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1巻
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プロローグ
――大好きで大好きだった……いっくん。
幼い頃から「好き」を伝え続けていたが、いつだって軽口みたいに受け止められて、思いが伝わることはなかった。それでも諦められず本気だった凪沙は好きを言い続けた。
『高校卒業するまで、俺のことを好きだったら考えてやるよ』
凪沙が中学生の頃、一哉が初めてそんな言葉をくれた。その言葉を信じて、凪沙は一哉だけを思い学生時代を過ごした。そして、高校三年の卒業式。赤い花を胸につけ卒業証書を持って、凪沙は一哉の家まで走って行った。息切れして駆けつけた凪沙に一哉はただ驚いて、驚きながらも『おめでとう……』と気休めのような言葉をくれた。
『ありがとう。ちゃんと卒業したよ。もう私、高校生じゃない。子どもじゃないよ』
一哉との歳の差は埋まらない。一哉はどんどん凪沙より大人びていく。けれど、凪沙も必死で追いかけているのだ。
『……凪沙、待って』
『約束してくれたよね?』
スカーフを外す凪沙が一哉を見つめる。凪沙の視線を受け止めているものの、一哉の瞳が困惑しているのは凪沙にも分かった。自分の行動のその先を想像しているのか、一哉は固まったままだ。
『約束』
『待て。どんな約束だよ。そんな約束はしてないぞ』
『いっくん、好き』
セーラー服を脱ぎ捨てて下着姿になった凪沙を、一哉は戸惑いながら見つめている。
『お願い、いっくん』
『だから待て。ちょっと……待って』
『私はずっと待ってる。あとどれだけ待てばいいの? いっくんのことが好きでずっと好きで、でも子どもだからって理由で待たされた。高校卒業したら考えてくれるって言った!』
『言ったけど!』
一哉の声が戸惑っている。それに気づかないほど凪沙も馬鹿ではない、でももうどうしようもないのだ。
どうしようもないほど……
――好きだから。止まらないから……もう止めないで。
『いっくん、お願い……』
ブラジャーのホックを取りショーツ一枚になった凪沙は、自分の腕を一哉の首裏に伸ばした。ふざけても手をつなぐことくらいしかできなかった。それでも、いつも心臓が飛び出そうなほど緊張してドキドキしていた。それほど一哉に触れることに胸をときめかせてきたのだ。今日この瞬間など、それらとは比べものにならないほど緊張している。
凪沙の身体が小さく震える。凪沙自身ですら分かるのだから、きっと一哉だって気づいているだろう。
――だからお願い、この手を離さないで。
『好き……いっくん。ずっと、ずっと好き』
精一杯の思いを込めつつ一哉にその言葉を告げて、震えるくちびるを一哉のくちびるに重ねた。拒まれる覚悟もあった、腕を引きはがされて怒られることだって想像していた、それなのに――
一哉は重ねたくちびるをさらに深く口づけて、長い腕を凪沙の身体に回して抱きしめ返した。一哉の指先が、掌が、凪沙の肌に触れて熱が伝わる。包むように背中を撫でられながら、ギュッと抱きしめられる。息ができないほどの深いキスを繰り返しながら、凪沙は一哉に抱かれた。
それは、高校卒業式の春だった。
第一章 再会の春
春は出会いと別れの季節と言うが、社会人として三年ほど働く凪沙もそれを実感している。春は出会いが多く、人間関係が広がる季節だ。
長く勤めていた人間が去ったり、新人が入ったりするなどなにかと周りが落ち着かない。
そして凪沙の周りも落ち着かなかった。
「もう受け止めてあげなよ。去年の春でしょ?」
「うーん」
「忘れたい恋には新しい恋だよ? それで愛されるのが一番幸せだよ?」
ズズッとカフェラテを吸い込みながら諭すように言うのは、凪沙の高校時代からの友人、琴美である。琴美は凪沙のあらゆる恋愛遍歴を知っている。遍歴と言っても相手はたったひとりだが。
「長年思い続けた凪沙の気持ちはもう十分すぎるほど知ってるけど、そろそろ区切りをつける時じゃない? 佐久間さんはさ、凪沙のその気持ちをずっと知りながら一年待ってくれてるんでしょ?」
「うん」
「待つって結構辛いじゃん。それは凪沙が誰よりも知ってるよね?」
「……うん」
琴美にそう言われて、頷くしかできない凪沙である。
「恋愛ってさ、思い思われがベストだって言うけど、私は愛されてなんぼだと思うのよ。愛してもらったらさ、自分をもっと大事にできる気がする」
琴美は数年付き合っていた男と半年前に別れて、今は飲み会で出会った気さくな男と友達関係から恋人へと発展させた。元カレは顔がドストライクで、あっちの相性も抜群に良かったと言う。欠点は金にルーズで都合よく琴美にせびるところか。ただ、見栄えのいい彼氏は一緒にいて優越感があるらしい。琴美は一緒にいることでステイタスを得る幸せを知ってしまい、彼氏の都合のいい甘えにズルズルと金を渡してしまっていたと言う。琴美自身も、金ヅルになっていることに気づいて……気づかない振りをして、目の前のイケメンに酔い身体を重ね快感に負け続けていた。
そんな時に飲み会で出会った今の恋人にこう言われたそうだ。
「そいつ、琴美ちゃんのことを都合よくそばに置くだけで全然大事にしてないじゃん。俺だったら琴美ちゃんのこともっと大事にするのに」
琴美はそんな言葉を投げてくれた相手の顔を初めて真っ直ぐ見つめて、ハッとしたという。
心の奥では弱っていて、抱きしめられているがどこか気休めのような抱擁に、日々切なさを増すだけだった。
そんな時に「大事にする」と言われて、琴美は落ちたのだ。
「元カレのことは好きだったよ。タイプだったし、この人しかいない! みたいな洗脳もあった。逃がしたらもう他にいないかも、そんな焦りもあったかもしれない。でも、そんなことなかった」
そう言った琴美は今とても幸せそうだと凪沙は思う。
「一緒にいてもモヤモヤするばかりだったところに、大事にされてないって言われて気づいた。私は大事にされたかったんだって。自分が大事にされたら、自然と相手のことも大事にできる。一緒にいる時間を大事にしようって思える。そうしたらさ、もう好きになってるんだよ。私は今の彼氏が好き。結果、思い思われ、最高じゃない?」
「良かったね、琴美」
「だから凪沙もそうなるよ」
そこで自分に振られて、凪沙はグッと喉を詰まらせる。
「佐久間さん一途だし、一年もずっと好きって言って待ってくれてる。凪沙の気持ちが落ち着いて、また誰かと恋したいなってなるまで待つって、そう言ってくれたんでしょ?」
「うん……」
佐久間衛は言ってくれた。
『恋したいって思えた時に……俺と始めてくれないかな』
凪沙は市内の総合病院の受付窓口で働く事務員だ。
病院通いが日常だった祖母の影響で、幼少期から病院へ足を運ぶのには慣れていた。祖母っ子である凪沙は年々衰えていく祖母の姿を心配して、今でも定期的に受診に付き合っていた。
「凪沙が病院に勤めていたら、来るのも楽しくなるのにね」
そんな言葉を素直に受け止めた凪沙は、将来を考えた時に病院勤めが自然とゴールになった。医師や看護師を目指すほどの熱量は残念ながら持ち合わせておらず、なにより血が苦手な凪沙は医療現場で働くことに根本的に無理であると感じていた。それ以外で医療に携わる仕事をいろいろと探し、目をつけたのが受付の事務職だった。
凪沙の勤める総合病院は人材派遣サービスと提携しているため、直接雇用はされず契約社員として勤務し、三年ごとに更新しながら勤務地を変わっていく。職種として年数はちょうど三年目。もうすぐこの病院を去る時期になるが、今年も更新はされそうである。だが昨今の厳しい世の中、契約社員でいる以上絶対はないし運が悪ければ切られてしまう。その不安を覆してくれる社員登用制度はあるものの、形ばかりでなかなか現実化はしてくれない。個人病院に転職する者や、見切りをつけて辞めていく仲間はたくさんいた。凪沙も自分の今後について、真面目に考えなければいけないと思い始めている。
その勤め先の病院がここ最近ざわついているのは、流行りのITを活用した新しい事業を始めようとしているからだった。院長が若い世代に代わり、病院を活性化させたいと目をつけたらしい。
ITを活用したオンライン診察や処方の電子化を推進し、病院や薬局に通わなくても一次診療が受けられるシステムの構築を目指すという。そのため、医療系ベンチャーと交渉し、システム導入を始めるらしい。凪沙の所属する事務関係にその手の話はまだ下りてきてはいないが、そのベンチャーの社員が病院内に出入りするとフワッと耳にしたくらいで、それ以上は凪沙の耳からはすり抜けていた。
そんなことよりも、このところ毎日のように考えているのは衛への返事のことだ。
【今晩、仕事の帰りにメシ行かない?】
チャットアプリに届いていたメッセージを昼休憩に見て、会う了承のスタンプを送った。
衛は定期的に凪沙を食事に誘ってくれる。それこそ月に二回ほど。「会いたい」とマメに連絡をくれて、凪沙と会う時間を大事に思ってくれていた。
その誠実な気持ちに本気で向き合いたい。凪沙は衛の真摯な気持ちをこれ以上踏みつぶしたくないと思っていた。
――琴美じゃないけど、もう一年だもんな。
一年。
衛は凪沙を好いて、凪沙の気持ちが自分に向き合うのを待ってくれていた。
◇ ◇ ◇
衛と出会ったのは去年の春、琴美含む高校の同級生から誘われた飲み会だった。別の友人の声掛けで誘われて全く乗り気ではなかった凪沙だったが、琴美の強引な誘いに負けて足を運んだ。歳は二、三歳上の商社勤めや大手企業勤務のいわばハイスぺメンズ。気さくなメンバーばかりで空気も読め、嫌な思いをすることのない、終始気分が良くなるだけのアタリ飲み会だった。その中でも衛はとても気遣いのできる言わばムード役で、誰となく声を掛け、飲み物を頼んだり話題を振ったりする、面倒見も良い好感度が高すぎた男だった。
「衛はモテるくせに片思いばっかりなんだよ」
友達のひとりが酒のつまみのようなノリで衛を弄った話題がそれだった。
「うるせぇな」
「いや、ほんとそう! 高校の時もサッカー部のエースでめちゃくちゃモテたんだけど、マネージャーのことがずっと好きで。告ったらインターハイ決まるまでは恋愛できないって振られて。でもしつこく好きで引退する時に改めて告ったら、結局その子卒業した先輩と付き合ってたんだよな?」
「その話ここでしないとダメ!?」
そんな黒歴史を笑いながら話されても嫌な顔ひとつせず、なんなら自虐ネタにして場を和ませていた。他の男性メンバーにも衛を悪く言う人はいない。その姿を見て凪沙も同じように「いい人だなぁ」と横目に見つめていたりした。
飲み会の終わりに流れでカラオケに行こうかとなったが、凪沙はそこまで残るつもりもなく琴美に帰る合図をして席を立った。店を出る直前で声を掛けられ、振り向くと衛が追いかけてくるのが見えた。少し慌てたようなその姿に凪沙は首を傾げる。預けてきたお金が足りなかっただろうか、そんなことがよぎって凪沙は鞄から財布を出して問いかけた。
「足りなかったです?」
「え! 違う!」
全力で否定されてまた首を傾げる凪沙に、衛が笑って言う。
「そうじゃなくって。凪沙ちゃんってちょっと天然?」
今まで誰かに天然だと揶揄されたことはない。凪沙が首を左右に振ると、衛は変わらず笑顔でこぼした。
「そっか。じゃあ俺が分かってないだけか」
「え?」
「やっぱりもう少し話したいな」
くしゃりと笑う顔が可愛かった。凪沙はその笑顔を見てふとそう感じて、胸が若干ドキリと高鳴った。たいして男性免疫はなく付き合い経験もゼロの凪沙だが、その時に感じてしまったのだ。衛と何か始まるかも、と。
「もう帰っちゃうの?」
「飲み会って慣れてなくて。ごめんなさい」
「謝ることないよ、無理する必要ないし。じゃあ送っていい?」
「え?」
「ひとりで帰すの心配だから」
ここは駅に近く、人通りも多い飲み屋街。暗がりでもなければ夜もそこまで更けていない。「大丈夫」凪沙がそう断ろうとしたのを察した衛は、またくしゃっとした笑顔を投げて今度は少し照れたように言った。
「俺が凪沙ちゃんともう少し一緒にいたいだけ。送らせて?」
送ってもらう道中は飲み会の延長みたいな気さくな会話が続き、別れ際に連絡先を知りたいと言われ、凪沙は断る理由もなく頷いた。
「またご飯とか誘っていい?」
「え?」
――それって。
凪沙のそんな気持ちの先を表情で読み取った衛は、照れたように頷いた。
「ふたりで」
「あ、えっと」
返事に戸惑う凪沙に、衛は半ば強引に言ってきた。
「また会いたい」
「……」
「凪沙ちゃんとふたりで会いたい」
真っ直ぐ、直球で気持ちをぶつけられたのは初めてだった。異性に慣れていない凪沙はこれだけで単純に胸がときめきかけた。
「は、はい……」
迷う前に思わずこぼれた返事。そんな風にこぼしてしまったことに、凪沙自身が一番驚いている。
「ほんと? じゃあまた連絡する」
「……」
「今日はありがとう」
たいした愛想もない自分に衛は笑顔でそう言ってくれて、タクシー代まで渡されてしまった。
「あ、あの電車で帰れるし」
「酒飲んでるしタクシーの方がいいよ。俺も安心だし」
「でも」
「じゃあ今度それでメシ奢って」
それも結局衛の金ではないか。凪沙はぽかんと呆れて思わず噴き出した。
「佐久間さんばっかりがお金出してる」
ふふっと笑みをこぼした凪沙を衛は見つめていた。そしてやっぱり照れたような、はにかんだ表情を浮かべて凪沙を見つめ言った。
「なら、名前で呼んでほしいな」
――え。
「凪沙ちゃん」
名前を呼ばれたのは別に初めてではない。飲み会の席での男性は、みな女の子を名前で呼んでいた。衛だってずっと凪沙を名前で呼んでいたのに。
「……凪沙、ちゃん」
「……ま、衛、くん」
ぎこちなくもそう呟いた凪沙に、衛はプッと噴き出して口元を手で覆いながら顔を隠した。なんだか中学生みたいなやり取りは無駄に照れた。それはきっと衛もそうだったのだろう。変な空気の中、ふたりで見つめ合って一緒に笑った。
「じゃあまた連絡する」
「……うん」
「本気で」
――本気?
凪沙がまた首を傾げると、衛は嬉しそうな笑顔を浮かべて「おやすみ」と告げると来たタクシーに凪沙を押し込んで手を振っていた。タクシーに乗せられた凪沙はなんだか胸が高揚していた。誰かにドキドキするのは久しぶりで、自分が誰かに胸を高鳴らせるなど信じられなかったのもある。
こうやって人は人を忘れてまた新たな思いを育んでいくのだろうか。夜の街並みを走るタクシーの中でキラキラと輝く街灯を見送りながら、凪沙はそんなことを思っていた。
それをキッカケに始まった衛との関係は、いたって健全なお食事会。いつも金曜の仕事帰りに誘われるものの、基本は凪沙の都合を尊重してくれる。凪沙のリクエストを聞いたら、後は衛にほぼお任せ状態である。そしていつも素敵な店に連れて行ってくれた。
凪沙もだんだん衛との食事の時間は楽しみになり、快く返事を返すようになっていた。休みの日には映画に行ったり流行りのものを食べに出かけたりと、会う回数も増えだした。
出会って数カ月。会わない日はマメに連絡もくれるので、体感的にはほぼ毎日衛と過ごしているような気持ちだった。そんな時に告白された。
「好きだ。付き合ってくれないかな」
真っ直ぐな告白。それは何も予測できないことではなかった。むしろ琴美には「まだ付き合ってなかったの!?」と、驚かれたくらいである。
「あの……」
言葉に詰まる凪沙だったが、衛の気持ちは嬉しかった。尽くされているという実感、衛は凪沙のために動くことばかり。それも見返りもなくである。
「初めて出会った時に一目惚れ」
「え」
「そんな驚く?」
驚いた。自分が一目惚れをされるような女だとは全く思っていなかったから。
「どうして? 凪沙ちゃん可愛いし、俺はすごいその……タイプ」
照れながらもストレートに言われて、凪沙にもそれは伝染してしまう。
「話してやっぱり好きだなって。おっとりしてて……」
「おっとり?」
そんな衛の言葉に思わず反応してしまった。そして凪沙は噴き出してしまう。
「私そんなにおっとりじゃないよ?」
「そうなの?」
そうか、衛はまだ自分を大して知らない。自分こそ衛にそこまで素を見せられていないのだと、凪沙はどこかホッとした。そしてその気持ちに気づくと自然と言葉になってしまった。
「衛くん、私のことまだなんにも知らないと思う」
「そう、かな」
本当の自分はもっと無鉄砲で、自分の気持ちを押しつけるような周りが見えない性格だ。だから好きだった人にも振られている。
「本当の私なんか知ったら、好きじゃなくなると思う」
寂しげな声でこぼす凪沙に、衛は首を傾げた。
「どうして?」
「相手の気持ちお構いなしで、自分の気持ちばっかりで……振られたりするような女なの」
思いを告げてくれた衛に、今こそ自分が真摯に向き合うべきだと凪沙は思った。
「大好きだった人がいたの。その人のこと、いまだに忘れられずにいる。だから……真面目に想いを伝えてくれる衛くんに、嘘つきたくない。すごく嬉しいけど、その気持ちに今は応えられない」
大好きだった、そう言ったが過去ではない。凪沙の心にはまだその相手が生きている。
衛が凪沙に好意を持って近づいてきたのは、さすがの凪沙でも気づいている。それでも衛は会うたびに最低の距離を空け、無理に関係を詰めるようなことはしなかった。だからこそ凪沙も衛と会うのが嫌ではなかったし、むしろ好意的に会っていた。それこそ、恋が始まるのかもしれないと少しの期待も滲ませていた。
でも気づかされた。衛の前ではいつだって仮面をかぶるような気遣いをし続けていたと。素になれない。それに気づいた時に、きっとうまくいかないだろうと凪沙は思ったのだ。
「衛くんはいつでも優しいから甘えてばっかりだった。優しくされて嬉しかった。衛くんの気持ちを知っててそれに甘えて……そんなのダメだなって。もうやめなきゃって」
「なんで?」
「だってっ!」
初めて凪沙が衛の前で声を荒らげた。そんな凪沙に衛も驚いた様子だったが、優しい声で問うてくる。
「なんでだめ? 甘えてくれていい、甘やかすつもりで凪沙ちゃんと時間を過ごしてる」
「そんなの……」
「だめかな? 迷惑ってこと?」
「違う! 私がっ……私に忘れられない人がいるからっ!」
だからこれ以上一緒にいても衛を傷つけるだけだ。凪沙がハッキリ断る覚悟ができたのは、自分が間違えていた、甘かったと分かったからだ。やっぱり自分は――
簡単に恋なんか始められない。そう思っていると衛が言った。
「待ちたい」
衛の声はいつも以上に優しい。
「その人は忘れたくない人なの?」
「……」
そう問われて凪沙は一瞬迷ったが、首を左右に小さく振った。
「忘れなきゃって……思ってる」
なんなら忘れたい。もう想っていても意味などないのだから。
あの日、体当たりのように気持ちと身体をぶつけた。受け止められた、そう思っていたのは自分だけで、そうではなかった。それを思い出すと、視界が歪みだし波打って前が滲み始める。きっと瞬きをすればこぼれ落ちてしまう、それが分かるほど瞳の中に浮かぶものがある。
「今は……って言ったよね。それなら忘れられるまで待つ。凪沙ちゃんのそばで」
ポロリ――こぼれ落ちた。そんな涙も泣き顔も衛に見せたくなかった凪沙は、掌で乱暴に顔を拭った。思わずこぼれた涙、それに衛は何も言わない。ただ俯いたままの凪沙が顔をあげるのを待っている。静寂の中、やっと凪沙が濡れた瞳で見上げるとそれを受け止めるように見つめて伝えてくれた。
「忘れられるってなって、忘れられる日が来て。そのあとに恋したいって思えた時に……俺と始めてくれないかな」
◇ ◇ ◇
もうすぐ定時だ。
残業もなく終われそうだと思いながら、月曜の予約患者のカルテを準備しつつ残された仕事を行っていると、なにやら受付内やロビーがざわつき出す。そちらのことが気にはなったが、凪沙は目の前のやるべき仕事に目を向けた。月曜日は休み明けで患者数は多く、予約なしの外来患者もたくさん来るので、準備しておかなければいけないことが多い。なにより、衛と約束しているため定時で上がりたいのだ。
「浅川さん!」
「はい?」
「ちょ、ちょ! 来て! 早く!」
同僚がなにやら高揚気味に声を掛けてきて、カルテを持つ腕ごと引っ張られた。凪沙は何事だと思うものの、強引な対応に拒否する間もなくされるがままである。
「なに?」
凪沙も無駄にざわつくロビーに視線を彷徨わせて、事態を把握した。
院長、事務局長、あと数名、病院の関係者が並んでの大名行列。某ドラマのような光景だが、それは何も珍しいことではない。稀に見ることではあったが、いつもとは違って違和感を覚えるのは白衣の群れの中に見慣れないスーツ姿の男性がふたりいるからか。
「あの人たちかな!? 例のベンチャーの!」
例のベンチャー? その言葉をフワッと頭に入れて、凪沙は乏しい記憶を辿ってみる。
「新事業の?」
「そう! え、やば! かっこよくない!?」
日本初の新医療機器の承認を受け、アプリをはじめとしたモバイルヘルスに特化した人工知能を開発し、世間に名を馳せたベンチャー企業【L&M】は、先日世界からも注目されているとニュースになっていた。それにより企業の名だけではなく注目を集めたのは、露出を控えていたCEOが顔を出したからだった。あまりネットニュースやテレビを見ない凪沙はその手の話題に疎く、まして経済関係はスルーしがちだ。さすがに自分の勤め先の話題ならば多少は知っておかないと恥をかくかもしれない、と呑気に思っていると同僚が発した言葉に凪沙は耳を疑った。
――大好きで大好きだった……いっくん。
幼い頃から「好き」を伝え続けていたが、いつだって軽口みたいに受け止められて、思いが伝わることはなかった。それでも諦められず本気だった凪沙は好きを言い続けた。
『高校卒業するまで、俺のことを好きだったら考えてやるよ』
凪沙が中学生の頃、一哉が初めてそんな言葉をくれた。その言葉を信じて、凪沙は一哉だけを思い学生時代を過ごした。そして、高校三年の卒業式。赤い花を胸につけ卒業証書を持って、凪沙は一哉の家まで走って行った。息切れして駆けつけた凪沙に一哉はただ驚いて、驚きながらも『おめでとう……』と気休めのような言葉をくれた。
『ありがとう。ちゃんと卒業したよ。もう私、高校生じゃない。子どもじゃないよ』
一哉との歳の差は埋まらない。一哉はどんどん凪沙より大人びていく。けれど、凪沙も必死で追いかけているのだ。
『……凪沙、待って』
『約束してくれたよね?』
スカーフを外す凪沙が一哉を見つめる。凪沙の視線を受け止めているものの、一哉の瞳が困惑しているのは凪沙にも分かった。自分の行動のその先を想像しているのか、一哉は固まったままだ。
『約束』
『待て。どんな約束だよ。そんな約束はしてないぞ』
『いっくん、好き』
セーラー服を脱ぎ捨てて下着姿になった凪沙を、一哉は戸惑いながら見つめている。
『お願い、いっくん』
『だから待て。ちょっと……待って』
『私はずっと待ってる。あとどれだけ待てばいいの? いっくんのことが好きでずっと好きで、でも子どもだからって理由で待たされた。高校卒業したら考えてくれるって言った!』
『言ったけど!』
一哉の声が戸惑っている。それに気づかないほど凪沙も馬鹿ではない、でももうどうしようもないのだ。
どうしようもないほど……
――好きだから。止まらないから……もう止めないで。
『いっくん、お願い……』
ブラジャーのホックを取りショーツ一枚になった凪沙は、自分の腕を一哉の首裏に伸ばした。ふざけても手をつなぐことくらいしかできなかった。それでも、いつも心臓が飛び出そうなほど緊張してドキドキしていた。それほど一哉に触れることに胸をときめかせてきたのだ。今日この瞬間など、それらとは比べものにならないほど緊張している。
凪沙の身体が小さく震える。凪沙自身ですら分かるのだから、きっと一哉だって気づいているだろう。
――だからお願い、この手を離さないで。
『好き……いっくん。ずっと、ずっと好き』
精一杯の思いを込めつつ一哉にその言葉を告げて、震えるくちびるを一哉のくちびるに重ねた。拒まれる覚悟もあった、腕を引きはがされて怒られることだって想像していた、それなのに――
一哉は重ねたくちびるをさらに深く口づけて、長い腕を凪沙の身体に回して抱きしめ返した。一哉の指先が、掌が、凪沙の肌に触れて熱が伝わる。包むように背中を撫でられながら、ギュッと抱きしめられる。息ができないほどの深いキスを繰り返しながら、凪沙は一哉に抱かれた。
それは、高校卒業式の春だった。
第一章 再会の春
春は出会いと別れの季節と言うが、社会人として三年ほど働く凪沙もそれを実感している。春は出会いが多く、人間関係が広がる季節だ。
長く勤めていた人間が去ったり、新人が入ったりするなどなにかと周りが落ち着かない。
そして凪沙の周りも落ち着かなかった。
「もう受け止めてあげなよ。去年の春でしょ?」
「うーん」
「忘れたい恋には新しい恋だよ? それで愛されるのが一番幸せだよ?」
ズズッとカフェラテを吸い込みながら諭すように言うのは、凪沙の高校時代からの友人、琴美である。琴美は凪沙のあらゆる恋愛遍歴を知っている。遍歴と言っても相手はたったひとりだが。
「長年思い続けた凪沙の気持ちはもう十分すぎるほど知ってるけど、そろそろ区切りをつける時じゃない? 佐久間さんはさ、凪沙のその気持ちをずっと知りながら一年待ってくれてるんでしょ?」
「うん」
「待つって結構辛いじゃん。それは凪沙が誰よりも知ってるよね?」
「……うん」
琴美にそう言われて、頷くしかできない凪沙である。
「恋愛ってさ、思い思われがベストだって言うけど、私は愛されてなんぼだと思うのよ。愛してもらったらさ、自分をもっと大事にできる気がする」
琴美は数年付き合っていた男と半年前に別れて、今は飲み会で出会った気さくな男と友達関係から恋人へと発展させた。元カレは顔がドストライクで、あっちの相性も抜群に良かったと言う。欠点は金にルーズで都合よく琴美にせびるところか。ただ、見栄えのいい彼氏は一緒にいて優越感があるらしい。琴美は一緒にいることでステイタスを得る幸せを知ってしまい、彼氏の都合のいい甘えにズルズルと金を渡してしまっていたと言う。琴美自身も、金ヅルになっていることに気づいて……気づかない振りをして、目の前のイケメンに酔い身体を重ね快感に負け続けていた。
そんな時に飲み会で出会った今の恋人にこう言われたそうだ。
「そいつ、琴美ちゃんのことを都合よくそばに置くだけで全然大事にしてないじゃん。俺だったら琴美ちゃんのこともっと大事にするのに」
琴美はそんな言葉を投げてくれた相手の顔を初めて真っ直ぐ見つめて、ハッとしたという。
心の奥では弱っていて、抱きしめられているがどこか気休めのような抱擁に、日々切なさを増すだけだった。
そんな時に「大事にする」と言われて、琴美は落ちたのだ。
「元カレのことは好きだったよ。タイプだったし、この人しかいない! みたいな洗脳もあった。逃がしたらもう他にいないかも、そんな焦りもあったかもしれない。でも、そんなことなかった」
そう言った琴美は今とても幸せそうだと凪沙は思う。
「一緒にいてもモヤモヤするばかりだったところに、大事にされてないって言われて気づいた。私は大事にされたかったんだって。自分が大事にされたら、自然と相手のことも大事にできる。一緒にいる時間を大事にしようって思える。そうしたらさ、もう好きになってるんだよ。私は今の彼氏が好き。結果、思い思われ、最高じゃない?」
「良かったね、琴美」
「だから凪沙もそうなるよ」
そこで自分に振られて、凪沙はグッと喉を詰まらせる。
「佐久間さん一途だし、一年もずっと好きって言って待ってくれてる。凪沙の気持ちが落ち着いて、また誰かと恋したいなってなるまで待つって、そう言ってくれたんでしょ?」
「うん……」
佐久間衛は言ってくれた。
『恋したいって思えた時に……俺と始めてくれないかな』
凪沙は市内の総合病院の受付窓口で働く事務員だ。
病院通いが日常だった祖母の影響で、幼少期から病院へ足を運ぶのには慣れていた。祖母っ子である凪沙は年々衰えていく祖母の姿を心配して、今でも定期的に受診に付き合っていた。
「凪沙が病院に勤めていたら、来るのも楽しくなるのにね」
そんな言葉を素直に受け止めた凪沙は、将来を考えた時に病院勤めが自然とゴールになった。医師や看護師を目指すほどの熱量は残念ながら持ち合わせておらず、なにより血が苦手な凪沙は医療現場で働くことに根本的に無理であると感じていた。それ以外で医療に携わる仕事をいろいろと探し、目をつけたのが受付の事務職だった。
凪沙の勤める総合病院は人材派遣サービスと提携しているため、直接雇用はされず契約社員として勤務し、三年ごとに更新しながら勤務地を変わっていく。職種として年数はちょうど三年目。もうすぐこの病院を去る時期になるが、今年も更新はされそうである。だが昨今の厳しい世の中、契約社員でいる以上絶対はないし運が悪ければ切られてしまう。その不安を覆してくれる社員登用制度はあるものの、形ばかりでなかなか現実化はしてくれない。個人病院に転職する者や、見切りをつけて辞めていく仲間はたくさんいた。凪沙も自分の今後について、真面目に考えなければいけないと思い始めている。
その勤め先の病院がここ最近ざわついているのは、流行りのITを活用した新しい事業を始めようとしているからだった。院長が若い世代に代わり、病院を活性化させたいと目をつけたらしい。
ITを活用したオンライン診察や処方の電子化を推進し、病院や薬局に通わなくても一次診療が受けられるシステムの構築を目指すという。そのため、医療系ベンチャーと交渉し、システム導入を始めるらしい。凪沙の所属する事務関係にその手の話はまだ下りてきてはいないが、そのベンチャーの社員が病院内に出入りするとフワッと耳にしたくらいで、それ以上は凪沙の耳からはすり抜けていた。
そんなことよりも、このところ毎日のように考えているのは衛への返事のことだ。
【今晩、仕事の帰りにメシ行かない?】
チャットアプリに届いていたメッセージを昼休憩に見て、会う了承のスタンプを送った。
衛は定期的に凪沙を食事に誘ってくれる。それこそ月に二回ほど。「会いたい」とマメに連絡をくれて、凪沙と会う時間を大事に思ってくれていた。
その誠実な気持ちに本気で向き合いたい。凪沙は衛の真摯な気持ちをこれ以上踏みつぶしたくないと思っていた。
――琴美じゃないけど、もう一年だもんな。
一年。
衛は凪沙を好いて、凪沙の気持ちが自分に向き合うのを待ってくれていた。
◇ ◇ ◇
衛と出会ったのは去年の春、琴美含む高校の同級生から誘われた飲み会だった。別の友人の声掛けで誘われて全く乗り気ではなかった凪沙だったが、琴美の強引な誘いに負けて足を運んだ。歳は二、三歳上の商社勤めや大手企業勤務のいわばハイスぺメンズ。気さくなメンバーばかりで空気も読め、嫌な思いをすることのない、終始気分が良くなるだけのアタリ飲み会だった。その中でも衛はとても気遣いのできる言わばムード役で、誰となく声を掛け、飲み物を頼んだり話題を振ったりする、面倒見も良い好感度が高すぎた男だった。
「衛はモテるくせに片思いばっかりなんだよ」
友達のひとりが酒のつまみのようなノリで衛を弄った話題がそれだった。
「うるせぇな」
「いや、ほんとそう! 高校の時もサッカー部のエースでめちゃくちゃモテたんだけど、マネージャーのことがずっと好きで。告ったらインターハイ決まるまでは恋愛できないって振られて。でもしつこく好きで引退する時に改めて告ったら、結局その子卒業した先輩と付き合ってたんだよな?」
「その話ここでしないとダメ!?」
そんな黒歴史を笑いながら話されても嫌な顔ひとつせず、なんなら自虐ネタにして場を和ませていた。他の男性メンバーにも衛を悪く言う人はいない。その姿を見て凪沙も同じように「いい人だなぁ」と横目に見つめていたりした。
飲み会の終わりに流れでカラオケに行こうかとなったが、凪沙はそこまで残るつもりもなく琴美に帰る合図をして席を立った。店を出る直前で声を掛けられ、振り向くと衛が追いかけてくるのが見えた。少し慌てたようなその姿に凪沙は首を傾げる。預けてきたお金が足りなかっただろうか、そんなことがよぎって凪沙は鞄から財布を出して問いかけた。
「足りなかったです?」
「え! 違う!」
全力で否定されてまた首を傾げる凪沙に、衛が笑って言う。
「そうじゃなくって。凪沙ちゃんってちょっと天然?」
今まで誰かに天然だと揶揄されたことはない。凪沙が首を左右に振ると、衛は変わらず笑顔でこぼした。
「そっか。じゃあ俺が分かってないだけか」
「え?」
「やっぱりもう少し話したいな」
くしゃりと笑う顔が可愛かった。凪沙はその笑顔を見てふとそう感じて、胸が若干ドキリと高鳴った。たいして男性免疫はなく付き合い経験もゼロの凪沙だが、その時に感じてしまったのだ。衛と何か始まるかも、と。
「もう帰っちゃうの?」
「飲み会って慣れてなくて。ごめんなさい」
「謝ることないよ、無理する必要ないし。じゃあ送っていい?」
「え?」
「ひとりで帰すの心配だから」
ここは駅に近く、人通りも多い飲み屋街。暗がりでもなければ夜もそこまで更けていない。「大丈夫」凪沙がそう断ろうとしたのを察した衛は、またくしゃっとした笑顔を投げて今度は少し照れたように言った。
「俺が凪沙ちゃんともう少し一緒にいたいだけ。送らせて?」
送ってもらう道中は飲み会の延長みたいな気さくな会話が続き、別れ際に連絡先を知りたいと言われ、凪沙は断る理由もなく頷いた。
「またご飯とか誘っていい?」
「え?」
――それって。
凪沙のそんな気持ちの先を表情で読み取った衛は、照れたように頷いた。
「ふたりで」
「あ、えっと」
返事に戸惑う凪沙に、衛は半ば強引に言ってきた。
「また会いたい」
「……」
「凪沙ちゃんとふたりで会いたい」
真っ直ぐ、直球で気持ちをぶつけられたのは初めてだった。異性に慣れていない凪沙はこれだけで単純に胸がときめきかけた。
「は、はい……」
迷う前に思わずこぼれた返事。そんな風にこぼしてしまったことに、凪沙自身が一番驚いている。
「ほんと? じゃあまた連絡する」
「……」
「今日はありがとう」
たいした愛想もない自分に衛は笑顔でそう言ってくれて、タクシー代まで渡されてしまった。
「あ、あの電車で帰れるし」
「酒飲んでるしタクシーの方がいいよ。俺も安心だし」
「でも」
「じゃあ今度それでメシ奢って」
それも結局衛の金ではないか。凪沙はぽかんと呆れて思わず噴き出した。
「佐久間さんばっかりがお金出してる」
ふふっと笑みをこぼした凪沙を衛は見つめていた。そしてやっぱり照れたような、はにかんだ表情を浮かべて凪沙を見つめ言った。
「なら、名前で呼んでほしいな」
――え。
「凪沙ちゃん」
名前を呼ばれたのは別に初めてではない。飲み会の席での男性は、みな女の子を名前で呼んでいた。衛だってずっと凪沙を名前で呼んでいたのに。
「……凪沙、ちゃん」
「……ま、衛、くん」
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「じゃあまた連絡する」
「……うん」
「本気で」
――本気?
凪沙がまた首を傾げると、衛は嬉しそうな笑顔を浮かべて「おやすみ」と告げると来たタクシーに凪沙を押し込んで手を振っていた。タクシーに乗せられた凪沙はなんだか胸が高揚していた。誰かにドキドキするのは久しぶりで、自分が誰かに胸を高鳴らせるなど信じられなかったのもある。
こうやって人は人を忘れてまた新たな思いを育んでいくのだろうか。夜の街並みを走るタクシーの中でキラキラと輝く街灯を見送りながら、凪沙はそんなことを思っていた。
それをキッカケに始まった衛との関係は、いたって健全なお食事会。いつも金曜の仕事帰りに誘われるものの、基本は凪沙の都合を尊重してくれる。凪沙のリクエストを聞いたら、後は衛にほぼお任せ状態である。そしていつも素敵な店に連れて行ってくれた。
凪沙もだんだん衛との食事の時間は楽しみになり、快く返事を返すようになっていた。休みの日には映画に行ったり流行りのものを食べに出かけたりと、会う回数も増えだした。
出会って数カ月。会わない日はマメに連絡もくれるので、体感的にはほぼ毎日衛と過ごしているような気持ちだった。そんな時に告白された。
「好きだ。付き合ってくれないかな」
真っ直ぐな告白。それは何も予測できないことではなかった。むしろ琴美には「まだ付き合ってなかったの!?」と、驚かれたくらいである。
「あの……」
言葉に詰まる凪沙だったが、衛の気持ちは嬉しかった。尽くされているという実感、衛は凪沙のために動くことばかり。それも見返りもなくである。
「初めて出会った時に一目惚れ」
「え」
「そんな驚く?」
驚いた。自分が一目惚れをされるような女だとは全く思っていなかったから。
「どうして? 凪沙ちゃん可愛いし、俺はすごいその……タイプ」
照れながらもストレートに言われて、凪沙にもそれは伝染してしまう。
「話してやっぱり好きだなって。おっとりしてて……」
「おっとり?」
そんな衛の言葉に思わず反応してしまった。そして凪沙は噴き出してしまう。
「私そんなにおっとりじゃないよ?」
「そうなの?」
そうか、衛はまだ自分を大して知らない。自分こそ衛にそこまで素を見せられていないのだと、凪沙はどこかホッとした。そしてその気持ちに気づくと自然と言葉になってしまった。
「衛くん、私のことまだなんにも知らないと思う」
「そう、かな」
本当の自分はもっと無鉄砲で、自分の気持ちを押しつけるような周りが見えない性格だ。だから好きだった人にも振られている。
「本当の私なんか知ったら、好きじゃなくなると思う」
寂しげな声でこぼす凪沙に、衛は首を傾げた。
「どうして?」
「相手の気持ちお構いなしで、自分の気持ちばっかりで……振られたりするような女なの」
思いを告げてくれた衛に、今こそ自分が真摯に向き合うべきだと凪沙は思った。
「大好きだった人がいたの。その人のこと、いまだに忘れられずにいる。だから……真面目に想いを伝えてくれる衛くんに、嘘つきたくない。すごく嬉しいけど、その気持ちに今は応えられない」
大好きだった、そう言ったが過去ではない。凪沙の心にはまだその相手が生きている。
衛が凪沙に好意を持って近づいてきたのは、さすがの凪沙でも気づいている。それでも衛は会うたびに最低の距離を空け、無理に関係を詰めるようなことはしなかった。だからこそ凪沙も衛と会うのが嫌ではなかったし、むしろ好意的に会っていた。それこそ、恋が始まるのかもしれないと少しの期待も滲ませていた。
でも気づかされた。衛の前ではいつだって仮面をかぶるような気遣いをし続けていたと。素になれない。それに気づいた時に、きっとうまくいかないだろうと凪沙は思ったのだ。
「衛くんはいつでも優しいから甘えてばっかりだった。優しくされて嬉しかった。衛くんの気持ちを知っててそれに甘えて……そんなのダメだなって。もうやめなきゃって」
「なんで?」
「だってっ!」
初めて凪沙が衛の前で声を荒らげた。そんな凪沙に衛も驚いた様子だったが、優しい声で問うてくる。
「なんでだめ? 甘えてくれていい、甘やかすつもりで凪沙ちゃんと時間を過ごしてる」
「そんなの……」
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「違う! 私がっ……私に忘れられない人がいるからっ!」
だからこれ以上一緒にいても衛を傷つけるだけだ。凪沙がハッキリ断る覚悟ができたのは、自分が間違えていた、甘かったと分かったからだ。やっぱり自分は――
簡単に恋なんか始められない。そう思っていると衛が言った。
「待ちたい」
衛の声はいつも以上に優しい。
「その人は忘れたくない人なの?」
「……」
そう問われて凪沙は一瞬迷ったが、首を左右に小さく振った。
「忘れなきゃって……思ってる」
なんなら忘れたい。もう想っていても意味などないのだから。
あの日、体当たりのように気持ちと身体をぶつけた。受け止められた、そう思っていたのは自分だけで、そうではなかった。それを思い出すと、視界が歪みだし波打って前が滲み始める。きっと瞬きをすればこぼれ落ちてしまう、それが分かるほど瞳の中に浮かぶものがある。
「今は……って言ったよね。それなら忘れられるまで待つ。凪沙ちゃんのそばで」
ポロリ――こぼれ落ちた。そんな涙も泣き顔も衛に見せたくなかった凪沙は、掌で乱暴に顔を拭った。思わずこぼれた涙、それに衛は何も言わない。ただ俯いたままの凪沙が顔をあげるのを待っている。静寂の中、やっと凪沙が濡れた瞳で見上げるとそれを受け止めるように見つめて伝えてくれた。
「忘れられるってなって、忘れられる日が来て。そのあとに恋したいって思えた時に……俺と始めてくれないかな」
◇ ◇ ◇
もうすぐ定時だ。
残業もなく終われそうだと思いながら、月曜の予約患者のカルテを準備しつつ残された仕事を行っていると、なにやら受付内やロビーがざわつき出す。そちらのことが気にはなったが、凪沙は目の前のやるべき仕事に目を向けた。月曜日は休み明けで患者数は多く、予約なしの外来患者もたくさん来るので、準備しておかなければいけないことが多い。なにより、衛と約束しているため定時で上がりたいのだ。
「浅川さん!」
「はい?」
「ちょ、ちょ! 来て! 早く!」
同僚がなにやら高揚気味に声を掛けてきて、カルテを持つ腕ごと引っ張られた。凪沙は何事だと思うものの、強引な対応に拒否する間もなくされるがままである。
「なに?」
凪沙も無駄にざわつくロビーに視線を彷徨わせて、事態を把握した。
院長、事務局長、あと数名、病院の関係者が並んでの大名行列。某ドラマのような光景だが、それは何も珍しいことではない。稀に見ることではあったが、いつもとは違って違和感を覚えるのは白衣の群れの中に見慣れないスーツ姿の男性がふたりいるからか。
「あの人たちかな!? 例のベンチャーの!」
例のベンチャー? その言葉をフワッと頭に入れて、凪沙は乏しい記憶を辿ってみる。
「新事業の?」
「そう! え、やば! かっこよくない!?」
日本初の新医療機器の承認を受け、アプリをはじめとしたモバイルヘルスに特化した人工知能を開発し、世間に名を馳せたベンチャー企業【L&M】は、先日世界からも注目されているとニュースになっていた。それにより企業の名だけではなく注目を集めたのは、露出を控えていたCEOが顔を出したからだった。あまりネットニュースやテレビを見ない凪沙はその手の話題に疎く、まして経済関係はスルーしがちだ。さすがに自分の勤め先の話題ならば多少は知っておかないと恥をかくかもしれない、と呑気に思っていると同僚が発した言葉に凪沙は耳を疑った。
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