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1巻
1-2
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ならば、元婚約者の顔には派手な引っ掻き傷が残っているはずだ。
そして以前、胡玲が医局で対応した相手に、顔に傷のある宦官がいたと言っていた。その宦官は、かつて外廷の官吏であったと自慢していたという。
豪友という名は知っているが、後宮で働く宦官の数はあまりにも多い。だから翠鈴は早々に、その男の名を出してどこにいるのかと人に尋ねることは難しいと判断した。
翠鈴が宦官を探していると噂が立つのは避けねばならない。捨てた女の妹が復讐に来たと相手に勘づかれては、元も子もないからだ。
胡玲と同じ医局に勤めるという手もあったが、官女の方が行動範囲が広く、仕事を理由に目立たずに動ける。さらに姉と同じ陸の姓を持つ娘が薬師であると、豪友に知られるわけにはいかない。
この後宮にいるはずなのに、姉を捨てた男はまだ見つからない。
「これは桃莉さま。お走りになっては、危ないですよ」
遠くから聞こえる、男性のものなのにどこか澄んでいる声。
翠鈴が声のする方を見れば、そこには二十代半ばの宦官が立っていた。桃莉の前で、胸の前で手を組み合わせて揖礼している。
確か彼の名前は松光柳。絹糸のような艶のある明るい色の髪を一つに結んでいる、美しい宦官だ。
官位の高い者がつける小さな冠と、それを留める簪ではなく、髪を結んだ部分に飾り紐をつけている。
もう一人、光柳の背後で揖礼しているのは同僚だろうか。細身の光柳と違い、淡い褐色の肌に逞しい体躯をしている。
「あ、いいなぁ。桃莉さま。光柳さまにお相手してもらってるわ」
「由由。いいもなにも、公主が宦官に声をかけられて何が羨ましいの?」
皿を運びながら、翠鈴は呆れた声を出した。
松光柳は、秘書省の書令史だ。皇帝の言葉や辞令を書きとめる仕事をしている。
書令史は流外三等であり、身分は決して高くない。だがさらりとした髪と琥珀の瞳を持つ光柳は、なぜか上品に見えた。女官や宮女の間でも、彼の人気は高い。
「ねぇ、由由。どうして皆は彼を『さま』付けで呼ぶの?」
「だって、光柳さまだもの」
答えになっていないと翠鈴は思ったが、由由の目はとろんと蕩けていて、これ以上聞いてもおそらく無駄だろう。
翠鈴は、光柳をじっと見据えた。
(確かに他の流外の宦官とは違って、気品はあるかな)
皇帝陛下の言葉を書きとめるという立場だから、見目好く麗しい宦官を選んでいるのかもしれない。
光柳の姿は、夜に咲いている白百合を連想させる。清々しい美しさなのに、太陽と青空の下よりも月の光を浴びてより香りたつ、気高く白い花だ。
「あの、ね。おにわのへび、もういない?」
桃莉は、小さな声で光柳に問いかけた。由由に対するほどの内気さではないが、特段親しいというわけではないようだ。
「蛇ですか? そのような話は聞いておりませんが」
「でも、いたの。あついときに。おっきなへびがたちあがって、しゃーってくちをひらいてた、から」
うつむいてしまった桃莉の声は聞き取りにくい。
光柳は回廊の床にしゃがんで、桃莉の口にそっと耳を近づけた。他の宦官なら「失礼ですが、なんと仰いましたか」と何度も聞き返すだろうに、光柳は子供相手でも丁寧に接している。
「公主さまは庭で遊びたいのですか?」
こくりと桃莉がうなずく。
「ぎんもくせいが、いいにおいだから、おはなをあつめたいの」
「桂花のことですね。あれは香りのよい、素晴らしい花です」
誰から銀木犀の話を聞いたのか、とは光柳は尋ねない。それを聞けば、問い詰めているように桃莉が感じると考えたからだろう。
(ふぅん。女性に人気があるだけかと思っていたけど、子供の扱いはうまいんだ)
翠鈴の視線に気づいたのか、桃莉に一礼をした光柳が近づいてくる。
「人を射殺しそうな目だ」
「は?」
翠鈴は呆然とした。
初対面の相手に対して何て言い草だろう。
「弓を引き絞り、力をためて矢を放つ――そんな鋭い光をしている。澱んでいない、冴え切った憎悪だ」
「光柳さま。率直に物を言いすぎです」
光柳の隣に立つ宦官が彼をたしなめたが、それも助け舟になっていない。
翠鈴はきっと睨んで言い返す。
「書令史っていうのは、無神経な人が務めるものなんですか?」
「ほら、怒らせてしまったじゃないか。謝れ、雲嵐」
光柳は、雲嵐と呼んだ宦官の頭を押さえつける。
冴えた雰囲気の光柳と違い、雲嵐はかなりの高身長だが、物静かでにこやかだ。光柳より少しだけ年上に見えるので、二十代後半だろうか。瞳の色は淡く、澄んでいる。そういえば、以前、侍女たちが光柳の側に杜という姓の逞しい宦官がいると話していたが、それが雲嵐だったのか。
(いや、怒らせたのはあなたの方だけど)
翠鈴は小さく息をついた。
「その……言っていいことと悪いことがあるな。すまない」
「いえ、事実ですから気にしていません。では、失礼いたします」
翠鈴は、胸の前で右手で左手を包みこみ礼をする拱手をしようかと思ったが、皿を持っているので手を合わせることができない。
まぁ、無礼な相手にそこまでしなくていいかと思い直し、そのまま翠鈴は厨房へ立ち去った。
2、蝮草
秋が深まると、夏よりも日の出がどんどん遅くなる。
そのぶん、灯籠の消灯の時刻が遅れるのは、ゆっくり動きたい翠鈴にとってはありがたい。
庭の奥では銀木犀の花が盛りだ。金木犀ほどの鮮やかさではないが、朝陽を受けて美しく輝いている。
「どうしたの、翠鈴。外に何かいる?」
門の灯を消した由由が、小走りに戻ってきた。
「ああ、銀木犀を見ていたのよ。桃莉さまと花を集める約束をしているから。それにしても、今朝は侍女たちが早起きね」
まだ朝も早いのに、回廊では侍女たちが立ち話をしている。浮足立った、そわそわした雰囲気が未央宮には満ちていた。
「そうなの。昨夜は陛下のお渡りがあったそうよ」
なぜか誇らしげに由由は胸を張って言う。
「陛下がお戻りになってから、淑妃さまが書き写してくださったの。陛下から麟美さまの詩を賜ったそうよ」
聞こえてきた声は、侍女頭の梅娜のものだ。同僚の侍女たちに紙を広げて見せている。
「淑妃さまは、本当にお優しくていらっしゃるわ」
「そうね。それに一度お会いしてみたいわ、麟美さまに」
(麟美? 聞いたことがない名だな。誰だろう)
翠鈴が思案していると、侍女の一人が、紙に書かれた文章を詠みあげる。
「颯々と秋雨が降る、我はあなたに手を伸ばす。指に触れるは銀のしずく。あなたはどこに。夢と知っていたならば、ずっと眠っていたものを」
(詩……? 情緒的だし、女性が詠んだものかな)
一行目、二行目、三行目の文末が「~ウ」の響きを持ち、韻を踏んでいるようだ。
昇りはじめた太陽が、未央宮の菊の花に宿る朝露をきらきらと輝かせる中、翠鈴は軒の灯を消す棒を引いた。
(まぁ、後宮勤めの間は簡単に外には出られないし、恋愛も難しいから、切ない恋の詩は人気がありそう)
そんなことを考えながら翠鈴は次の灯籠を消そうと進むが、由由は立ちどまったままだ。
「麟美さまの詩って、やっぱり素敵ねぇ」
うっとりとした目で、由由は侍女たちを眺めている。
「麟美って誰?」
「翠鈴、知らないの? 後宮にいらっしゃる女流詩人よ。恋の歌が得意なの」
由由は字は読めないが、恋の詩には興味があるようだ。
翠鈴は植物の名を書き写すことで文字を覚えたが、それは薬草の効能を覚えるためのものであって、詩には疎い。
(姉さんが詩が好きだったから、教えてもらったことはあるけれど)
「翠鈴、颯々ってどういう意味?」
「風が吹いて音を立てる様子を表しているのよ。字はこう」
翠鈴は空中でひとさし指を動かした。「えー、分かんないよ」と、由由は唇を尖らせる。
けれど、憧れの詩人の新作を偶然でも耳にした由由の顔は輝いたままだ。光きらめく朝露のように。
(桃莉さまとの約束の日まで、強い風が吹かずに銀木犀の花が残っていますように)
小さな公主の笑顔がまた見られることを願って、翠鈴は庭の奥に再び目を向けた。
◇ ◇ ◇
数日後。翠鈴と桃莉公主は、未央宮の庭に出ていた。
銀木犀の花を集めると約束した日だからだ。
秋の庭には、瓔珞草とも呼ばれる秋海棠が、淡い桃色の花を咲かせている。
(秋海棠かぁ。口に入れると毒だけど、すり潰したら皮膚病に効くんだよね。それと、人には言いづらい、恥ずかしい部分の強烈なかゆみにも。密かに悩んでいる女性は多いだろうから、うまく売ればいい商売になるんだけどなぁ)
後宮は人が多いから、山里の村にいるよりも儲かるはずだ。
(あんなにたくさん生えてるのに、眺めるだけなんてもったいない。ああ、売りたいなぁ。でも、司燈のわたしじゃ花は管轄外だし。庭を管理する司苑の宮女に頼んだら、刈った時に分けてもらえないかな)
瓔珞とは、宝石と金を編んだ飾りのこと。海棠は桜のように、贅沢に咲きほこる春の花。海棠に似た秋に咲く花なので、秋海棠という。
未央宮の庭は蘭淑妃のものなので、淑妃や公主である桃莉は花を自由に摘んでもよいが、手入れや管理は司苑の仕事だ。
(葉と茎をむしって水洗いした後、すり潰して患部に塗れば、大助かりになる人が男性も女性もたくさんいるはずなんだけど)
だめだ、きれいな花が銅銭に見えてしまう。
美しい名前とはかけ離れた薬効を持つ花から、翠鈴は目が離せない。
「なにみてるの? こっちだよ、ツイリン」
桃莉が翠鈴の手を引いて、庭を抜ける。風が吹くと黄色や白の塊が揺れて、菊の香りが届いた。草の青い匂いもする。
(いい天気だなぁ)
翠鈴はぼんやりと空を眺めた。
その時だった。急に背後から肩を掴まれたのは。
桃莉と手をつないでいたので、翠鈴だけでなく桃莉まで後ろに引っ張られる。
「庭の奥には行かない方がいい」
ぴしりと鋭い声が聞こえた。
翠鈴が振り返ると、そこにいたのは松光柳だった。隣には雲嵐が控えている。
「どうしてですか?」
問いかける翠鈴に、「見なさい」と光柳が庭を囲む塀を指さす。
見れば、ザッザッと音を立てながら、伸びた草を鎌で刈っている宦官がいる。
庭の花の手入れは司苑の宮女の担当だが、塀の辺りに茫々と生えた雑草を刈って運ぶのは重労働だ。ゆえに宦官に頼んだのだろう。
かなりの広さがあるが、彼一人で大丈夫なのだろうか。
「銀木犀の花を集めるだけですから、草刈りの邪魔はしませんよ。場所も離れていますし」
「いや、これから樟脳を置いていくのでな。あれは危険だ」
「蛇よけですか? 開けた場所なので吸い込むことはないでしょうが、樟脳を置いた場所に目印を立てておいた方が安全ですね」
光柳の説明に、翠鈴はすぐに答えた。
樟脳は強烈な刺激臭があるので、間違って口にすることはないだろうが、素手で触れれば肌がかぶれてしまう。
「詳しいな」
「いえ、常識ですから」
とっさにそう答えたが、つい声が上ずってしまった。
光柳は、常識なのか? というように眉をひそめている。
(いけない。姉さんを殺した奴を討つまでは、目立たないようにしないと)
翠鈴は平静を装って光柳から視線を逸らす。
どうにもこの人は苦手だ。他の宮女たちが、さらっと流してしまう部分を気にしている。繊細なのか、神経質なのか分からないが。
「花を集めるのは別の日にした方がいいだろう。桃莉さまの安全のためにも」
「へび、いなくなる?」
「はい。ですから、今日は我慢なさってください」
翠鈴の手を握ったままおずおずと問う桃莉に、光柳が優しい声で諭す。
ふと、ヒーヨヒーヨと鳴く鳥の声が聞こえて、翠鈴は庭の塀を見やった。
丈の高い茎を持つ草に、小さな赤い実がぎゅっと詰まってついている。その実をヒヨドリがついばんでいるのだ。
(蝮草だ。あれは下品なんだよね。毒があるけれど、薬にもなる。扱いには気をつけないと)
翠鈴は頭の中に入っている、薬種を集めた本草書に記載されている「天南星」という生薬を思い出した。薬としての蝮草の名だ。
光柳は翠鈴には行くなと命じたのに、自分は草を踏みわけて奥へ進んでいく。
「蛇よけの仕事は、君一人か?」
「いえ。もう一人いるはずなのですが、遅刻しているようです」
光柳に問われて、鎌を持った宦官は立ち上がった。まだ十代半ばだろう、少年に見える。
(なんだ。一人じゃなかったのか)
後宮の人員の配置は偏っている場合がある。暇そうにしている者もいれば、少人数で回していかなければならない部署もあり、今回は後者かと翠鈴は踏んでいた。
(光柳は書令史だったよね。なんで内侍みたいに目を配っているんだろう?)
宦官のことは正直よく知らないが、光柳の今の行動を見るとますます分からなくなる。
「さぁ、桃莉公主、戻りましょう。銀木犀はこの庭でなくとも咲いていますから」
翠鈴は、桃莉の背中を押した。
「うん」と答えながらも、桃莉は歩を進めない。
「どうかなさいましたか?」
「おかあさまに、いいにおいのおはな、たくさんあげたいの。おかあさま、こまってるから」
「お困りとは、何かありましたか?」
翠鈴は、桃莉の前に回りこんでしゃがんだ。目の高さを合わせるためだ。その方が、心に抱えこんだことを話してくれる可能性が高い。
「あのね、おてがみみてたよ。そのおてがみね、おかあさまは、くしゃってしたの」
淑妃ともあろう高貴な身分の女性が、書状なり手紙なりを握り潰したりするだろうか。
(侍女頭の梅娜さんなら、何か聞いてらっしゃるかもしれない)
だけど、宮女である自分が首を突っこんでも、蘭淑妃にとっては迷惑だろう。
桃莉を安心させたいと思いつつも、翠鈴は分をわきまえて控えるつもりだった。
蘭淑妃が受け取ったのが、脅迫状であると知るまでは。
◇ ◇ ◇
翌日の夕刻。未央宮の軒に吊るされた灯籠に、翠鈴は一つずつ明かりをともしていた。
秋の終わりの夜は早い。西の空はまだほのかに夕暮れの名残があるのに、未央宮はすでに影に沈んでいる。藍色の空にたなびく雲は、沈んでしまった太陽を恋しがるかのように、薔薇色に染まっていた。
翠鈴は火種のついた棒を上に伸ばした。灯籠の油に差した灯芯に、火種を近づけて点火する。ぽわっと灯がともると、回廊がほんのりと暖かな色に照らされた。
宵の群青に、並んだ灯籠の橙色の光。幽玄の世界へ誘われるかのようだ。
背の高い翠鈴には向いた仕事だが、背の低い由由は夜の点灯も朝の消灯も苦労している。
「由由は室内の方がいいんじゃない? 外はわたしがやっておくから」
「いつもありがとう。助かるわ」
未央宮では、室内の灯は天井から吊るされていないので仕事が楽だ。
皇后の住まいである寿華宮ともなると、高い天井から大きな宮灯が吊るされているそうだから、そこの司燈の仕事はかなりの重労働だろう。
とはいえ、回廊は吊り灯籠がたくさん並んでいて作業量が多いし、常に上を向いていないといけないから、これはこれで大変なのだが。
(まぁ、わたしの方が年上だし、背も高いしね。由由が首を痛めたら大変だもの)
ひととおりやり終えた翠鈴は、ふっと息をついて庭を見遣った。
菊や秋海棠の花の向こうは、草が刈り取られている。だが、刈り忘れだろうか、大きな葉の間から茎がすっと伸びていた。その先端についていた赤い実は、すべてなくなっている。鳥が食べ尽くしてしまったのかもしれない。
「じゃあ、中をやってくるね」
由由がそう言った時だった。蘭淑妃の部屋から悲鳴が聞こえたのは。
「早くお医者さまを呼んでちょうだい!」
「すぐに遣いを出します」
扉が勢いよく開いたと思うと、侍女が飛び出してきた。
「誰かが怪我をしたのかもしれないわ」
由由の心配そうな声を聞きながら、翠鈴は駆けていく侍女の背中を見送った。ここは辺鄙な田舎ではない。すぐに医官が来てくれるだろう。
翠鈴が仕事に戻ろうとした時、部屋から走り出てきた人が翠鈴の袖を掴んだ。
カタン、と明かりをともす棒が床に落ちる。慌てて翠鈴は足で火種を消した。
「お願いっ、助けて! 桃莉を助けて!」
足元までを隠す長裙につまずきながら、女性が翠鈴にすがりついた。蘭淑妃、その人だった。
「お願い……あなた、翠鈴でしょう?」
「え、あっ、はい」
どうして顔と名前を知っているのだろう。なんと反応していいのか分からずに、翠鈴は間の抜けた返事をしてしまった。
気づけば、しがみつく蘭淑妃の指は震えている。顔色も悪いし、淑妃の艶やかな黒髪を飾る歩瑶の簪が今にも外れそうなほど髪が乱れている。
由由はといえば、蘭淑妃が慌てて走ったことにも、同僚の翠鈴が高貴な主に名前を憶えられていることにも驚いているようだ。頭を下げるのも忘れて、翠鈴を見上げている。
(こんなにも蘭淑妃さまが狼狽えていらっしゃるなんて……桃莉さまにいったい何が?)
そう考えて、翠鈴は息を呑んだ。
まさか、考えたくはないが――
「公主さまが毒蛇に噛まれましたか?」
翠鈴の問いかけに、蘭淑妃の瞳孔が小さくなった。
もし蛇に噛まれたなら、すぐに傷口よりも心臓に近い部分を布で縛らないといけない。なによりも毒が全身に回るのを防ぐのが先決だ。
すべき処置を、翠鈴は瞬時に頭の中に思い浮かべる。
「分からないわ。桃莉は蛇が出るって、ずっと怖がっていて……それで、蛇が潜めないように草を刈って、蛇が嫌うものを置いてもらったのに」
塀の側の樟脳は、蘭淑妃が依頼したものだったのか。
翠鈴としては、厄介ごとはごめんだ。自分は、姉を死に追いやった男に仇討ちをしないといけないのだから、目立つことはしたくない。
(けれど、桃莉さまが危険な目に遭っているのに、放っておけるはずがない)
翠鈴は、まだ明かりのともっていない部屋を見据えた。
回廊にまで、部屋の中の饐えたにおいが届く。
(桃莉さまが、嘔吐なさったのか)
毒蛇に噛まれれば嘔吐することがある。次第に意識が朦朧とし、尿に血が混じって腎臓がやられてしまう。最悪の場合は死に至ることも。
一刻の猶予もない。急がねば。
「医者が来るまでの間だけ、公主さまの様子を見せてください」
「ありがとう。翠鈴」
蘭淑妃は涙目で礼を述べる。
これまで会話をしたこともない蘭淑妃が、なぜ司燈である宮女の名前を知っているのか疑問は残るが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
(きっと桃莉さまや他の侍女が、わたしのことをお話しになったんだわ)
人見知りの公主が、たった一人懐いた宮女――それが自分であるのなら。
必ずや桃莉を助けると心に誓い、翠鈴は蘭淑妃の部屋に入った。
「由由、部屋の明かりを点けて。それから、手元を照らす物を用意して」
「は、はい」
てきぱきと指示を出す翠鈴に、由由がかすれた声で返事をする。
蘭淑妃に仕える侍女たちは、ただ寄りそって怯えているばかりだ。
(侍女は、お嬢さまばかりだからしょうがないか)
翠鈴は天蓋のついた架子牀に近づく。寝台にかけられた薄い帳を開くと、夜具の上に桃莉が横たわっていた。
よほど苦しいのだろう、背中を丸くして膝を曲げている。
少しでも楽な姿勢になろうと、小さな体を右に左に動かしている。そのたびに敷布がこすれる音がした。
「いたい、いたいよぉ」
「桃莉さま。翠鈴です、お分かりになりますか?」
涙をぼろぼろと流しながら、桃莉は小さくうなずいた。明かりに照らされた桃莉の異様な顔に、翠鈴は息を呑んだ。
唇がひどく腫れてしまっているのだ。上唇も下唇も。
「失礼いたします」
「いやぁ! いたい、いたいの」
翆玲は、暴れる桃莉の衣の袖と裾をめくりあげる。腕と足を確認するためだ。
蛇に噛まれたのなら、牙の穴が二か所あるはずだ。だが、ない。腹部を見ても、首や髪の間を確認しても見当たらない。
(蛇ではないようだわ)
唇が腫れたということは、何かを食べてかぶれたか。
(かぶれる植物ならば、漆に櫨の木。今の時季ならば、銀杏樹の実ね)
けれど、と翠鈴はあごに指を当てて考える。
公主である桃莉が、漆や櫨の葉、ましてや小枝を口にするとは思えない。銀杏はあまりにも臭いので、黄色い実を手に取ることもないだろう。
「公主さまは、今日はおやつを召しあがりましたか?」
「山査子の飴がけです。桃莉さまが、たいそうお好きでいらっしゃるので」
翠鈴の問いに、侍女は狼狽えながら答える。
山査子の飴がけは氷糖葫蘆とも呼ばれる菓子だ。
山査子は消化不良を改善し、胃腸を強くする。女性特有の血の滞りにも薬効がある。ただし、実が熟したものだけだ。
「今日の山査子は、大きさが不揃いだったんです。とても小さいものもあって……それが何か関係あるのでしょうか」
「山査子の未熟な実は、微量ですが毒を含みます。果実は緑でしたか?」
翠鈴の言葉を聞いた侍女は、頭が飛ぶかと思うほど激しく首を横に振った。
「どれも赤でした」
「そうですか。では、山査子が原因ではないようですね」
そして以前、胡玲が医局で対応した相手に、顔に傷のある宦官がいたと言っていた。その宦官は、かつて外廷の官吏であったと自慢していたという。
豪友という名は知っているが、後宮で働く宦官の数はあまりにも多い。だから翠鈴は早々に、その男の名を出してどこにいるのかと人に尋ねることは難しいと判断した。
翠鈴が宦官を探していると噂が立つのは避けねばならない。捨てた女の妹が復讐に来たと相手に勘づかれては、元も子もないからだ。
胡玲と同じ医局に勤めるという手もあったが、官女の方が行動範囲が広く、仕事を理由に目立たずに動ける。さらに姉と同じ陸の姓を持つ娘が薬師であると、豪友に知られるわけにはいかない。
この後宮にいるはずなのに、姉を捨てた男はまだ見つからない。
「これは桃莉さま。お走りになっては、危ないですよ」
遠くから聞こえる、男性のものなのにどこか澄んでいる声。
翠鈴が声のする方を見れば、そこには二十代半ばの宦官が立っていた。桃莉の前で、胸の前で手を組み合わせて揖礼している。
確か彼の名前は松光柳。絹糸のような艶のある明るい色の髪を一つに結んでいる、美しい宦官だ。
官位の高い者がつける小さな冠と、それを留める簪ではなく、髪を結んだ部分に飾り紐をつけている。
もう一人、光柳の背後で揖礼しているのは同僚だろうか。細身の光柳と違い、淡い褐色の肌に逞しい体躯をしている。
「あ、いいなぁ。桃莉さま。光柳さまにお相手してもらってるわ」
「由由。いいもなにも、公主が宦官に声をかけられて何が羨ましいの?」
皿を運びながら、翠鈴は呆れた声を出した。
松光柳は、秘書省の書令史だ。皇帝の言葉や辞令を書きとめる仕事をしている。
書令史は流外三等であり、身分は決して高くない。だがさらりとした髪と琥珀の瞳を持つ光柳は、なぜか上品に見えた。女官や宮女の間でも、彼の人気は高い。
「ねぇ、由由。どうして皆は彼を『さま』付けで呼ぶの?」
「だって、光柳さまだもの」
答えになっていないと翠鈴は思ったが、由由の目はとろんと蕩けていて、これ以上聞いてもおそらく無駄だろう。
翠鈴は、光柳をじっと見据えた。
(確かに他の流外の宦官とは違って、気品はあるかな)
皇帝陛下の言葉を書きとめるという立場だから、見目好く麗しい宦官を選んでいるのかもしれない。
光柳の姿は、夜に咲いている白百合を連想させる。清々しい美しさなのに、太陽と青空の下よりも月の光を浴びてより香りたつ、気高く白い花だ。
「あの、ね。おにわのへび、もういない?」
桃莉は、小さな声で光柳に問いかけた。由由に対するほどの内気さではないが、特段親しいというわけではないようだ。
「蛇ですか? そのような話は聞いておりませんが」
「でも、いたの。あついときに。おっきなへびがたちあがって、しゃーってくちをひらいてた、から」
うつむいてしまった桃莉の声は聞き取りにくい。
光柳は回廊の床にしゃがんで、桃莉の口にそっと耳を近づけた。他の宦官なら「失礼ですが、なんと仰いましたか」と何度も聞き返すだろうに、光柳は子供相手でも丁寧に接している。
「公主さまは庭で遊びたいのですか?」
こくりと桃莉がうなずく。
「ぎんもくせいが、いいにおいだから、おはなをあつめたいの」
「桂花のことですね。あれは香りのよい、素晴らしい花です」
誰から銀木犀の話を聞いたのか、とは光柳は尋ねない。それを聞けば、問い詰めているように桃莉が感じると考えたからだろう。
(ふぅん。女性に人気があるだけかと思っていたけど、子供の扱いはうまいんだ)
翠鈴の視線に気づいたのか、桃莉に一礼をした光柳が近づいてくる。
「人を射殺しそうな目だ」
「は?」
翠鈴は呆然とした。
初対面の相手に対して何て言い草だろう。
「弓を引き絞り、力をためて矢を放つ――そんな鋭い光をしている。澱んでいない、冴え切った憎悪だ」
「光柳さま。率直に物を言いすぎです」
光柳の隣に立つ宦官が彼をたしなめたが、それも助け舟になっていない。
翠鈴はきっと睨んで言い返す。
「書令史っていうのは、無神経な人が務めるものなんですか?」
「ほら、怒らせてしまったじゃないか。謝れ、雲嵐」
光柳は、雲嵐と呼んだ宦官の頭を押さえつける。
冴えた雰囲気の光柳と違い、雲嵐はかなりの高身長だが、物静かでにこやかだ。光柳より少しだけ年上に見えるので、二十代後半だろうか。瞳の色は淡く、澄んでいる。そういえば、以前、侍女たちが光柳の側に杜という姓の逞しい宦官がいると話していたが、それが雲嵐だったのか。
(いや、怒らせたのはあなたの方だけど)
翠鈴は小さく息をついた。
「その……言っていいことと悪いことがあるな。すまない」
「いえ、事実ですから気にしていません。では、失礼いたします」
翠鈴は、胸の前で右手で左手を包みこみ礼をする拱手をしようかと思ったが、皿を持っているので手を合わせることができない。
まぁ、無礼な相手にそこまでしなくていいかと思い直し、そのまま翠鈴は厨房へ立ち去った。
2、蝮草
秋が深まると、夏よりも日の出がどんどん遅くなる。
そのぶん、灯籠の消灯の時刻が遅れるのは、ゆっくり動きたい翠鈴にとってはありがたい。
庭の奥では銀木犀の花が盛りだ。金木犀ほどの鮮やかさではないが、朝陽を受けて美しく輝いている。
「どうしたの、翠鈴。外に何かいる?」
門の灯を消した由由が、小走りに戻ってきた。
「ああ、銀木犀を見ていたのよ。桃莉さまと花を集める約束をしているから。それにしても、今朝は侍女たちが早起きね」
まだ朝も早いのに、回廊では侍女たちが立ち話をしている。浮足立った、そわそわした雰囲気が未央宮には満ちていた。
「そうなの。昨夜は陛下のお渡りがあったそうよ」
なぜか誇らしげに由由は胸を張って言う。
「陛下がお戻りになってから、淑妃さまが書き写してくださったの。陛下から麟美さまの詩を賜ったそうよ」
聞こえてきた声は、侍女頭の梅娜のものだ。同僚の侍女たちに紙を広げて見せている。
「淑妃さまは、本当にお優しくていらっしゃるわ」
「そうね。それに一度お会いしてみたいわ、麟美さまに」
(麟美? 聞いたことがない名だな。誰だろう)
翠鈴が思案していると、侍女の一人が、紙に書かれた文章を詠みあげる。
「颯々と秋雨が降る、我はあなたに手を伸ばす。指に触れるは銀のしずく。あなたはどこに。夢と知っていたならば、ずっと眠っていたものを」
(詩……? 情緒的だし、女性が詠んだものかな)
一行目、二行目、三行目の文末が「~ウ」の響きを持ち、韻を踏んでいるようだ。
昇りはじめた太陽が、未央宮の菊の花に宿る朝露をきらきらと輝かせる中、翠鈴は軒の灯を消す棒を引いた。
(まぁ、後宮勤めの間は簡単に外には出られないし、恋愛も難しいから、切ない恋の詩は人気がありそう)
そんなことを考えながら翠鈴は次の灯籠を消そうと進むが、由由は立ちどまったままだ。
「麟美さまの詩って、やっぱり素敵ねぇ」
うっとりとした目で、由由は侍女たちを眺めている。
「麟美って誰?」
「翠鈴、知らないの? 後宮にいらっしゃる女流詩人よ。恋の歌が得意なの」
由由は字は読めないが、恋の詩には興味があるようだ。
翠鈴は植物の名を書き写すことで文字を覚えたが、それは薬草の効能を覚えるためのものであって、詩には疎い。
(姉さんが詩が好きだったから、教えてもらったことはあるけれど)
「翠鈴、颯々ってどういう意味?」
「風が吹いて音を立てる様子を表しているのよ。字はこう」
翠鈴は空中でひとさし指を動かした。「えー、分かんないよ」と、由由は唇を尖らせる。
けれど、憧れの詩人の新作を偶然でも耳にした由由の顔は輝いたままだ。光きらめく朝露のように。
(桃莉さまとの約束の日まで、強い風が吹かずに銀木犀の花が残っていますように)
小さな公主の笑顔がまた見られることを願って、翠鈴は庭の奥に再び目を向けた。
◇ ◇ ◇
数日後。翠鈴と桃莉公主は、未央宮の庭に出ていた。
銀木犀の花を集めると約束した日だからだ。
秋の庭には、瓔珞草とも呼ばれる秋海棠が、淡い桃色の花を咲かせている。
(秋海棠かぁ。口に入れると毒だけど、すり潰したら皮膚病に効くんだよね。それと、人には言いづらい、恥ずかしい部分の強烈なかゆみにも。密かに悩んでいる女性は多いだろうから、うまく売ればいい商売になるんだけどなぁ)
後宮は人が多いから、山里の村にいるよりも儲かるはずだ。
(あんなにたくさん生えてるのに、眺めるだけなんてもったいない。ああ、売りたいなぁ。でも、司燈のわたしじゃ花は管轄外だし。庭を管理する司苑の宮女に頼んだら、刈った時に分けてもらえないかな)
瓔珞とは、宝石と金を編んだ飾りのこと。海棠は桜のように、贅沢に咲きほこる春の花。海棠に似た秋に咲く花なので、秋海棠という。
未央宮の庭は蘭淑妃のものなので、淑妃や公主である桃莉は花を自由に摘んでもよいが、手入れや管理は司苑の仕事だ。
(葉と茎をむしって水洗いした後、すり潰して患部に塗れば、大助かりになる人が男性も女性もたくさんいるはずなんだけど)
だめだ、きれいな花が銅銭に見えてしまう。
美しい名前とはかけ離れた薬効を持つ花から、翠鈴は目が離せない。
「なにみてるの? こっちだよ、ツイリン」
桃莉が翠鈴の手を引いて、庭を抜ける。風が吹くと黄色や白の塊が揺れて、菊の香りが届いた。草の青い匂いもする。
(いい天気だなぁ)
翠鈴はぼんやりと空を眺めた。
その時だった。急に背後から肩を掴まれたのは。
桃莉と手をつないでいたので、翠鈴だけでなく桃莉まで後ろに引っ張られる。
「庭の奥には行かない方がいい」
ぴしりと鋭い声が聞こえた。
翠鈴が振り返ると、そこにいたのは松光柳だった。隣には雲嵐が控えている。
「どうしてですか?」
問いかける翠鈴に、「見なさい」と光柳が庭を囲む塀を指さす。
見れば、ザッザッと音を立てながら、伸びた草を鎌で刈っている宦官がいる。
庭の花の手入れは司苑の宮女の担当だが、塀の辺りに茫々と生えた雑草を刈って運ぶのは重労働だ。ゆえに宦官に頼んだのだろう。
かなりの広さがあるが、彼一人で大丈夫なのだろうか。
「銀木犀の花を集めるだけですから、草刈りの邪魔はしませんよ。場所も離れていますし」
「いや、これから樟脳を置いていくのでな。あれは危険だ」
「蛇よけですか? 開けた場所なので吸い込むことはないでしょうが、樟脳を置いた場所に目印を立てておいた方が安全ですね」
光柳の説明に、翠鈴はすぐに答えた。
樟脳は強烈な刺激臭があるので、間違って口にすることはないだろうが、素手で触れれば肌がかぶれてしまう。
「詳しいな」
「いえ、常識ですから」
とっさにそう答えたが、つい声が上ずってしまった。
光柳は、常識なのか? というように眉をひそめている。
(いけない。姉さんを殺した奴を討つまでは、目立たないようにしないと)
翠鈴は平静を装って光柳から視線を逸らす。
どうにもこの人は苦手だ。他の宮女たちが、さらっと流してしまう部分を気にしている。繊細なのか、神経質なのか分からないが。
「花を集めるのは別の日にした方がいいだろう。桃莉さまの安全のためにも」
「へび、いなくなる?」
「はい。ですから、今日は我慢なさってください」
翠鈴の手を握ったままおずおずと問う桃莉に、光柳が優しい声で諭す。
ふと、ヒーヨヒーヨと鳴く鳥の声が聞こえて、翠鈴は庭の塀を見やった。
丈の高い茎を持つ草に、小さな赤い実がぎゅっと詰まってついている。その実をヒヨドリがついばんでいるのだ。
(蝮草だ。あれは下品なんだよね。毒があるけれど、薬にもなる。扱いには気をつけないと)
翠鈴は頭の中に入っている、薬種を集めた本草書に記載されている「天南星」という生薬を思い出した。薬としての蝮草の名だ。
光柳は翠鈴には行くなと命じたのに、自分は草を踏みわけて奥へ進んでいく。
「蛇よけの仕事は、君一人か?」
「いえ。もう一人いるはずなのですが、遅刻しているようです」
光柳に問われて、鎌を持った宦官は立ち上がった。まだ十代半ばだろう、少年に見える。
(なんだ。一人じゃなかったのか)
後宮の人員の配置は偏っている場合がある。暇そうにしている者もいれば、少人数で回していかなければならない部署もあり、今回は後者かと翠鈴は踏んでいた。
(光柳は書令史だったよね。なんで内侍みたいに目を配っているんだろう?)
宦官のことは正直よく知らないが、光柳の今の行動を見るとますます分からなくなる。
「さぁ、桃莉公主、戻りましょう。銀木犀はこの庭でなくとも咲いていますから」
翠鈴は、桃莉の背中を押した。
「うん」と答えながらも、桃莉は歩を進めない。
「どうかなさいましたか?」
「おかあさまに、いいにおいのおはな、たくさんあげたいの。おかあさま、こまってるから」
「お困りとは、何かありましたか?」
翠鈴は、桃莉の前に回りこんでしゃがんだ。目の高さを合わせるためだ。その方が、心に抱えこんだことを話してくれる可能性が高い。
「あのね、おてがみみてたよ。そのおてがみね、おかあさまは、くしゃってしたの」
淑妃ともあろう高貴な身分の女性が、書状なり手紙なりを握り潰したりするだろうか。
(侍女頭の梅娜さんなら、何か聞いてらっしゃるかもしれない)
だけど、宮女である自分が首を突っこんでも、蘭淑妃にとっては迷惑だろう。
桃莉を安心させたいと思いつつも、翠鈴は分をわきまえて控えるつもりだった。
蘭淑妃が受け取ったのが、脅迫状であると知るまでは。
◇ ◇ ◇
翌日の夕刻。未央宮の軒に吊るされた灯籠に、翠鈴は一つずつ明かりをともしていた。
秋の終わりの夜は早い。西の空はまだほのかに夕暮れの名残があるのに、未央宮はすでに影に沈んでいる。藍色の空にたなびく雲は、沈んでしまった太陽を恋しがるかのように、薔薇色に染まっていた。
翠鈴は火種のついた棒を上に伸ばした。灯籠の油に差した灯芯に、火種を近づけて点火する。ぽわっと灯がともると、回廊がほんのりと暖かな色に照らされた。
宵の群青に、並んだ灯籠の橙色の光。幽玄の世界へ誘われるかのようだ。
背の高い翠鈴には向いた仕事だが、背の低い由由は夜の点灯も朝の消灯も苦労している。
「由由は室内の方がいいんじゃない? 外はわたしがやっておくから」
「いつもありがとう。助かるわ」
未央宮では、室内の灯は天井から吊るされていないので仕事が楽だ。
皇后の住まいである寿華宮ともなると、高い天井から大きな宮灯が吊るされているそうだから、そこの司燈の仕事はかなりの重労働だろう。
とはいえ、回廊は吊り灯籠がたくさん並んでいて作業量が多いし、常に上を向いていないといけないから、これはこれで大変なのだが。
(まぁ、わたしの方が年上だし、背も高いしね。由由が首を痛めたら大変だもの)
ひととおりやり終えた翠鈴は、ふっと息をついて庭を見遣った。
菊や秋海棠の花の向こうは、草が刈り取られている。だが、刈り忘れだろうか、大きな葉の間から茎がすっと伸びていた。その先端についていた赤い実は、すべてなくなっている。鳥が食べ尽くしてしまったのかもしれない。
「じゃあ、中をやってくるね」
由由がそう言った時だった。蘭淑妃の部屋から悲鳴が聞こえたのは。
「早くお医者さまを呼んでちょうだい!」
「すぐに遣いを出します」
扉が勢いよく開いたと思うと、侍女が飛び出してきた。
「誰かが怪我をしたのかもしれないわ」
由由の心配そうな声を聞きながら、翠鈴は駆けていく侍女の背中を見送った。ここは辺鄙な田舎ではない。すぐに医官が来てくれるだろう。
翠鈴が仕事に戻ろうとした時、部屋から走り出てきた人が翠鈴の袖を掴んだ。
カタン、と明かりをともす棒が床に落ちる。慌てて翠鈴は足で火種を消した。
「お願いっ、助けて! 桃莉を助けて!」
足元までを隠す長裙につまずきながら、女性が翠鈴にすがりついた。蘭淑妃、その人だった。
「お願い……あなた、翠鈴でしょう?」
「え、あっ、はい」
どうして顔と名前を知っているのだろう。なんと反応していいのか分からずに、翠鈴は間の抜けた返事をしてしまった。
気づけば、しがみつく蘭淑妃の指は震えている。顔色も悪いし、淑妃の艶やかな黒髪を飾る歩瑶の簪が今にも外れそうなほど髪が乱れている。
由由はといえば、蘭淑妃が慌てて走ったことにも、同僚の翠鈴が高貴な主に名前を憶えられていることにも驚いているようだ。頭を下げるのも忘れて、翠鈴を見上げている。
(こんなにも蘭淑妃さまが狼狽えていらっしゃるなんて……桃莉さまにいったい何が?)
そう考えて、翠鈴は息を呑んだ。
まさか、考えたくはないが――
「公主さまが毒蛇に噛まれましたか?」
翠鈴の問いかけに、蘭淑妃の瞳孔が小さくなった。
もし蛇に噛まれたなら、すぐに傷口よりも心臓に近い部分を布で縛らないといけない。なによりも毒が全身に回るのを防ぐのが先決だ。
すべき処置を、翠鈴は瞬時に頭の中に思い浮かべる。
「分からないわ。桃莉は蛇が出るって、ずっと怖がっていて……それで、蛇が潜めないように草を刈って、蛇が嫌うものを置いてもらったのに」
塀の側の樟脳は、蘭淑妃が依頼したものだったのか。
翠鈴としては、厄介ごとはごめんだ。自分は、姉を死に追いやった男に仇討ちをしないといけないのだから、目立つことはしたくない。
(けれど、桃莉さまが危険な目に遭っているのに、放っておけるはずがない)
翠鈴は、まだ明かりのともっていない部屋を見据えた。
回廊にまで、部屋の中の饐えたにおいが届く。
(桃莉さまが、嘔吐なさったのか)
毒蛇に噛まれれば嘔吐することがある。次第に意識が朦朧とし、尿に血が混じって腎臓がやられてしまう。最悪の場合は死に至ることも。
一刻の猶予もない。急がねば。
「医者が来るまでの間だけ、公主さまの様子を見せてください」
「ありがとう。翠鈴」
蘭淑妃は涙目で礼を述べる。
これまで会話をしたこともない蘭淑妃が、なぜ司燈である宮女の名前を知っているのか疑問は残るが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
(きっと桃莉さまや他の侍女が、わたしのことをお話しになったんだわ)
人見知りの公主が、たった一人懐いた宮女――それが自分であるのなら。
必ずや桃莉を助けると心に誓い、翠鈴は蘭淑妃の部屋に入った。
「由由、部屋の明かりを点けて。それから、手元を照らす物を用意して」
「は、はい」
てきぱきと指示を出す翠鈴に、由由がかすれた声で返事をする。
蘭淑妃に仕える侍女たちは、ただ寄りそって怯えているばかりだ。
(侍女は、お嬢さまばかりだからしょうがないか)
翠鈴は天蓋のついた架子牀に近づく。寝台にかけられた薄い帳を開くと、夜具の上に桃莉が横たわっていた。
よほど苦しいのだろう、背中を丸くして膝を曲げている。
少しでも楽な姿勢になろうと、小さな体を右に左に動かしている。そのたびに敷布がこすれる音がした。
「いたい、いたいよぉ」
「桃莉さま。翠鈴です、お分かりになりますか?」
涙をぼろぼろと流しながら、桃莉は小さくうなずいた。明かりに照らされた桃莉の異様な顔に、翠鈴は息を呑んだ。
唇がひどく腫れてしまっているのだ。上唇も下唇も。
「失礼いたします」
「いやぁ! いたい、いたいの」
翆玲は、暴れる桃莉の衣の袖と裾をめくりあげる。腕と足を確認するためだ。
蛇に噛まれたのなら、牙の穴が二か所あるはずだ。だが、ない。腹部を見ても、首や髪の間を確認しても見当たらない。
(蛇ではないようだわ)
唇が腫れたということは、何かを食べてかぶれたか。
(かぶれる植物ならば、漆に櫨の木。今の時季ならば、銀杏樹の実ね)
けれど、と翠鈴はあごに指を当てて考える。
公主である桃莉が、漆や櫨の葉、ましてや小枝を口にするとは思えない。銀杏はあまりにも臭いので、黄色い実を手に取ることもないだろう。
「公主さまは、今日はおやつを召しあがりましたか?」
「山査子の飴がけです。桃莉さまが、たいそうお好きでいらっしゃるので」
翠鈴の問いに、侍女は狼狽えながら答える。
山査子の飴がけは氷糖葫蘆とも呼ばれる菓子だ。
山査子は消化不良を改善し、胃腸を強くする。女性特有の血の滞りにも薬効がある。ただし、実が熟したものだけだ。
「今日の山査子は、大きさが不揃いだったんです。とても小さいものもあって……それが何か関係あるのでしょうか」
「山査子の未熟な実は、微量ですが毒を含みます。果実は緑でしたか?」
翠鈴の言葉を聞いた侍女は、頭が飛ぶかと思うほど激しく首を横に振った。
「どれも赤でした」
「そうですか。では、山査子が原因ではないようですね」
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