘭淑妃の問いかけに、翠鈴は答えた。
 淑妃はすぐに、桃莉公主の肩を抱いて歩きはじめる。

「翠鈴。大丈夫でしょうか」

 侍女のひとりが翠鈴にすがりついてきた。声がかすれている。無理もない。四夫人に仕える侍女ともなれば、良家のお嬢さまなのだから。

「様子を見てきます。誰か、宮の外に出て人を呼んできてください。裏からなら行けるでしょう。あとは部屋に鍵を掛けて、安全が確認されるまでは開けぬように」

 翠鈴は司燈の仕事で使う、金属の棒を手にした。長い棒ならば相手の動きを封じることができる。
 薬草を摘むために、子供の頃から山野を歩いていた翠鈴は、体が鍛えられている。

「まぁ。ここが後宮っていうのだけが、幸いかもしれない」

 閉じられた世界にいるのが女性と宦官だけなのだから。さすがに翠鈴でも、筋骨たくましい男性相手だと力では敵わない。

 がさりと音がした。
 翠鈴は、棒を構えて淑妃たちを背中で隠す。

 淑妃や侍女の足音が遠ざかり、扉が閉まる音がした。もう大丈夫だ。

 首に巻いた、絹のように繊細な圍巾ウェイジンをぎゅっと握りしめる。
 どうか力を。と、ここにいない人に念じながら。

「出てきなさい」

 命じる翠鈴の声は、凍てついた氷を思わせた。

 風が起こる。翠鈴に向かって。
 棒を両手で構えなおして、顔を防御する。硬い音がして、棒に衝撃を感じた。
 湿った土のにおいが漂った。
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