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第三章 砕け散らずにいられたありふれた幸福の形
亜由歌の部屋へ行った日
しおりを挟む十一月になると、ようやく気温が安定して下がっていくのが実感できるようになった。
街路樹は紅葉し、やがて遠からず散らすのだろう葉をからからと風に鳴らしている。
「海くん、今日は部活?」
「いいや。アルバイトもなし。つまり、なんにもない」
「そうなんだ……。私も」
「そうか。……今日、いい?」
放課後、亜由歌と海は、教室を出て少し歩いた先にある階段の前で、そんな会話をした。
すれ違いざまのあいさつと変わらないような、簡単なやり取り。
しかしその意味するところは、二人にだけは通じる。
予定の確認くらい、互いにスマートフォンへメッセージを送ってもいいのだが、二人は好んで口頭で告げ合っていた。
許可を求める海に、亜由歌が顔を赤らめてうなずくのがいつもの光景だった。
海が一度家に帰ると、なるみがいた。
年に数回の、早く帰ってくる日だ。
以前は、この日はいつもよりも余計になるみと過ごす時間が取れるので、心待ちにしていた。
今も、楽しみではある。気の合う姉といると、いつも楽しい。
でも、それ以上のことはしようとは思わない。なるみのほうもして来ない。
なるみに向ける気持ちの形は変わった。しかし感謝と尊敬は変わらずにある。
前者は、恋愛感情を持ったことのある人間には、珍しくないことだろう。しかし後者は、なかなか貴重なのではないだろうか。
「おれ、今日出かけるから夕飯いらない」
「はいよ。なに、彼女?」
海は首を巡らせ、
「……まだ違う」
とだけ答えて、着替えを取り、シャワーを浴びに行った。
・
海は、亜由歌の部屋に週に一二度の頻度で足を運ぶようになっていた。
あの陽菜の家での一件以来、さすがに、二人はお互いをお互いがどう思っているのか、自覚しているし察している。
どちらかが告白すれば、恋人になる確率はかなり高い。そうなりたいし、そうしたいとは思うのだが。
しかし、海にしてみれば、今告白してオーケーをもらったら、なんだか性欲が理由のようになってしまいそうで、二の足を踏んでいた。亜由歌に与えられた快感と、亜由歌への好意は別物だと切り分けるには、あまりにも亜由歌に感じさせられ過ぎたし、それを声や体の反応で素直に表現し過ぎていた。
一方で亜由歌は、なんだか性の快感を人質にとって交際を迫るようで、これはこれで気が進まなかった。
男子というのは、射精を求める生き物だということは知っている。
そして亜由歌は、ひいき目に見てもかなり強い快感を海に与えたはずだ。
またあれをして欲しければ、私とつき合いなさい。わずかでもそんなふうに取られるのが、嫌だった。
もし、亜由歌が告白して海が断った場合、海の性格からして、もう亜由歌に射精させてもらおうとはしないだろう。
それはそれで寂しい。亜由歌が身につけている「技術」は、今のところ、海を相手にしてだけ発揮したいものなのだから。
そんなわけで、ほかの誰よりも特別に想い合っていながら、「つき合ってください」「はい」の儀式だけが行われないままでいた。
つき合ってしまえば正々堂々と体を重ねられるのだが、だからこそそれができない。
ただ、それでも、海の体には、毎日新しい精液が蓄えられていく。それを亜由歌は知っているし、自動的に欲求不満状態になる海の男の体を、最も上手に慰められる自信も身に着けてきていた。
結果として、どちらともなく、二人で会うようになった。
場所は主に、ほかの家族がなかなか帰ってこない亜由歌の家になるのも、自然なことだった。
この日も、両親が共働きで一人っ子の亜由歌の家に、海はおずおずとやってきた。
別に、射精だけを目的に来ているわけではない。亜由歌には、単純に、会いたい。ただ、亜由歌の手と口がもたらす快楽が、あまりに海には魅力的過ぎるのだ。
家で一人でいる時も、何度も亜由歌の手と口を思い出しては、自分で慰めそうになる。
その右手を、海は必死に抑制する。
亜由歌にいかせてほしい。妄想の亜由歌を利用して、勝手に、一人で無駄撃ちしてしまいたくない。
そしてその抑制は、現実の亜由歌のよって至らされる射精の快感を、一人での自慰などとは比べ物にならない水準にまで引き上げるものだった。
「いらっしゃいませっ」
「お邪魔します……。これ、はい」
出迎えてくれた亜由歌に、海が紙包みを差し出した。
亜由歌も制服から着替えて、ダークオレンジのトップスに白いゴアドスカートを合わせている。トップスの裾についたシフォンがかわいらしく、こうして亜由歌の私腹を見るのも、海のひそかな楽しみになっていた。
毎回着替えさせるのも申し訳ないとは思うのだが、制服を汚してしまう可能性もあるし(私服だからいいということにもならないが)、部屋着などとはとんでもないと亜由歌が言うので、任せている。
「えっ。なに、これ?」
「……髪とめるピンとか、しおりとか、……亜由歌、本読むだろう? そんなのを、こまごまと、いろいろ」
「あ、ありがとう? でもどうしたの?」
「いや、いつもお世話に……ってのも変だけど、その、してもらってるからな……。菓子折りってのも変だし、あんまりご家族に見とがめられないものをって、結構いつも探しててさ。……今度はもっと、いいものを探すよ」
海がしているアルバイトは飲食店のキッチンで、女を相手にする類のものではない。
かつての「仕事」で得た金は使い道が特になかったので貯めてあるが、その金で亜由歌になにか買ってやる気はしなかった。
「ええっ、いいのに。わ、このピンかわいい。青い石がついてる」
「アクリルだと思うけど、細工が細かくてきれいだなって思って」
「うん、ありがとう。大事に使うね。しおりもなにか、これ固いのどうなってるの? 普通の厚紙じゃないよね?」
「金沢かどこかの、漆を使ったものらしい。かぶれないかな」
そうなんだ、大丈夫だよ、と亜由歌の顔がほころぶ。
ほんのりピンクに染まったその顔を見ていると、海は、なんでもしてやりたい気持ちになった。
亜由歌は、普段から特に赤面しがちとか、はにかみ癖があるわけではない。海といる時だけこうなる。つまり、海といる時だけ、常に格段にかわいい。海は、そんな亜由歌を見ていると、どんどん欲張りになる自分に戸惑わずにはいられなかった。
亜由歌の部屋で、他愛ない話をしながら、どちらともなくベッドに近づく。
亜由歌が入れてくれた麦茶が二つ、グラスに汗をかきながら勉強机に乗せられていた。それを飲むような余裕も海にはない。亜由歌といると、頭の中が亜由歌でいっぱいになってしまう。
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