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過去

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 母に疎まれて育ったエイドスは、愛を知らずに育った。誰からも期待されず、教育を受けられず、一人で生きてきた。数少ない援助してくれる者たちによる見え隠れする思惑を、エイドスも利用してこの地位を守ってきた。

 幼い頃に、ドレスにしがみついたエイドスを、母は嫌悪をあらわにして振り払った。扇子の装飾が顔に当たって怪我をしても、母は一瞥もくれずに歩き去っていった。

 何故こうも母に疎まれるのか。知ったのは偶然だった。

 使われていない部屋で本を読んでいると、何者かが入ってきた。見つからないように物置きの後ろに隠れて息を潜めていると、声が聞こえてきた。母と知らない男の声だった。

 母は聞いたことのない媚びるような声で男と話していた。密やかな声でも、静かな空間であれば何を言っているのか位は聞き取れた。

『……もう、あんまり乱暴しないで』

 母が言う。弾んだような声は、乙女のようだ。

『君が魅力的だからつい』
『また子供出来ちゃったら面倒なの。最近は陛下のお渡りも無いし』
『出来たなら、また一服盛ってベッドに連れ込めばいい。私も協力するよ』
『もうこりごりよ。それに私が愛しているのは貴方だけ。もう陛下のお顔を見るだけでも吐き気がするの。受け付けないのよ』
『そんなことを言ってはいけない。陛下がお亡くなりになれば君は王太后だ。絶大な権力を行使出来る。この国を思いのままに出来る』
『耐えますわ。貴方の為に』

 笑い合う声。やがて吐息が混じって、エイドスは必死に耳を塞いだ。


 


 エイドスが部屋に戻ると、母とソフィアは長椅子に座っていた。エイドスに気づいたソフィアが、立ち上がり近づいてくる。

「エイドス様、王妃様がお見えです」
「母上、謁見は明日の予定ですが」

 母もゆっくりと立ち上がる。扇子を閉じて露わになった顔には深い皺が刻まれていた。

「それは陛下の謁見の予定でしょう?母の私が息子に会いに来てはいけませんか?」
「戻ったばかりです。ご遠慮ください」
「冷たいこと言わないで。疲れてるだろうと思って、湯殿の支度をさせてあるの。可愛らしいお嫁さんと一緒に入ってきなさい」

 上っ面でもこんな物言いを一度もされたことが無かった。エイドスはこれも金の瞳の効果かと実感する。

「これはご親切に。早速使いますので、母上はお引取りください」
「それと、貴方の好きなワインも用意してあるの」

 長椅子の脇に置かれている木箱を指差す。ワインを保管するためのものだから、よりも小ぶりだが、エイドスは見る気にもなれなかった。

「すみませんが、ワインはもう飲みません。妻も飲まないので、お持ち帰りください」
「あらそう?あんなに好きだったのに」
「戦場で体質が変わったようです。──ロス、母上をお送りしろ」

 次の間から姿を現す。いくら侍女であっても、王妃の前では姿が目に映らないように隠れるのが基本。ロスはどうしてもソフィアから離れざるを得ない。危険な状況だった。

 ロスに支えられながら、母はゆっくりと扉へ向かう。ソフィアも見送ろうとするのをエイドスが腕を掴んで止めた。

 やがて母が部屋を出ていってから、ソフィアの両肩に手を置く。

「何かされたか?」

 ソフィアは呆気にとられている。今の彼女になってから、いちいち反応が薄い。重ねて聞くと、いいえと答えた。

「何を話した」
「金の瞳を尋ねられました。最初はお医者さんがいたのですが、私の診察を終えると、直ぐに出ていかれました」
「その瞳を診たのか」
「はい。本物だと仰っておいででした」

 早速、真偽を確かめにくるとは周到な。この様子だと監視されていたとしか思えない。王宮には目がいくつもある。エイドスとロスだけでは、ソフィアを守りきれない。早々に対策をしなければ。

「…あのババアめ」
「ばばあ?」
「嫌いなんだ。今後は訪ねてきても、適当に理由つけて会うなよ」
「嫌いなんですか?」

 エイドスは改めてソフィアを見下ろす。オウムのような問いかけに、わずらわしさを感じる。

「…ああ嫌いだ。この話は終わりだ。うちの湯殿は広い。一緒に入るか」

 ソフィアが嬉しそうに微笑むのを、エイドスは見ないふりした。


 湯殿は石造りで、十人は入れる公衆浴場ほどの広さがある。湯気が立ち上って常に視界は悪い。床も濡れているから、ソフィアの腕を引いて歩いた。
 湯浴み専用の白服一枚になったソフィアは、服の膨らみが無いせいで、細身が際立って見えた。

 石の階段を降りて湯に浸かる。広いから泳ぐこともできる。一番下まで降りると、ソフィアの身長では沈んでしまう。自らの肩に掴まらせて、浮かせる。無邪気に足をバタつかせて、楽しそうに泳いでいる。そういう顔を見れば見るほど、死に顔の無惨さを思い出す。

「エイドス様…?どうなさいました?」
「いや」

 とは言ったものの、あの顔がチラつく。一度目にしてしまうと逸らせない。己への罰のように凝らし続けた。




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