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18、逃亡するサフィア*

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 サフィアもだが……冬の乙女は何処に行った?
 あれが、本当に国を捨てたというのか。

 ブルーノはこの期に及んで、ようやく気づいた。あまりにも遅きに失した気づきであった。それほどに冬の乙女の存在は、当たり前すぎたのだ。

 この熱砂のイルデラ王国に氷河があるのは、乙女の力による。その彼女が消えれば……。

 知識としては知っていた。なのに、気にかけてもいなかった。
 誰が呼吸をする時に、空気があることに感謝する? 山いるのが当然なのだ、あの娘は。
 気にかけることもない程に、印象が薄いのだ。

「陛下は自らの死を以て、殿下に訴えたのです。ですが、陛下もまだ冬の乙女を軽んじておられる。彼女がこの国に戻る理由などありはしないのに、その帰還を当然と思っていらっしゃった」

 宰相の声は重々しい。
 早々に逃亡することなく、なおも苦言を呈する彼こそが忠臣であろう。尤も仕える相手が酷すぎたのだが。

「では、どうすればいいんだ。この私が謝罪すれば、冬の乙女は戻ってくるのか。それとも神殿を大きくすればいいのか」
「……何もいらないと思いますし。彼女は欲しがらないと思います」

 宰相のかすれた声は、怒声にかき消された。
 階下から悲鳴が聞こえる。そしてやかましい程の足音も。
 うねるように重なる声は「王太子を殺せ」と言っていた。

 ブルーノはクローゼットの扉を開いた。大量に掛けられた母のドレス。それを掻き分けて、クローゼットの奥へと身を隠す。
 反射的にとった行動だった。

「嫌だ、私は殺されたりなどしない。あんな汚らしい奴らに、この私に触れる資格などない」

 なんと惨めな。あなたは触れられるどころか、命を奪われるんですよ。そしてこの私も。
 ああ、もう終わりだ。

 卑怯にも隠れるブルーノの背を見て、宰相は天井を仰いだ。いっそ自分もここで首を吊れば、楽に死ねるのだろうか。縊死が楽かどうか、経験がないので分からないが。

 けたたましい足音と共に、民衆が部屋になだれ込んできた。口々に「王太子はどこだ」と叫ぶ彼らに対し、宰相はクローゼットを指さした。

 我儘で愚かで、こんな脆弱な青年が次代の王になれるのかと案じていた。その為に、殿下が嫌がる事ばかりを進言し、疎んじられてきたが。
 もう、充分にお仕えした。

 せめて誇り高い死を選んでいただきたい。民はあなたを、そう簡単には死なせてはくれないでしょうが。

◇◇◇

 サフィアは走っていた。踵が高い靴は、何の役にも立たない。それを脱ぎ捨て、路地を駆け抜ける。
 
 王太子妃になりたいなどと思うのではなかった。庶民ではないが、貴族としては身分が高くはない出自のサフィアは、ただ栄達を願っていた。

 生まれた子の背に、薔薇という艶やかな花の痣があれば、その一族は栄える。
 サフィアの両親は、娘の背に痣がないことを何度か嘆いていた。

 だからだろうか。王太子妃に拘ってしまったのは。

「私は関係ないわ。だって、乙女に酷いことをしたのは殿下よ」

 息を切らせながら、サフィアは呟いた。
 そう、私は彼女を追い詰めろなんて、殿下に一言も申し上げていない。ただ、階段で背中を押されたと言っただけだ。

 以前よりも運河の水が減っているせいだろうか。街全体が砂にまみれている。青々と茂っているはずのナツメヤシの木は、どれも伐られ倒れていた。

 そしてサフィアは迫ってくる足音を聞いた。
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