捨てられたはずが、ハイスぺ幼馴染CEOの執着愛に囚われ逃げられない

sae

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1巻

1-2

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「あれが天澤あまさわ一哉!?」

 ――え?

「テレビで見るよりカッコイイ!」
「横にいるのが来栖哲くるすてつ!? 彼もかっこいい!」

 もはやアイドルを眺めているような同僚たちの発言に凪沙は戸惑うが、戸惑うのはそれだけでもない。
 ――天澤って……本物?
 同姓同名か、だがそこまで被りやすい名前とも思えない。なにより凪沙の目に映るその姿を偽物とはとても思えなかった。
 ――いっくん?
 好きで好きで、焦がれるほど好きだった。それはもう生活する上で息をするみたいに自然なことで、いきなり想うのをやめる方が困難だったほど。それほどまで思い続けた相手を見間違えるわけがないと、凪沙の心がそう告げてくる。
 高校卒業のまだ寒い春先。あの日、他のことなど何も見えないほど真っ直ぐに、ただその相手の元へと駆けて行った。あの日溢れた思いが凪沙の胸に舞い戻ってくる。
 ――なんで……
 忘れたかった。
 忘れたくてこの一年。忘れられなかった想いは衛のおかげで断ち切れるかもしれないと思えるようになっていた。凪沙は衛と恋を始めようと……そう向き合おうと今日、返事をするつもりだったのに。


 五年前のあの日。
 初めてだった凪沙はとても優しく丁寧に一哉に抱かれた。受け入れてもらえたことだけでも嬉しかったのに、自分に触れる手が優しすぎてそれだけで泣きそうだった。ぶつけた想いを受け止めてもらえた幸せは、想い続けた時間とは比にならないほど濃くて満たされるようで。重ねられたくちびるは甘く、溶けそうなほど。こぼれる涙を何度も拭ってくれる指先が優しくて、涙が枯れなければいいのに、そう思った。

『凪沙』

 甘い声が耳から脳にまで届くようで。今までだって何度も呼ばれていた自分の名前が、まるで特別な名前のように響く。好きな人に名前を呼ばれることはこんなに幸せなことなのかと感じていた。

『いっくん……好き』

 伝える想いに一哉は言葉で返さない代わりにキスをくれた。優しい、触れるように食むキスは痺れそうなほど心地よかった。それが答えだと……幼かった凪沙は思っていた。
 卒業式の翌日、友達と約束していた卒業旅行に浮かれて行って、お土産をたくさん買って戻り会いに行った凪沙だったが、そこに一哉の姿はなかった。

『留学?』

 何も聞かされていなかった。何も告げられず、携帯の番号までも変えられて、一哉は黙って凪沙の前から姿を消した。それからずっと凪沙への連絡はないまま五年、一哉は突然目の前に現れた。


 グラスの中でキラキラ輝く琥珀色はうっとりするほど綺麗で、手元に届いた飲み物を見つめながら凪沙はその透き通る琥珀色に視線を奪われている。

「お疲れ」

 ビールが届いた衛の手にグラスが持たれると、凪沙も見惚れていたグラスに手をかけた。

「お疲れさま」
「あ~一週間疲れたぁ」
「ふふ、本当だね」

 金曜日、仕事の後のビールは格別である。今日、凪沙はビールをオーダーしなかったのだが。

「体調悪い?」
「ううん、どうして?」
「飲まないから」
「今日はやめとこうかなって」
「それが体調悪いってことじゃないの?」

 飲みに誘って悪かったかな、そんな風に心配してこちらを窺うような衛に、凪沙はつとめて明るく答える。

「違うよ! 今日はそういう気分じゃなくて」

 帰り間際に思いがけない出来事が起きて、そのことをまだ信じられない凪沙がいる。どこか夢見心地のような気分、単純に現実味がない。

「なんかあった?」
「……」
「凪沙?」
「衛ってすぐ気づいちゃうよね?」

 この関係が続いて一年、ふたりはお互いを呼び捨てし合う仲になっていた。

「気づくのは凪沙にだけ」
「そうかな。衛は気遣いできるイケメンだよ」
「なんだよ、おだてても何もないぞ」

 謙遜する衛だが、凪沙の気持ちに嘘はない。衛は自分にだけではない、周りをよく見て気遣える、それだけのキャパを持ち合わせている。それは初めて出会った日から知っていることだ。

「仕事でちょっと」
「ミス?」
「そういうことじゃなくって」

 言葉に迷うものの凪沙の中では衛に言えないと、答えが決まっていた。

「新事業が始まるの。それが少し不安だなって」
「ふうん?」
「人工知能プログラムを使ってとか、難しいことが始まるらしくて。分からないことが始まる前って不安になったりしない?」

 誤魔化すように言う凪沙だが、衛は自身の携帯を取り出し操作をしつつも思い出すように話しだした。

「人工知能プログラムって最近話題になってるあれ? L&Mだっけ」
「知ってるの?」
「ニュースになってるもんな。これからの医療ビジネスは需要が高いだろうなぁ」

 衛も当たり前に知っていて自分の疎さをますます実感すると共に、より焦りが胸の中で湧き始める。そんな凪沙の気持ちに気づくはずもない衛は、携帯から得る知識を軽い調子で話してくる。

「へぇ、若いのにすげぇな。従業員数はまだ少数らしいけど、CEOとCOOのふたりは医師免許も持ってるって」
「……へぇ」
「医者にはならずにベンチャーを立ち上げるって何者って感じだよな。医師免許はどうして取ったんだろう」
「……さぁ」
「あんまり興味ない?」
「え!? そ、そういうわけじゃ……」

 狼狽えるように答えてグラスに口をつけた凪沙を、不思議そうに見つめる衛は何気なくこぼす。

「異次元な感じはするよな。普通の人間にできる所業じゃないっていうか……考え方とか絶対理解できそうにない」
「……そうだね」

 それには凪沙も同意しかない。
 ――いっくんの気持ちなんか、分かるわけないよ。
 凪沙と一哉は幼少期に巡り合った五歳離れた幼馴染で、初めて一哉と出会った時、凪沙はまだ三歳だった。引っ越してきた凪沙の隣の家に天澤家があり、両親も年が近く、両家共にひとりっ子。娘が欲しかった天澤家と息子が欲しかった浅川家は自然と仲良くなる。人見知りが激しかった凪沙はなかなか周囲と馴染めずひたすら一哉のそばについて回り、一哉もまた自分にだけ懐く凪沙を可愛がった。正義感の強い一哉に凪沙は素直に甘えて頼るようになる。妹のように、兄のように慕い合うふたりが歳を重ねても仲が良かったのは、五歳という歳の差がより一層そうさせたのかもしれない。一哉が中学になる時、凪沙は小二。それでもその頃には凪沙は一哉に確かな恋心を抱いていた。

『いっくん、私をいっくんのお嫁さんにして』

 小二の凪沙は真剣だったが、当然、一哉は噴き出した。可愛い戯言たわごとだと思われたのだろう。けれど凪沙は割としつこい性格で、その性格はもちろん一哉も熟知している。言ったことはそのまま受け止める凪沙にあとで苦い思いを経験させられたことがあるからか、一哉は無理な時はきっぱりと断ってくる。

『小二とそんな約束できない。せめて方程式が解けるようになってからだな』
『ほうていしき?』

 方程式を習うのは中学に入ってからか。凪沙にはまだ遠い数年先の話ではあったが、一哉に言われた通り真面目に受け止める凪沙は、のちに方程式をしっかり解きあげて再度プロポーズを申し込んだ。

『いっくん、方程式解けるようになったよ。私をいっくんのお嫁さんにして』

 ランドセルを下ろし中学の制服に身を包んだ凪沙は、百点のテスト用紙を持ってこうも言ってやった。

『忘れたなんか言わせないから。私は本気なの。いっくんも本気で考えて答えて』

 忘れていた、は一哉の顔を見てすぐに分かった。やはり戯言のように聞き流していたな、そう思った凪沙だがこれだけは言ってやりたい。

『私はしつこいの。いつだって本気なの。あんまり馬鹿にしないで』

 それに一哉は驚いた顔をしつつも、軽く噴き出して凪沙に言い返してきた。

『馬鹿にしたつもりはないけど、凪沙のしつこさは舐めてたかもしれない。本当にしつこいな?』
『言い方ひどっ!』
『そもそも結婚ってなに? そんな先の話を簡単に約束できるわけないだろ』

 嘘をつくことも取り繕うこともなく、むしろ簡単には約束できないと言う一哉の誠実な言葉に、凪沙は逆に嬉しくなった。

『約束できないなら、どうしたらいいのかなぁ』

 うーん、と真剣に考える凪沙の真っ直ぐな性格は、小二の時に初めてプロポーズしてきた姿と変わらないので一哉にまた笑われてしまう。

『そうだな。じゃあ……』

 ピピピ――と、鳴った目覚ましのアラーム音で目が覚めてハッとする。凪沙はまだ少しボーッとする頭の中で、今見ていた夢を思い出していた。
 思いがけない再会。まさか、どうして今なのか。そればかりを思ってしまうのだ。
 ――忘れようって決めたのに。衛にだって言えなかった。
 衛に愛される気持ちを真っ直ぐ受け止めていきたい。そう伝えるつもりだったのに、と凪沙は溜息をこぼした。言えなかったのは結局、一哉への想いに邪魔をされたからだ。忘れられると思っていたのに、目の前に現れたらどうしようもない。忘れたいことも、忘れていたことさえ思い出してしまった。それこそ夢にまで見るほどに。

『高校卒業するまで俺のことを好きだったら考えてやるよ』

 そう言われて、一哉を想い続けた。それでも一哉は気持ちを受け止めてはくれなかった。あの日のあの時間はきっと最後の思い出だろう。一哉の凪沙への気持ちの答えは――拒否。結婚どころではない。凪沙の気持ちには応えられない、それが答えだったに違いない。
 再会を果たしたがそれはあくまで凪沙の一方的な再会で、一哉自身が凪沙の存在に気づいているわけではない。それでもこの病院に一哉が訪れることになったのなら、接触する可能性が生まれるだろう。一哉と会うかもしれないと内心ビクビクしながら職場へ通う凪沙は、誰にも相談などできず、親友である琴美にさえまだ一哉との再会を告げられずにいた。
 会った、と言ってもあの一瞬見かけただけだ。いまだに信じられない気持ちがあった。言葉にしたら現実になりそうで言えないだけなのかもしれない。


 衛も知るぐらい、世間は一哉を含むL&Mに注目しているようだった。ネットニュースでは検索すれば一発で情報が落ちて来た。凪沙もそれらの記事を目にして初めて、知ることのなかった一哉の空白の時間を知ることになる。
 数年前に、大学時代からの友人で現COOである来栖とふたりでベンチャー企業を立ち上げたようだった。L&Mはライフ&メディカルの略称らしい。

「目の前の患者を治療するだけでなく、ビジネスを通じてより多くの人を救いたい」

 それを企業理念とし起業したと一哉がインタビュー記事に答えている。アプリをはじめとするモバイルヘルスは、臨床や医療の課題を解決する手段として年々注目が高まっており、オンライン診療や遠隔診療のためのシステム化なども医療業界のベンチャー企業が取り組みを始めている。その中で突出していろいろな医療機関が導入を進め、一哉たちの立ち上げたビジネスは「新医療機器」として日本で初めて承認を受けた。VR・ARなどのXR技術とソフトウェアの進化により臨床や医療の課題を解決しようとするその姿勢と、人工知能プログラムを活用した製品開発が高く評価され、一哉はL&MのCEOとしてはもちろんだが、華やかな背景とその美丈夫さで世間にさらに注目されていた。
 凪沙の前から姿を消す前に、一哉が医学部へ通い国家試験を受験していたことは知っていた。頭のいい一哉が医師を志すのに何も疑問はなく、むしろよく似合うと思っていた。医師免許を取得し、研修期間を終えたら医師として活躍していくのだろう。そう思い込んでいたのに、一哉はその道を目指さなかったのかと、記事を読んだ今になって知らされる。もし、あの日に凪沙が体当たりのような思いをぶつけていなかったら、一哉の将来の展望は直接聞けていたのかもしれない。その気持ちが心の隅に芽生えて悲しくなった。
 誰よりも近くにいられると思っていた。いつでもすぐそばで心に寄り添っていけると当たり前に信じていた。でもそれを自らが手放したのだ。後悔はない、そのつもりなのにあの時の幼さが今になってより凪沙の胸を苦しめていた。

『異次元な感じはするよな。普通の人間にできる所業じゃないっていうか……』

 衛の言葉が耳に張りついている。凪沙が知る「幼馴染のいっくん」はそこにはいない。もう一哉は本当に自分とは世界の違う遠い人になったのだと知らされて、だからこそ思った。
 ――忘れなきゃ……
 一哉を想う日が増える、それを本気でやめるべきだと凪沙は思う。これ以上一哉を想ったところで、この気持ちが報われることはない。この想いに未来などない。諦めるための現実を突きつけられたのだと思うと、心が渇いていくようで切なさばかり募る。
 今度こそ衛に想いを伝えよう。そう胸に秘めて凪沙は気持ちを切り替え、一哉のことを考えないように暮らしていた。会うかもしれない、その不安は多少あるが自分も大人になったのだ。笑って会ってやる、きっと後ろめたいのは向こうとて同じだろう。なんなら一哉の方が後ろめたいのでは? それくらい思えるようになっていたある日のことだ。

「すみません」

 聞きなれない声を掛けられたのは昼休憩だった。健康診断の予約のために午前であがる予定だった凪沙は、仕事の後始末を引き受けてひとり受付に残っていた。午後の予約受け入れにはまだ早い。慌ててカルテ棚から顔を出して返事をしようとして固まった。

「少しお時間良いですか?」

 そこに立っていたのは――来栖哲だった。


「昼休憩中にすみません」

 受付内に入ってきた来栖は、きょろきょろとあたりを興味深そうに見渡しながら凪沙に頭を下げた。

「いえ、私で対応できるか分かりませんが」
「いえいえ。簡単なことなので大丈夫かと。午後にお伺いする予定でしたが急用ができて。誰もいないならもう明日で、と思っていたんですけど。いてくださって良かった」

 見た目はわりと軽そうな風貌なのに、話すととても誠実で真面目だった。背も高くがっしりした体格でスタイルがいい。どちらかというと小柄な凪沙は見上げないといけないほどである。短めのショートヘアは耳がオープンで、小さな黒いピアスが光っている。ちらりと横目に見ながら、凪沙は考えなくてもいいことを考えてしまう。
 ――この人がいっくんのお友達?
 友達と呼ぶ仲なのか、もとはそうでも今は仕事上のパートナーであろう来栖。それでも一哉にとっては近しい人物だろう。一哉の交友関係をあまり知らない凪沙には、多少の好奇心が芽生えた。
 幼少期、年の離れた一哉の周りには自分が関われそうにない大人っぽい友人がチラついており、それをあえて見ないようにしていた。自分には踏み込めない一哉の世界、テリトリーを知らされるようで見たくなかったからだ。

「予約システムの画面を確認させて下さい。手順書は受け取ってますが、目で見て触らないと納得できない性質たちで」
「はい。社員のパスコードと自分の名前を入力します」

 実際にログイン画面を開いて番号と名前を打ち込んでいくと、来栖は横で黙って見つめているので凪沙はおそるおそる来栖を見上げる。

「こんな感じ、です」
「……なるほど」
「そこから受診記録などいろいろ見ることができます」
「なるほど。ちょっと触っていい?」

 来栖が顔を覗き込むように姿勢をかがめて来たので、凪沙は一歩身を引きマウスを差し出して手を引っ込めた。

「どうぞ」

 無駄に緊張していた凪沙の元に昼休憩を終えた同僚たちが戻ってきて、受付内にいた来栖を見つけるや悲鳴をあげた。

「きゃー! 来栖さん!」
「あ、すみません。お邪魔してます」
「いいえ! どうぞ!」

 急に周りがバタバタしだして凪沙は途端に居心地が悪くなったが、タイミングはいい。このまま引き渡そうと、横にいた同僚に耳打ちし逃げるように受付を去った。予想外の来栖の接触は心臓に悪かった。もしまたこんなことが起きたら、と想像だけで疲労する。そしてもしこれが一哉だったら? そう思うと吐きそうである。
 ――なにが笑って会ってやる、だ。
 覚悟した気持ちなど脆いものだった。リアルで起きたらとてもじゃないが笑えないだろう。来栖相手で緊張して笑顔ひとつこぼせなかったのに、一哉相手に笑って対応などできるわけがない。笑っている自分など想像できなかった。
 会わない方がいい、きっと会ったところで何もいいことなど生まれないだろう。凪沙はその思いに辿り着いて重い溜息をこぼすのだった。


 医局管理棟の第一会議室。一哉はそこに缶詰め状態で閉じ込められていた。広い会議室だがたくさんのパソコンや機器が置かれて、室内は殺伐とした感じである。そこでひたすらプログラムを打ち込むキーボード音が無駄に室内に響いている。一哉は集中すると周りの音が聞こえなくなる。だから作業は基本ひとりで行い、誰にも邪魔されない状況で仕事をする。その空間の中で自由に動き回れるのは、気を許した来栖だけだった。逆に言えば、その集中して殺気立つような一哉をうまくコントロールできるのが来栖だけだとも言える。

「ちょっとは休憩して?」

 大きな病院はシステムが多い。個人医院のデータ管理をするのとはわけが違うため、取り込みたいプログラムがうまくハマらず一哉は頭を悩ませていた。

「予約システム自体は見た感じ簡単だったけどね。そこから紐付けし過ぎだな。重い」
「どう導入するかだな」

 デスクに置かれたドリップコーヒーを手に取って、一哉は一息ついた。

「あー目が死ぬ」
「だから休憩してって」
「俺をここに詰め込んだヤツがよく言うよ」
「やることはやんなきゃオフィスには帰れねぇよ。反映状況確認は現場でするのが一番」

 それはそうだが、一哉は思う気持ちを飲み込んだ。
 来栖の仕事の詰め込み方はいつも容赦ない。地頭が良すぎるのかおそろしく頭の回転が速く、常に未来を先読みして動ける来栖の方がCEOに向いている、とは内心思っているが来栖は言う。

「天澤にはマネジメント無理だもん。お前は典型学者タイプだから」

 そう言われそれを否定できる意見も持ち合わせていなかったために、しぶしぶCEOの役職を担っていた。

「それよりさぁ」

 間延びしたような口調でデスクに腰かける来栖に一哉は眉をひそめた。

「座るな」

 周りに散らばる書類の上に平気で尻を乗せるのでそれをたしなめるも、大した反省の色も感じない軽い謝罪だけで書類を奥にずらしながら来栖が聞いてきた。

「なぎさ……だったよな?」
「ぶっ!」

 いきなり告げられた名前に、一哉は飲みかけたコーヒーを噴いた。

「幼馴染のなぎさちゃん。フルネームはあさかわなぎさ、だったりする?」
「……なんで?」
「じゃあ当たりか」
「おい」

 地頭の良さは記憶力の高さも際立たせる。

「来栖の記憶力怖い」
「そこは結構印象残ったよね。天澤から聞いた数少ない女の名前だもん」
「……」
「最初はなんとも思わなかったけどね。なぎさちゃんかぁ、可愛い名前だなぁ……ってぼんやり思ってたらフッと記憶が思い出されてさ。なぎさって言ってなかったかなって。珍しい名前ってわけでもないけど、よく出会う名前でもないからな」

 何も答えない一哉を特に気にすることはなく、来栖はペラペラと話し続ける。

「懐かしいなぁ、女のかわし方がうまくて手慣れてんなぁって思ったもんな~」
「変な言い方するな」
「幼馴染ちゃんの我儘に付き合ってたら慣れただけって言ってたもんな?」
「だから記憶力が怖いんだよ」
「可愛い子だね。丁寧に対応してくれたよ」

 来栖がサラッと言うので、一瞬聞き逃しそうだった。対応? どこでだ、その疑問を来栖は表情から読み取ったのか。

「受付にいた」

 そこで初めて、一哉は凪沙の存在を知ることになる。
 五年前、凪沙から逃げるように日本を離れたあの春の日が走馬灯のように脳内を駆け巡り、思う。
 凪沙に会うことを避けていた。会わずに過ごせることを考えて、誘われていたが迷っていた研究留学の話に飛びついた。国家試験は無事合格。留学への準備を整えるため大学に籠り、友人の世話になりながら家には戻らず、卒業と同時にそのまま海外へ飛んだ。すぐそばにいるにもかかわらず、留学したと嘘をついてまで会わない選択を取った。
 あの時の自分の身勝手さを覚えている。そうまでして離れた理由を今さら言い訳するつもりもないし、できるわけがない。だからもう凪沙に会うことはないだろうと一哉は胸に決めていた。決めていたのに、来栖に告げられた言葉に足が勝手に動いてしまった。受付内で働くスタッフの中にそれらしい人物は見当たらず、凪沙はそこにいなかった。来栖は「受付にいた」そう言ったがそれは真実なのか、ただの同姓同名か? それでも来栖は信用できる相手だ。来栖もまた一哉を信用している。その関係性からも嘘とはとても思えない。それでもそこにいないという事実を目の前に突きつけられた一哉は、張りつめていた気持ちの糸が切れた。
 ――いない。
 そう思ってホッとした自分がいる。それなのにどうしてか。
 ――凪沙に会えるのか。
 それ以上に芽生えた気持ちがあった。それが自分の我儘であると自覚している、それでも一哉の中では無視しきれない気持ちに気づいてしまった。

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