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第二章 深まる夜
伸びたチーズがなかなか切れず困っていた凪沙の前に、フォークをザクッと縦に差し込み切ってくれた琴美の大胆な行動に凪沙は噴き出した。
「ありがと」
「これチーズすごいね」
焼き上げたところをさらに鉄板でカリッと仕上げられたピザは、冷めることがなくチーズがずっとトロトロである。そのピザを頬張る琴美に凪沙は告げた。
「衛とお付き合いを始めてみようかなと思う」
「それがいいよ。愛されるのが幸せの第一歩だもん」
熱々のピザに息を吹きかけながら、琴美は凪沙の言葉に頷いた。相変わらず「愛されたい」推しする琴美である。
「ずっと待たせてるしね」
待つのはしんどい、それは凪沙自身が身をもって知っていることだ。
「好きで待ってるんだからそこは良いと思うよ? ただ我慢強いよなって」
「ふふ、それはそうだよね」
衛は本当に誠実だった。変な欲も出さず一緒にいることを心から喜んでくれて、それ以上を望まないのだから。
「それが余計に申し訳なくて」
応えられない以上無理な話だが、凪沙だって何も思わないわけではない。いい年をした男女がいつまでも友達付き合いみたいな関係を続けている。ちゃんと異性として好意を抱いているにもかかわらず。
「応えたいなって思うの」
これが偽善だと責められたら言葉に詰まる。それでも純粋にそう思う気持ちがあるのだ。
「いい人だよ、佐久間さん。それは一年一緒にいた凪沙だから余計知ってるでしょ?」
「うん」
「じゃあ今度は凪沙から告白だね」
「え……」
自分から告白をする、それはあの日以来初めてのことだ。一哉以外の異性にする初めての告白、その言葉を自身で反芻させて自然と凪沙の頬が赤くなった。
「ちょっと。私相手に照れないでよ」
「ち、違うし!」
「まさかいっくんのこと想像した?」
「違うし!」
「はぁ、ついに凪沙も新しい恋か。長かったねぇ~」
琴美の半ば呆れるような声に凪沙の方が肩をすくめる。本当に長い、何度春を越えただろう。いくつもの季節を通過して、やり過ごしてきた春の日は思い返すだけでも切ない。それでもこの春はきっともっと違う春になってほしい。衛となら新しい春を過ごせるかもしれない、そう思うのだ。
一哉に対しては憧ればかり。必死で手を伸ばして追いかけていた。一哉はたまに振り返り足を止めてはくれるが、手を差し伸べてくれたのは基本泣いて訴えた時だけだ。転べば手を差しだして抱き上げてくれる、いわばそんな非常事態だけである。
「しょうがねぇな」
そう言って少し困り眉で、でも優しく応えてくれた。いつだって一哉にとって自分は幼く妹のような存在で、だからそばにいられた。都合のいい時だけ一哉の妹ヅラをしてきた。そんな浅はかさも目ざとくて鬱陶しいなと凪沙自身も感じている。そうまでしてでもそばにいたい相手だった、は言い訳だろうか。きっと一哉も同じように鬱陶しいと感じていたに違いない。だからこそ、最後にあの形を取ったのだろう。
「これで諦めろよ? 凪沙の我儘に最後付き合ってやるよ」
あれはそういう意味で、それが一哉の答えだ。その答え合わせをやっと自分の心に落とし込んで納得させられた気がした。
そう、諦めないといけないのだ。
一哉はもう手の届かない世界で活躍する時の人。自分はしがない契約社員でまだ社会人としても未熟である。なにひとつ誇れるものもないし自慢できることだってない。容姿に自信があるわけでもなければ自分の魅力さえ分からない。そんな自分が煌びやかな世界にいる一哉の横に並べるわけがないのだ。
自信を持って言えること、それは他ならない一哉への思いだけだったかもしれない。それももう言えない。一哉は隣に住んでいた幼馴染などでは括れない、そんな枠に収まる人ではなくなってしまったのだから。
琴美と別れてアパートへの帰り道。普段は静かな住宅街だが、今夜はなんだか辺りが騒然としていた。夜の二十一時前である。飲んだ帰りなど何度となく歩いたことのある道だが、こんな時間に騒がしいことは今まで経験したことはない。家の前に出てヒソヒソ話す住人がいたり、パジャマ姿の子どもが駆けていたりするのだ。何かあったのだろうか、凪沙は思い当たる事例を頭の中で思い浮かべてみるのだが。
――事故? あ、救急車を呼んだとかかな。
どこかの家で緊急車両を呼んだのかもしれない。夜にあの赤いライトが点灯するとやたら目立ち、サイレンを鳴らしてやってきたら周囲の人間は何事だと外を見るものだ。実際子どもがこの時間に外をうろついているのはやはり異常事態である。凪沙は勝手に答えを出して、それでも他人事のように大したことがないといいなぁ、などと呑気に思っていた。
「え」
自分には関係のない話だと凪沙自身そう思って、特に何も考えずにいつもの曲がり角を曲がったところで間抜けな声をこぼした。騒然としていたのは凪沙の住むアパート前で、その前には数人の人だかりと消防車が止まっている。周辺は焦げた臭いが残りアパートが黒くススにまみれて濡れているので、火事があったのは一目瞭然だった。
「え、うそ」
「ああ! 浅川さん!」
大家が凪沙の立ちすくむ姿を見つけて駆けつけてくれた。
「よかったぁ! 留守にしていたのね!? 姿が見えないから心配してたのよぉ!」
「は、はぁ……」
事態がまだうまく飲み込めない凪沙は、身体を激しく揺すられて相変わらず間抜けな返事をこぼしている。
「放火だって! もぉ!」
「ええ!?」
いきなり告げられる物騒なワードに凪沙も驚きを隠せない。
「怖いわよねぇ。火が大きく回る前に対応してもらえたからそこまでの被害にはならなかったけど、とにかく煙が充満して放水で水浸しよぉ! 電気関係もやられちゃって……」
「あ、あの!」
大家も困ったようにまくし立てて、愚痴までも挟んでくる。それよりも凪沙は確認したい。大家の言葉を遮るように声を荒らげた。
「あの! わ、私の部屋は!?」
「あ~それなんだけどぉ……」
言いにくそうに眉を顰めて凪沙の顔を覗き込みながらも、隠すことのできない事態に大家も正直に話すしかない。隠されても困るが聞くには多少の勇気と覚悟がいる、そんな凪沙に大家は言った。
「浅川さんの部屋にも浸水してて……水浸しなのよ」
――ええええ!
凪沙は心の中で絶叫した。
とぼとぼと、どこへと向かえばいいか分からないながらも歩く足を止められず、とりあえず歩き続ける凪沙がいる。ついさきほどまで伸びるチーズと格闘しながら熱々のピザを頬張っていたのが嘘のようである。
――どうしよう。
困った、そして弱ったことになってしまった。予想もしなかった出来事に、もはやどうしようである。困惑する頭でなんとか考えようとするものの理性的にことを運べるわけがない。そしていきなり住むところをなくして瞬時に判断できるはずもない。
「ごめんなさいね。今近くの部屋も他に空きがないのよ」
凪沙は、大家が申し訳なさそうに言った先ほどの言葉を思い出していた。放火であれば貸主にも借主にも責任はないので自分のことは自分で負担するしかないらしい。そう言われて「そうなんですね……」と、力なく頷くしかない。ただ、お互いに火災保険には入っていたので保険はちゃんと下りてくれるようだ。そんな手続きなどは後日と言われたが肝心の今日から住む場所、今から寝るところである。
自治体の福祉課の人間も現場に来てくれていたのだが、公営住宅の空きが埋まってしまったと申し訳なさげに言われて凪沙は「はぁ……」と、気の抜けた返事しかできない。家族が多い家庭を優先していたら一人暮らしの凪沙は後回しになったとのことだ。「そんなぁ!」と泣きそうな声を上げかけたが、周りの状況を見てひとり喚くのもどうかと思い泣く泣く飲み込んだ。ひとりならしばらくビジネスホテルで連泊してくれないかと促され、今度はちゃんと「そんなぁ!」と声を荒らげてしまった。
それでもすぐにビジネスホテルを探せと言われても困ってしまう。仕事もあるし不便なところは困る、しかし連日暮らすとなると金銭的な問題も……頭の中はひたすらぐるぐるし続けている。
実家に戻ろうか、それも頭によぎるが距離的にあまり現実的ではない。琴美は? 今は愛してくれる彼氏と半同棲中だ。頼れる相手、そう思い浮かんだのは。
――衛。
ふとよぎったがその思いはすぐに打ち消した。衛とは仲が良くこれから恋を始める相手かもしれないが、まだなにも始まっていない。いきなり泊めてくれとはさすがに言えるわけがない。それでも今の状況を説明すれば、人がいい衛はきっと快く家に迎え入れてくれるだろう、そうは思っても。
――いやいや! 無理無理!
無理だ、そう思ったその時だ。ドンッとぶつかられて、ボーッとしていた凪沙は軽く身体を弾き飛ばされた。
「きゃ!」
「あーっ! すんませぇん!」
連れ合った四十代くらいのサラリーマン。着崩れたスーツ姿と赤い頬から酔った様子が見て取れる。それもかなり酔っていそうで、その内のひとりにぶつかられたようだ。
「す、すみません」
ぼんやりしていた凪沙も悪い、それでも勢いがすごかった。しかも相手は酔っ払いである。なるべく関わらずに去りたい気持ちですぐに凪沙も謝罪したのだが。
「いやいやこっちが悪いよねぇ、ごめんねぇ?」
「大丈夫~? 怪我とかない~?」
嫌な予感が的中した。酔った勢いで変に絡みだされて、凪沙は不快感をあらわにしてあからさまに距離を取った。
「だ、大丈夫です!」
「待って待って! ケガしてないか見せて~?」
「それセクハラだろぉ~」
一瞬で腕を掴まれてゾッとする。振り払おうとしても思いのほか力が強く、簡単に振りほどけない。
「平気です! はな、放してください!」
「お詫びに一杯奢らせて?」
「可愛いねぇ~こんな時間にひとりなの~?」
「あの! 本当に……」
聞く耳を持たない酔っ払いに引っ張られかけて、足がすくみ震え出した。最悪すぎる夜だ。頭の中はもうぐちゃぐちゃで、考えないといけないことが山ほどあるのに、酔っ払いまで対処できる余裕がない。泣きそうになった時、凪沙の腕を掴む男の手を振り払ってくれる別の手があった。
「おっさん、ふざけすぎ。常識分かんなくなるほど酔ってんじゃねぇよ」
凪沙の前に体格のいい身体が陰となってくれて、その逞しい背中に救世主だと思う。自分たちより明らかに体格のいい男に手を掴まれた酔っ払いたちは、分が悪いと酔った頭でも分かったらしい。逃げるようにその場を去っていった。それにホッとして掴まれていた腕をゆるくさすりながらまだ少しドキドキする胸を撫でおろしていたが、同時にドッと疲れが襲ってきて凪沙の頭の中は真っ白になった。
「大丈夫?」
掛けてくれる声にハッとして、自分がまだお礼を言えていないことに気づいた。
「あ、ありがとうございま……っ」
お礼が最後まで言えなかったのは、見上げたその顔に見つめられて息を吞んだからだ。
「よく会いますね」
「あ……」
「でもこんな時間にひとりで飲み屋街をふらつくのはいただけないなぁ」
「す、すみません」
「また絡まれたら大変だから。送りますよ? 浅川凪沙さん」
しっかり名前まで憶えられていることに若干の不安を覚えつつも、今はそこまで考えるほど余裕のない凪沙だ。まさかまた会うとは、しかもこんな街中でこんな日に。助けてくれた人物はできれば絡みたくない男――来栖だった。
「家どこ?」
職場で話した時よりも随分フランクに話しかける来栖に若干戸惑いつつも、返事に困る凪沙は口を噤んでしまう。今その質問はとても答えにくいので、できるなら避けて通りたい。
「この近く?」
「えっと」
「徒歩圏内?」
「ええっと……」
一向に質問をやめてくれない来栖に、凪沙の方が耐えられなくなってその場で立ち止まってしまった。その様子に気づいた来栖もまた足を止める。
「どした?」
「いいです」
「え?」
「た、助けていただいた上にご親切もありがたいんですけど! 結構です!」
「えっと……なにが?」
どう言えば角も立たず相手に不快感も持たせずかつ納得してもらえる回答ができるだろうか、と悩んだものの今日はいろいろあり過ぎて思考回路はショート寸前である。限界はすでに超えている。そんな気の利いた配慮も気配りも凪沙にできそうにない。結局……
「送ってもらわなくて結構なので!」
直球でめちゃくちゃ感じの悪い言い方になってしまった。それでも凪沙の言葉は止まらない。
「本当に! その、いいので! 送ってもらう必要ないので!」
言えば言うほど感じの悪さが増していくがもう限界だった。凪沙とて、もう少しうまく返したいのだが無理だった。帰る場所がないのだ、送ってもらいたくてもその場所がない。
拒絶するような言葉を必死に言う凪沙を、来栖はただ黙って見つめて聞いていた。凪沙から「送ってもらいたくない」という空気が垂れ流されていて、ハッキリ言葉にしなくても迷惑だと態度から出ているからだろう。
――お願いだからもう放っておいてぇ!
凪沙からしたら面識はほぼ一回きりの、しかも一瞬の時間のみ。今も酔っ払いから助けられたとはいえ、ほぼ初対面のような男だ。そしてなにより一哉と深く関わりのある人物、関わりたいわけがない。
「――そうだね、うん。分かった」
「あ、あのお気持ちだけで結構ですので」
「事情もありそうだし無理強いする気はないんだ。ごめんね?」
来栖が謝る必要こそないのに、と凪沙は慌てて首を左右に激しく振った。
「そんな! ご迷惑をかけるつもりはないという意味でっ!」
「うん、分かってる」
ニコッと来栖は微笑んでくれる。感じの悪い態度を取っている凪沙に対してもひどく好意的で優しい笑顔を投げつけてくるので、言ってしまった凪沙も気まずさはあるもののホッとした。そのままニコニコしている来栖だったが、流れるように携帯を取り出してどこかに電話をかけるような姿を見せるので、一瞬凪沙は目をパチパチとさせ思考が止まってしまう。
――え。
「ちょっと待ってね」
固まる凪沙にそんな言葉を放つ。なぜ、待つ必要があるのか。
まさかな、そう思う気持ちはあったがもう無理なのだ。すぐに物事を考えられるほど今夜の凪沙の脳に余裕はない。
「もしもし。いまどこ?」
まさかな、もう一度同じことを思う凪沙だが電話の会話は止まりそうにない。第六感が働いた。凪沙は思わず声を上げて勢いよく頭を下げた。
「あの! 失礼します!」
逃げようと踵を返したが、来栖の長い腕が凪沙の腕をガッと掴んでくる。
「ぎゃ!」
変な悲鳴をあげて逃げようとする凪沙に、来栖は笑いながら声を掛けてきた。
「待って」
「あ、あのぉ!」
「聞こえたよな? 位置情報送る」
それは携帯の向こうにいる相手にか。固まる凪沙の前で来栖は一方的に携帯を切ると、ニヤリと笑って口を開けた。
「取って食うようなことはしないよ。大人しく待ってようか」
その顔は明らかに取って食うような人でなし感満載の憎たらしい笑顔だ――と、凪沙は思った。
待つのはしんどい。それを凪沙はよく知っている。心待ちするのともまた違う、不安を抱えて待つ時間は恐ろしく長く、想像以上に心身を疲弊させるものである。今夜の凪沙は大層疲れている。琴美と飲んだのは楽しかったが、親しい人間との時間でも外で飲んだ後はそれなりに気疲れするものだ。早く帰って風呂に浸かり、着慣れたパジャマに袖を通して布団にくるまりたい……そう思っていた当たり前の時間を奪われて困り果てていたところにこれである。
「おっそいねー」
「……」
「はい。ホットで良かった?」
「あ、ありがとうございます」
差し出されたコンビニのドリップコーヒー。何がいいかと聞かれてもすぐに答えられなかった凪沙に「甘いのにしよっか」と来栖に勝手に決められたカフェラテだったが、柔らかな甘さと温もりは疲れた凪沙の身体に沁みていく。
「おいし……」
口づけながらホゥと息を吐きつつそんな言葉をこぼした凪沙に、来栖がフッと微笑んで聞いてきた。
「なんかあったの?」
「え……」
「肩落として歩いてたね。店を出ようとしたらちょうど君が前を通り過ぎて。フワッフワした感じで歩いてるなぁって。最初酔ってるのかと思ったんだよ」
そんなフワッフワな凪沙が周囲を見ているわけがない。だからこそ酔っ払いにもぶつかられたのだ。当たり前に来栖の視線など気づいてはいなかった。
「そんなに酔ってはないです」
ビールは一杯飲んだ。それでもそれで酔っ払うほど凪沙は酒が弱いわけではない。それに酔いなど火事現場を見て一瞬で冷めている。
「帰りたくないの?」
正式には帰りたくても帰る場所がない、である。
「まぁ、そういう日もあるよね」
勝手に納得されるが「こんな日はそうそうない!」とツッコミ返したいところだ。それでも口を閉ざし続けることしかできず、凪沙は俯いた。そんな自分の態度に来栖もそれ以上聞くのは諦めてくれたのか。ひとつ溜息をこぼすとコーヒーを一口喉に流して腕時計を眺めていた。
「来栖」
背後から届く新たな声に、ビクリと肩を震わせたのは凪沙の方だった。
「遅いよ」
「あのなぁ」
「ちょっと俺じゃ手に負えないなぁって思ってさ」
ふたりの会話が自分を挟んで繰り広げられて、黙って聞いている凪沙は逃げ出したい気持ちに襲われる。それでも逃げ出すことができそうにないのは、その声を聞いて身体が固まってしまっているからだ。
「……凪沙?」
名前を呼ばれて今度は胸が震えた。振り向いたらダメだ、頭では分かっている。身体中がそう警笛を鳴らしている。この声に呼ばれたら泣きそうになる、それを堪えるように身を縮める凪沙だが無理だった。
「凪沙」
「……」
五年ぶりに聞く声は変わらなかった。何度となく呼ばれた名前をまた呼んでもらえる日が来るなんて、そう思う時点で終わったのだと思う。鳴り響いていた警笛音が聴こえなくなったのは、何かに解放されたような気がしたからだ。
疲労と不安と……恋しかった気持ちが交わって、意思を無視して身体が声の方を向いてしまった。
「……いっくん」
呼ぶ声が震えた。視界が揺れて相手も滲んで見える。もう自分も大人になった、今度会うことがあったら笑ってやり過ごしてやろうと、そう思っていたのに。
「ひっ……いっくんっ」
結局あの頃と何も変わらない凪沙がいた。一哉の前では甘えてグズグズと泣いてしまう幼い頃の凪沙のままだった。それでも意地もある、幼い頃みたいに手を差し伸ばして縋るようなことはしたくない。泣いて説得力はないものの毅然とした自分を見せてやりたい、そんな意地が。
「なんでっ、ほっといてよぉ……!」
今さら、一哉から会いに来るな。繰り返し願って待っていても戻ってきてくれなかったくせに。会いたいと、どれだけ待っていても帰って来なかったくせに。頼んでいない今に、会いたくなかった今こそ、そう思うのに。
「……ほっとけるか」
一哉が凪沙に向かってそう言葉を投げた。その言葉を真正面から受け止める凪沙は堪えていた気持ちが溢れ出してしまう。
会いたかった。
一哉の姿を見たあの日から、やっぱりどうしたって会いたいと思う自分がいた。忘れたくてたまらないのに、忘れられない。忘れようと思うほど考えさせられるのはそういうことである。
忘れられない、凪沙はいまだずっと一哉に胸を焦がしている。
夜が更けてもまだそこまで街が静まり返ることはない。それでも星が瞬く夜、いつまでも外にいる時間ではなかった。
「とりあえずもう遅い。帰ろう」
一哉がそう言うように、時間はもう二十三時を回っていた。
「さすがにこの時間にひとりでは帰せない。凪沙、家どこ?」
「……」
「これの繰り返し。だから、天澤にだったら言えるだろって思って呼んだんだけどね?」
沈黙を続けて自分の足元に視線を落としたまま固まる凪沙に、ふたりは思案顔だがどうしようもない。
「凪沙?」
「……ないの」
「なにが」
一哉は昔から直球で聞き返してくるタイプだ。だからこそ誤魔化し切れる相手ではないということを凪沙も分かっている。
「なくなったの!」
来栖相手になら収められていた気持ちも一哉相手には無理だった。長年の関係性が、肌で感じる空気感がぶつけてもいい相手だと、身内のような感覚が自然とそうさせてしまった。
「だからなにが」
「アパート、火事! だから帰るとこない!」
もう取り繕うのも限界だった。しつこく聞いてくるふたりにいい加減うんざりしたのは凪沙も同じだ。困っていたのは事実だが、気軽に相談できる内容でも関係性でもない。今後のことも踏まえていろいろ考えねばならないのに、そんなことをする暇を与えなかった来栖にも腹が立ってきて。呼ばれたらサラッと来る一哉にも。
「なんでいっくん、来るの?」
そう、一哉に腹が立った。
「え」
「来栖さんに言われたらホイホイ来るの!? なんで!?」
「……」
「来栖さんも! 勝手に呼ぶし! なんで!?」
「ごめんなさい」
いきなり噛みついてくる凪沙に一哉は言葉に詰まり、来栖は素直に謝る。
火事のショックは凪沙にだってもちろんあった。ショックで怒りまでは感情が追いつかなかっただけだ。家をなくして戸惑う中、一人暮らしの凪沙を後回しにした理不尽さに憤りが生まれた。でもそれを吐き出したところでどうにもならないからひとまず飲み込んだのだ。悩む中ぶつかられた酔っ払いの絡みも然り、セクハラまがいの誘いに込み上がる気持ちもあったがぶつけられる相手と状況ではない。来栖が助けてくれたものの泣き寝入りだ。そして来栖。助けてもらった手前強くは言えないのだが、その後にしてくれたことは迷惑この上ない。そして五年ぶりなのにサラッと会いに来た一哉だ。
「みんな勝手だよ! 私にだって気持ちはあるのにっ!」
伸びたチーズがなかなか切れず困っていた凪沙の前に、フォークをザクッと縦に差し込み切ってくれた琴美の大胆な行動に凪沙は噴き出した。
「ありがと」
「これチーズすごいね」
焼き上げたところをさらに鉄板でカリッと仕上げられたピザは、冷めることがなくチーズがずっとトロトロである。そのピザを頬張る琴美に凪沙は告げた。
「衛とお付き合いを始めてみようかなと思う」
「それがいいよ。愛されるのが幸せの第一歩だもん」
熱々のピザに息を吹きかけながら、琴美は凪沙の言葉に頷いた。相変わらず「愛されたい」推しする琴美である。
「ずっと待たせてるしね」
待つのはしんどい、それは凪沙自身が身をもって知っていることだ。
「好きで待ってるんだからそこは良いと思うよ? ただ我慢強いよなって」
「ふふ、それはそうだよね」
衛は本当に誠実だった。変な欲も出さず一緒にいることを心から喜んでくれて、それ以上を望まないのだから。
「それが余計に申し訳なくて」
応えられない以上無理な話だが、凪沙だって何も思わないわけではない。いい年をした男女がいつまでも友達付き合いみたいな関係を続けている。ちゃんと異性として好意を抱いているにもかかわらず。
「応えたいなって思うの」
これが偽善だと責められたら言葉に詰まる。それでも純粋にそう思う気持ちがあるのだ。
「いい人だよ、佐久間さん。それは一年一緒にいた凪沙だから余計知ってるでしょ?」
「うん」
「じゃあ今度は凪沙から告白だね」
「え……」
自分から告白をする、それはあの日以来初めてのことだ。一哉以外の異性にする初めての告白、その言葉を自身で反芻させて自然と凪沙の頬が赤くなった。
「ちょっと。私相手に照れないでよ」
「ち、違うし!」
「まさかいっくんのこと想像した?」
「違うし!」
「はぁ、ついに凪沙も新しい恋か。長かったねぇ~」
琴美の半ば呆れるような声に凪沙の方が肩をすくめる。本当に長い、何度春を越えただろう。いくつもの季節を通過して、やり過ごしてきた春の日は思い返すだけでも切ない。それでもこの春はきっともっと違う春になってほしい。衛となら新しい春を過ごせるかもしれない、そう思うのだ。
一哉に対しては憧ればかり。必死で手を伸ばして追いかけていた。一哉はたまに振り返り足を止めてはくれるが、手を差し伸べてくれたのは基本泣いて訴えた時だけだ。転べば手を差しだして抱き上げてくれる、いわばそんな非常事態だけである。
「しょうがねぇな」
そう言って少し困り眉で、でも優しく応えてくれた。いつだって一哉にとって自分は幼く妹のような存在で、だからそばにいられた。都合のいい時だけ一哉の妹ヅラをしてきた。そんな浅はかさも目ざとくて鬱陶しいなと凪沙自身も感じている。そうまでしてでもそばにいたい相手だった、は言い訳だろうか。きっと一哉も同じように鬱陶しいと感じていたに違いない。だからこそ、最後にあの形を取ったのだろう。
「これで諦めろよ? 凪沙の我儘に最後付き合ってやるよ」
あれはそういう意味で、それが一哉の答えだ。その答え合わせをやっと自分の心に落とし込んで納得させられた気がした。
そう、諦めないといけないのだ。
一哉はもう手の届かない世界で活躍する時の人。自分はしがない契約社員でまだ社会人としても未熟である。なにひとつ誇れるものもないし自慢できることだってない。容姿に自信があるわけでもなければ自分の魅力さえ分からない。そんな自分が煌びやかな世界にいる一哉の横に並べるわけがないのだ。
自信を持って言えること、それは他ならない一哉への思いだけだったかもしれない。それももう言えない。一哉は隣に住んでいた幼馴染などでは括れない、そんな枠に収まる人ではなくなってしまったのだから。
琴美と別れてアパートへの帰り道。普段は静かな住宅街だが、今夜はなんだか辺りが騒然としていた。夜の二十一時前である。飲んだ帰りなど何度となく歩いたことのある道だが、こんな時間に騒がしいことは今まで経験したことはない。家の前に出てヒソヒソ話す住人がいたり、パジャマ姿の子どもが駆けていたりするのだ。何かあったのだろうか、凪沙は思い当たる事例を頭の中で思い浮かべてみるのだが。
――事故? あ、救急車を呼んだとかかな。
どこかの家で緊急車両を呼んだのかもしれない。夜にあの赤いライトが点灯するとやたら目立ち、サイレンを鳴らしてやってきたら周囲の人間は何事だと外を見るものだ。実際子どもがこの時間に外をうろついているのはやはり異常事態である。凪沙は勝手に答えを出して、それでも他人事のように大したことがないといいなぁ、などと呑気に思っていた。
「え」
自分には関係のない話だと凪沙自身そう思って、特に何も考えずにいつもの曲がり角を曲がったところで間抜けな声をこぼした。騒然としていたのは凪沙の住むアパート前で、その前には数人の人だかりと消防車が止まっている。周辺は焦げた臭いが残りアパートが黒くススにまみれて濡れているので、火事があったのは一目瞭然だった。
「え、うそ」
「ああ! 浅川さん!」
大家が凪沙の立ちすくむ姿を見つけて駆けつけてくれた。
「よかったぁ! 留守にしていたのね!? 姿が見えないから心配してたのよぉ!」
「は、はぁ……」
事態がまだうまく飲み込めない凪沙は、身体を激しく揺すられて相変わらず間抜けな返事をこぼしている。
「放火だって! もぉ!」
「ええ!?」
いきなり告げられる物騒なワードに凪沙も驚きを隠せない。
「怖いわよねぇ。火が大きく回る前に対応してもらえたからそこまでの被害にはならなかったけど、とにかく煙が充満して放水で水浸しよぉ! 電気関係もやられちゃって……」
「あ、あの!」
大家も困ったようにまくし立てて、愚痴までも挟んでくる。それよりも凪沙は確認したい。大家の言葉を遮るように声を荒らげた。
「あの! わ、私の部屋は!?」
「あ~それなんだけどぉ……」
言いにくそうに眉を顰めて凪沙の顔を覗き込みながらも、隠すことのできない事態に大家も正直に話すしかない。隠されても困るが聞くには多少の勇気と覚悟がいる、そんな凪沙に大家は言った。
「浅川さんの部屋にも浸水してて……水浸しなのよ」
――ええええ!
凪沙は心の中で絶叫した。
とぼとぼと、どこへと向かえばいいか分からないながらも歩く足を止められず、とりあえず歩き続ける凪沙がいる。ついさきほどまで伸びるチーズと格闘しながら熱々のピザを頬張っていたのが嘘のようである。
――どうしよう。
困った、そして弱ったことになってしまった。予想もしなかった出来事に、もはやどうしようである。困惑する頭でなんとか考えようとするものの理性的にことを運べるわけがない。そしていきなり住むところをなくして瞬時に判断できるはずもない。
「ごめんなさいね。今近くの部屋も他に空きがないのよ」
凪沙は、大家が申し訳なさそうに言った先ほどの言葉を思い出していた。放火であれば貸主にも借主にも責任はないので自分のことは自分で負担するしかないらしい。そう言われて「そうなんですね……」と、力なく頷くしかない。ただ、お互いに火災保険には入っていたので保険はちゃんと下りてくれるようだ。そんな手続きなどは後日と言われたが肝心の今日から住む場所、今から寝るところである。
自治体の福祉課の人間も現場に来てくれていたのだが、公営住宅の空きが埋まってしまったと申し訳なさげに言われて凪沙は「はぁ……」と、気の抜けた返事しかできない。家族が多い家庭を優先していたら一人暮らしの凪沙は後回しになったとのことだ。「そんなぁ!」と泣きそうな声を上げかけたが、周りの状況を見てひとり喚くのもどうかと思い泣く泣く飲み込んだ。ひとりならしばらくビジネスホテルで連泊してくれないかと促され、今度はちゃんと「そんなぁ!」と声を荒らげてしまった。
それでもすぐにビジネスホテルを探せと言われても困ってしまう。仕事もあるし不便なところは困る、しかし連日暮らすとなると金銭的な問題も……頭の中はひたすらぐるぐるし続けている。
実家に戻ろうか、それも頭によぎるが距離的にあまり現実的ではない。琴美は? 今は愛してくれる彼氏と半同棲中だ。頼れる相手、そう思い浮かんだのは。
――衛。
ふとよぎったがその思いはすぐに打ち消した。衛とは仲が良くこれから恋を始める相手かもしれないが、まだなにも始まっていない。いきなり泊めてくれとはさすがに言えるわけがない。それでも今の状況を説明すれば、人がいい衛はきっと快く家に迎え入れてくれるだろう、そうは思っても。
――いやいや! 無理無理!
無理だ、そう思ったその時だ。ドンッとぶつかられて、ボーッとしていた凪沙は軽く身体を弾き飛ばされた。
「きゃ!」
「あーっ! すんませぇん!」
連れ合った四十代くらいのサラリーマン。着崩れたスーツ姿と赤い頬から酔った様子が見て取れる。それもかなり酔っていそうで、その内のひとりにぶつかられたようだ。
「す、すみません」
ぼんやりしていた凪沙も悪い、それでも勢いがすごかった。しかも相手は酔っ払いである。なるべく関わらずに去りたい気持ちですぐに凪沙も謝罪したのだが。
「いやいやこっちが悪いよねぇ、ごめんねぇ?」
「大丈夫~? 怪我とかない~?」
嫌な予感が的中した。酔った勢いで変に絡みだされて、凪沙は不快感をあらわにしてあからさまに距離を取った。
「だ、大丈夫です!」
「待って待って! ケガしてないか見せて~?」
「それセクハラだろぉ~」
一瞬で腕を掴まれてゾッとする。振り払おうとしても思いのほか力が強く、簡単に振りほどけない。
「平気です! はな、放してください!」
「お詫びに一杯奢らせて?」
「可愛いねぇ~こんな時間にひとりなの~?」
「あの! 本当に……」
聞く耳を持たない酔っ払いに引っ張られかけて、足がすくみ震え出した。最悪すぎる夜だ。頭の中はもうぐちゃぐちゃで、考えないといけないことが山ほどあるのに、酔っ払いまで対処できる余裕がない。泣きそうになった時、凪沙の腕を掴む男の手を振り払ってくれる別の手があった。
「おっさん、ふざけすぎ。常識分かんなくなるほど酔ってんじゃねぇよ」
凪沙の前に体格のいい身体が陰となってくれて、その逞しい背中に救世主だと思う。自分たちより明らかに体格のいい男に手を掴まれた酔っ払いたちは、分が悪いと酔った頭でも分かったらしい。逃げるようにその場を去っていった。それにホッとして掴まれていた腕をゆるくさすりながらまだ少しドキドキする胸を撫でおろしていたが、同時にドッと疲れが襲ってきて凪沙の頭の中は真っ白になった。
「大丈夫?」
掛けてくれる声にハッとして、自分がまだお礼を言えていないことに気づいた。
「あ、ありがとうございま……っ」
お礼が最後まで言えなかったのは、見上げたその顔に見つめられて息を吞んだからだ。
「よく会いますね」
「あ……」
「でもこんな時間にひとりで飲み屋街をふらつくのはいただけないなぁ」
「す、すみません」
「また絡まれたら大変だから。送りますよ? 浅川凪沙さん」
しっかり名前まで憶えられていることに若干の不安を覚えつつも、今はそこまで考えるほど余裕のない凪沙だ。まさかまた会うとは、しかもこんな街中でこんな日に。助けてくれた人物はできれば絡みたくない男――来栖だった。
「家どこ?」
職場で話した時よりも随分フランクに話しかける来栖に若干戸惑いつつも、返事に困る凪沙は口を噤んでしまう。今その質問はとても答えにくいので、できるなら避けて通りたい。
「この近く?」
「えっと」
「徒歩圏内?」
「ええっと……」
一向に質問をやめてくれない来栖に、凪沙の方が耐えられなくなってその場で立ち止まってしまった。その様子に気づいた来栖もまた足を止める。
「どした?」
「いいです」
「え?」
「た、助けていただいた上にご親切もありがたいんですけど! 結構です!」
「えっと……なにが?」
どう言えば角も立たず相手に不快感も持たせずかつ納得してもらえる回答ができるだろうか、と悩んだものの今日はいろいろあり過ぎて思考回路はショート寸前である。限界はすでに超えている。そんな気の利いた配慮も気配りも凪沙にできそうにない。結局……
「送ってもらわなくて結構なので!」
直球でめちゃくちゃ感じの悪い言い方になってしまった。それでも凪沙の言葉は止まらない。
「本当に! その、いいので! 送ってもらう必要ないので!」
言えば言うほど感じの悪さが増していくがもう限界だった。凪沙とて、もう少しうまく返したいのだが無理だった。帰る場所がないのだ、送ってもらいたくてもその場所がない。
拒絶するような言葉を必死に言う凪沙を、来栖はただ黙って見つめて聞いていた。凪沙から「送ってもらいたくない」という空気が垂れ流されていて、ハッキリ言葉にしなくても迷惑だと態度から出ているからだろう。
――お願いだからもう放っておいてぇ!
凪沙からしたら面識はほぼ一回きりの、しかも一瞬の時間のみ。今も酔っ払いから助けられたとはいえ、ほぼ初対面のような男だ。そしてなにより一哉と深く関わりのある人物、関わりたいわけがない。
「――そうだね、うん。分かった」
「あ、あのお気持ちだけで結構ですので」
「事情もありそうだし無理強いする気はないんだ。ごめんね?」
来栖が謝る必要こそないのに、と凪沙は慌てて首を左右に激しく振った。
「そんな! ご迷惑をかけるつもりはないという意味でっ!」
「うん、分かってる」
ニコッと来栖は微笑んでくれる。感じの悪い態度を取っている凪沙に対してもひどく好意的で優しい笑顔を投げつけてくるので、言ってしまった凪沙も気まずさはあるもののホッとした。そのままニコニコしている来栖だったが、流れるように携帯を取り出してどこかに電話をかけるような姿を見せるので、一瞬凪沙は目をパチパチとさせ思考が止まってしまう。
――え。
「ちょっと待ってね」
固まる凪沙にそんな言葉を放つ。なぜ、待つ必要があるのか。
まさかな、そう思う気持ちはあったがもう無理なのだ。すぐに物事を考えられるほど今夜の凪沙の脳に余裕はない。
「もしもし。いまどこ?」
まさかな、もう一度同じことを思う凪沙だが電話の会話は止まりそうにない。第六感が働いた。凪沙は思わず声を上げて勢いよく頭を下げた。
「あの! 失礼します!」
逃げようと踵を返したが、来栖の長い腕が凪沙の腕をガッと掴んでくる。
「ぎゃ!」
変な悲鳴をあげて逃げようとする凪沙に、来栖は笑いながら声を掛けてきた。
「待って」
「あ、あのぉ!」
「聞こえたよな? 位置情報送る」
それは携帯の向こうにいる相手にか。固まる凪沙の前で来栖は一方的に携帯を切ると、ニヤリと笑って口を開けた。
「取って食うようなことはしないよ。大人しく待ってようか」
その顔は明らかに取って食うような人でなし感満載の憎たらしい笑顔だ――と、凪沙は思った。
待つのはしんどい。それを凪沙はよく知っている。心待ちするのともまた違う、不安を抱えて待つ時間は恐ろしく長く、想像以上に心身を疲弊させるものである。今夜の凪沙は大層疲れている。琴美と飲んだのは楽しかったが、親しい人間との時間でも外で飲んだ後はそれなりに気疲れするものだ。早く帰って風呂に浸かり、着慣れたパジャマに袖を通して布団にくるまりたい……そう思っていた当たり前の時間を奪われて困り果てていたところにこれである。
「おっそいねー」
「……」
「はい。ホットで良かった?」
「あ、ありがとうございます」
差し出されたコンビニのドリップコーヒー。何がいいかと聞かれてもすぐに答えられなかった凪沙に「甘いのにしよっか」と来栖に勝手に決められたカフェラテだったが、柔らかな甘さと温もりは疲れた凪沙の身体に沁みていく。
「おいし……」
口づけながらホゥと息を吐きつつそんな言葉をこぼした凪沙に、来栖がフッと微笑んで聞いてきた。
「なんかあったの?」
「え……」
「肩落として歩いてたね。店を出ようとしたらちょうど君が前を通り過ぎて。フワッフワした感じで歩いてるなぁって。最初酔ってるのかと思ったんだよ」
そんなフワッフワな凪沙が周囲を見ているわけがない。だからこそ酔っ払いにもぶつかられたのだ。当たり前に来栖の視線など気づいてはいなかった。
「そんなに酔ってはないです」
ビールは一杯飲んだ。それでもそれで酔っ払うほど凪沙は酒が弱いわけではない。それに酔いなど火事現場を見て一瞬で冷めている。
「帰りたくないの?」
正式には帰りたくても帰る場所がない、である。
「まぁ、そういう日もあるよね」
勝手に納得されるが「こんな日はそうそうない!」とツッコミ返したいところだ。それでも口を閉ざし続けることしかできず、凪沙は俯いた。そんな自分の態度に来栖もそれ以上聞くのは諦めてくれたのか。ひとつ溜息をこぼすとコーヒーを一口喉に流して腕時計を眺めていた。
「来栖」
背後から届く新たな声に、ビクリと肩を震わせたのは凪沙の方だった。
「遅いよ」
「あのなぁ」
「ちょっと俺じゃ手に負えないなぁって思ってさ」
ふたりの会話が自分を挟んで繰り広げられて、黙って聞いている凪沙は逃げ出したい気持ちに襲われる。それでも逃げ出すことができそうにないのは、その声を聞いて身体が固まってしまっているからだ。
「……凪沙?」
名前を呼ばれて今度は胸が震えた。振り向いたらダメだ、頭では分かっている。身体中がそう警笛を鳴らしている。この声に呼ばれたら泣きそうになる、それを堪えるように身を縮める凪沙だが無理だった。
「凪沙」
「……」
五年ぶりに聞く声は変わらなかった。何度となく呼ばれた名前をまた呼んでもらえる日が来るなんて、そう思う時点で終わったのだと思う。鳴り響いていた警笛音が聴こえなくなったのは、何かに解放されたような気がしたからだ。
疲労と不安と……恋しかった気持ちが交わって、意思を無視して身体が声の方を向いてしまった。
「……いっくん」
呼ぶ声が震えた。視界が揺れて相手も滲んで見える。もう自分も大人になった、今度会うことがあったら笑ってやり過ごしてやろうと、そう思っていたのに。
「ひっ……いっくんっ」
結局あの頃と何も変わらない凪沙がいた。一哉の前では甘えてグズグズと泣いてしまう幼い頃の凪沙のままだった。それでも意地もある、幼い頃みたいに手を差し伸ばして縋るようなことはしたくない。泣いて説得力はないものの毅然とした自分を見せてやりたい、そんな意地が。
「なんでっ、ほっといてよぉ……!」
今さら、一哉から会いに来るな。繰り返し願って待っていても戻ってきてくれなかったくせに。会いたいと、どれだけ待っていても帰って来なかったくせに。頼んでいない今に、会いたくなかった今こそ、そう思うのに。
「……ほっとけるか」
一哉が凪沙に向かってそう言葉を投げた。その言葉を真正面から受け止める凪沙は堪えていた気持ちが溢れ出してしまう。
会いたかった。
一哉の姿を見たあの日から、やっぱりどうしたって会いたいと思う自分がいた。忘れたくてたまらないのに、忘れられない。忘れようと思うほど考えさせられるのはそういうことである。
忘れられない、凪沙はいまだずっと一哉に胸を焦がしている。
夜が更けてもまだそこまで街が静まり返ることはない。それでも星が瞬く夜、いつまでも外にいる時間ではなかった。
「とりあえずもう遅い。帰ろう」
一哉がそう言うように、時間はもう二十三時を回っていた。
「さすがにこの時間にひとりでは帰せない。凪沙、家どこ?」
「……」
「これの繰り返し。だから、天澤にだったら言えるだろって思って呼んだんだけどね?」
沈黙を続けて自分の足元に視線を落としたまま固まる凪沙に、ふたりは思案顔だがどうしようもない。
「凪沙?」
「……ないの」
「なにが」
一哉は昔から直球で聞き返してくるタイプだ。だからこそ誤魔化し切れる相手ではないということを凪沙も分かっている。
「なくなったの!」
来栖相手になら収められていた気持ちも一哉相手には無理だった。長年の関係性が、肌で感じる空気感がぶつけてもいい相手だと、身内のような感覚が自然とそうさせてしまった。
「だからなにが」
「アパート、火事! だから帰るとこない!」
もう取り繕うのも限界だった。しつこく聞いてくるふたりにいい加減うんざりしたのは凪沙も同じだ。困っていたのは事実だが、気軽に相談できる内容でも関係性でもない。今後のことも踏まえていろいろ考えねばならないのに、そんなことをする暇を与えなかった来栖にも腹が立ってきて。呼ばれたらサラッと来る一哉にも。
「なんでいっくん、来るの?」
そう、一哉に腹が立った。
「え」
「来栖さんに言われたらホイホイ来るの!? なんで!?」
「……」
「来栖さんも! 勝手に呼ぶし! なんで!?」
「ごめんなさい」
いきなり噛みついてくる凪沙に一哉は言葉に詰まり、来栖は素直に謝る。
火事のショックは凪沙にだってもちろんあった。ショックで怒りまでは感情が追いつかなかっただけだ。家をなくして戸惑う中、一人暮らしの凪沙を後回しにした理不尽さに憤りが生まれた。でもそれを吐き出したところでどうにもならないからひとまず飲み込んだのだ。悩む中ぶつかられた酔っ払いの絡みも然り、セクハラまがいの誘いに込み上がる気持ちもあったがぶつけられる相手と状況ではない。来栖が助けてくれたものの泣き寝入りだ。そして来栖。助けてもらった手前強くは言えないのだが、その後にしてくれたことは迷惑この上ない。そして五年ぶりなのにサラッと会いに来た一哉だ。
「みんな勝手だよ! 私にだって気持ちはあるのにっ!」
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