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35話:魂の試練
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暗闇から現れた男を、あたしは知っていた。
脱走兵ウーゴ。
北の地獄で、レオンと共に黒い泥の中に消えたはずの男。
全身を黒い蔓に侵食されながら、その瞳には確かな理知が宿っている。
「ウーゴ……」
殿下の声が、震えていた。
あたしは、その背中を見つめた。殿下がこんな声を出すのは珍しい。
「ウーゴよ。約束を守れず、済まなかった」
殿下が頭を下げた。
王が、一人の脱走兵に頭を下げている。
ウーゴは、微かに首を振った。
「……謝罪など、勿体なきお言葉です」
その声は、枯れ木が擦れるような音だった。
彼の体表を覆う黒い蔓は、この図書館の冷気と共鳴し、奇妙な安定を保っている。
「私は、陛下が帳簿を手にし、無事にあの地獄を去ったと知りました。風の噂と、この蔓の震えで」
ウーゴの目が、微かに潤んだ。
「その時、初めて自分の命に意味があったのだと、そう思えました」
あたしは、その言葉を聞いていた。
この男は、ここで誰かが来るのをずっと待っていたのだ。
変異をギリギリで食い止められながら、独りで。
ウーゴが、震える手で背後の闇を指し示した。
「……来てくださったのですね。ですが、ここから先は、あなたの魂が試されます」
ウーゴの背後の闇から、何かが浮き上がった。
巨大な本のような石造りの魔導装置。
それは殿下の義手と共鳴し、重々しい音を立てて開かれようとしている。
「魂の試練?」
殿下が、その装置を見つめた。
「迷っている暇はない。受けさせてくれ」
あたしは一歩踏み出しかけた。
だが、殿下が振り返った。
「リオラ、ルーク。ここで待て」
「しかし——」
「命令だ」
その目には、揺るぎない意志があった。
あたしは、唇を噛んで頷いた。
◇◇◇
殿下が懐から黄金の鍵を取り出した。
第一皇子から預かった、あの鍵だ。
それを装置の核にある鍵穴に差し込み、回した。
カチャリ。
その小さな音が、世界を変えた。
凄まじい拍動と共に、周囲の景色が歪んだ。
殿下の姿が、闇の中に溶けていく。
「殿下!」
あたしは駆け寄ろうとした。
だが、見えない壁に阻まれる。
殿下の姿は、完全に消えていた。
図書館の壁も、書架も、全てが漆黒の空間に飲み込まれている。
ルークが弓を構えた。
だが、撃つべき敵がいない。
「……待つしかない」
ウーゴが、静かに言った。
「陛下は今、己の魂と向き合っておられます。我々にできることは、ただ待つこと」
あたしは拳を握りしめた。
待つことしかできない。それが、こんなにも苦しいとは。
◇◇◇
どれほどの時間が経っただろう。
数分か、数時間か。この闇の中では、時間の感覚が狂う。
突然、闇の奥から声が響いた。
殿下の声だ。
「全て論外だ!!」
その叫びが、漆黒の空間を切り裂いた。
「到底飲むことはできん! それは王の道ではない、ただの畜生の所業だ!」
あたしは、その声に耳を澄ませた。
何を問われているのかは分からない。だが、殿下が何かを拒絶している。
「こんな欲望のままの結論を出すから、いつまで経っても闇は消えないのだ! 犠牲の上に成り立つ平和など、砂上の楼閣に過ぎん!」
殿下の声が、さらに強くなった。
「俺は、こんなクソみたいな呪いに負けるほど、やわじゃない! 民も、記憶も、未来も、全て俺の手で掴み取る!」
その瞬間。
漆黒の空間に、亀裂が走った。
パリーンッ!
鏡が砕けるような音。
闇が崩れ始める。
ウーゴが、腹を抱えて笑い出した。
「……素晴らしい! 歴代の賢者も、聖人も、皆、最後には数を数え、妥協し、愛する者を天秤にかけた」
その瞳から黒い涙が溢れ、石床を溶かしていく。
「だが、あなたは天秤そのものを叩き壊した! その傲慢こそ、この書が数千年の間、一度も記録できなかった答えだ!」
あたしは、その言葉の意味を理解した。
殿下は、試練に合格したのだ。
誰もが選ばなかった答えを、選ぶことで。
◇◇◇
地響きが始まった。
図書館の天井が崩落し始める。
闇が晴れ、殿下の姿が戻ってきた。
だが、その顔は蒼白で、額には脂汗が浮かんでいる。
義手が異常な熱を持ち、黒い蔓が激しく脈打っている。
「陛下!」
あたしはルークと共に駆け寄り、殿下を支えた。
地下から黒いタールが溢れ出し、書架を次々と飲み込んでいく。
図書館が、崩壊しようとしている。
ウーゴが、崩れゆく闘の中で静かに微笑んでいた。
「……陛下。あなたのそのわがままが、この腐った大陸をどう変えるのか、見たかった」
ウーゴの体が、黒い泥に飲み込まれていく。
「さあ、行ってください」
その目は、どこか誇らしげだった。
「あなたの帰る場所には、もう光の軍勢が迫っている。守ってやってください」
「ウーゴ……!」
殿下が手を伸ばした。
だが、ウーゴは首を振った。
「……私の役目は、ここで終わりです。陛下、どうかお元気で」
ウーゴは、黒い泥の中に消えていった。
最後まで、穏やかな笑みを浮かべたまま。
◇◇◇
あたしたちは、崩壊する図書館から外へと飛び出した。
殿下を支えながら走る。ルークが後方を警戒している。
背後で、図書館が轟音と共に崩れ落ちていく。
外に出た時、あたしは空を見上げた。
北の地平線が、赤く染まっていた。
レムリアの国境線に、無数の光の矢が降り注いでいる。
教皇国の本隊が、総攻撃を開始したのだ。
「……始まったか」
殿下が、その光景を見つめて呟いた。
祖国が、燃えている。
あたしは、殿下の横顔を見た。
蒼白な顔。だが、その目は死んでいない。
むしろ、静かな炎が燃えている。
「行くぞ」
殿下が、馬に向かって歩き出した。
「祖国が呼んでいる」
あたしは頷いた。
今は、感傷に浸っている暇はない。
殿下の手の中には、新たな力と真実が握られている。
ウーゴの命と引き換えに得た、禁忌の知識が。
それを、無駄にするわけにはいかない。
脱走兵ウーゴ。
北の地獄で、レオンと共に黒い泥の中に消えたはずの男。
全身を黒い蔓に侵食されながら、その瞳には確かな理知が宿っている。
「ウーゴ……」
殿下の声が、震えていた。
あたしは、その背中を見つめた。殿下がこんな声を出すのは珍しい。
「ウーゴよ。約束を守れず、済まなかった」
殿下が頭を下げた。
王が、一人の脱走兵に頭を下げている。
ウーゴは、微かに首を振った。
「……謝罪など、勿体なきお言葉です」
その声は、枯れ木が擦れるような音だった。
彼の体表を覆う黒い蔓は、この図書館の冷気と共鳴し、奇妙な安定を保っている。
「私は、陛下が帳簿を手にし、無事にあの地獄を去ったと知りました。風の噂と、この蔓の震えで」
ウーゴの目が、微かに潤んだ。
「その時、初めて自分の命に意味があったのだと、そう思えました」
あたしは、その言葉を聞いていた。
この男は、ここで誰かが来るのをずっと待っていたのだ。
変異をギリギリで食い止められながら、独りで。
ウーゴが、震える手で背後の闇を指し示した。
「……来てくださったのですね。ですが、ここから先は、あなたの魂が試されます」
ウーゴの背後の闇から、何かが浮き上がった。
巨大な本のような石造りの魔導装置。
それは殿下の義手と共鳴し、重々しい音を立てて開かれようとしている。
「魂の試練?」
殿下が、その装置を見つめた。
「迷っている暇はない。受けさせてくれ」
あたしは一歩踏み出しかけた。
だが、殿下が振り返った。
「リオラ、ルーク。ここで待て」
「しかし——」
「命令だ」
その目には、揺るぎない意志があった。
あたしは、唇を噛んで頷いた。
◇◇◇
殿下が懐から黄金の鍵を取り出した。
第一皇子から預かった、あの鍵だ。
それを装置の核にある鍵穴に差し込み、回した。
カチャリ。
その小さな音が、世界を変えた。
凄まじい拍動と共に、周囲の景色が歪んだ。
殿下の姿が、闇の中に溶けていく。
「殿下!」
あたしは駆け寄ろうとした。
だが、見えない壁に阻まれる。
殿下の姿は、完全に消えていた。
図書館の壁も、書架も、全てが漆黒の空間に飲み込まれている。
ルークが弓を構えた。
だが、撃つべき敵がいない。
「……待つしかない」
ウーゴが、静かに言った。
「陛下は今、己の魂と向き合っておられます。我々にできることは、ただ待つこと」
あたしは拳を握りしめた。
待つことしかできない。それが、こんなにも苦しいとは。
◇◇◇
どれほどの時間が経っただろう。
数分か、数時間か。この闇の中では、時間の感覚が狂う。
突然、闇の奥から声が響いた。
殿下の声だ。
「全て論外だ!!」
その叫びが、漆黒の空間を切り裂いた。
「到底飲むことはできん! それは王の道ではない、ただの畜生の所業だ!」
あたしは、その声に耳を澄ませた。
何を問われているのかは分からない。だが、殿下が何かを拒絶している。
「こんな欲望のままの結論を出すから、いつまで経っても闇は消えないのだ! 犠牲の上に成り立つ平和など、砂上の楼閣に過ぎん!」
殿下の声が、さらに強くなった。
「俺は、こんなクソみたいな呪いに負けるほど、やわじゃない! 民も、記憶も、未来も、全て俺の手で掴み取る!」
その瞬間。
漆黒の空間に、亀裂が走った。
パリーンッ!
鏡が砕けるような音。
闇が崩れ始める。
ウーゴが、腹を抱えて笑い出した。
「……素晴らしい! 歴代の賢者も、聖人も、皆、最後には数を数え、妥協し、愛する者を天秤にかけた」
その瞳から黒い涙が溢れ、石床を溶かしていく。
「だが、あなたは天秤そのものを叩き壊した! その傲慢こそ、この書が数千年の間、一度も記録できなかった答えだ!」
あたしは、その言葉の意味を理解した。
殿下は、試練に合格したのだ。
誰もが選ばなかった答えを、選ぶことで。
◇◇◇
地響きが始まった。
図書館の天井が崩落し始める。
闇が晴れ、殿下の姿が戻ってきた。
だが、その顔は蒼白で、額には脂汗が浮かんでいる。
義手が異常な熱を持ち、黒い蔓が激しく脈打っている。
「陛下!」
あたしはルークと共に駆け寄り、殿下を支えた。
地下から黒いタールが溢れ出し、書架を次々と飲み込んでいく。
図書館が、崩壊しようとしている。
ウーゴが、崩れゆく闘の中で静かに微笑んでいた。
「……陛下。あなたのそのわがままが、この腐った大陸をどう変えるのか、見たかった」
ウーゴの体が、黒い泥に飲み込まれていく。
「さあ、行ってください」
その目は、どこか誇らしげだった。
「あなたの帰る場所には、もう光の軍勢が迫っている。守ってやってください」
「ウーゴ……!」
殿下が手を伸ばした。
だが、ウーゴは首を振った。
「……私の役目は、ここで終わりです。陛下、どうかお元気で」
ウーゴは、黒い泥の中に消えていった。
最後まで、穏やかな笑みを浮かべたまま。
◇◇◇
あたしたちは、崩壊する図書館から外へと飛び出した。
殿下を支えながら走る。ルークが後方を警戒している。
背後で、図書館が轟音と共に崩れ落ちていく。
外に出た時、あたしは空を見上げた。
北の地平線が、赤く染まっていた。
レムリアの国境線に、無数の光の矢が降り注いでいる。
教皇国の本隊が、総攻撃を開始したのだ。
「……始まったか」
殿下が、その光景を見つめて呟いた。
祖国が、燃えている。
あたしは、殿下の横顔を見た。
蒼白な顔。だが、その目は死んでいない。
むしろ、静かな炎が燃えている。
「行くぞ」
殿下が、馬に向かって歩き出した。
「祖国が呼んでいる」
あたしは頷いた。
今は、感傷に浸っている暇はない。
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