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第二部 虚構の楽園
43狭間を抜けて③
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それを防ぐためにナシェルはそもそも冥王に対し、領地の件で口添えすることで恩を売ったのだ。まさか仇で返されるとは思いもよらなかったのは、ひとえにナシェルの甘さであろう。
―――サリエルが、疑似天を出ていかざるを得なくなった事情!
……想像したくないが想像がつく。
どうせエベールに、あの何でも見通す水晶玉で己とヴァニオンの行為を見せられたのだろう。そのうえで、天上界に帰してやるからついてこいなどとおびき出されたのに違いない。
こうなると踏んで、わざとヴァニオンに催淫剤入りの酒を持たせたのだ、あの異母弟は。
……帰ったら生かしてはおかぬ!
だが、ナシェルの胸に燻る黒々とした靄は、異母弟への怒りのみに限らない。
無論、いくつもの小細工によってサリエルを王女誘拐の犯人に仕立て上げたエベールへの憤怒はあるが、それにも増して間抜けにも奸計に嵌まった己たち(溜まっていると勘違いしてヴァニオンを拒まなかった己が一番悪い……)、……さらに云えば神司をすり減らすような魔族との性行為を繰り返し、こんな事態になるまでこの抜け穴の存在を察知し得ずにいた自身への怒りが、最たるものであった。
「くそっ」
地下水の滴る湿った岩壁を拳で横殴り、思わず吐いた己への捨て台詞は、おんおんと洞窟内に後先に虚しく響き渡る。
冥界の瘴気とは異なる、穢れた、むかつくような空気を肌に感じながら、ナシェルはまた口を閉ざし、黙々と進んだ。
進みながら、懐の奥で冷たく肌に触れるものを、そっと右手で押さえた。
ルゥが残した金属の小さな塊……。中央の針で方位を指し示す、地上界の旅人の道具。
思い出した。羅針盤というのだ。
ならば教えてくれ……ルゥの居場所を。今どこにいる?
懐から取り出してみるも、羅針盤そのものが此処はどこだと彷徨うかの如く、その小さな赤い針は右往左往を繰り返すばかり。やはりそんな機能はない。
と思うや、懐から羅針盤と一緒に飛び出したものがある。
羅針盤にくっついていた一匹の命の精であった。目を覚ましたらしい。
精霊は死の神ナシェルの存在に最初は慄きつつも、本来近くに侍るべき女神の気を察知して、彼に先んじて飛びはじめた。
前を往くその背の羽根がぽやんと光り、洞窟の内部を薄く照らしはじめる。ナシェルに照明など必要ないのだが、精霊は精霊の価値観で、彼に気を遣ったらしい。
「女神は無事か?」
との問いに命の精は振り返り応えた。
無事。でも、複数の大きな気に囲まれている。
とても大きな気……、輝く気……。
女神さまを、どこか遠くへ連れていこうとしている。
ナシェルは息を呑む。
まずい。
天上界の連中がやはりサリエルを迎えにきているのか……!
ついでに失った女神セファニアの転生体であるルーシェルミアを発見し、彼らが『これは思わぬ収穫』と歓喜する様が目に見えるようだ。
そうはさせぬ!
ルゥは私のものだ。愛しき継母の生まれ変わり。私の娘!
誰にも渡さぬ。
ナシェルは命の精に先導されるようにして、閑寂の闇に水濡れた足音を響かせながら、一歩一歩、地上側の出口に向かい歩を進めていった。
早く早くと急かす精霊とともに、一体どれほどの刻をその抜け道に費やしたのだろう。
……やがて、一条の光が遙か洞窟の先に現れはじめた。
前を往った者たちがそれをどう受け取ったかはともかく……それは、その光は、闇神の嗣子たるナシェルにとっては『凶兆』以外のなにものでもなかった。
ついに、彼の目の前に地上界への出口が姿を現したのである。
それが脱出の望み無き天上界の入り口でもあろうとは、このとき誰が予測しえただろうか。
第二部<虚構の楽園>完
第三部<天 獄>に続く
―――サリエルが、疑似天を出ていかざるを得なくなった事情!
……想像したくないが想像がつく。
どうせエベールに、あの何でも見通す水晶玉で己とヴァニオンの行為を見せられたのだろう。そのうえで、天上界に帰してやるからついてこいなどとおびき出されたのに違いない。
こうなると踏んで、わざとヴァニオンに催淫剤入りの酒を持たせたのだ、あの異母弟は。
……帰ったら生かしてはおかぬ!
だが、ナシェルの胸に燻る黒々とした靄は、異母弟への怒りのみに限らない。
無論、いくつもの小細工によってサリエルを王女誘拐の犯人に仕立て上げたエベールへの憤怒はあるが、それにも増して間抜けにも奸計に嵌まった己たち(溜まっていると勘違いしてヴァニオンを拒まなかった己が一番悪い……)、……さらに云えば神司をすり減らすような魔族との性行為を繰り返し、こんな事態になるまでこの抜け穴の存在を察知し得ずにいた自身への怒りが、最たるものであった。
「くそっ」
地下水の滴る湿った岩壁を拳で横殴り、思わず吐いた己への捨て台詞は、おんおんと洞窟内に後先に虚しく響き渡る。
冥界の瘴気とは異なる、穢れた、むかつくような空気を肌に感じながら、ナシェルはまた口を閉ざし、黙々と進んだ。
進みながら、懐の奥で冷たく肌に触れるものを、そっと右手で押さえた。
ルゥが残した金属の小さな塊……。中央の針で方位を指し示す、地上界の旅人の道具。
思い出した。羅針盤というのだ。
ならば教えてくれ……ルゥの居場所を。今どこにいる?
懐から取り出してみるも、羅針盤そのものが此処はどこだと彷徨うかの如く、その小さな赤い針は右往左往を繰り返すばかり。やはりそんな機能はない。
と思うや、懐から羅針盤と一緒に飛び出したものがある。
羅針盤にくっついていた一匹の命の精であった。目を覚ましたらしい。
精霊は死の神ナシェルの存在に最初は慄きつつも、本来近くに侍るべき女神の気を察知して、彼に先んじて飛びはじめた。
前を往くその背の羽根がぽやんと光り、洞窟の内部を薄く照らしはじめる。ナシェルに照明など必要ないのだが、精霊は精霊の価値観で、彼に気を遣ったらしい。
「女神は無事か?」
との問いに命の精は振り返り応えた。
無事。でも、複数の大きな気に囲まれている。
とても大きな気……、輝く気……。
女神さまを、どこか遠くへ連れていこうとしている。
ナシェルは息を呑む。
まずい。
天上界の連中がやはりサリエルを迎えにきているのか……!
ついでに失った女神セファニアの転生体であるルーシェルミアを発見し、彼らが『これは思わぬ収穫』と歓喜する様が目に見えるようだ。
そうはさせぬ!
ルゥは私のものだ。愛しき継母の生まれ変わり。私の娘!
誰にも渡さぬ。
ナシェルは命の精に先導されるようにして、閑寂の闇に水濡れた足音を響かせながら、一歩一歩、地上側の出口に向かい歩を進めていった。
早く早くと急かす精霊とともに、一体どれほどの刻をその抜け道に費やしたのだろう。
……やがて、一条の光が遙か洞窟の先に現れはじめた。
前を往った者たちがそれをどう受け取ったかはともかく……それは、その光は、闇神の嗣子たるナシェルにとっては『凶兆』以外のなにものでもなかった。
ついに、彼の目の前に地上界への出口が姿を現したのである。
それが脱出の望み無き天上界の入り口でもあろうとは、このとき誰が予測しえただろうか。
第二部<虚構の楽園>完
第三部<天 獄>に続く
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