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しおりを挟むそれから、楽器の持ち方や基本の運指を教わった。
俺がヴァイオリンなんて弾けるわけないと思ったのに、朔が手を添えながら指導してくれたら涙が出るほど綺麗な音が鳴った。
たぶん、感動ってこういうことを言うんだ。
魂を震わせる音。
そんな詩的な表現が浮かんでしまうほど、美しい一音だった。
そのまま朔に乗せられて、楽器をもらい受けてしまった。
調子に乗って家でも弾いてみようとしたら耳を塞ぎたくなるほど酷い音だった。まるで黒板を爪で引っかいたようだ。
これは酷い。
朔に楽器を貰ったことを母さんに言えば、慌てて高級菓子の詰め合わせを買ってきて、明日朔の家に持っていきなさいと言われてしまったが、この楽器は朔に押しつけられたんだ。そんな必要はないと思った。
意外な事に、楽器の練習が続いてしまった。というのも、毎日学校で進捗を訊いてくる朔と、学校帰りにいつでも練習に来ていいと言ってくれたじいちゃんの影響が大きいだろう。
最高のメンテナンスと指導を毎日、それも無償で提供してくれるこの二人はどうかしていると思った。
だけど、だからこそ、夏休み中も毎日のように通ってしまったのだろう。
夏休みが終わる頃には初歩的な練習曲を自力で弾けるようになっていた。
「すごい上達したね。僕、前からきーちゃんはいい演奏家になると思ってたんだ」
「なんだよそれ」
「指が凄くしなやかなんだよ。手が大きくて、繊細な動きが出来る」
それにね、と朔が続ける。
「きーちゃんは繊細だから、言葉にしない表現がたくさんあると思ったんだ」
意味がわからない。
けれども朔が嬉しそうならそれでいいかと思ってしまう。
いや、朔にがっかりされたくなくて、柄にもなく頑張ってしまったのかもしれない。
それに、少し弾けるようになってくると楽しい。
自分でも、デブの癖になにやってるんだとか、似合わないなんて思ったりする。
弦楽器なんて物は金持ちイケメンの特権みたいなイメージがどうしても拭えないのだ。
それなのに、じいちゃんは完璧なメンテナンスをしてくれるし、高価な弦を惜しげもなく交換してくれる。
「そういう朔はどうなんだよ。自分で弾けよ。自分の楽器だろう?」
「僕は、弾くよりメンテナンスの方が好きなんだ」
本当は演奏だって好きなくせに。
いや、たぶん楽器に触れられればなんだっていいのだろう。木と対話するというか、己の内面と向き合うような感覚が朔に必要な時間そのものなのだと思う。
平べったい木の板が、楽器に化けていく過程は魔法のようだ。
木材の色そのもののヴァイオリンが、ニスを塗ることによって艶やかで美しい色へ生まれ変わっていく。
とんでもない手間だ。けれども朔もじいちゃんもそれを厭わない。
真似できない。
職人の真っ直ぐな気質は尊敬に値する。
二人の真摯さを間近で見てしまえば無下にはできない。
辞める理由はいくらでも思い浮かぶ。
けれどもこの二人を失望させたくないという思いがストッパーになっているのだろう。
自然と体が楽器と向き合おうとする。
無意識に。
まるで操り人形だ。
それなのに、操られることを不快に思わない。
洗脳されたかのように、体が自然とそう動くのだ。
気合いも根性もない。真摯さもたぶんない。
好きか嫌いか訊かれてどちらでもないと答えてしまうような、その程度の感覚。強いて言えばまあ好き。けれどもそれがないと生きられないほど好きというわけでもない。
その程度の存在。
なのに、簡単に日々のルーチンに組み込まれた。
人生は不思議で理不尽だ。
どこか寂しげな策の横顔が余計にそう思わせる。
どうして同性に生まれてしまったのだろうだとか、そもそも同性でなければ話すきっかけすらなかっただろうだとかそんなことを考えてしまう。
どうせ俺が女に生まれたところでデブスに決まっている。
むしろ不細工な女に生まれなかった分母さんが見合い相手を必死に探さなくて済むと思えば儲けかもしれない。
「きーちゃんまた余計なこと考えてる」
つん、と朔が頬を突いた。
「きーちゃんってさ、いろいろごちゃごちゃ考えすぎだよね」
「触るな。お前はなに考えてるかわからないってかなにも考えてない?」
「うん。楽器のこと以外は殆どなにも考えてないよ」
予想通りの答え。逆に安心する。
「お前はずっとそのままなんだろうな」
むしろそうであって欲しい。
楽器以外のことで悩む朔なんて見たくない。
くだらないことで朔の一本軸をブレさせないで欲しい。
きっとその思いはずっと変わらないままだろう。
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