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七章 毒の豆
13、毒はいらない【2】
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キィと、背もたれのない椅子が軋んだ音を立てた。
翠鈴は立ち上がった。背が高い。夏雪を見おろす位置から、鋭利な目で睨みつけてくるので、敵意に叩きつけられそうだ。
「辺妮ならいないわよ」
「辺妮って誰?」
夏雪が問いかけると、翠鈴は心底あきれた表情を浮かべた。
辺妮。辺妮。
夏雪は、その名を記憶の中からたぐり寄せる。
「もしかして、香……えっと、印象の薄い宮女のことかしら」
「いいのよ。言い直さなくても」
翠鈴は、食堂の入り口に立つ夏雪に近づいた。
一歩、また一歩進むのだが。決して夏雪から目を逸らさない。
(この宮女は危険だ)
夏雪の喉が、からからに渇く。舌までが乾燥して、上あごに張りついた。
下まぶたが痙攣する。知らぬうちに夏雪は後退していた。踵が、開いたままの戸の下枠にあたった。
「さっき、香豌豆を売りつけた宮女って言おうとしたわね。でも、実際に売ったのはただの豌豆、よね?」
なんでそれを! 辺妮は、香豌豆じゃないって気づいたっていうの? なんでよ。味見をしたの? あんな愚か者が、香豌豆が苦いって知ってるわけないわ。
夏雪の頭の中が大騒ぎする。
だが、翠鈴に尋ねることもできない。
「まぁ、あなたが辺妮を騙してくれたおかげで、大事には至らなかったから。悪いことばかりでもないわね」
翠鈴は、夏雪が床に置いた袋に目を向けた。
袋には、依頼のあった年糕や菓子が詰まっている。
「買い物代行、ね。また大芹が入ってなければいいんだけど」
また。と、この女は言った。
夏雪の首筋を、ひとすじの汗が伝う。
「大芹も偽物だったらよかったのに。どうして毒なんて持ちこむの?」
毒芹のことも見抜かれている?
こいつ、どこまで知っているの?
「毒なら、代金をいくらでも吊り上げることができるのかしらね。ほら、値段が法外でも、毒を買ったことを誰にも相談できないじゃない」
「毒は……必要な人が、いる。それに使う人が、悪いから」
答える夏雪の声が、みっともなくかすれた。
こんな経験はしたことがない。
信用第一と口では言いながら、夏雪は買い物代行のお金をかなり上乗せして、宮女たちに請求している。
どうせ後宮の外に出ないのだから、ふっかけられていることに宮女たちは気づかない。
仮にばれたとしても。「買いたい人が多くて、値段が上がっていたのよ」と言えば済むことだ。
誰も疑いはしない。
「ええ、そうね。人によっては、毒はとても大事なもの。それに使う人が悪い。あなたの言い分は正しいわ」
まったく同意していない表情をして。翠鈴は薄っぺらい言葉を吐く。
カチャカチャという硬い音が、厨房の奥から聞こえる。皿を洗い終わったのだろう。
「あ、夏雪さんが来てるよ」と、明るい声が届いた。
「果花根茎に毒を持つ植物は多いわ。あなたは毒で人が苦しむのが好きなのね。毒を使うほどの憎悪や嫉妬を、楽しいと思えるのね」
翠鈴は歩きだした。
夏雪とすれ違う時。肩越しに翠鈴の声が聞こえた。
「悪趣味ね」と。
翠鈴は食堂を出ていった。
空気が解けたように軽くなる。場に張りつめていた重さが、氷が砕け散るように消えた。
ひゅ、と喉の奥が鳴る。
それまでまともに息を吸えていなかったのだと、夏雪は初めて気づいた。
膝が、みっともないほどにガクガクと震えている。
厨房から小走りに駆け寄ってくる宮女たちは「待ってたんですよ。夏雪さん」「除夕なのに。お仕事、お疲れさまです」と夏雪を取り囲む。
なんて気楽で楽しそうなの。人の気も知らないで。
「仕事なのは、あなたたちもでしょ」
夏雪はかろうじて笑顔を見せた。
あの女は誰? きっとこの子らに訊けばわかるはず。でも、関わりあいたくない。
自分はあの女に目をつけられた。今後、毒を持ちこもうものなら……。
もう翠鈴はいないのに。入り口の外にも、気配はないのに。
夏雪の腕には鳥肌が立っていた。
翠鈴は立ち上がった。背が高い。夏雪を見おろす位置から、鋭利な目で睨みつけてくるので、敵意に叩きつけられそうだ。
「辺妮ならいないわよ」
「辺妮って誰?」
夏雪が問いかけると、翠鈴は心底あきれた表情を浮かべた。
辺妮。辺妮。
夏雪は、その名を記憶の中からたぐり寄せる。
「もしかして、香……えっと、印象の薄い宮女のことかしら」
「いいのよ。言い直さなくても」
翠鈴は、食堂の入り口に立つ夏雪に近づいた。
一歩、また一歩進むのだが。決して夏雪から目を逸らさない。
(この宮女は危険だ)
夏雪の喉が、からからに渇く。舌までが乾燥して、上あごに張りついた。
下まぶたが痙攣する。知らぬうちに夏雪は後退していた。踵が、開いたままの戸の下枠にあたった。
「さっき、香豌豆を売りつけた宮女って言おうとしたわね。でも、実際に売ったのはただの豌豆、よね?」
なんでそれを! 辺妮は、香豌豆じゃないって気づいたっていうの? なんでよ。味見をしたの? あんな愚か者が、香豌豆が苦いって知ってるわけないわ。
夏雪の頭の中が大騒ぎする。
だが、翠鈴に尋ねることもできない。
「まぁ、あなたが辺妮を騙してくれたおかげで、大事には至らなかったから。悪いことばかりでもないわね」
翠鈴は、夏雪が床に置いた袋に目を向けた。
袋には、依頼のあった年糕や菓子が詰まっている。
「買い物代行、ね。また大芹が入ってなければいいんだけど」
また。と、この女は言った。
夏雪の首筋を、ひとすじの汗が伝う。
「大芹も偽物だったらよかったのに。どうして毒なんて持ちこむの?」
毒芹のことも見抜かれている?
こいつ、どこまで知っているの?
「毒なら、代金をいくらでも吊り上げることができるのかしらね。ほら、値段が法外でも、毒を買ったことを誰にも相談できないじゃない」
「毒は……必要な人が、いる。それに使う人が、悪いから」
答える夏雪の声が、みっともなくかすれた。
こんな経験はしたことがない。
信用第一と口では言いながら、夏雪は買い物代行のお金をかなり上乗せして、宮女たちに請求している。
どうせ後宮の外に出ないのだから、ふっかけられていることに宮女たちは気づかない。
仮にばれたとしても。「買いたい人が多くて、値段が上がっていたのよ」と言えば済むことだ。
誰も疑いはしない。
「ええ、そうね。人によっては、毒はとても大事なもの。それに使う人が悪い。あなたの言い分は正しいわ」
まったく同意していない表情をして。翠鈴は薄っぺらい言葉を吐く。
カチャカチャという硬い音が、厨房の奥から聞こえる。皿を洗い終わったのだろう。
「あ、夏雪さんが来てるよ」と、明るい声が届いた。
「果花根茎に毒を持つ植物は多いわ。あなたは毒で人が苦しむのが好きなのね。毒を使うほどの憎悪や嫉妬を、楽しいと思えるのね」
翠鈴は歩きだした。
夏雪とすれ違う時。肩越しに翠鈴の声が聞こえた。
「悪趣味ね」と。
翠鈴は食堂を出ていった。
空気が解けたように軽くなる。場に張りつめていた重さが、氷が砕け散るように消えた。
ひゅ、と喉の奥が鳴る。
それまでまともに息を吸えていなかったのだと、夏雪は初めて気づいた。
膝が、みっともないほどにガクガクと震えている。
厨房から小走りに駆け寄ってくる宮女たちは「待ってたんですよ。夏雪さん」「除夕なのに。お仕事、お疲れさまです」と夏雪を取り囲む。
なんて気楽で楽しそうなの。人の気も知らないで。
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夏雪はかろうじて笑顔を見せた。
あの女は誰? きっとこの子らに訊けばわかるはず。でも、関わりあいたくない。
自分はあの女に目をつけられた。今後、毒を持ちこもうものなら……。
もう翠鈴はいないのに。入り口の外にも、気配はないのに。
夏雪の腕には鳥肌が立っていた。
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