後宮の隠れ薬師は闇夜を照らす

絹乃

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九章 呂充儀

12、皇帝陛下

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 かわいそうに。南蕾ナンレイは、陛下に書状を届ける羽目になった。
 未央宮の司燈である陸翠鈴を辞めさせるようにとの内容だ。書いたのは、むろん呂充儀だ。

「どうしたらいいの。こんな、翠鈴さんを貶めるようなものを。私は……」

 青に染まった指で、南蕾は丸めた書状をぎゅっと握る。
 むろん、直接に皇帝陛下に届けることはない。手渡すのは、側近にですらないだろう。
 それでも必ず訴えは届く。

(宮女の去就に、陛下が関与なさるわけがないと思うけど)

 だが陛下が、呂充儀を寵愛しているのなら話は別だ。
 南蕾は、今にも泣きそうに眉を下げて未央宮を出ていった。

 その日の夜、皇帝陛下が未央宮を訪れた。
 先触れはなかった。

「呂充儀さまはこちらです」

 陛下を部屋に案内したのは、蘭淑妃だった。翠鈴は慌てて壁際に立ち、深く頭を下げて揖礼ゆうれいする。
 床を進む足が見える。陛下と、ふたりの男性の足が見える。どちらも見覚えのあるくつだ。

(光柳さまと雲嵐さまだわ)

 おそらくはふたりとも、仕事で陛下と共にいたのだろう。
 室内の空気が、恐ろしいほどに張りつめた。油断をすれば切れてしまう琵琶の弦のように。
 呂充儀は、あわてて寝台から降りて立ち上がった。

「これはどういうことだ?」

 陛下が、手紙を読みあげる。

「未央宮の司燈である陸翠鈴を解雇するようにお願いいたします。彼女は大変無礼であり、粗野で下品。蘭淑妃の下で働くのにふさわしくありません」

 何が書かれているのか、光柳も雲嵐も初めて知ったのだろう。眉根を寄せて、互いに視線を交わしている。

「蘭淑妃。そなたはどう思う? 他の宮の嬪に指摘されるほどに、下品な女と共にいるのか?」
「滅相もございません」

 蘭淑妃は大声で反論した。壁に天井に、その声が響くほどに。

「こちらの陸翠鈴は司燈でありながら、多くの侍女や女官、宮女の症状を救ってまいりました。医官ではありませんが、立派な薬師です」
「畏れながら陛下。以前、女官や宮女たちが投獄されていたことに気づき、解放のために動いたのも彼女です」

 光柳が言葉を添える。
 彼が皇帝の許可を得ずとも会話できることを、呂充儀は知らなかったに違いない。瞠目して、口を開いてしまっている。

 呂充儀は、他者に興味がない。
 正確にいえば、懐かしい故郷ばかりに思いを馳せているから。
 同じ民族であろう雲嵐には会いたがっても、光柳には関心がなかったのだろう。

「なるほど。では、この司燈のおかげで皇后の内々の祝いは滞りなく運んだということか」

 視線を感じる。翠鈴は顔を上げることができないのに。まっすぐに見据えてくる痛いほどの目の力が、皇帝陛下のものだと分かる。

「そなた、覚えておるぞ。先日、朕に助言をしてくれたな」

 足音が近づいてくる。誰もが言葉を発することができない。
 確かに陛下の振戦と、足が攣る症状に苦土クゥトゥが足りぬとお教えしたことがある。
 だが、口をきいていいと許しを得たのはあの時だけ。
 翠鈴の心臓が、バクバクと激しい音を立てる。

豆腐脳トウフナオ豆奬トウジャオと、魚と。あとは何だったかな。そうそう、岩塩ではなく海塩を使い、素鶏スージーを食べるように教えてくれたな」

 たかが下女の言葉を、陛下が覚えていることに翠鈴は驚いた。
 あの夜、陛下の側に控えていた護衛が記憶していて、御膳房に伝えてくれたらと翠鈴は考えていたのに。

「あれから熟睡できるようになった。痛みで目が覚めぬのは、素晴らしいものだな」

 陛下は軽やかに笑った。

「わ、わたくしも主上の足のことは、気にかけておりました」
「確かにな」

 呂充儀の訴えに、陛下はうなずいた。

「呂充儀。そなたが勧めてくれたものも、名は忘れたが、悪くはなかった。だが、痛みを治すのではなく未然に防ぐという方法は、侍医もそなたも考えつきはしなかった」

 どうにかして翠鈴を引きずり下ろしたい呂充儀には、これほど悔しいこともないだろう。
 陛下は、充儀が勧めた薫衣草くんいそう洋甘菊ようあまぎくの名を覚えてはいなかった。なのに、たかが下女が勧めたものは、すべて記憶しているのだから。

「しかし、光柳を伝奏てんそう役にするとは。よほど仲が良いと見える」
「申し訳ございません」

 翠鈴は詫びた。
 確かに。光柳は皇帝の義弟だ。いくら親しいからといって、気軽に陛下との間に立ってもらっていいはずがない。

「彼女の言葉は、時に難しいですからね。私ももっと精進しないといけませんね」

 謙遜する光柳に、陛下は「おや?」と眉を動かした。

「なるほど。どうやら朕は誤解をしていたらしい。光柳が、そなたに頼っておるようだな。光柳に好かれて、迷惑ではないか?」

 え? なんてお答えしたらいいの? 
 翠鈴は混乱して、頭が真っ白になってしまった。

「面を上げよ。いや、顔を見せてくれ。先日出会った時は、頭を下げてばかりだったろう?」

 皇帝、傑倫ジエルンの声が柔らかさを帯びる。
「仰せのままに」と、翠鈴は顔を上げた。

 この新杷国を統治する皇帝が、一介の宮女である翠鈴を認知している。
 右手を開いた皇帝は、翠鈴を見て微笑みを浮かべた。

「ほら、もう手の震えもない。足も攣らんぞ。そなたが勧めてくれた苦土と素鶏のおかげだな」
「もったいないお言葉です」

 たかが宮女でしかない翠鈴を、皇帝が褒めている。
 その事実が納得できないのだろう。呂充儀は表情をゆがめた。まるで今にも噛みつきそうな顔だった。
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